「ずいぶんがんばっているみたいじゃないか。」
昼食をとりにようやく自室から出てきたセイイチロウは、今朝(といっても日の出からずいぶん経っていたが)の顛末(てんまつ)をミコから聞いたあと、例のノートをめくってほほえんだ。
「まいったな、この調子だと次の買出しに行くより先に、全部書きつぶされてしまいそうだ。」
「そのときはわたしのをあげるよ。まだ予備がいくつかあるから。」
手持ちで一番大きななべに乾めんを放り込みながら、ミコが答える。
今日の昼食はそうめん。
つゆは試行錯誤の末にようやく“それっぽい”ものができた。
試行錯誤しすぎて何をどれくらい入れたかもうわからなくなってしまったから、十人分くらいの量になってしまったし、この味を後日再現しろと言われたって無理だ。
ちなみに、タケノスケはあれきり戻ってきていない。
昼食を共にするのは、いっしょに野歩きに出たときくらいだ。
彼が平素どこでどうやって過ごして、何を食べているのか、ミコは知らない。
……まぁ食事の内容に関しては、(主にミコの精神衛生上の理由から)聞かないほうがいいんだろうけど。
「でもさぁ、よくわからないんだよね。」
「なにが?」
「だってさ、」
さい箸でなべの中身をぐるぐると回す。
ぐらぐら沸いた湯の中で白い糸の束が舞うさまは、優雅にさえ見えた。
「絵を描く道具はだめで、字の勉強なら大丈夫って、どういうことなの?」
例の筆記具一式と、ミコお手製の文字一覧表には、タケノスケは何の抵抗もなく接している。
スケッチブックと色えんぴつにはあれほどの拒否反応を示したのに、だ。
それがミコには釈然(しゃくぜん)としない。
ましてや後者は、ミコが彼のためにわざわざ選んだ“おくりもの”であった。
だからなおさら面白くないのである。
「さぁなぁ。」
ノートを元あった場所に戻すと、セイイチロウは食卓についた。
「タケ君も言っていたじゃないか、“どう説明すればいいのかわからない”って。
きっとちゃんとした線引きがあるんだよ。
その線引きは彼自身の意思とは別のところにあるみたいだし。」
「そーおーなーんーだーけーどー。」
頃合いを見計らって、ゆであがっためんをざるにあける。
ゆで汁はおけの中だ。
これは夕方まで待って畑にまく。
ゆでる前にわざわざ新しくくんできておいた冷水の中でていねいにそうめんのぬめりを取ってから、同じく手持ちで一番大きなうつわに盛った。
……二人前ならこれで十分。
「こればかりは、僕らではどうにもならないことだから。
彼の判断を見て、僕らなりにその“線引き”を見つけていくくらいしか、できないだろうな。」
「……兄ちゃんの意思じゃないって言うけど。
じゃあ、兄ちゃんにそうさせているのって、何?」
むっつりとした表情で、ミコはそうめんを盛ったうつわとめんつゆと小鉢を卓上に並べていく。
不機嫌がしぐさに出て、勢いあまったそうめんがうつわからこぼれそうになった。
「絵を描くのって、そんなにいけないことなの!?」
最後にはしを持ってきて、どっかりといすに腰こしかける。
彼女の左どなりでは、すわる者のいない三つ目のいすが、さびしげにその留守を守っていた。
「人間の世界でなら、なんら問題はないよ。
けど……彼の判断基準はおそらく……僕たちの知っている世界とは違うものなんじゃないかと、僕は思っている。」
「人間の世界、じゃないもの……??」
めんつゆに薬味を入れつつ、ミコが口をとがらせる。
小皿の上には、ネギと、煎りゴマと、すりおろしたワサビ。
ワサビは先日パパが野歩きに出たときに見つけてきた、天然モノだ。
「そりゃ、兄ちゃんが昔約束を取り付けたっていう相手が、普通の鳥じゃないってことは知ってるけどさ。」
普通の人間(だったはず)の兄ちゃんをあんな境遇(きょうぐう)にした相手なんだから、ついでに変な暗示(あんじ)までかけられているんだとしても不思議じゃない、とは思う。
兄ちゃんは昔の生まれの人だから、自分たちとは少し価値観が違うんだなぁってことも。
「でも留守番を頼まれただけのはずなのに、どうしてあれはしていい、これは駄目って、いちいち制限されなきゃいけないの。
そんなの兄ちゃんの勝手じゃない。
そうでしょ?」
「それは……。」
セイイチロウにだって答えられるわけがない。
むぅ、とうなってそうめんをすすり上げた。
