何しろ炊事担当が行方不明になっていたのである。
残り物で腹を満たすと、疲れきっていたのだろう、ミコは箸を置く前にもう夢の世界へと落ちていってしまった。
「こんなおてんばに育てた覚えは無いんだがな。いったい誰に似たんだか。」
娘を寝台に寝かしつけて戻ってきた父親は、そうぼやくと食卓の自分の席に腰を下ろした。
やかんから急須に湯を移し、茶を淹れなおす。
その正面の席にはタケノスケが、先日と同じようにちょこんと座っていた。
ただし、あのときと少し違うところもある。
少年は、椅子の上にきちんと正座をしていた。
ひざの上に両拳を置き、まっすぐに植物学者のほうを見ている。
そんなにかしこまらなくてもいいんだよ、と言ったのだが、タケノスケは姿勢を崩そうとしなかった。
裏を返せば、それはつまり…彼には(少なくとも今の時点では)屋内に留まる意思がある、ということになる。
足を折りたたんで座るということは、逃げ出す用意をしていない、ということでもあるのだから。
「まぁ元気でいてくれるのが、もちろん一番なんだけどね。」
しばらくミコの部屋へと続く扉を見つめていたタケノスケであったが、湯気の立つ湯呑み(こちらも先日と同じく、花柄が施されたミコのものだ)を差し出されると、正面に顔を戻した。
「…おっと、少し冷ましたほうがよかったかな?」
問われて、首を振る。
手に取ろうとして…容器の表面温度が思ったより高かったのか、思わず引っ込めてしまった。
「…しかし…参ったなぁ。」
こちらは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく湯気が立つ茶を飲むと、父親は小さく嘆息した。
「こういうことになるだろうから、ここへ来ることになったとき、あの子は親戚に預けてくるつもりだったんだけどね。
…ついてきてしまった以上仕方が無いけど、でも僕も仕事があるから、四六時中ついていてやることもできないし。」
そのあたりの経緯は、タケノスケも以前ミコから聞かされていた。
「見たところ、君は森での生活に慣れているようだし。
迷惑でなければ、そのあたりの心得みたいなものを教えてやってもらえるとありがたいんだけれども。
お願いしてもいいかな?」
それに関しては異存が無いらしく、少年はこっくりとうなずいた。
今日はたまたま近くを通りかかったから、騒ぎに気づいて駆けつけることができたけれど…。
「ありがとう。
でまぁ、そのことも含めてだね…。
前にも言ったけど…どうだろう、ここで僕たちと一緒に暮らさないか?」
まるでアルコールと肴に見立てているかのようにかりんとうの缶(あれから見つけ出したらしい)を差し出しながら、父親は続けた。
見慣れない黒い物体を前に、タケノスケは不思議そうに首を傾げた。
その仕草はどこか鳥めいていて。
それが、彼が置かれている(であろう)境遇の複雑さを暗に物語っていた。
「そのほうが、君にとっても都合がいいように思うんだけれども。
なに、部屋のことは心配しなくても…。」
かりんとうに手を伸ばしかけていたタケノスケだったが。
父親の言葉に、手が止まった。
何か考え込むように、じっと何も無い卓上の一点を見つめている。
何か思い悩んでいるのか、愁眉を浮かべていた。
室内を照らすランプのオレンジ色の明かりが、柔らかく二人を包んでいる。
その光の中で、タケノスケは卓上から視線をはずした。
「ああいや…嫌なら別にかまわないよ。
君には君の事情があるんだろうし…時々遊びに来てくれれば、それで…。」
「あの………。」
視線を伏せたまま再びこぶしをひざに戻し、タケノスケがようやく口を開いた。
対し植物学者のほうは、それまでよく動いていた口をつぐむ。
そしてじっと次の言葉を待った。
それからさらに三呼吸ほどして。
おもむろに少年は面を上げた。
何かを決意したまなざしに、父親のほうもまた、無意識のうちににわずかに気構える。
「………きいて、くれ…ます…か……?」
それは、彼が今まで聞いた少年の言葉の中で、最も力強い響きを備えていて。
改めて居住まいを正すと、父親は静かにうなずいた。
おそらくこの一言を口にするのに、かなりの迷いと勇気を要したのだろう。
だからこそ言葉だけでなく、その黒い瞳にも強い意志の光が灯っているのが、こんなにもはっきりと見て取れる。
昼間はさんざん周辺の調査に歩き回り、帰宅後は娘の捜索でまた歩き回り、加えて食後である。
疲労と満腹感から体は休みたがっているけれども。
それでも、父親はじっと、少年の言葉を待った。
今、このときでなければ、駄目なのだろうと、そんな気がしたから。
少年は一度こぶしを強く握ると、とつとつと話し始めた。
――自分が、今ここにいる理由を。
弟ウメキチをおぼれさせてしまった責任は自分にあること。
願いをかなえてくれる仙鳥の話を思い出し、弟を助けてほしいと頼むために、着の身着のまま黙って家を飛び出してきてしまったこと。
願いをかなえてもらえる代わりに、森の留守居――百年間奉公をすると幻紅鳥と約束したこと。
「からだをあず…かる、というこ…とは………、ぬけがら…になったとり…のからだに…わる…さをされない…よう……ばんをする…ことなんだと、おもっていた…んです。だけど……。」
気がつくと。
自分の姿は幻紅鳥のそれに変わってしまっていた。
あわてて仙鳥(の魂)を探したが、呼んだそれは鳥の鳴き声にしかならず。
