父娘の家がある一角は、深い森の中でそこだけぽっかりと穴が開いたように開けている。
もちろん、長年その場所で頑張っていた巨木が命尽きて、たまたま空間ができていた時期だったというのもあるのだろうが。
地面をならしたり多少切り開くなりして、人の手でもって人間用の居住空間を獲得した結果である。
天井のなくなったその場所は、天からの恵み――日の光や雨風などをさえぎるものも当然無く、直接人家に降りそそぐ。
新茶の季節を過ぎると、日差しはやさしいものから力強いものへ、そしてある意味攻撃的なものへと次第に変化していく。
家の裏手にある取水場のそばにこしらえた洗い場から、せんたく物が入ったかごを抱きながらゆるいでこぼこ道を歩いていたミコは、もはや夏といってもいい輝きを惜しげもなく放つ太陽を、かざした手のひら越しに見上げた。
森の中は街中とちがい、これだけ強い日差しを浴びているというのにそれほど暑いとは感じない。
光の強さは街中とあまり変わらないというのに。
せんたく物がよく乾くのは大歓迎だからそれはそれでいいんだけれど、暑くないのに帽子が欲しいと思うようになってきた。
……家の中で調べ物をしたり書き物をしたりしているか、森へ出かけていって植物の種類やら大きさやら色形やらを熱心に調査しているかのどちらか……という生活を送っている父親には、大して気にならないことなのかもしれないけれど……。
とはいえ、もうしばらくすると雨季がやってくる。
どんよりした曇りの日が続くようになれば、せんたく物の乾きも不安になってくる。
けれど、パパの出かける頻度(ひんど)はきっと下がるんじゃないか。
ミコはそう思っている。
ここへ来てから何度か雨は降ったけど、いずれの日もセイイチロウは外出することなく書斎で仕事をしていた。
パパが家にいてくれるから、晴れの日ほどじゃないけど、雨の日も嫌いじゃない。
それにミコ自身、雨天の日のこの森のにおいはしっとりとした優しさがなんだかとっても気に入っていて、そんなときは室内で静かに過ごすのも悪くないな、とも思っている。
しかしこんな大自然の中で雨季をむかえるなど、たかだか十二歳の小娘にとってはもちろん初めての経験である。
たくさん雨が降ると、町では経験したこともないような“すごいこと”が、ここでは起きたりするんだろうか。
……とは、この時点ではまだまだ想像のおよばないことなのであった。
とりあえずは。
「さっさとおせんたく物干しちゃおう。」
まだ部屋のそうじが残っているのである。
それがすんだら今度は昼食のしたくにかからねば。
今日のせんたく物は二人分だ。
気温が上がったので薄物がメインになってきたけれど、父親が土や草の汁や汗やらがついたものをたくさん出してくれるので、かさそのものは大して変わってない、気がする。
そうでなくても、水をふくんだ衣類を入れたカゴは、それなりの重量があって。
洗い場から物干し場まで運んでくるのは、子供には少しばかり重労働である。
……後ろから尻尾を振り振り楽しそうについてくるタローが、ちょっぴりうらめしい。
「こら、ちょっとは手伝え。」
無駄だとは十分承知しているが、言ってみる。
案の定白茶の犬は、多分、きっとカン違いしているんだろう、うれしそうに若い主人を見上げた。
「……あーあ。
お前も兄ちゃんみたいに、わたしの言ってることがわかって、ちゃんと行動で答えてくれるんだったらよかったのに。」
もちろんそれも無茶な注文だということはわかっている。
タケノスケのほうが飛び抜けて特異(とくい)なんだから、そもそも比べること自体まちがっている。
ひとつため息をつくと、ミコはせんたくカゴからシャツを取り出して、せんたくロープにとめた。
青い空に白いシャツはよく映(は)える。
その向こうには元気な太陽。
……やっぱりこの絵面は”夏!”だ。
「そういえば……最近兄ちゃん来ないよね……。」
まぁタケノスケが訪ねてくる度合いは、以前よりは高くなったとはいえ、それでも来ないときは四日、五日、それ以上になることも時々ある。
今回もその“時々”のうちに入るんだろう。
「ああもう、何日同じもの着ている気なんだろう……。」
