いつものようにねぐらを出て、いつものように草の実や小さな虫をついばみ、いつものように泉で水浴びをし。
新しい一日を迎えたタケノスケは、……やはり昨日と同じようにどんよりとした雲におおわれた空を見上げて、そっと嘆息した。
風に流れてはいるけれど切れ目はどこにも見当たらない雲の重みは、昨日よりも増しているようで。
いつ泣き出してもおかしくなさそうだ。
水滴を払い落とし、地面からにょっきり飛び出している大岩の上に舞い上がり、丁寧に羽づくろいをする。
この季節は土だけでなく去年の落ち葉も雨の恵みを受けてしっとりとしており、地表を歩こうものならたちまちのうちに尾羽にさまざまな装飾(?)がほどこされてしまう。
だから、できれば地表付近には居たくない。
ミコたちが帰ってくるのは、夕方になるだろうということだった。
さて、今日はどこで過ごそうか。
しばし考えた後、タケノスケは翼を広げた。
木の幹に翼をぶつけないよう、速度を上げず細かく角度を調整しながら森の中を移動し、十分な空間を見つけて一気に上へ抜ける。
その途中で、じっくりと水分を得た落ち葉の上を、あわてて駆け去っていく小動物の足音が耳に触れた。
おそらく、クマタカかフクロウあたりとカン違いしたのだろう。無理もないことだが。
そういえば、今まで何かの縁で特別に関わりあった固体は種を問わず何頭かいたが、その中には小型のもの――ヤマネとかスズメとか――はいなかったように思う。
やはり彼らにとって自分は、あくまで他の捕食者と同列の扱いなんだろう。
(チャップは……単に世間知らずというか、怖いもの知らずなだけである。)
緑の屋根の上に出ると、タケノスケは西南に首を向けた。
森の西南の端には小さな湖がある。
三方を山に囲まれており、それがために訪れる者は滅多にいない。
地上から行くのであれば、この森の中を通っていくのが一番楽なルートになる。
その湖のほとりに、ずいぶん昔に打ち捨てられた集落のあとがあった。
そこに人が住んでいたのが一体いつのころのことなのか、住む者がいなくなってから一体どれほどの年月が経つのか、わからない。
少なくともタケノスケがこの森へ来たときにはすでに、その集落は人が寝泊りできるには程遠いほど朽ち果てていた、ということだけはわかっている。
空路ではあるが、背の高いブナの木からその集落あとまでは結構な距離があった。
[あいかわらず、陰気だな。]
ここへ来るたび、いつもそう思う。
でも、嫌いではなかった。嫌いだったら好んで何度も訪れたりしない。
集落といってもそれほど規模の大きいものではなく、建物あとと判断できるものだけで、大小合わせて十あるかどうかだ。
建物同士はそれほど密集しておらず、ここで誰かが暮らしていた当時はまだこのあたりまで森は広がっていなかったか、あるいは開墾(かいこん)してそれなりの平地を確保していたようにも見える。
建物は一部をのぞいてほとんどが平屋のようだった。
断言しないのは、中に入ったことがあるのは一棟だけだからだ。
他はみな木の根がからみついたり、すっかり苔むして入り口がわからなくなったり、入り口が狭すぎたり、あるいはそもそも崩れ落ちたりして進入することができなかった。
もしタケノスケがもう少し博学であったなら、周囲にこれだけ豊富に木材がありながら、わざわざ石を積み上げて建物を築いていることに疑念を抱いたはずである。
建物はいずれも、形はともかく大きさをある程度そろえた石を、丁ねいに積み上げて組まれていた。
しかし屋根だけは植物を使っていたようで、大昔に崩れ落ちているか、代わりに立派に育った木が占有権を声高に主張しているかのどちらかである。
タケノスケは入っていけないが、彼より体の小さいものは出入りする空間がまだあるらしく、そこここに生き物の気配が感じられる。
内部に営巣しているものもいるはずだ。
そんな集落あとのほぼ中央にある、外壁だけが残っている建物の東の壁の上に、タケノスケは舞い降りた。
おおいかぶさるように枝葉をのばす木々の、すき間から見える空は、やはり重く厚く。
かつて壁だったものに届くはずの日差しさえさえぎり、薄墨に水をこぼしたような色彩が、ただ広がるだけで。
けれどそんな白と黒の世界にあっても、その景色はタケノスケの心をとらえていた。
いや、雨季の曇天下での景色もさることながら。
早春、初夏、晩夏、中秋、そして紅葉の季節の終わりと、森の色彩が移り変わっても、この景色はそれぞれに違った趣(おもむき)を映し出し、そのつど新しい感動を与えてくれる。
