「……うう…っ……。」
小さなうめきを上げて、ミコはまぶたを開いた。
まず目に飛び込んできたのは、石ころとぼうぼうに枯れ草が茂った、地面だった。
角が取れて丸くなった卵大の石が、鼻先に転がっている。
「あー…。」
“落ちたんだ”ということは、直感的に悟った。
ということは…自分は倒れた状態なんだな、とどういうわけか他人事のように考えた。
ともかく起きないことには話にならない。
手をつき、上半身を持ち上げた。
言うまでもなく、服はひどいことになっていた。
あちこちに土をこすり付けたような跡がある…のはまだいいほうで、幾つか破れている箇所も見つけた。
あわてて体のあちこちを探ってみる。
ぶつけて青あざになっているところは複数あったが、幸い出血も、動かせないほど痛い箇所も確認できなかった。
落ち方が良かったのか、頭にはこぶもできていなかった。
胸をなでおろす。
「で。…ここはどこ…?」
体に異常が無いことを確かめると、ミコは改めて周囲を見やった。
そこは、周囲より人一人分ほど低くなった場所だった。
くぼみではなく前後にずっと続いているところを見ると…。
「川?」
だが、流れどころか水溜りすら見当たらない。
あるのはやはり丸くてごろごろした石と、ひょろひょろと伸びて風に揺れている草ばかりである。
かつて小川だったところが干上がった跡だ、とはすぐに判った。
多分地震か何かで、昔とは流れが変わったんだろう。
視線を土手から空に移し…ミコはとんでもないことに気づいた。
「やだ、わたしどれだけ気絶してたの!?」
相変わらず天気は良く、雲も少ししか見当たらない。
だからこそ…降り注ぐ太陽の光が、午後も遅くのものだということがはっきりと判った。
「まずい、帰らなきゃ!」
父親より早く家に戻らなければ、また要らぬ心配をかけてしまう!
大急ぎで土手を登らなければ…と目を移したところで。
ミコはもうひとつ重大なことに気づいてしまった。
自分が今居るのは、溝の底の真ん中あたり。
左右の斜面までは、ほぼ等距離と言っていい場所だ。
…はて。
自分が転がり落ちてきたのは、いったいどちら側の土手なんだろう…?
大慌てで両岸の土手に目線を走らせる。どこかに自分が滑り落ちた形跡は無いか!?
しかし時間が経ちすぎてしまったのか、どちらを見てもたいした違いはないように思える。
なぎ倒されたはずの植物たちも、自力で再び起き上がってしまったようだ。
「そうだ、目印!」
道々施してきた細工を逆にたどっていけば、自宅に帰りつけるはずである。
確か、落ちる少し前にも草を結わえた覚えがある。
再び両岸の土手を見比べ、多分ここだという直感に賭けてミコは斜面を登ってみた。
「うっ。」
斜面を登りきると、当然だがそこからまた森が始まっている。
しかし森の中は…ミコが思っていたよりもずっと……暗くなっていた。
何しろ原生林である。
日の光は余すことなく生存競争激しい樹上の枝葉に受け止められており、地上まで届くのはほんのわずかだ。
ゆえに闇に包まれるのも町のそれよりずっと早い。
足元を見失うほどにはいたっていないが、それとて時間の問題であろうことは、わずか一月ほどの森暮らしでも十分すぎるほど知っていた。
迷っている時間は無い。
大急ぎで目印を探しにかかる。
けれど、結わえ付けたはずの草の色は、夜の色へと変わりつつある森のそれにすっかり溶け込んでいて、容易に見つからない。
……いやそもそも。
本当にこちら岸で合っているのだろうか。
もしかしたら自宅はこちら側ではなく、反対側のほうなんじゃないのか。
そんな不安が、巨大な津波のようにミコにのしかかってくる。
「どうしよう…どうしよう……。」
こんな小川跡があることなんて知らなかった。
父親と散策したときには、こんなものには出くわさなかった。
