以下、回想。
「兄ちゃん、洗濯するから着物脱いで!」
日が暮れてようやく四肢を伸ばせるようになり、やれやれと居間の床に座ってくつろいでいたタケノスケに、ミコは開口一番そんなせりふとともに、意を決して詰め寄ったのである。
最初は何のことかわからなかった、らしい。
ぽかんと口を開けて二、三度瞬きした少年に、ミコはさらに一歩迫った。
「あのね、初めて会ったときから、もうずっとずっと気になってたの。
兄ちゃんいつも同じもの着てるじゃない!?」
「だって…これしかもってないし……。」
もっと平たく言うなら、この着物こそが故郷から持ってくることができた彼唯一の“財産”でもある。
手放したくないという気持ちが強い。
けど、そんなこと言われても家事担当としては許すわけにいかない。
「着たきりすずめって言葉があるけどさぁ、兄ちゃんまさしくそれだよ!?
何十年も着っぱなしなんでしょ!? 信じらんないっ!!
そうじゃなくたって、ちょっと臭ってるし!!」
「…そうかなぁ?」
そでを鼻元に持ってきて、臭いをかいでみる。
が、自分の臭いというやつに、どうも人間という生き物は頓着しないもののようで。
「みずあびはまめにやってたんだけど。」
「…夜?」
「ひるま。」
………………。
「洗うっ、絶対洗うっ! パパ、手を貸して!」
悲鳴に似た叫びを上げると、ミコは何のためらいもなくタケノスケの帯に手をかけた。
「うわっ!?」
「二人とも何やって……。」
騒ぎを聞きつけて、隣室からセイイチロウがやってきた。
そして……娘が少年の着物を引っ張っているのを目の当たりにし、絶句する。
「やめろーっ、だからほかにきるものがないんだってぱ……っ!」
「それなら、パパの服貸してあげるから!」
あくまで抵抗するタケノスケに追いすがる姿は……とても嫁入り前の娘のものとは思えず。
いろんな意味で、女の子の父親としてとても看過できるものではなかった。
「ミコ! なんてはしたないことしてるんだお前はっ!!」
「あっ、パパ。兄ちゃんから着物脱がせてよ!」
「たっ、たすけ……!」
駆けつけたセイイチロウに分けてもらい、タケノスケはようやく息をついた。
そして改めてミコをにらんだ。
自分の正確な年齢がわからなくなるくらい生きてきたが、よもや若い娘に着物をはぎ取られそうになるなどとは思ってもみなかった。
遠い遠い記憶の中でも、郷には“強い”女性は何人かいたような気がするが、それでも力づくでこんなことしてくるような人はいなかった……ように思う。
それはタケノスケだけでなくセイイチロウにとっても同じだったようで。
「それが女の子のすることか!?
タケ君だって子供じゃないんだから、着替えくらい自分でできるだろうに。」
「いやあのそういうことでは……。」
「だってー。パパだって気にならないの?
兄ちゃん、ずーっとそれ着てるんだよ?
多分この森に来たときから一回も着替えてないんだよ?
そうじゃなくたってあちこち擦り切れてるから、繕わなきゃいけないだろうし……。
ねぇお願いだからお洗濯させてよう……。」
言われて、セイイチロウは自分の背後に逃げ込んだ少年を見やった。
彼自身、フィールドワークに出たら数日山野で過ごすなどして着替えがおろそかになることがあるから、あまり気にしていなかったんだけれども。
言われてみれば確かに、タケノスケの着物には、彼がこの森で人間として過ごしたのと同等の時間を重ねた形跡がありありと見受けられた。
「まぁたしかに、ミコの言うことも一理あるけど……。」
「でしょ!?」
味方を得た、とばかりにミコがさらに詰め寄る。
そしてその分タケノスケも後ずさる。
でもその後退の意味は、脱ぎたくないというより、もはや半分以上ミコの剣幕そのものに対してだ。
「兄ちゃんだって、洗いたての着物のほうが断然いいに決まってるでしょ!?」
「あ、いや、ええとその……。」
「わかったわかった、わかったからもうやめなさい。」
ついに嘆息すると、セイイチロウは少年を見やった。
これ以上騒がれては、おちおち書き物もしていられやしない。
「……タケ君、僕の服を貸してあげるからこっちへおいで。」
「……はい。」
どうもこの家の主導権はセイイチロウではなくミコのほうにあるようである。
多分今日拒否したところで、顔を合わせるたびずっと言われ続けることになるんだろう。
そう考えると、セイイチロウの助けがあるうちに従っておいたほうがいい……のかもしれない。
そんなわけで、タケノスケはあきらめてセイイチロウの部屋へと足を向けたのであった。
……なんなんだこの敗北感は。
そして。ミコが居間で待つことしばし。
再び現れたタケノスケは、綿シャツに綿ズボンといういでたちに変わっていた。
袖とすそをまくっているのは……ご愛嬌ということにしておこう。
「どうだ、結構似合うよなぁ?」
持ち主の代わりに着物を抱えて現れたセイイチロウが、満足げに娘に紹介した。
反面、当人はどことなく所在無げにしている。
「……うん、びっくりしちゃった。
すごく似合ってる。
町で会っても全然おかしくないよ。」
両手をたたいて目を輝かせたミコとは対照的に、タケノスケの眉はハの字になったまま戻っていない。
とりわけ、しきりにズボンを気にしていた。
「……こんなにきゅうくつなはかまは、はじめてだ……。」
「袴(はかま)じゃないよう。」
父からタケノスケの着物を受け取り改めてその汚れ具合に眉根を寄せていたミコも、その発言に思わず父と顔を見合わせ、笑顔をこぼした。
「確かに袴に比べたら窮屈だろうけど、でもすぐ慣れるさ。」
「うう……。」
「それにしても……やっぱりあちこち傷んでるね。」
腕の中のものに視線を戻し、ミコは苦笑をもらした。
間近で見ると、思っていた以上に小さな傷が多いことに驚かされる。
人の姿でいられる夜間はほとんど就寝に当てていたという話だから、この程度で済んでいるのかもしれないが……。
そのことはセイイチロウも気になったらしく。
「単純計算でも、三、四十年はゆうに経っているわけだからなぁ……。
生地も弱っているだろうし、いっそ新調したほうがよくないかい?」
「それはかんべんしてください!」
ついに持ち主が悲鳴を上げた。
「それは…ねえさんがぬってくれたものだから……。」
そう言われては、おいそれと下手な扱いはできない。
「うん、がんばって直すね。
……ぞうきん作ったのとボタン付けくらいしかやったことないけど。
でも、着物って直線縫いしかないって聞いているから。
大丈夫ダイジョウブ。」
胸を張って、なんだか必要以上に満面の笑みを浮かべたミコに、タケノスケはとてつもない不安をさらに深めたのであった。
以上、回想オワリ。
着物は現在、父娘の家の庭で、洗濯ロープに吊るされて初夏のそよ風にその身をさらしているところである。
(それでもまだ汚れが落ちきっていない、とミコは不満げな様子だったが。)
「どうせ昼間は着ているもののことなんか気にしなくてもいいんでしょ?」と言われ、確かにそのとおりではあるんだけれども。
それでも、なんだか今朝からどうにも落ち着かないのは、それ以外に理由は思い至らない。
もちろん親切に思ってくれての行為だってことはわかっているんだけれども。
わかっているんだけれども。
それでもなんだか腑に落ちなくて、タケノスケはミコにちょっと意地悪したい気分になったのである。