そりゃ何十年も着の身着のままでいたんだから、一日や二日や三日や四日や五日や六日くらい、着替えなくたって気にならないんだろうけどさー……ああでもダメ、わたしが耐えられない。
この前せんたくした着物が今ごろどうなっているか想像して、ちょっとだけ嫌ーな気分になったミコは、ふとあることを思い出した。
「……そういえば、兄ちゃんが来る日っていつも夕日がきれいなんだよねぇ。」
より正確に言えば、雨の日に泊まりにきたのは一回だけだった。
何か理由があるんだろうか。
以前と違って今はコミュニケーションがきちんと取れているわけだから、今度きいてみようか。
そんなことを考えている間にもミコの手は休むことなく作業を続けていて、気がつくとカゴの中は空になっていた。
「よし、せんたく終わり!」
両手でくるりとカゴを回転させると、ミコは頭からそれをかぶってみせた。
せっけん代わりに使った灰汁(あく)のにおいが軽く鼻をついた。
「次はおそうじね。
……お前が鼻のあとをいっぱいつけるから、せっかくのガラス戸もすぐ汚れちゃうんだもん。」
やっぱりわかっていないんだろう、タローはそれに応じるように、一声元気に吠えたのだった。
その日、タケノスケがやってきたのはいつもよりも早い時分だった。
夕方とはいえ、地上にはまだくっきりと日なたと日かげの区別がある。
羽音に顔を上げ、元猟師小屋のシンプルな屋根の上に紅色の姿を見つけると、ミコは大きく手を振った。
が、タケノスケはそれには気づいていないようである。というより、何かを探しているのか四方をしきりにうかがっている。
「?」
……まぁ、来たということは、そのうち降りてくるんだろう。
どちらにしろこちらから屋根に上がっていくわけにもいかない(……一度は上ってみたい、かも)ので、ミコはそのまませんたく物の取り込みを再開した。
「タロー、あんまりあちこち穴掘らないでよね。」
ロバ小屋のそばで作業に没頭していた犬の背に、たまりかねて声をかける。
何が楽しいのか、タローはこのところ熱心に穴掘りばかりしている。
自宅(?)の周囲を荒らされて、モモコもちょっぴり迷惑そうだ。
セイイチロウいわく、「モグラでもいるんだろう」とのことだったが。
掘った穴を埋め戻してくれるわけでもないので、ミコとしてはできればやめてほしいというのが本音だった。
……この前だって足をとられて転びそうになったし。
「……でも、何度しかってもダメなんだよね。」
兄ちゃんみたいに話が通じればいいのになぁ……と何度思ったことか。
そうすれば……。
「……あれ?」
町にいたころは、父の影響もあってよく本を読んでいたミコである。
もっとも、彼女が好んで手に取ったのは図鑑や偉人伝などではなく、もっぱらおとぎ話や昔話のたぐいだった。
そういったお話の中ではたいてい、人間は動物の言葉はわからないけれど、動物同士は実は会話が成立しているんだよ……ということになっていた。
さすがにそういうのを頭から信じるような年齢では、もうなくなっているけれども。
そこでミコ、改めて屋根を見上げた。
紅い鳥は相変わらず、切妻(きりつま)造りになった屋根の棟(むね)にたたずんでいる。
ちょっと目をはなしている間にこちらに背を向けてしまっていて、わずかに風があるのか、屋根のかたむきにそうように流れていた尾羽の先がかすかにゆれているのが見えた。
相変わらず、きょろきょろと辺りをうかがっている。
……そういえば、この前まで住んでいた町には古い洋館があって、そこの屋根には風見鶏(かざみどり)がくるくる回っていた。
なんか、それに似ていなくもない。
その風見鶏みたいなことをしている兄ちゃんは、やっぱりお話の中のように、タローやモモコとお話ができたりするんだろうか。
そう考えると、ミコはなんだかむずむずと好奇心がわいてきた。
動物たちが普段どんな会話をしているのか。
動物好きの人間なら誰しも一度はいだいたことがあるだろう疑問が、もしかしたら解明されるかもしれないのだ。
早く夜にならないかな。
太陽の光をいっぱい浴びてまだほこほこと温かいせんたく物をかかえたまま、ミコは西の空へと目を向けたのだった。