日が暮れるころ、タケノスケは何事もなかったかのように再び父娘の家を訪れた。
そして夕食(めんつゆもどきが大量に残っていたので、芋を炊いてみた)もそこそこに、いそいそとあのノートを取り出した。
「兄ちゃん、今日は床で寝ないでね。」
「うん。」
洗い物を始めたミコが肩越しに注文をつけるが、タケノスケの返答はどこか上の空だ。
多分聞こえていないんだろう。
食後の麦茶を楽しんでいるセイイチロウも、改めて少年に注意する気配は無く。
それどころか。
「えんぴつの使い方にも慣れてきたようだね。」
止まることなく動き続けているえんぴつをながめながら、この家の主は感心したようにつぶやいた。
ほんの数日前、ミコから筆記具を貸し与えられるまで、じつはタケノスケはえんぴつの持ち方を知らなかった。
昔は絵を描いていたのだからさすがに筆のにぎり方は知っているだろうとたずねたら、驚いたことにこちらも知らないという。
なので結局、字のけいこをはじめる前にまずはえんぴつの持ち方から教えることになったのだ。
それがわずか数日、それも限られた時間の中で、ミコと同程度に安定した筆致に達している。
それだけ集中してのぞんでいるということでもあるんだろうが……。
嘆息して壁に向かって思いっきり渋面すると、ミコは作業する手を止めてタケノスケのもとへわざわざやってきた。
室内にはまだ照明が灯っているので(おおいが付いていて直接炎が見えるわけではないから、多少がまんできるらしい)、タケノスケは食器をかたづけた後の食卓に勉強道具を広げている。
自分のいすにどっかりと座り、ミコはタケノスケの手元を見た。
少年は、同じ文字をくり返しくり返し、飽きることなく書きつづっている。
助詞の選び方はまだ危なっかしいが、かんたんな文章なら組み立てられるようになっていた。
ノートには薄いインクでマス目が印刷されているのだが、タケノスケはそれにそってびっしりと……どころか欄外にまで字を書き連ねている。
ああ、自分も字を習いたてのころは似たようなことをやったっけ……と思う反面、ここまで熱心にやっていただろうか、とちょっと記憶をさかのぼってみたくなったほどだ。
「ねぇ兄ちゃん。」
返事がない。
「兄ちゃんてば。」
今度は少し声を大きくしてみたが、やっぱりタケノスケは手を止めるどころか視線を上げようとすらしない。
いつものようにきちんと背筋を伸ばしたまま、いすの上に正座をして、黙々と手を動かし続けている。
その眼差し、表情は、ともに真剣で。
いつもの兄ちゃんとは少しばかり違う印象を与える。
一字どころか一画ごとに手を抜くことなくつど入魂しているのは、それだけでも十二分に伝わってきた。
けど。
「兄ちゃん!」
三度呼びかけてみても、やはり反応は一切無く。
自分でも理由はわからないけど、どういうわけかミコは無性に腹が立ってきた。
「ミコ、タケ君のじゃまは…。」
見かねてセイイチロウがうながしたのも、ミコの神経を逆なでした。
だから脳裏に浮かんだ、時々思っていたんだけど、でも口にしたら兄ちゃん怒るだろうなーと自制していたフレーズが、つい口の端にのってしまったのである。
「兄ちゃん、……羽根むしるよ。」
それまでの語調を殺し、耳元でぼそりとつぶやいてやる。
もちろんそれはただの脅し文句でしかなく、実際にそんなことやる気は無いのだけれども。
「ひえっ!?」
どうやら効果はてきめんだったらしい。
“ぎょっとした顔”とはこういうのを指すのだ、という見本のような表情を浮かべて、タケノスケが面を上げた。
蒼い顔のままきょろきょろと周囲を見渡す。
そして、ミコが“不機嫌です”と大きく書かれた顔をこちらに向けているのに気づいて、彼はようやくそれがただのはったりだということに思い至った。
今の彼には羽根が無いから、むしるなどどのみち不可能ではないか。
「な、なんだよ。」
今日はまだ床に寝そべっていないからいいだろう?という目で見返してやるが、しかしミコはひるまない。
相変わらずとなりの席からうらめしげな上目づかいを続けている。
「……何か用?」
「べっつにー。」
ほおづえをついたまま、ミコはぷいっと横を向いてしまった。
釈然(しゃくぜん)としないのはタケノスケである。
せっかく集中して字を書く練習をしていたのに、とんでもない(?)おどし文句でじゃまをされた上に、特に用事が無いとは、どういうことだ。
すっかり気分を害されてしまったが、ミコもそれ以上何も言わないので、気を取り直して改めてノートに向かったのだが。
「…………。」
一度乱された集中というものは、そう簡単には戻らないものである。
そのうえ、いったんは横を向いたミコが、タケノスケが再びえんぴつを動かし始めるや、また彼の横顔を不満たっぷりにながめ始めたのである。
こうなると、今度はミコの視線が気になって仕方ない。
五字ほどマス目を埋めたところで……書き損じた。
消して書きなおすが、三字進んでまた書き損じる。
その次は十字。四字。十二字……。
「用がないならあっち行っててくれよ。」
