朔(新月)を過ぎて間もないので、月明かりもそれほどあるわけでもなく。
太陽の光同様、木々の枝葉をぬってまでミコたちの元まで届くものはごくごくわずかで。
加えて明かりの用意をしてこなかったから、ここでタケノスケの姿を見失ってしまっては、今度こそ本当に遭難してしまう。
反面、タケノスケの足取りに迷いはほとんど無い。ように見える。
まっすぐに前を見たまま、でも時々ちゃんとミコがついてきているのか確かめるために振り返ってくれる。
夜目が利くのかもしれないが、それ以上にこの森を熟知しているということなのだろう。
だから、ミコは必死に彼の後を追った。
時々足がもつれそうになるのは、暗くて足元がよく見えないからだろうか。
でも足元を確認していたらタケノスケを見失ってしまいそうな不安に駆られて、とてもそんなことをしている余裕など無い。
[ここ、どこなんだろう…。]
あの小川跡から離れているんだろうな、というのはぼんやりわかったが。
昼間ずいぶん歩き回ったので、そもそも自宅からどれくらい離れているのか想像もつかない。
…もしかしたらこのまま夜明けまで歩きとおすことになるんだろうか。
夜の帳(とばり)が下りた森の中は、暗く長くどこまでも続くトンネルのようで。
どこまでもどこまで、永遠に続くんじゃないかという錯覚までしてきて。
そのあたりの暗がりから、何か――先ほどのクマとか、それよりもっと得体の知れないものとか、もしかしたらお化けとか怪物とか――が飛び出してきて、襲い掛かってくるんじゃないかという気までしてきて。
そんな考えにいたった、そのとき。
何かがミコの頬に、触れた。
「!!!!!!!!!!」
多分その正体はガか何かだったのだろうが。
悲鳴にならない悲鳴を上げ、ミコは駆け出した。
背負い袋だったものをその拍子に放り出さなかったのは、さすがといおうか。
すぐに何かやわらかいものに、どすんとぶつかった。
またしても心臓が止まりそうなほど驚いたが、それが驚き顔をしたタケノスケの背中だと知り、安堵する。
安堵するが、心臓はまだばくばくと脈打っていた。
少女がちゃんとついてきていることを確認し、少年はまたすたすたと歩き出す。
少女もまた、あわててそれを追いかける。
「あの……。」
思い切ってミコは声をかけてみた。タケノスケは足こそ止めないものの、わずかに顔をこちらに向けた。
「…………手をつないでも……いい……?」
ずいぶんあつかましい頼みだということは、自分でもわかっている。
彼が、自分たちとは距離を置きたがっているということも。
どうせ拒否されるだろうなと思いつつ、駄目で元々…と口にしてみたのだが。
意外なことに、タケノスケは明確に嫌がるそぶりはみせない。
と同時に、足を止める気配も無いのだが。
…これはどう解釈すればいいんだろう…??
迷った挙句、ミコは思い切って右手を伸ばしてみた。そっと彼の左手に触れてみる。
ぴくり、と小さく反応したが。
少年の左手は逃げなかった。
そのまま手をつなぐ。
てのひらのぬくもりが、じんなりと伝わってきた。
[あ…。]
そこに確かに存在するという、喜び。
あれほどはげしかった動悸が、穏やかになっていくのが自分でもわかった。
タケノスケは相変わらず振り向きも、歩みの速度を緩めたりも、ましてや声をかけてきたりなんかもしないけれど。
けれど。
手のひらの中に滑り込んできた少女の手を、握り返してくれた。
その力は存外強くて。
彼が夢でも幻でもなく、確かにそこに存在するのだということを、それだけで証明してくれているかのようだった。
と同時に、ミコ自身もまた不可思議な世界に片足を突っ込んでいるのではなく、間違いなく自分の足で大地を踏みしめているのだということを思い出させてくれた。
二人の間に言葉は無く、共にただひたすら足を動かし続けているだけだけれど。
なるほどこういうときは言葉なんて必要ないんだな、とミコは思った。
改めて、少年を見やる。
顔立ちや立ち居振る舞いから、自分よりやや歳嵩――十代半ばくらいだろう――であるという印象は、初対面のときと変わらない。
けれどこうやって並んで歩いてみると、印象とは裏腹に、思ったほど背は高くないのだなと今更ながらに気づかされた。
多分父親と同じくらいか、やや低いくらいなのではなかろうか。
といってもミコよりも上背があることには違いないのだが。
けれど、恰幅がいいとか太っているとか肩幅が広いとかいうわけでもないのに、その背中はずいぶんと広く感じられた。
つないでいる手の感触も、怪我の手当てをしていたときに感じたときのまま、やはりごつごつとしていた。
…年齢に不釣合いと思えるほどに。
やはり、日常的に鍬(すき)や鋤(くわ)を握っていた手なんだろう。
[そうだよね。見た目はどうだって、本当は曽々お祖父さんくらいの歳なんだもの。]
そう考えると、この頼もしさと寂しさとが同居したような背中にも、なんだか納得できる、ような気がした。
