水面が、初夏の日を映してきらきらと輝いている。
何年、何十年も地下を旅してきた山からの伏流水が湧き出し、そのまま楕円形の池を形作っているのだ。
豊かな水は、ぐるりに育つ木々の枝葉ですら覆い隠すことはできず、水底にまで視界を許している。
懇々と溢れ出す水は緩やかな流れを作り出し、やがて東南の一角からあふれ出して、一筋の流れを描き出し、外界へと旅立っていく。
清澄な流れとさえぎられることなく降り注ぐ日の光の中で育った水苔の上を、小魚が軽やかに通り過ぎていった。
これだけ森の奥深くになると、上空を流れる風の影響はあまり受けない。
みな、密に茂った木々の枝葉がさえぎってくれるからだ。
ゆえに水面に映る像を乱すのは、湧き出す水の流れ自体が作り出すわずかなさざなみと、時折水面に落ちてきた羽虫を拾いに浮上してくる小魚の鼻先、そしてまれにのどを潤しに訪れる動物たちくらいか。
けれどここは、決して特別な場所ではない。この森の中であればどこにでもある、“日常”の風景のひとつなのだ。
その、途切れることなく静かに流れ続ける時を映し出したかのような水面を、紅い影がすうっと横切っていった。
木々のこずえの上を、かすめることなく静かに滑っていくのは、幻紅鳥と呼ばれる生き物である。
豊かな尾羽をなびかせ、翼を目いっぱい広げ、存分に風を受けて空を滑っていくその姿は、森の緑の中にあっても初夏の青空の中にあっても非常に目を引く。
二度ほど軽く羽ばたくと、紅い鳥は左に体を傾けた。
ゆっくりと旋回して今しがた来た方向に再び向きを変えると、森の天井からひょっこりと背伸びをしているブナの大木のこずえへ向かう。
周囲を確認してから、ブナの木の周りを三度ほど旋回しつつさらに高度を下げ、細すぎない枝を選んでようやく翼をたたんだ。
改めて周囲を確認する。
…よし、猛禽の姿は見当たらない。
連中は縄張り意識が強いから、見つかるとそれなりに厄介なのだ。
天気の良い日は飛びやすい。
それが森の呼吸であるとでもいうように、一帯を包む空気全体が上へ上へと昇っていこうとしているからだ。
それをうまくつかまえれば、労せず高みまで昇ることができる。
トビの真似事だって、その気になればできるはずだ…やったことは無いけど。
だから、天気の良い日は好きだった。
というより重たげな雲に覆われている日は、飛ぶ飛ばないにかかわらず、それだけでなんだか気も滅入ってくる。
それは郷にいたときから変わらない。
森の天井――緑のこずえから頭ひとつ飛び出している木だけあって、ここだとほんの少しだけ風を感じることができた。
尾羽の先がゆるゆるとわずかになびいている。
右手に視線を移すと、青い稜線が目に入った。
山陰にわずかに白いものが残っているようだが、それももうすぐ完全に消え去るだろう。
この森の北側には山地が広がっている。
というより、山地の南の終わりの裾野に原生林が広がっている、といったほうがより正しい表現になるだろうか。
いくつもの峰が、まるで兄弟姉妹が背比べでもするかのように、寄り添いつつ高さを競い合っている。
その中で、二つ三つほど峠を越えた先に、このブナの木と同じように周囲から頭ひとつ抜きん出ている頂があった。
山地の最高峰はもっとずっと奥にあるのだが、少なくともここから山肌を確認できるものの中では、これが一番高い。
この山の話は、郷にいたときから聞いていた。
何でも霊峰として昔からあがめられてきた山だという。
山の神様…とりわけ霊峰と呼ばれるところに祀られているのはみな女の神様で、だから女性が踏み入ると怒って祟られる…という理由から、山へ入るのは昔から男性だけというしきたりがあった。
すくなくとも、タケノスケはそれが常識だと思っていた。
けれどミコやセイイチロウ――植物学者はそう名乗った――に言わせると、今ではそれは迷信とする意見が圧倒的多数を占めており、男女関係なく登山を楽しんでいるのだという。
もっとも、昔からのしきたりを堅守したり宗教上の理由があったりして、いまだに女性の立ち入りを固く禁じている山もたくさん残っているらしいけれど。
自分が知らないところで、知らないうちに、世界は刻々と変化していく。
わかってはいたはずなのに、彼らからそんな話を聞かされると、改めて自分が“世界の外”にいるのだということを、思い知らされる。
“霊峰”をじっと見つめたまま、紅い鳥は初夏のそよ風に、身を任せていた。
「おおーい、タケくーん!」
遠くで呼ぶ声に、タケノスケは我に返った。首をめぐらせて周囲を見渡す。
音は風に乗るものだから、小さくてもはっきり聞こえたということは、風上の方向になるはずだけれど…。
「どこだー?」
どうやらこの近くではないらしい。
飛んだほうが早そうだ。翼を広げると、軽く枝を蹴って空中へと身を躍らせる。
声のしたほうに当たりをつけて進むと、先ほど通過した泉が目に入った。
声はどうやらそのほとりから聞こえてくるらしい。
降りる場所を決めるため一度通過してみると、思ったとおり二つの人影と小さめの影が一つ、目に入った。
再び旋回して着陸態勢に入る。
「兄ちゃん!」
着地するや否や、ミコが駆け寄ってきた。
背負っているのは新しい鈴を付けた、これまた新しいかばん。
その後ろをタローがついてくる。
それに気づくと、紅い鳥はその場で回れ右をした。
そのまま翼ではなく脚を使って、泉のほとりを、逃走しだした。
「えっ、何で逃げるのよーう!」
とはいえ、もともと幻紅鳥という鳥の体は走るのに適していないらしく、見る間に両者の距離は縮まっていく。
あと一歩で追いつかれそう…というところで、鳥は翼を広げて水の上へと飛び出した。
水上を渡る大きな鳥の影に、小魚たちがいっせいに逃げ散っていく。
「あっ、ずるーい!」
そのまま泉を横切り、セイイチロウのもとへ舞い降りる。
二人のやり取りを苦笑しながら見守っていた植物学者の後ろに回り込むと、まるであかんべえでもするかのように、対岸に置き去りにしてきてたミコに向かって大きく一度首を振った。
「うわ、かわいくない!」
「…昨夜のこと、まだ怒っているみたいだな。」
足元の大きな紅いかたまりを見やって、セイイチロウは愉快げに娘に声をかけた。
泉のふちを通って戻ってくるミコの足取りは、対照的に憤然としている。
タローだけが何もわかっていないようで、尻尾を振り振り少女のあとに続く。
「昨夜って…だって、臭ってたし!」
本当はもっとずっと前に実行したかったのだ。
けれど、タケノスケは父娘の家に居を移したわけではなく、今でも“時折泊まりにやってくる”という付き合い方を続けている。
今まで使っていたねぐらがあるのだが、彼に言わせると「そのねぐらも幻紅鳥からの預かり物のうちらしいから、放り出すわけにはいかない」というのだ。
確かに、他の動物が放棄した巣穴を別の動物が再利用する…というケースは別に珍しいことではないらしい。
つまるところ「あんまり長く留守にすると、うっかり他の動物に乗っ取られるかもしれないから、おちおち外泊できない」ということらしい。
…野生動物の住宅事情も、なかなかにシビアなようだ。
そんな具合で、昨日久しぶりに泊まりにやってきたものだから、かねてよりの懸案だった“それ”を実行してみたのだけれど。