「ごめんね、兄ちゃん。明日は朝から出かけるんだ。」
雨季に入ってまもなく、雨の合間に訪ねてきたある日、タケノスケはミコから、開口一番そんなことを聞かされた。
今日は日のほうが先に暮れていて、タケノスケは途中から少しばかり人間の足で歩いてきたらしい。
足元は泥で汚れている。
それでもミコはいつものように家に入れてくれて、夕食の前に足を洗うための湯まで用意してくれたりしたんだけれど。
出かけると聞いて、またいつものように森へ植物の調査に父娘で出るのだろうとタケノスケは思っていたのだが、室内の様子はいつもと少しばかり違っていた。
明日のために用意されている荷物は、二人がいつも持って出るものとは少しばかり内容が異なっているようである。
何より、いつもの背負い袋(鈴が付いているやつ)が見当たらない。
これはどういうことなんだろう、と首をひねっていると。
「町へ、行くんだよ。」
となりの部屋から、やはりいつもと違うかばんを持って現れたセイイチロウが笑って言った。
「町?」
「僕たちがこの森へ来たのは調査のためであって、開墾(かいこん)するためではないんでね。
それに、君みたいに森の中にあるものだけで生活していく能力は、残念ながら僕らには無いから。
だから定期的に物資を調達しに行かなければならないのさ。」
半月に一度の割合で、町に出るのだという。
そういえば今までにも何度か、訪ねてきたのに留守だったことがあったのを、タケノスケは思い出した。
しかし“食料の買出し”にしては、セイイチロウが用意しているかばんはなんだか変わっている。
かたくて、薄っぺらくて、頑丈そうだ。
でも竹細工でもなさそうで。
荷物を入れて運ぶものと聞いて、真っ先にふろしき、続いてきんちゃく袋を連想するタケノスケの目には、それだけでもずいぶん不思議な形である。
まぁ、二人が野歩きのときに使っている背負いかばんも、最初見たときは(今でも)物珍しかったんだけれど。
それ以上に、セイイチロウのかばんは不思議なものにうつった。
今目の前で、口をあけて中身をいじっているところを目撃しなければ、そもそもかばんだとも思わなかっただろう。
形といい材質といい、むしろ“箱”と言ったほうがしっくりくる。
ちなみにちょっと見せてもらったところ、かばんの中身はほとんどが紙のようだった。
「もちろん買い物が主目的ではあるんだけど。
町に出ないとすまない用事が他にもいくつかあるんで、それらも片付けてくるから……。
どうしても向こうで一泊してくることになるんだよ。」
ああ、それでいつもとは違うものが用意してあるのか、とタケノスケは納得した。
とはいえ町などという場所には、まだ郷に居たころでさえ行ったことが無かったから、そこがどんなところか、ましてやそこへ行くのにどんなものが必要なのかなんて全く想像がつかない。
「へえぇ…」となんだか腑(ふ)に落ちきらない相づちを打っておく。
そこへ、ミコが茶碗にごはんをよそって持ってきた。
今日の夕食は、干しシイタケと昆布とニンジンの炊き込みご飯。
かつおだしのすまし汁。
切干大根の煮物。
それから食後にはウリも用意してある。
「本当はオートバイがあれば、もっと早く行き返りできるんだけどねー。
山道もすいすい行けるはずなのに。」
「オートバイは……もし故障しても僕の手には負えないからなぁ。
エンジニアを探しやすい町中でならともかく、こんな人里はなれたところで使う勇気は無いよ。」
どんなに便利な道具でも、使い手があつかいきれなければ、それはもはやただのガラクタでしかない。
時代に逆行すると言われようが、この森へ越してくる際にわざわざロバと馬車を購入したのは、そのためなんだという。
それに……とセイイチロウは付け足した。
「僕は昔から、どうもガソリンのあの臭いが苦手でね。」
オートバイとかエンジニアとかガソリンとか、タケノスケには初めて耳にする言葉ばかりだ。
けれどセイイチロウもミコも、それを“特別なもの”とはとらえていない。
つまるところ、この森の外では“至極当たり前”のものなんだろう。
父娘のいでたちや、この家の中にあるさまざまな生活雑貨などを初めてじっくり確認したときに覚えた不思議な違和感を――時の流れというものを、タケノスケは改めて感じたのだった。