タケノスケの話は、まだ続いている。
しばらく鳥になったり人になったりといった生活を続けるうちに、やがてそこにある法則があることに気づいた。
境目はどうやら、日の出と日没らしい。
それを境に、昼間は鳥の、夜間は人の姿に変じるということが判った。
ただしそれは同時に、自分の意思で変化することはできない、ということでもあった。
けれど、少なくとも一日の半分は人に戻れるのだ、ということが判ったのは大きな収穫だった。
これで何とかなる、と思ったのだ、そのときは。
野生動物には夜行性のものが多い。
それはつまり、自然界においては昼間よりも夜間のほうが気を抜けない時間帯なのだ、ということでもある。
クマやヤマイヌなども厄介だが、ヘビやヒルといった小動物にも悩まされた。
森の中では、人ができることなんてたかが知れている。
ヤマイヌより早く走ることも、サルのように自在に樹上を渡り歩くことも、ましてや鳥のように飛ぶことも、できないのだから。
火を使えなければ、人はなんと脆弱なことか。
郷に居たころには思いもしなかった現実に、困惑した。
「ここは人間が生きていけるところではない」。幻紅鳥がそう言っていたのを思い出した。
留守居どころか、身を守るだけで精一杯だ!
自然と、日が暮れる前に安全な場所に移動し、夜が明けるまでじっと身を隠している…ということが習慣となった。
その間にできることなど、ほぼ無いに等しい。
持ち物といえば、身に着けている着物くらいだ。
郷に居たころから、照明用の油を節約するために日没後は早々に就寝するという生活を送っていたから、おのずと時間の使い方も決まった。
鳥の姿で活動し、人の姿で眠る。
ようやくそう割り切れるようになったころには、季節がひとつ移ろっていた。
飛ぶことを楽しいとようやく思えるようになったのも、この頃である…。
「ああ、それで君が来るのはいつも日が暮れてからだったんだね。」
「はい。」
このころになると、タケノスケの話し方は普通の人間と遜色ないほどにまで回復していた。
ここで話が一段落したのか、少年はようやく息をついた。
そしてすっかり冷め切ってしまった茶に手を伸ばす。
火の使えない生活を長年続けていたせいなのだろう、やはり彼の舌にはぬるい茶のほうがなじむようだった。
一口、二口とのどを通っていく人間世界の飲み物に、少年は(無意識なのだろうが)目を閉じてしみじみと幸せそうな表情をした。
「ところで、」
どうやらタケノスケの「誰かに話したい」という欲求がある程度満たされたようだと判断し、今度は学者が口を開いた。
どうしても訊きたかったことがある。
「…その、君が幻紅鳥とやらと交わした約束…百年の奉公ってやつは、いったいいつ終わるんだい?
ウメキチさんは僕が子供のころに、八十二歳で亡くなっている。
だから、残りはそう多くないと思うんだけど…。」
問われて、タケノスケはやや表情を曇らせて視線を落とした。
あれだけ長時間しゃべり続けたというのに姿勢が崩れていないのは、過酷な生活でずいぶん体を鍛えられたというのもあるのだろう。
「それが…わからないんです。」
最初のうちは、冬を越した数を丁寧に数えていた。
けれど悠久なる時を刻んできた原生林での生活は、季節の変化はあっても年ごとの変化は非常にゆるやかで。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。
毎年毎年同じことのくり返し。
時の流れを実感させるには、そのサイクルは単調に過ぎて。
三十を越えたあたりから正確な数はわからなくなってしまった。
…ちょうどこの頃、自分がこの森へ来たときから一切歳を取らなくなっていることに気づいたのも、関係しているのかもしれない。
いったい自分は今何歳なのか。
それすらわからなくなっていた。
「そうか…。」
「でも、もう、いいんです。」
予想外の言葉に、学者は目を見開いた。
少年の表情は、先ほどとはうってかわり、とても穏やかなものになっていた。
すでに何かを達成したような、ある種の満足感のようなものが漂っている。
それが逆に、学者に妙な胸騒ぎを覚えさせた。
「いいって…よくないだろう、君自身のことだぞ?」
「…じつは、このもりにきてからずっと、しんぱいだったんです…。
げんこうちょうは…ちゃんとやくそくをまもってくれたのか。
