雨季が明けた。
この森にもセミが多くすんでいるらしく、雨季の末期あたりから、気の早いものがにぎやかな歌声を張り上げ始めた。
今では夜明け前どころか、夜中にも寝ぼけた(としか思えない)ものがときおり調子外れに叫んでいるものも珍しくない。
また、この春に生まれた新しい命たちもそろそろ本格的に外の世界へと歩みだすころだ。
巣立ったばかりでまだ警戒心が弱い鳥の仔を、同じくまだ親ばなれできていないキツネの仔が追いかけて、そのくせ飛びかかるのに失敗して無様な姿で転げる……なんて光景が、珍しくもない。
太陽の輝きはいよいよ強く、しかし肉厚に育った木々の葉が適度にそれをさえぎって、森の中はにぎやかでそして独特の静けさとさわやかさを、たたえている。
命という命が、最も輝く季節の、真っただ中だ。
そんな森の片すみの、今現在ゆいいつ人の営みがある人家の、一室で。
紅色の鳥が、朝寝を決め込んでいた。
しかも、部屋の真ん中で前のめりになって。
「もおっ!」
勇ましくもはしたなく、ほうきを肩にかついだ姿勢で、ミコは足元にだらしない寝姿をさらしているタケノスケを、半眼で見下ろしていた。
足は投げ出し、翼は半開き。
首も重力に逆らう気全くナシで、くちばしまで若干開いている。
事情を知らない者が見たらば、行き倒れにしか見えないだろう。
しかし。ミコが気にしているのはそんなことではなかった。残念ながら。
「何でこんなところで寝るのっ。お掃除できないじゃないっ。」
聞こえるように文句を言ってみるが、鳥は全く反応を示さない。
規則正しい寝息を立てているのみである。
「邪魔だからどいてよ、起きてよぅ。」
ほうきの柄で軽くつついてみる。
何しろ大きな鳥である。
翼開長がある上に、あの尾羽までも自由気ままに床の上に広がっていて、実際よりも大きく見えるのだ。
そしてこの家は。
元猟師小屋で必要最低限の間取りしかないわけだから……つまるところ、結果的に結構な面積が紅い色のものに占領されている状態となっていた。
タケノスケが人としての作業や会話を楽しむことができるのは日没後なのだが。
長年“夜は寝るもの”というサイクルが体にしみ付いている彼にとって夜更かしというのはずいぶんと辛いものらしく、道具をあやつり言葉を口にできる一日のうちで最も楽しみな時間は、実はそれほど長くはない。
それでも、当初に比べれば夜更かしになれてきたようなのだが……その分のつけは翌朝に回ってくるようになった。
最近はそれが顕著(けんちょ)になってきて、今朝などとうとう朝食抜きというていたらくである。
宵(よい)の時分の彼を見ているとそれも仕方ないかな、という気にもなってくるが。
朝方の光の中、惰眠(だみん)をむさぼっている姿は……なんと言うか、“鳥”としては何かが非常に間違っている。ような気がしなくもない。
そんなタケノスケの枕元(?)に何か転がっている。
罫(けい)線が引かれた白いノートと、黒いえんぴつと、消しゴムと、それから……数日前にミコが書いてやった、一番簡単な文字の一らん表。
ノートには鉛筆で、模写したと思われる文字がびっしりと書き付けられている。
……小さな子供が学校に入って真っ先に教わる、最も基礎となる文字たちが。
それに目を移すと、それまでつりあがっていたミコの眉(まゆ)尻が少しだけ下がった。
……ゆうべ寝る前に見かけたときよりも、えんぴつで染められたページが二ページほど進んでいるようだ。
状況から見て、作業の途中で睡魔(すいま)に負け、そのまま寝入ってしまったようである。
その結果がこの寝姿というわけだ。
嘆息してほうきをかたわらに置くと、ミコは筆記具と一覧表を拾い上げた。
ノートを閉じ、一覧表を折りたたみ、暖炉(だんろ)右手の棚に飾られたあのウメキチの肖像画の隣にしまう。
そして。胸いっぱいに息を吸い込み。
「おぉぉぉきぃぃぃろぉぉぉぉぉぉっっ!!」
これでもかという大音声を、耳元で炸裂させた。
さすがにこれは効いたようである。