とはいえミコにしても、パパが明確な答えを示してくれるとははなから期待していないので、それ以上言及する気はないんだけど。
「……まぁ、兄ちゃんが絵じゃなくて字の勉強をしたいってんなら、それでもいいんだけどさっ。」
こちらも負けじとそうめんをすすりながら、ミコは例のノートに視線を向けた。
勢いよくすすり上げたものだからめんが軽くはねて、めんつゆが数滴飛び散った。
それを見て、セイイチロウが軽く眉をひそめる。
もともと活発な娘であるが、この森に来てからだんだんと行儀が悪くなってきているような気がする。
気のせいならいいのだが……。
「それはそれとして。
朝寝坊するほどのめりこむようなことなのかなぁ。
あのひどい寝坊っぷり。
あれ何とかならないの?」
ミコはまだ今朝のことを根に持っているらしい。
いや、今朝に限ったことではない。
あれ以来タケノスケは、一心不乱といっていいほどの勢いで文字の習得に熱中している。
二、三日程度なら今までにも何度かあったが、それ以上の連泊など初めてのことである。
そしてそれと同じ数だけ、朝寝坊するようになった。
それも日に日に度合いがひどくなっていくありさまである。
最初のうちはミコも「仕方がないなぁ」と大目に見ていたのだが、こうも毎日でっかい鳥に居間のど真ん中を占領されているのは、いよいよがまんできなくなってきた。
「大目に見てやりなよ。
……タケ君がえんぴつをにぎれる時間は、そんなに長くないんだから。
限られた時間を有効に使いたくて、必死なのさ。
それに……。」
うつわにはしを伸ばし、そうめんをつまみあげる。
「ここしばらく、満月の前後だったからな。
月影が落ちるほど明るいんだから、彼の視力なら、窓辺に寄れば明かりがなくたって十分書き取りができるんだろう。」
ああ、それで机の上でなく窓に近い床の上に筆記具を広げたまま、うつ伏せになって寝ていたのか。
今朝の様子を思い出し、ミコはようやく納得した。
納得は、したけれど。
セイイチロウはいつも、朝食をとり終えると野歩きに出かけるか、自室にこもって書き物に没頭するかのどちらかである。
居間で過ごすのは、食事を含む団らんのときくらいだ。
だから……朝と昼のさかい目近くまでタケノスケが部屋の中央を占拠していても、彼にとってはほとんど“どうでもいいこと”なのだろう。
あれがどんなに家事のじゃまになるのかなんて、多分、きっと、わかっていないに違いない。
そう思うと。
…………なんか、面白くない。
「……あのさ、パパ。」
「うん?」
はしを動かす手を止めて上目づかいにこちらをにらんでいる娘に、セイイチロウはようやく気づいた。
「前々から思っていたんだけど。」
「うん。」
「……パパってさ、兄ちゃんのこと、ずいぶんひいきにするよね。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
同じ姿勢のまま、ミコは器用に眉間にしわを刻み込んだ。
「いっつも兄ちゃんのかた持つ。」
「……そうかなぁ?」
首を軽くひねり、セイイチロウはそうめんをすすり上げる。
器の中のそうめんは、もうほとんど残っていない。
「……まぁ、男の子も欲しかったのは、確かだけど。
男の子なら存分に野歩きに引っ張り出せるし…。」
「悪かったね、女の子で!」
はき捨てるように言うと、ミコはめんつゆの中にひたしたままになっていたそうめんをまとめて口の中にねじ込んだ。
……つゆを含みすぎてちょっと辛くなっていたが、意地を張ってそのまま飲み下す。
「『も』って言っただろう。
誰も女の子が嫌だなんて…。」
「ふんだ、男同士の会話でも何でも、すればいいじゃない!」
聞き耳持たない、といった風情で立ち上がると、ミコはさっさとうつわを下げてしまった。
そして洗いおけの中にうつわとはしを放り込むと、そのまま父親のほうを振り返ることなく、無言で表に出て行ってしまった。
……背中に怒気を貼り付けたまま。
室内には、はしと小鉢を手にしたセイイチロウだけが取り残される。
「あれがうわさに聞く、反抗期ってやつなのかな、ひょっとして。」
くわえたままだったそうめんをつるんとすすり上げ、セイイチロウは娘が開け放していったままの玄関とびらをみつめながら、そうひとりごちた。
……セイイチロウといえども、どうやら男親にはこのあたりが限界らしい。