洗い物をしていた手を止めると、ミコは自室に向かい……しばらくして紙袋を一つ持ってきた。
厚みはほとんど無いのにそれなりの大きさがあって、両手で抱え込むようにして運んでいる。
「えへへー。」
タケノスケが座っているいすの前までやってくると、ミコはなんだか意味ありげな笑みを満面に浮かべた。
「兄ちゃんに、おみやげ買ってきたんだ。」
「おみやげ?」
半ば押し付けられるように紙袋を手渡される。
いぶかしく思いながらも、うながされるまま口を開いて中身を取り出すと。
出てきたのは薄っぺらい木の箱と、厚手の紙にはさまれた白い紙の束だった。
木の箱の中には何かが入っているようで、振ると中身がかすかに動く感触があった。
「開けてごらん。」
正体がわかっていないのだろう、反応が薄いタケノスケを見て、セイイチロウが木の箱を示した。
薄い箱の、さらに薄いふたが取り外される。中から出てきたのは……。
「あっ…………。」
色とりどりの、棒。数は全部で二十四本。
そのすべてが一つ一つ違う色をしている。
そしてそれと同じものを、タケノスケはごく最近見たことがあった。
野歩きに出た際にセイイチロウがしきりに帳面にこすり付けていた、あざやかな色を出す不思議な棒……色えんぴつ。
「そっちはスケッチブック……絵を描くための専用の帳面さ。
中の紙も、そのために作られたものなんだよ。」
表紙の厚紙をめくって現れた白い紙。
その白のまぶしさに、タケノスケは目を細めた。
ランプのオレンジ色の光の中でも、その白さは彼の目にとてもまぶしく映った。
昔、紙すき職人になることを志(こころざ)したことがあったけど。
あのころの紙は、ここまで白いものなんてあっただろうか。
そして今自分の手の中にあるこの真っ白な紙と色えんぴつという不思議な棒は、自分のために用意されたものだという。
今までずっと押さえ込みそしてとっくに忘れたと思い込んでいた、“絵を描きたい”という衝動(しょうどう)が、心の奥底からふつふつと湧き上がってくる。
……興奮で上気していくのが、自分でもわかった。
思わず顔を上げ、セイイチロウとミコの顔を見て。
しかし。
そこでふと、それまで目を輝かせていたタケノスケの表情がかげった。
ふくらんだ風船がしぼんでいくかのように、見る間に目の輝きが失われていく。
そして、再びそっと視線を手元に落とした。
「どうしたの?」
心配になってミコが身を乗り出した。
ミコの目にも、昔タケノスケが描いたというウメキチの肖像画は結構なできばえに見える。
兄ちゃんに絵の才能があるということは彼女にもわかったし、だからパパから色鉛筆とスケッチブックの話が出てきたときには、諸手(もろて)を挙げて大賛成したのだ。
絶対喜んでくれると、思ったのに。
なぜ、兄ちゃんはこんな辛そうな顔をするんだろう?
……いや、こんな兄ちゃんの様子には、覚えがある。
……そう、まだ怪我の治療をしていた、出会って間もなかったころは、いつもこんな具合だった。
「迷惑……だった?」
「……いや、うれしいよ。とてもうれしい。
うれしいんだけど…………。」
画材をじっとみつめながら、タケノスケは抑揚(よくよう)の無い声でそう答えた。
「ごめんなさい……おれ……受け取れない。
……受け取っちゃ、いけないんです………。」
そして、何かを断ち切ろうとでもするかのように、ぎゅっと目を閉じる。
「ごめん……ごめんなさい。せっかく……。」
「……それは、君自身の意思なの?」
それまで黙って二人の様子を見守っていたセイイチロウが、静かに尋ねた。
あの日、植物のスケッチをしていた自分の手元を熱心にのぞきこんでいたあの眼差しに、(おそらく本人は無意識だったのだろうが)羨望と強い欲求とが込められていたように感じた。
だから、彼の辞退は決して本心ではない、のだと思う。
セイイチロウの問いに、タケノスケはしばらくじっと考え込んでいた。
ようやく口を開いたのは、沈黙に耐えられなくなったミコがいすに腰掛けようと重心を移しかけたころあいだった。
「……なんていえばいいんだろう……どうせつめいすればいいのかわからない……けど……“それはいけないことなんだ”って、だれかに言われているような気がして……。」
「お兄さんから、そう言われていた?」
今度ははっきりと首を横に振った。
相変わらず顔は伏せたままだけど。
「ちがいます……なんというか………鳥……そう、鳥にはいらないものだから……。」
「そんな……!」
たまらず声を上げたのはミコである。
それにおびえたかのように、タケノスケは肩をすぼめた。
「ごめん……本当に、ごめん。せっかく……。」
「だって! 兄ちゃんは人間じゃない!」
ぴくり、とタケノスケの肩がわずかに揺れた。
「いくら昼間空飛んでても、心は人間なんでしょ?
なら兄ちゃんは人間なんだよ。遠慮なんかすることないよ。
……そりゃ約束は大切なんだろうけど、でもだからって……。」
一息に言い、ミコはそこで呼吸を整えた。
「今まで、ずっとずっといろんなこと我慢してきたんでしょ?
わたしたちがいいって言ってるんだもの、こんなことまで我慢しなくたっていいって。
……そう思う。」
「…………。」
それでも、タケノスケは面を上げない。
見かねてセイイチロウがミコの肩をそっとたたいた。
「まぁまぁ、タケ君にはタケ君の事情があるんだから……。
ねぇタケ君。
確かに君の言うとおり、スケッチブックも色鉛筆も、人間が使うものだ。
だから……。」
気まずい沈黙を和らげようとするかのように、窓ガラスの向こう側から静かな音がそっと忍び込んできた。
いつの間にかまた雨が降り出したらしい。
それはあたかもタケノスケの心の内に呼応でもしたかのようで。
そんなふうにミコは感じた。
……幻紅鳥がこの森を守る仙鳥だっていうのなら、もしかしたらそうなのかも、しれない。
しとしとと静かに大地をたたく細い雨の音に、そっとセイイチロウの柔らかい言葉が寄り添った。
「君が気兼ねなく人間として行動できるときに、使えばいいんじゃないのかな。この家の中で。」
雨の音と、父娘の言葉が、そっとタケノスケを包み込む。
しかしそれでも、少年はうつむいたままだった。