夜の森はまだまだ続いているけれど、どうしてだろう、手をつないだだけでこんなにも怖くなくなっている。
むしろ、夜明けまでこうやって導かれていたい、そんな気分になりかけていたころだった。
ふと、遠くで犬の吠え声がしているのに、ミコは気づいた。
聞き覚えがある。タローだ。
ということは……。
耳を澄ますと、犬の超えに混じって父親の声がかすかに聞こえた。
木々の向こうでちろちろと何かが光っているのも見える。
「パパだ!」
きっと自分を探しに来てくれたに違いない。
こちらから呼びかけると、気づいてくれたらしく反応があった。
光がまっすぐこちらに向かってくる。
「パパーっ!」
思わず光の方向に走り出そうとして。
ミコはあれほど強く握ってくれていた少年の手が、するりと逃げていくのに気づいた。
保護者に引き渡せれば、それで自分の役目は終わりとでも思ったのだろう。
だが。
反射的に、今度はミコのほうが彼の手を握り返していた。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからなかったけれど。
でも何かを感じてくれたのか、タケノスケは重心を移そうとしていた足を止めてくれた。
「ミコ!」
そうこうしているうちに、やがて二人の前に第三者と犬が現れた。
懐中電灯を手にした父親は肩で軽く息をしていた。
散々探し回ったのだろう、服のあちこちが土で汚れていた。
「どこに行っていたんだ、こんな遅くまで!」
予想と覚悟はしていたけれど、思ったとおり顔を合わせるなり父親に怒鳴られた。
思わず首をすくめる。
足元では、やはり興奮したタローが千切れんばかりに尾を振っていた。
「夜の森は危険だと、あれほど言っておいたのに!
帰ってきたら洗濯物は干しっぱなしだし、どこにも姿は見えないし、…どれだけ心配したか……!」
「ごめんなさい…。」
弁明の余地が無いほど全面的に自分が悪い。
それがわかっていたから、ミコは迷うことなく頭を下げた。
父親がどれほど心配していてくれたか、と思うとミコはとても申し訳ない気持ちになった。
何しろ父一人、娘一人という環境である。
自分だって、父親が何も言わずに忽然と消えてしまったら、心配で心配で寝られないどころか、食べ物ものどを通らなくなるんじゃないだろうか。
「まだ明るかったし、すぐ帰ってくるつもりだったの。
でも途中でどこにいるのかわからなくなっちゃって。
そしたら…タケ…お兄ちゃんが助けてくれたの。」
そこでようやく、父親は娘の傍らに少年がいることに気づいたらしい。
娘にはもう少し何か言いたそうだったが、出掛かった言葉を嘆息に変えてはきだした。
「…君がミコを見つけて連れてきてくれたのかい? ありがとう。」
今までの経緯から、タケノスケがミコを連れ出した…とは思われなかったらしく、ミコの父は少年に対しては険しい顔を向けなかった。
懐中電灯の光が、夜闇の中を泳ぐ。
娘の肩に父親の手が乗せられていた。
「怪我とかしていないかい? とにかく、家に帰ろう。
…タケノスケ君、君もおいで。」
これで自分の役目は済んだ、とばかりに無言で身をひるがえしかけた背に、父親の声が柔らかく触れた。
何も言わずに帰ってしまうんじゃないか、とミコは心配したが、予想に反して(?)タケノスケは父娘を振り返った。
もうすっかり暗くなっていて、着物の柄どころか足元の小石さえ判別がつかなくなっていたけれど。
弱い懐中電灯の光の中、少年の表情がぼんやりと見て取れた。
明らかに戸惑っている。
二呼吸ほどの間をおいて、少年はおずおずと口を開いた。
「こわく…ない……の……?」
「どうして?」
ごくあっさりと返されて、逆にタケノスケのほうが面食らったらしい。
目を丸くして、真意を測るかのように父親の顔を改めて見た。
「…君が何を心配しているのかは、だいたい察しがつくよ。
でもね、君はこうして娘を助けてくれたじゃないか。
間違いなく、君は僕たちの恩人だよ。
それに、」
一呼吸置くと、足元にまとわりついてきたタローに目を落とした。
白茶の仔犬はまるで自分の手柄だとでもいわんばかりに、誇らしげに太い尾をピンと立てていた。
「僕は神隠しだとか祟(たた)りだとか、そういった民間伝承めいたものにはあまり興味がないんだ。
それは裏を返せば、不信心ってことなのかもしれないけど。
だから…君に対しても、身内としての関心こそあれ、怖いとは思わないねぇ。」
「みうち……。」
「少し離れているから、僕たちの間柄をどう表すのかはわからないけれど。
でも、親戚には違いないだろう?」
口ぶりにも態度にも、その言葉を裏切るようなものは無く。
少年から張り詰めていたものが次第に薄れていくのが、ミコの目にもはっきりとわかった。
「…さぁ、一緒に帰ろう。」
促されて、タケノスケは驚くほど素直に、父娘の後に従ったのだった。