今日の夕食は、ナスとピーマンとカツオ節の炒め煮。
キュウリとワカメの酢の物。
ソラマメの塩茹で。
サケの缶詰。
タマネギとニンジンの味噌汁。
そのいずれも、タケノスケはぺろりと平らげた。
まぁいつも残さずきれいに食べてくれるので、炊事担当としても大いに作りがいのある相手といえる。
「ごはんがおいしいのは健康な証拠だよ。」
タケノスケの食べっぷりにようやく慣れたセイイチロウも、負けじと箸を動かしながら楽しそうにそんなことを言っている。
何しろ、方や人間の食事に何十年単位で飢えていたという肉体年齢なら十代半ばの少年、方や野歩きのためにわざわざ引っ越してきた働き盛りの成人男性、という組み合わせである。
ミコ一人なら多分丸一日分になるであろう量を作ってもあっという間に消えてしまうのだから、逆に自分のほうが小食なんじゃないか、という錯覚におちいりそうになる。
「ごちそうさまでした。」
はしを置き、緑茶(やっぱりかなり冷ましたもの)で締めると、タケノスケはいつものように顔の前で両手を合わせて律儀にそう口にした。
(そのことをほめたら、どうやら彼の兄がそのへんに大変うるさい人だったかららしい、ということが判った。いわゆる“三つ子の魂百まで”ということなんだろう。)
「はい、おそまつさまでした。」
つられてこちらもなぜか手を合わせて、ミコが応える。
食事をしている間も、終えてからも、いす(道具の使い方を教えたら、なんと見よう見まねで自分でそれっぽいものをこしらえてしまった)の上に正座しているタケノスケの背筋はまっすぐ伸びている。
背もたれに身を預けてくつろいでいるセイイチロウとはここが違う。
「ねぇ、兄ちゃん。」
「うん?」
空になった食器を炊事場に戻しながらミコが声をかけると、タケノスケは首をめぐらせた。
「夕方屋根の上にいたとき、何か探しているみたいだったけど。
パパに用事があったんじゃないの?」
「……ああ、見てたんだ……。」
しばし考えた後ようやく思い至ったのか、タケノスケは小さく苦笑した。
「さがしていた……にはちがいないんだけど。
べつに用事があったとかじゃなくて、どっちかっていうと、ぎゃく。」
「逆?」
言っている意味がわからない。
興味を引かれたのか、だらしない姿勢だったセイイチロウも身を乗り出してきた。
「見つかるとめんどうなんで、近くにいないかどうかたしかめてたんだよ。」
「おいおい、たしか幻紅鳥というのは、この森でずいぶんと特別な存在なんだろう?
その幻紅鳥がそこまではばかる相手なんて、この森にいるのかい?」
そも動物というやつは、自分より大きな相手に向かっていくなんてことは、よほどのことがなければしないものだ。
体の大きさはそのまま強さの指標でもあり、子を守る、数の優位がある、メスを獲得するために上位のオスに挑む……といったような場合でもなければ、無用な衝突は避けようとする傾向がある。
そしてタケノスケ……というより幻紅鳥は、この森に住まう生き物の中でも間違いなく大型の部類に入るはずである。
それは鳥獣に詳しくない者でも容易に察しがつく。
何しろ翼をめいっぱい広げれば、その差し渡しはセイイチロウの身長さえしのぐほどなのだ。
セイイチロウの疑問はしごくもっともといえた。
「見つかったら困る相手って…何?
あ、もしかしてわたしたちの他に人間がいるの?」
「いや、この森でにんげんのにおいがするのは、ここだけだよ。」
答えたタケノスケの表情にわずかに陰がさしたが、それもすぐに消えた。
「じゃあ、何?」
「……クマタカ。」
軽く嘆息して天井に視線を向けると、少年は軽く眉間を寄せた。
「クマタカ……って、あの鳥の?」
「うん。」
父娘は顔を見合わせた。
植物を求めて山野を歩き回るわけだから、そこに住まう動物のことは予備知識として持ち合わせているセイイチロウである。
だからクマタカという鳥のことも、ある程度は知っていた。
森林にすむ猛禽(もうきん)の一種で、フクロウなどと同じようにネズミなどをとって暮らしている。
以前友人の鳥類学者ジュウキチから聞きかじったところによると、翼があまり大きくないので障害物の多い森の中でも狩りをするのだという。
目的のものはほとんど足元にあるから下を向いて歩いていることが多いため、セイイチロウ自身は残念ながら実物を目撃したことはまだないのだけれども。
でも、それでも幻紅鳥がそのクマタカに体格負けしているようには、到底思えなかった。
なぜなら、タケノスケは森の中を飛ぶときとてもきゅうくつそうにしているのを何度か見たことがあるからだ。
幻紅鳥は大型で翼開長があることから、森の中に入ってしまうと木々がじゃまになってかえって上手く飛べないのだ。
だからタケノスケはいつも森の上に出てから移動する。
森の中でも自由に移動し狩りをするクマタカと、森の中での移動が不得意なほど体が大きい幻紅鳥。