おとうとはたすかったんだろうかって。
…じぶんでたしかめに…いくことはできないし、かわりにみにいって…おしえてくれるだれかもいなかったし。
でも…。」
空になった湯呑みを両手のひらの上でもてあそびながら、タケノスケは静かに答えた。
「あなたたちがきてくれた。
あなたとむすめさんが…いまここにいること。
それこそが、おれがいちばんしりたかったこと…しりたくてしりたくてたまらなかったことへの、いちばんの…
なんていえばいいんだろう…
…そう、こたえ…だったんです。
だから……。」
「願いはかなえられたと判ったから、もう思い残すことは無いと?」
「…ほかにねがいがあるわけでもないし。
それが、げんこうちょうとのやくそくだから…。」
せりふにも表情にも気負ったところはまったく感じられず。
少年(という表現が当てはまるのかどうかよくわからなくなってきた)は心底そう思っているのだと知り、学者はしみじみと嘆息した。
でも、とも思う。
先日の握り飯の一件といい、先ほどの茶のことといい。
人間として生まれて、人間として育ってきたのなら、人間らしく生きたいと思うのが普通なんじゃないだろうか。
少なくとも自分はそう思うし、彼のような境遇に置かれたとしてもそうしようとするんじゃなかろうか…と思う。
それとも、自分が生きてきたよりもはるかに長い時間をすごしてきたタケノスケだからこそ、そういう心境に至ったのか。
「…それでも判るんであれば、それに越したことは無いだろう?
…そうだな…この前娘とも話していたんだが、もしかしたら親戚の誰かが、ウメキチさんから当時の事を聞いているかもしれない。
そのあたりのことも含めて、本家のほうに問い合わせてみるよ。
君が家を出た年が判れば、今年が何年目なのかも判るはずだからね。」
今度はタケノスケが目をしばたかせる番だった。
その様子に、学者はいたずらっぽく笑ってみせた。
「おいおい、ウメキチさんの子孫は僕たちだけじゃないんだよ?
僕の父は六人兄弟の三番目だし。
…確か、ウメキチさんの娘さんの一人はまだ存命だったはずだ。
ただ、高齢になっているはずだから耳も遠くなっているだろうけどね。」
あんぐりと開いた口はしばらく閉じるのを忘れていたかのようだったが。
少しうつむくと、タケノスケはくしゃりと笑顔を浮かべた。
それはとても幸せそうな……容姿のことを忘れれば、好々爺という表現が最もぴったりくる笑顔だった。
「ありがとうございます…こんなによくしていただいて……。」
「そんな他人行儀にしないでくれ。
言っただろう、僕たちには血のつながりがあるんだから。」
深々と頭を下げたタケノスケに、学者は苦笑して首を振ったのだが。
「……?」
下げたまま一向に面を上げない…どころかぐらりと上体が傾き、タケノスケの額が食卓についた。
そのまま全身から力が抜けていくのが、はっきりと見て取れた。
「たっ、タケノスケ君!?」
あわてて立ち上がり駆け寄ると…タケノスケは安らかな寝息をたてていた。
ただ眠っているだけだと知って、学者は胸をなでおろし、そして小さく苦笑した。
今しがた本人から聞いたばかりではないか。
「日が暮れたらさっさと寝ることにしている」と。
日没からずいぶん時間が経つ。
学者自身の就寝時刻もとっくに過ぎているのだ、タケノスケにとってはそれ以上に「とんでもない夜更かし」だったのだろう。
それだけ「聞いてもらいたい」という欲求が強かったということでもあるのだろうし、また話し続けるという行為は存外体力を消耗するものでもある。
その寝顔はとても穏やかで、彼の中に「張り詰めていたもの」の一部がわずかでも取り除かれたことを示しているかのようでもあり。
なにより、長い間野生生活を送り続けてきた彼が、寝姿をさらすほど自分たちを信用しきってくれているのが、嬉しかった。
とはいえ。
「……さて、どこに寝かせるかな…。」
ぼりぼりと頭をかき、室内を見渡す。
彼自身も、周辺調査のために一日森を歩いて帰ってきたのだ。
くたびれているのは同じ。
先日の寝袋は、残念ながら屋外の物置の中に片付けてしまっているし。
…やはり取りにいくしかないか。
大判のタオルを持ってきてかけてやると、学者は屋外へと通じる扉に手をかけた。
近々、布団をもう一式用意しないといけないな、と思いながら。