そのときになって初めて『体を預かる』ということの本当の意味を知った。
これから百年間、鳥として生きていかなければならないのだろうか。
けれど、その条件で構わないから願いをかなえてほしいと頼んだのは、まぎれもなく自分のほうだ。
これで弟の命が助かるのなら安いものじゃないか、と。
そう思い直すのに、丸一日かかった。
これからどうすればいいんだろう、と途方に暮れているところをヤマイヌに襲われた。
何とか逃げられたが、まず自分の身を守るのが先決だということを思い知らされた。
飛び方は、少し練習したら覚えられた。『体』のほうが知っていたからだろう。
そうこうしているうちに、日が暮れてきた。
身体的にも精神的にも、すっかりへとへとになっていた。
とにかくどこか安心して休めるところを探さないといけない、と思った。
どこかに身を寄せて、これからのことをゆっくり考えよう。
そう思っていた矢先。
胸の奥に、うずくような感覚を覚えた。
だがそれが何かと考えるより先に、目の前が真っ白になった。
そして再び視界を取り戻したとき…目に入ったのは紅色の翼ではなく、人間の手だった。
何の前触れもなく、自分は人の姿に戻っていた。
…歓喜したのは言うまでもない。
ふらつく足を引きずり、とにかく野宿できそうな場所を探す。
体の大きさが違うからなのか、それとも疲労によるものなのか、おそらくその両方なのだろう、人に戻った途端体が二倍も三倍も重くなったように感じた。
わずかな斜面に、人一人分ほどのくぼみを見つけ、そこにもぐりこんだ。
春先の夜はまだ寒い。
火鉢が恋しくなり、火を熾(おこ)そうと思い至った。
きしむ体に鞭打って周辺を探し、焚きつけと火打ちに使えそうな石を用意した。
だがいざ火を熾し、炎を目の当たりにした途端、言い知れない恐怖に襲われた。
郷に居るときは何とも思わなかったオレンジ色に揺れる炎が、今はひどく禍々しく恐ろしいものに映り、『受け入れられない』という感情に支配された。
衝動的に、せっかく熾した炎に土をかけて消してしまっていた。
もう二度と火を使えないんじゃないか。
その事実は、姿が変わったことの次に衝撃だった。
人が人たらしめるものの一つが火である、と小さいころから教えられていたからである。
暖が取れないこと以上に困ったのが、調理の問題だった。
火が使えないのであれば、食べ物も生で食べるしかない。
しかし睡魔は待ってくれない。
結局もう考えることすら面倒になって、周りからまだ腐っていない表層の落ち葉をかき集めると、そのままくぼみにもぐりこんで眠りに就いた。
翌日。
目が覚めると自分はまたあの鳥の姿になっていた。
昨夜人に戻れたのは夢だったのか、それとも今の自分の状態こそが幻によるものなのか、混乱は相変わらず続いていて、わからない。
ただひとつ確かなことがあるとしたら…強い空腹感を覚えたということだった。
何か食わねば、死ぬ。
しかし火を使えないのでは、果たして何を食べればいいのかわからない。
仕方がないので飛び方を覚えたとき同様『鳥』の本能に任せると、さまざまなものをついばんでいた。
「いろんなものを…たべました。……くさやきのみ…のほかに…も…、むしとかとかげとか……ちいさいへびなんかも……。」
だから先日ミコがくれたあの握り飯は、形はどうあれ、本当に「何十年ぶりに」に口にした人間の食べ物だったのだ。
それがどんなに嬉しかったか。
話をしているうちに、当時のことを思い出して感情がたかぶってきたのか、タケノスケの頬を二筋三筋流れていくものがあった。
が当人はそれに気づいていないらしく、それどころか身を乗り出すようにして話を続ける。
その様子に、植物学者は根気強く耳を傾け続けていた。
タケノスケの話は本当に、彼の常識を大きく凌駕(りょうが)するものばかりだった。
だが嘘をついている様子はないし、嘘をつく理由もない。
何より、彼が紅い鳥に変じる瞬間に立ち会っているではないか。
話の内容もそうだが、もうひとつ植物学者を驚かせたのは、話をしているうちに、タケノスケ自身に明らかな変化が表れてきたことだった。
最初はたどたどしく一語一語確かめるように発音していたのが、話が進むにしたがって徐々に流暢(りゅうちょう)になってきたのである。
とはいえまだまだ語彙(ごい)はとぼしいし、上手く表せないのかよく言葉に詰まるし、内容が前後したり、ろれつが回らなくなって学者が思わず助け舟を出したり…ということがたびたびあるのだが。
それでも、「日常会話」といって差し支えないほどに、少年の会話能力は驚くべき速さで回復しつつあった。
それはまるで、枯れたと思われていた井戸の底をちょっと掘り返してやったら泥水がにじみ出してきて、それがあれよという間にこんこんと湧き出すようになり、やがて透明度がどんどん上がっていくような、そんな印象を覚えさせた。
遠からず、飲用と呼んで差し支えないほどの透明度を取り戻すのではないか、そんな期待を抱かせる上達振りだった。
「話す」という行為が、タケノスケが人としての記憶を取り戻すのに大きく貢献しているんだろうな、と学者は思った。
逆に言えば、今まで彼と会話をするような相手は皆無だった、ということでもある。
ならば、ここで彼の気の済むまで話させてやったほうがいい。
だから、尋ねたいことができてもぐっと我慢し、ただし相づちだけはまめに返すよう心がけながら、聞き役に徹した。