そもそもの発端は、数日前のことだった。
この前町に出たときに、町の郵便局にミコ宛ての手紙が届いていて、受け取って帰ってきた。
以前住んでいた町で通っていた学校の、友人からのものだった。
うす桃色の封筒の中から出てきた同じ色の便せんは、三枚。
万年筆と思しきインクでつづられた文字が、とてもなつかしい。
キンモクセイの香りがほのかにただよう小さな小さなきんちゃく袋――匂い袋が同封されていたのも、差出人の人柄がしのばれる。
喜んだミコは早速帰りに文具屋に寄り、真新しい便せんと封筒を買ってきた。
「さっそく返事を書かなきゃね。」
帰宅して、買出し分を収納するのもそこそこに夕食をすませると、ミコはいそいそと便せんを取り出してタケノスケに見せた。
深い意味など無く、単純にうれしさのあまり見せびらかしてしまっただけなんだけれど。
どういうわけかタケノスケは、その話を聞くや大きく目を見開き、ミコの顔を凝視(ぎょうし)した。
根がまじめなのかそれとも朴訥(ぼくとつ)なのか、普段から父娘の話を鵜呑(うの)みにする傾向があるタケノスケなので、そのときもそんなことだろう、と思ったのだが。
どういうわけか、その眼差しにはいつも以上の真剣味が加わっていた。
「な、なに?」
ずい、と乗り出してきた少年に、ミコが思わずその分だけ身を引く。
珍しく迫力が加わっているのが、ただごとではないことを示していた。
「あのさ。」
「うん。」
食卓の反対側で手のつめを切っていたセイイチロウも、思わず手を止め二人のやり取りを固唾(かたず)をのんでながめている。
……思春期の娘を持つ父親なら当然の反応だろう。
「ミコってさ。」
「うん。」
「…………読み書きができるの?」
沈黙が室内を支配したのは、はたしてどれほどの間だったか。
「う……うん。」
便せん帳で口元を隠したまま、ミコは気圧されたまま小さくうなずいた。
「ほんとう!?」
「え……だって、学校通ってたし……。」
答えつつ、目をしばたかせるミコ。
……兄ちゃんは一体何を言っているんだろう???
対するタケノスケはというと、やはり目を丸くしたまま、今度は感嘆の溜息をもらした。
「その“がっこう”ってのは、読み書きをおしえてくれるところなの?」
「そうだよ……兄ちゃん、学校知らないの?」
力強く、タケノスケはうなずいた。
そして、ミコと同じ世代の子供で読み書きができない者はまずいないということや、それどころか彼女よりはるかに年下の子供でも読み書きの基礎を学べるのだと聞いて、さらに仰天した。
「すごい!」
「なんで??」
反面、ミコは兄ちゃんの反応に首をひねるばかりである。
どうしてこんなに大騒ぎするんだろう???
なかなか噛み合わない二人のやり取りに、とうとうそれまで静観していたセイイチロウが吹き出した。
爪切りを卓上に置き、肩を震わせている。
「何がおかしいの、パパ!」
「いやいや……。
曽祖父さんがまだ子供だったころ、字を読んだり書いたりできるのはごくわずかな人だけだったらしいよ。
今みたいに、全ての人が読み書きができたわけではないんだ。」
当時、子供のころから読み書きを学ぶことができたのは特権階級の出身者で、それ以外だと、商いに従事する者や、あるいは村落の取りまとめ役などが必要に迫られて学ぶことが多かったらしい。
それ以外の、主に労働者階級の者たちは“生きるために不可欠なものではない”ということで、学ぶ機会そのものが限られていた。
セイイチロウがそう説明してやると、タケノスケはいつものように正座したままうなずいた。
「じゃあ、兄ちゃんは字を読んだり書いたり、できないの?」
「……にいさんもねえさんも、小作にはいらないものだから、そんなことをしているひまがあったら田に出ろって、いつも……。」
そこでようやく、少年は視線を手元に落とした。
奥歯をかみしめているのが二人の目にもはっきりと映る。
「じゃあ、ここに書いてあることも?」
「へんなもようがいっぱいならんでいるようにしか、見えない。」
ミコが友人からもらった手紙を見せると、タケノスケは今度は恨めしそうな顔をした。
意地悪で質問された、とでも思ったらしい。
そう言われて、ミコはふと父親の蔵書のことを思い出した。
研究の資料として、セイイチロウは町から大量の書物を持ち込んできたのだが(そしてそれらが引越しの際一番の荷物だった)、その中には外国で出版されたものもいくつかある。
町にいたとき、その中の一冊を興味本位(主にさし絵目当て)で開いたことがあるのだが……外国語を習ったことのない彼女の目には、不可思議な記号が延々と並んでいるだけにしか映らなかった。
おそらくタケノスケも、そんな感覚なのだろう。
そう考えると……兄ちゃんのさっきの反応を笑うことはできないなぁ、と反省する。
読み書きができるって、今までそんな大事だなんて考えたこともなかったけれど、実はとってもすごいことなのかもしれない。
「読めるように、なりたい?」
「そりゃ、もちろん!」
即答だった。
再び身を乗り出し発せられた音声は、本人が思っていたよりも強い響きがあった。
それだけ強い思いが込められている。
「読みたい、書けるようになりたいって、郷(さと)にいたときから、おもってた……。」
「じゃあ……今から勉強してみる?」
成り行きでそう言ってみただけなのだが。
「べんきょう……?」
「ええっと……読み書きを教えてあげるって……。」
「おしえてくれるの!? ほんとう!?」
目をきらきら輝かせて叫んだタケノスケに、やっぱりちょっと気圧されつつミコはうなずいたのだった。
そして、今日に至る。