ひとつとして同じ色のない石。
それを隠さんばかりにこんもりと茂る、コケ類。
力強く地表を、地中を、這(は)う、大木の根。
濃淡、色合いの異なるものがさまざまに交じり合う、枝葉たち。
木々の幹の向こうに見え隠れする、湖の水面。
水面に映る、空の色。雲の色。
対岸に茂る木々、山肌。稜(りょう)線。そして。
ここに人が訪れなくなってから久しい。
もし訪れるものがいたならば、ここがこのまま放置されているはずがない。
ゆえに、ここだけ時が止まったかのようで。
けれど、それだけの年月が経っているのに、ここにはかつて人が住んでいた面影が、ほんのわずかだがそれでもちゃんと残っている。
その寂寥感に満ちた“一枚の絵”が、タケノスケはたまらなく好きだった。
それこそ、朝から日没ぎりぎりまでこの景色をながめて過ごしたことも、一度や二度ではなかった。
今日はこんなくすんだ色をしているけれど、ひとたび雲が晴れたら、コケの濃淡の向こうに湖に映る日の光がきらきらと輝いて、生命のみずみずしさを見せてくれる。
この場所は、まだセイイチロウにもミコにも教えていない。
教えることはできないけれど、いつか彼らが自力でここを見つけ出すのはかまわないと思っている。
そして、二人にはこの景色をぜひ見せてやりたい、とも思う。
……感動を、誰かと分かち合いたいなんて、そんなことずっと忘れていたのに。
できることと、できないことと。
矛盾した思いを胸に、紅い鳥はじっと、薄ずみ色の世界にたたずんでいた。
モモコが引く馬車が物資を山積みにして森の中の小屋に戻ってきたのは、厚い雲のせいでいつもよりずっと早く薄暗くなった夕刻のころだった。
ありがたいことに、行きも帰りも、ほとんど雨には降られずにすんだ。
降られはしたが、それは町中でのことで、それはある意味皮肉なことではあったが。
舗装(ほそう)もされていない上に水分をたっぷり吸ったままの道に、荷物を満載した馬車は何度もぬかるみにはまり込んだ。
森へ入ってからはさすがに馬車から降りていたミコだったが、ぬかるみとの格闘もあって、すっかり泥だらけである。
昨日買ってもらったばかりの雨ぐつも、いつのまにかグレーのまだら模様になっていて、年頃の女の子としては少々面白くない。
が、仕方がないんだということもわかっている。
ゆるく右へカーブする道を進むと、やがて木々のすき間から見慣れた屋根が見えてきた。
その上にぽつんと紅いかたまりが乗っている。
「兄ちゃん、ただいま!」
呼んで手を振ると、向こうも気づいたようである。
こちらを向いてわずかに翼を広げかけたが、飛んではこなかった。
人間でいうところの、片手を上げて応じたような仕草だった。
やがて馬車が家の前で止まると、ようやく紅い鳥は舞い降りてきた。
それに応じでもするかのように、モモコが小さく鼻を鳴らす。
「やれやれ、タケ君が屋根の上で待っていたということは、日没前に帰ってこれたってことだな。」
「兄ちゃん、納豆買ってきたよー。」
ミコが荷を示すと、紅い鳥はつられてそっちを見た。……うん、兄ちゃんは時々とってもわかりやすい。
娘に持って帰ってきたものを家の中に入れるよう指示すると、セイイチロウは馬車からロバを外した。
今回の買出しは、悪路のためいつも以上にモモコに負担を強いてしまった。十分にねぎらってやらねばなるまい。
毎度のことではあるが。
半月分の物資を補給してきたわけだから、二人……三人暮らしとはいえ、結構な量になる。
だからミコは何度も馬車と屋内を往復することになる。
特に野菜が入っている箱は結構な重さで、父親が戻ってくるのを待てばいいのに、ミコはふうふう言いながら玄関先の段に足をかけた。
その後姿を、タケノスケは馬車の端にとまって、はらはらしながらながめていた。
もう少し待てば日が暮れる。
そうしたら力仕事などいくらでも手伝ってやるのに。
足の上に荷を落としはしないか、転びはしないかと、気が気でない。
しかし。
「やだなぁ兄ちゃん。心配しなくてもちゃんと今夜納豆出すから。」
違うんだそうじゃないんだそんなことは今はどうだって……いやどうでもよくはないけどでもそれよりミコに怪我されるほうがずっと困るから!……なんて、通じるわけもなく。
ああもどかしい。早く日が暮れないかな。
じりじりとした気持ちで、紅い鳥は西の空を見上げた。
雨季の雲はあいかわらず、厚い。