ついに我慢できなくなって、タケノスケは相変わらず仏頂面を続けているミコに渋い顔を向けた。
どちらかというと忍耐強い性格のタケノスケではあるが、さすがに我慢の限度というものはある。
「しごと、まだおわってないんだろう?」
流し場を示す。
そこには夕食の洗い物がまだ半分残っていた。
これが普段のミコなら、素直にタケノスケの言を聞き入れたのだろうが。
しかし兄ちゃんに迷惑そうな顔を向けられても、ミコはぷいと横を向いただけだった。
動こうとしない。
「さっさとかたづけちゃえよ。」
再三うながすが、やっぱりふてくされたまま返事をしない。
そんなつもりは無かったのだが、これにはタケノスケも気分を害した。
少女の虫の居所が悪い、ということはわかる。
けれど、彼女がどうして自分につっかかってくるのかがわからない。
自分に対して何か不満があるのだろうという察しはつくが、でも何が気に食わないのか、言ってくれなければわからないではないか。
昼間の自分のように、口が利けないわけでもあるまいし。
怒っているのであればさっさと立ち去ればいいのに、はなれるどころか真横でにらみ続けているし。
全く、なにがなんだかさっぱりわからない。
そして、そんな感情を間近で向けられ続けて平常心を保っていられるほど、タケノスケは処世術というものを持ち合わせていなかった。
昔はあったのかもしれないけど、とおの昔に忘れてしまった。
窓のすぐ外からはセミの合唱が、昼間ほどではないにしても、いまだ途絶えることなく続いている。
はずなのだが、まるで分厚い壁に仕切られてしまったかのように、遠いものにしか感じられない。
セイイチロウはというと、“せっかく明かりがあるのだから”と自室から持ち出してきた本を広げて、先ほどから読みふけってしまっている。
だから少年少女のその後のやり取りには、幸か不幸かまだ気づいていない。
……居心地の悪い沈黙の中、タケノスケがえんぴつを動かす音だけが室内にひびく。
のだが。
ついにがまんできなくなり、無言のままノートの上にえんぴつを置いた。
相変わらず背筋を伸ばしたまま、目を閉じ、一度大きく深呼吸する。
そして、となりで仏頂面を続けているミコを、改めて軽くにらみやった。
「いいかげんにしろよ。
言いたいことがあるなら、言えばいいじゃないか。」
伝染した不快感が、言葉となって飛び出した。
多分それはごく自然かつ当然の反応で、そしてミコのほうも、そんな反応をされるということは多分わかっていたはずなのだが。
「………っ! 兄ちゃんの、ばかっ!!」
わかっていたはずなのに、気がつくと、考えるよりも先にミコは叫んでいた。
ばんっ、と勢いよく食卓を叩いていすから飛び降りる。そのまま自室に飛び込み、後ろ手に勢いよく扉を閉めてしまった。
あとは、それっきり。
居間には、怒りと、予想外の少女の反応に、あっけにとられて口を半開きにしたままのタケノスケと、突然の叫びと食卓を叩かれた衝撃とで読書をいやおうなく中断させられたセイイチロウが、ミコが消えた扉をみつめていた。
「な、なんだ?」
「わかりません。」
むっつりと不機嫌をあらわにして、タケノスケが答える。
「じゃましてくるかと思ったら、とつぜんおこりだして。
……しょうじき言って、ときどきあの子の考えていることがわからない。」
「まぁ、いわゆる難しい年頃とかいうやつらしいからねぇ。」
軽く嘆息すると、セイイチロウはいすから立ち上がった。
麦茶のおかわりを取りに炊事スペースに向かい……洗い物がやりかけのまま放り出してあることに気づいた。
「おぉいミコ、やりっぱなしじゃないか。
最後までちゃんと…。」
「しらないっ!!」
とびらの向こうから大音声だけが返ってきた。
「ミコ! 自分の仕事は責任もってやりなさい!」
「セイイチロウさん。」
娘のおかしな反応に眉根を寄せていたセイイチロウに、タケノスケは軽く頭を下げた。
「すみませんが、きょうは先に休ませていただきます。」
「うん? あ、ああ……おやすみ。」
少年が珍しくさっさと筆記具をかたづけ始めたことに少々驚きつつセイイチロウがうなずくと、タケノスケはいつもの場所――少年時代のウメキチを描いた素描のとなり――にノート類を戻し、そのまま寝台代わりのたらいの中へともぐりこんだ。
器用に丸くなり、こちらには背を向けている。
今日だって、時間と忍耐力の許す限り夜更かしして勉強を続けたかったであろうに。
よほど腹にすえかねたのか。
そこでふと、セイイチロウは思い出した。
彼の祖父(つまりウメキチの息子)が、似たようなことをしていたのを。
腹を立てると突然「寝る!」と言いだして本当に布団にもぐりこんでしまっていたことを。
その現場(?)を何度か目撃したことがある。
[血のつながりなのか、それとも……。]
ある一定の年齢に達するとこういう行動を取るようになるのか……。
などと考えながら、セイイチロウはひとつ嘆息し、改めて洗い場を見やった。
扉の向こうは、いまだに反応は無く。
何があったのかは知らないけれど、どうやら今日は自分が後片付けをするしかないようである。