居間の片隅に、大きなたらいがひとつ置いてある。
ミコたちが初めて幻紅鳥をこの家に運び込んだとき、療養中の寝床として用意したものだ。
あのときと同じように、たらいには毛布が敷き詰めてある。
そしてその中で、タケノスケが器用に丸くなって静かに寝息を立てていた。
彼がこの家に本格的に出入りすることになったころ、父娘は彼用の布団を一式新たに用意するつもりでいたのだが。
「こちらのほうが都合がいいから」とタケノスケが頑として譲らなかったのである。
それが気を使った上での発言なのか、それとも本当に本音なのかはわからなかったけれども。
どちらにしろ、十代の女の子の寝室に泊めるわけにもいかないし、セイイチロウの布団がある書斎は物の洪水でもう一人分の就寝スペースを確保するのはかなりの難題だったこともあり。
結局タケノスケが押し切った形で今にいたる。
住人たちはみな夢の中にあり、家の中はしんと静まり返っている。
雨戸が下ろされた窓のすき間からかすかにのぞく屋外には、次第に夜明けのきざしがただよいつつあった。
徐々に気温が下がり、屋外で小鳥たちのさえずりが聞こえてくるようになったころ。
眠っているタケノスケの体が発光し、それが消えたころに鳥の姿が現れた。
紅い鳥は目覚める気配もなく、引き続き寝息を立てている。寝返りすら打たない。
彼が居間で一人眠ることを主張したもうひとつの理由がこれだった。
別の部屋にいれば、明け方に発光してもミコたちを起こしてしまう心配がない。
はずだった。のだが。
『やいやいやいっ、いつもいつもいつも、ひとの眠りを邪魔しやがってっ!!』
金切り声が耳を貫き、タケノスケは無理やり夢の中から引き戻された。
その声は、良くも悪くも他者の注意を引くもので、目覚まし効果はあまりにも抜群で。
寝ぼけまなこのまま、まだ目覚めきらない頭を軽く振り、タケノスケは紅色の首をもたげた。
『そのはた迷惑な光、何とかならねぇのかよっ!』
声の主はわかっている。まだしょぼしょぼする左目を、声の主の方向に向けた。
すなわち……食卓の上に置かれた、小動物用ケージのほうに。
ケージの中では、一匹のリスが左右に飛び跳ねながら……げっ歯類によく見られる立派な前歯をむき出しにして、こちらに向かってしきりに吠え(?)立てていた。
『おいこら、聞いてんのかっ、この鳥野郎!』
軽くにらむと、タケノスケは何も言わずにそのまま頭を毛布の中に戻した。
姿が変わるさいに発光するのは、これは彼の意思ではどうにもならないことだし、今に始まったことでもない。
この家に泊まるのも、今日が初めてというわけではない。
何より心地良い睡眠をじゃまされて、機嫌が悪かったというのもある。
チャップがケージ越しに文句を言ってくるのもいつものことなので、もはやいちいち相手をするのが馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。
無視して夢の続きを楽しむに限る。
右の翼の中に頭を突っ込んで二度寝を決め込もうとすると。
『おいこらっ、無視するんじゃねぇっ!』
今度はチャップ、ケージをがたがたとゆらし始めた。
げっ歯類を入れておくケージなので、金属でできている。
木製だとかじり取られてしまうからだ。だから中でチャップが暴れると、ガシャガシャと耳障りな音になる。
『それがひと様の眠りを妨げた奴の態度かっ、ああん!? 起きやがれーっ!』
『うるさいっ!』
無視するつもりだったが、結局耐えられなくなって再び首をもたげると、タケノスケは短く叫んだ。
くちばしじゃなかったら歯ぎしりのひとつもしていたかもしれない。
『朝っぱらから騒ぐなよ。ミコたちを起こしちゃったら、どうするんだ。』
『へっ、ミコを起こすのはいけなくて、オレ様を起こすのはかまわないって、そう言うんだなてめぇは!』
『……お前は昼間寝てるからいいじゃないか。』
『大体てめぇ、鳥のくせに朝寝決め込むって、その根性が気に食わねぇ!』
『関係ないだろそんなこと!』
怒鳴り返し、ちょっと声が大きかったかなとタケノスケは後悔した。
今までのやり取りだって、人間の耳には「チッチッ」とか「クエッ」くらいにしか聞こえないのだ、ということを知っている。
何か異変が起きて、それをセイイチロウたちに知らせるため騒いでいるように取られかねない。
人間たちに無用な心配をかけたくないし、何より“夜更かし”した分朝寝をしたい気満々なんだけれど。
肝心のチャップはというと。
『関係大アリだ!』
吠えると、チャップはケージの柱にかみついた。
金属製のフレームが抵抗音を上げる。
『てめぇが来てからというものなぁ、こともあろうに、ミコは、ミコは……っ!』
人間だったらば、こぶしを突き上げて夕日に向かって叫ぶようなものだろうか。
それこそ岸壁に波濤(はとう/大波)という舞台が似合いそうな剣幕だ。
もっとも、生まれも育ちも内陸部なので、タケノスケは海なんて見たことないけど。
『前の家にいたときよりも、オレ様と遊ぶ時間が短くなっちまったんだぞぉ!! どうしてくれるっ!!』
『知るかっ、そんなこと!』
『「そんなこと」、だとお……っ! て、て、てっめえぇぇええ……!』
がじがじがじと、美味くなんかこれっぽっちもなさそうな金属製のフレームに歯を立てた
『いいかっ、耳の穴かっぽじって、よおぉっっく、聞きやがれ!
