昼食が終わると、セイイチロウは脇に置いておいた背負い袋の、その上に乗せてあった帳面――ノートを取り出した。
散策中ずっと手にしていて、時折なにごとか書き付けていたものである。
それからさらに、背負い袋の中から小さな紙製の箱を取り出した。
中から出てきたのは…それぞれ長さの違う色とりどりの棒が二十本ほど。
簡素な敷物の上に座り込んだままノートを広げ、色つきの棒の先端をしきりにこすり付けている。
棒は頻繁に取り替えているようだ。
ミコのほうはというと、父親の行動にはあまり興味が無いようで、荷の中から水筒を取り出し、泉の水を詰めている。持って帰る気のようだ。
タローは……人間たちの間を行ったり来たりしていたが、どちらも構ってくれないので、先ほど目の前を横切っていったチョウを追いかけて藪(やぶ)の中に入っていった。
少し迷った後、タケノスケはセイイチロウのそばへ寄ってみることにした。
彼が何をしているのか、興味が沸いたのである。
セイイチロウは相変わらず、熱心に手を動かしている。
ぐるりと回りこんで手元をのぞいてみると……白い紙の上には、花や葉の絵があちこちに描かれていた。
その周囲には文字のようなものもたくさん見える。
いつの間に採取したのか、セイイチロウの左手には根元近くから折り取った草が一本、にぎられていた。
植物学者は、その左手の草を右手に持った棒でノートに描き写しているようである。
驚いたのは、その絵に色がついていたことだった。
それも朱(しゅ)や藍(あい)といった糸を染めるような色ではなく、タケノスケが見たこともない、それこそ目のさめるような鮮やかな色彩に満ちあふれている。
特に、最も多く使われている植物の葉の色の、つややかさ、みずみずしさは、まるで本物と見まごうほど美しい。
……こんなに美しい色の洪水が紙の上に展開していること自体が、奇跡としか思えない。
棒が踊るごとにより鮮やかになっていく紙の上の様子に、我を忘れて見とれていた。
「うん? ああ、これかい?」
紅い鳥が熱心に手元を見ているのに気づき、セイイチロウは手を止めた。
作業を邪魔してしまったとでも思ったのか、タケノスケがあわてて首を引っ込める。
しかしセイイチロウは笑って、逆に手にしていたものをかたわらの鳥に見せた。
「スケッチをしているんだよ。
押し花にすると微妙に色が変わってしまうものもあるんでね。」
言いつつ、手にしていた棒を別のものに取り替える。
「……本当は写真に撮れるといいんだけれど……カラーの写真機は、とても一般人が手の出せるような値段じゃないからなぁ。
まぁ買えたところで、ここには現像液も引き伸ばし機も、ましてやそれを使う技術も無いから、一緒なんだが。」
苦笑交じりの嘆息めいたものをもらしたが、紅い鳥は二回に分けて首をひねっただけだった。
「……ああ、君は写真そのものを知らないんだったっけか。」
困ったように、逆の方向に首をひねる鳥。
失敬、とつぶやいてセイイチロウはまた棒を取り替えた。
「そんなわけで、それならせめて少しでも現物の色を再現できるようにと、こうして悪戦苦闘しているというわけだよ。
できれば生えていた場所で済ませたかったんだが……やはり明るいところじゃないと本当の色がわからないんでねぇ。」
……聞いたことのない単語があったりで、残念ながらタケノスケにはセイイチロウの説明は半分くらいしか理解できなかったけれど。
でも彼が植物の色や形をできる限り忠実に記録したがっているんだということは、なんとなく理解できた。
「とはいえ、絵の具一式を調査のたびに持ち歩くわけにもいかないから、こうして色鉛筆で何とかするしかないわけだが。」
手にしていた緑色の色鉛筆(当然一番短くなっている)を目の前に差し出してやると、タケノスケは視線をそちらに移した。
頭を横に向けて、左の目でじっとみつめている。
……そういえば夜間に話をするときも、決まって彼は少し横を向いていたことを思い出した。
その癖(くせ)はここからきているのだろう。
変化のとぼしい鳥類の表情を見分けられるほど、まだ付き合いは長くないけれど。
心なしかそのまなざしはずいぶん熱く感じられた。
ただの好奇心だけではなさそうである。
「……ああ、そういえば、君は絵心があるんだったね。」
自宅の居間に飾ってあるウメキチを描いた素描を思い出し、セイイチロウは改めてタケノスケを見やった。
絵を描く、という行為は手先を使う作業だ。
鳥の翼は飛ぶことに特化しており、物を持ったりましてや細かい作業を行ったりする機能は無い。
いやそれだけではない。
はしを使って食事をすること、着衣を着替えること、道具を作ったり大地をたがやして植物を育てたりすること……。
およそ人間らしい生活を営むには、やはり手先を使った作業がどうしても求められる。
人の姿でいられる貴重な時間帯を、長い間やむなく睡眠にあてていた……と先日聞いたけれど。
色鉛筆とノートに描いた植物のスケッチを熱心に見つめ続ける紅い鳥の姿に、セイイチロウは少しばかり複雑な気分になったのだった。