……ふつうに考えれば、タケノスケがクマタカを恐れる理由など無いような気がするのだが……。
父娘が疑問に思う理由を察したのか、タケノスケはもう一度嘆息した。
「ええと……この森にはいくつかクマタカのつがいがいるんですけど。
ちょうどこのあたりをなわばりにしているつがいが、やたらとおれにつっかかってくるんです。」
子育ての時期でもあるので気が立っているのもあるのだろうが、それ以外の時期でも、縄張りの中で見つけるやいなや、問答無用で襲いかかってくるというのだ。
「ちょっと前まではべつのつがいがすんでいたんですけど。
あいつらは話がつうじるというか、おたがいにむししあっていたというか、そこそこうまく付き合っていたんです。
でも…。」
去年、オスが死んだ。
片割れを失ったメスはなわばりを維持できず、今年になって別のつがいがそのなわばりを乗っ取った。
その新しいつがいが、幻紅鳥をやたらと敵視しているのだという。
若い、それも森の外から流れてきたつがいということで、自分たちよりも大型の幻紅鳥を“なわばりを荒らす敵”と認識してしまったらしい。
……確かにクマタカのほうにしてみたら、幻紅鳥のような大きな鳥になわばり内をうろうろされては獲物が隠れてしまうので迷惑なんだろうけれども……。
「そんなわけで……ここに来るにもこそこそしなきゃいけなくなっちゃって。
べつに何もわるいことしてないはずなんですけどね。」
「はぁ……鳥の世界もいろいろと大変なんだな。」
何か思い当たるふしでもあるのか、腕を組んでセイイチロウがしみじみとうなずいている。
「でも、他のつがいはこんなことしてこないんですよ。」
「あれ、じゃあ初めて兄ちゃんと会ったときにしていたけがって……。」
あの日タローが見つけた、大きな倒木の向こう側に横たわっていた、紅い大きなかたまり。
えぐれた傷口からは肉が見えていて、失神している鳥に治療をするミコまでもがなんだか痛い気分になったほど、ひどい傷だった。
思い出してわずかに顔をしかめた少女に、タケノスケはやはり同じように渋い表情を浮かべて、うなずいた。
「あの日がさいしょ。
本当にふいうちだったから、まともにやられて。
まぁ、ゆだんしていたおれも悪かったんだけど。」
答えて、無意識にあのとき負ったけがの位置を軽くさすった。
傷はとっくに治っていたが、人の皮ふには傷跡がわずかに残っているのが見て取れる。
タケノスケが着ている絣(かすり)の短衣はそでが短めで、普段から右腕を動かすとちらりちらりと袖(そで)口からその傷跡がのぞいていた。
しかし……幻紅鳥対クマタカの、流血ざたにまでなった大空中戦とは。
さぞや迫力があったことだろう。
「なるほど。二対一では、いくら体格差があっても意味は無いということか。」
「……あのときはオスだけだったんですけどね。
でも……くやしいけど、クマタカのほうが飛ぶのはうまいから。」
「えっ……だって、兄ちゃんのほうがずっと年上なんでしょう?」
野鳥のことは父以上に詳しくないミコだが、それでもスズメやツバメよりもワシやタカのほうが長命だということくらいはわかる。
そのワシやタカでも、普通の人間よりもずっと長い時間を生きてきたタケノスケよりも年長であるとは到底思えない。
経験が豊富な分、タケノスケのほうが飛行技術は上だと思うのだが……。
そうたずねると、当の本人は困ったようにまた小さく苦笑した。
「おれはあいつらのように、きゅうに止まったり、すばやく向きを変えたりとかは、できないんだよ。
……まったくできないわけじゃないんだけど、それでも……。」
「どうして?」
「うーん……どうしてなんだろう?」
「多分……体の形の違いとかなんじゃないかな?」
少し考えて、セイイチロウが答える。
たこでも紙飛行機でも、形や折り方が変わるだけでずいぶん飛び方も変わってくる。
クマタカも幻紅鳥も同じ“大型の鳥”ではあるが、くちばしや足の形、翼の大きさなど細部はいろいろと違う。
一番目に付く違いはやはり、幻紅鳥のあの豊かな尾羽だろうか。
先ほどタケノスケが言った“急停止”“急旋回”に、より適した体をしているのは、幻紅鳥よりもクマタカのほうだということなんだろう。
「それはつまり……おれはぜったいあいつらには勝てない、ということですか?」
「さあ、それはどうだろう。
彼らを出し抜くつもりで、それこそ君にしかできない飛行技術をみがけば、あるいは何とかなるかもしれないかな。
でも……。」
「そんな無茶な……」という顔をしたタケノスケを見やり、セイイチロウは話し込んでいる間にすっかり冷めてしまった茶をすすった。
「話し合いで解決するんなら、それに越したことはないと思うけどね。
現に他の連中とはうまくいっているんだろう?
君もそのクマタカも、誰だってけがをするのは嫌だろうし。」
「そう、それ!」
突然、それまで二人のやり取りを見守っていたミコが大きな声を上げた。
セイイチロウとタケノスケが驚いて同時に少女のほうを向く。