ミコはなぁ、オレ様の嫁だ!
だからこれ以上近づくんじゃねえ!
わかったかっっ!!』
『よ……。』
さすがのタケノスケも、これには言葉を失った。
今まで、人間、動物、鳥類を問わず、さまざまな生き物と接したり関わったりケンカしたりしてきたタケノスケではあるが。
人間の娘を嫁だなどと宣言したり、ましてやそれを理由に宣戦布告までするような個体は、初めてだ。
いやそもそも、人間以外の相手からここまで激しくののしられたことなど、無い。
野生動物たちはそんな不毛なことなど一切せず、さっさと立ち去るか、問答無用で襲い掛かってくるかの、どちらかなのだから。
というより、……こいつ正気か?という疑念のほうが圧倒的で。
驚きとあきれと、何より全く想定外の展開に、しばしのあいだ文字通り開いた口(くちばし?)がふさがらなかった。
そんな彼の反応に、チャップのほうは“反論できないほど言い負かしてやった”と解釈したらしい。
ようやくくわえていたケージから離れると、勝ちほこった視線を食卓の上から投げかけてきた。
『もしオレ様のミコに手を出してみろ、そのときは……。』
そのときだった。
「あー……兄ちゃんおはよー……。」
扉が開いて、寝巻き姿の少女が姿を現した。
目をこすり、遠慮なく大あくびをする。
「おはよう」とタケノスケは返したが、やはりこれもミコの耳には「クエッ」にしか聞こえないんだろう。
「チャップも、おはよー。兄ちゃんとお話してたの?」
素足のまま、ぽてぽてと足音を立てて居間に入ってくると、ミコはタケノスケの前を通り過ぎて卓上のケージに顔を寄せた。
『お、おうっ。おはよう……。』
後足で立ち上がり、チャップもミコに顔を寄せる。
その目が喜びできらきらと輝いているのが、タケノスケの目にもよくわかった。
「うん、今日もかわいいね♪」
『そ、そうか。そう言うミコも……かわいいぜ……。』
くにゃり、と身をよじる。
それ自体は普通にリスっぽい仕草なんだけど。
なんだけど。
真っ黒いつぶらな瞳でじっと見上げる、その表情も(多分)リスっぽいものなんだろうけど。
なんだろうけど。
でもあれは多分、それだけじゃない。
何しろ自分で宣言したんだから、間違いない。
何よりその変わり身の早さに、タケノスケは二の句をつなげずにいた。
人間と暮らしていると、こういうところまで人間ぽくなってくるものなのだろうか…………。
『まいすいーとはにー。もっとこっちへおいでよ……。』
『ま……すは……??』
『……なんだてめぇ、まだいやがったのか。』
ぎろり、とチャップは横目でタケノスケをにらみつけた。
ミコに対するのとはずいぶんな変わりようである。
『ここはなぁ、オレ様とミコとの“愛の巣”なんだ。
てめぇなんぞの居場所なんか、これっぽっちも無ぇんだよ!』
セイイチロウの存在は無視らしい。
「あ、兄ちゃん、今開けるね。わたしも顔洗うし。」
そんなチャップの暴言など知る由も無く、ミコは視線を紅い鳥に戻した。
タケノスケがじっとこちら(正確には裏表の激しいチャップの言動)を見ているのを、自分に何か言いたいことがあるのだとカン違いしたようだ。
そのまま食卓からはなれ、玄関扉に向かう。
『ああん、ミコ……。そんな奴のことなんかどうでもいいじゃないかよぅ……。』
出て行けと言ったのは自分のくせに、タケノスケがミコとともに表に出て行ってしまうと、チャップはその場にがっくりとうなだれたのだった。