まるでばね仕掛けのおもちゃのように、面白いほどそして文字通り、タケノスケは跳ね起きた。
あまりに勢いよく首を持ち上げたものだから、胸元あたりまで床から離れたほどだ。
いや、跳ね起きたのは彼だけではない。
食事をとりいつものようにミコに構ってもらったあとケージの中で眠りについていたはずのチャップまでもが、勢いよく跳ね起きた反動でケージにぶつかり、大きな音を立てた。
そしてその音に、今度はミコが驚いて息をのむ。
一瞬、奇妙な沈黙が訪れた。
不意打ちを食らったタケノスケが、何事かと周囲を見渡す。
手をついて上体を起こそうとして……翼なので失敗し、すべって床でしたたかにあご(?)をぶつけた。
……つくづく、何かが間違っているなー、と思ってしまう。
いや、今はそんなことなどどうでもよくて。
「兄ちゃん、お掃除ができないから、外に出るか、寝床に入るか、どっちかにして!?」
せっかく起きたんだから、用件を叩きつけてみる。
まだ脳が覚醒(かくせい)しきっていないのか、タケノスケはなおもしばらくぼうっと中空をながめていたのだが。
やがてようやく事態を飲み込んだのか、相変わらず仁王立ちしているミコのほうへ首を向けた。
……こんな起こし方されて、気分よく目覚められるわけなど、ない。
ものすごく何か言いたそうな様子ではあったのだが。
「ほら、どいてどいて!」
ミコのほうも、自分が悪いことをしたなどとは微塵(みじん)も思っていない……どころか正当な行いだと思っているほどだ。
なのでこちらも遠慮(えんりょ)が無い。
ほうきの先を突きつけられて、タケノスケはしぶしぶ起き上がった。
軽く伸びをして、眠気を吹き飛ばすかのように軽く頭を振り……ふと、あることに気づいた。
あわてて周囲を見渡す。
その、大騒ぎと表しても差し支えないほどのあわてぶりに、さすがにミコも少しばかり気の毒になった。
彼が何を探しているのかすぐに察しがついたからだ。
そして、彼がそれをどんなに大事にしているのかも。
「あそこあそこ。」
棚の一角を示してやると、紅い鳥はようやく心底安堵(あんど)したように落ち着いた。
引いてあったいすに飛び乗り、背伸び(?)をして目的のものが無事であることを確認する。
ノートと、えんぴつと、消しゴムと、一覧表。
……口が利けない分、兄ちゃんの背中は本当に表情(?)が豊かだなぁ、とミコは思う。
顔は見えなくても、ちょっとした仕草や、漂う雰囲気や、そういったものから気持ちがにじみ出てくる。
そんな気がするのだ。
でもそんなことはおくびにも出さずに。
「寝坊する人には朝ごはんはありませんっ。
もう片付けちゃったんだから。自分ですませてきて。」
怒ってるんだぞ、ということをアピールするように(実際しているんだけど)、ミコは半開きにしておいた玄関扉を示した。
どちらにしろ、朝食が終わるとタケノスケはいつも表に出る。
そのまま帰ってしまうこともあるし、一日どこかで過ごしたあと日暮れ近くに戻ってくることもある。
要するに、昼間はたいてい不在なのだ。
示された扉を見、それからやっぱり(頑張って)眉根を寄せているミコの顔を見て、紅い鳥は一声短く鳴いた。
それは承諾したという意味だったのか、それとも何かしら不満を口にしたのかまでは、さすがにわからなかったけれど。
再びいすから飛び降りると、タケノスケはそのまま振り返ることなくとことこと歩いて表へ出て行ってしまった。
その様子は、今度はまるでご近所を歩いている未就学児童のようにも、見えなくは無い。
時には外見どおりの少年のように、時には生きてきた時間にふさわしい老人のように、またあるときはいまだ外界を知る前の幼子のようにも見える彼の仕草は、やっぱりとても不思議で。
そんなつもりはなかったんだけれども、ミコは歩み去っていくタケノスケの後姿を、なんとなく目で追っていた。
……扉と反対側の部屋の片隅で、とばっちりで結果的に同じく叩き起こされてしまったチャップが、ケージの中できぃきぃと文句の叫びをあげているのには、気づいていないようだ。