ということは、あのとき巡った一帯よりもずっと遠くに来てしまっている…ということになりはしないか。
だとしたら、もし父親が自分の不在に気づいたとしても、果たして探しに来てくれるかどうか……。
次から次へと押し寄せてくる不安。
悪い考えばかりがまとわりついてきて、追い払おうとしても逆に膨張していくばかりで。
それでも助けが期待できない以上、自力で何とかするしかない。
萎えそうになる心を何とか鼓舞し、とにかく目印を探す。
探す。
探す。
しかし目当てのものはなかなか見つからない。
時間だけがどんどん経過していき、周囲も急速に明るさを失っていく。
日暮れが近い。
ついにミコは手近にあった木の根元に座り込んでしまった。
これといった外傷は無かったし、それに伴う痛みでもない。
あざになった場所が痛いのは事実だけど、動けなくなるような怪我じゃない。
彼女の足を止めたのは、単純に疲労だった。
そして腰を下ろしてはじめて、家を出る前から何も食べていなかったことを思い出した。
…そして思い出したとたんに、猛烈な空腹感も覚えた。
[そうだ、おにぎり持ってきたんだったけ…。]
自分でも驚くほどのろのろと背負い袋をおろし、口を開き…。
「……え?」
目が点になった。
…なんか、底に穴が開いてるんですけど……。
ついでに、中身も少し減っているような…気のせいじゃないよねこれは…。
森の中を進んでいるときに引っ掛けて開けたのか、転がり落ちたときに飛び出したのか。
さらには、背負い袋の側面にぶら下げてあった鈴まで行方不明になっている有様で。
いずれにせよ、袋の中に目当てのもの…握り飯の包みは見当たらない。
……無いとわかったら、余計にお腹が空いてきた…………。
[ああ、何で探検になんか出てきちゃったんだろう、わたし……。]
せめてタローがいてくれたら、もう少し違っていただろうに。
いまさら自分のうかつさを後悔しても始まらないとはわかっているけど。
けど。
[ここで死んじゃうのかな、わたし……。]
そしたらもうパパには会えないな。
ああこんなことなら、もっとパパに優しくしておけばよかった。
ひざを抱えてうずくまる。…もう立ち上がる元気も出ない……。
[ごめんねパパ。先にお母さんのとこ行ってる…。]
“ソウマトウ”なんてものが何なのかはわからないけれど、もう少ししたら出てくるのかな、なんてことをぼんやり考え始めたころ。
がさり、と突然背後の藪から物音がした。
ぎょっとして面を上げる。
何かが藪(やぶ)を掻き分ける音、なのだろう。
そしてそれは一時的なものではなく、今もまだ続いている。しかも…少しずつ移動しながら。
まずい、と直感した。
相手はまず間違いなく生き物だろう。
おとなしい生き物ならいいが、普段はおとなしくても何かの拍子に怒ったりして一時的に凶暴になることはよくある。
たとえば、町の友人が飼っていた老ネコとか。
ともかく、逃げたほうがよさそうだ。
破れた背負い袋を抱えると、ミコはそろり、と腰を浮かせた。
立ち上がりたいけど、どういうわけか足に力が入らないので、立てひざをついて移動を始める。
その間にも、藪の物音は続いていて。
[お願い、来ないでえぇ…。]
心の中でそう叫んだそのとき、ずりずりと動かない足を引きずって前進する彼女のすぐ後ろに、それは現れた。
タローと同じくらいの大きさで、タローよりもう少しずんぐりとした、黒い毛のかたまりが、二つ。
もこもことぎこちない足取りで無邪気な鳴き声をあげたそれは、森の素人であるミコにも一目でわかる生き物であった。
[クマ…仔グマだ……!]
二匹の仔グマはふんふんと鼻を鳴らしながら、気づいていないのかまっすぐミコのほうへとやってくる。
その片方の、頬にくっついている白いものに気づいて、ミコは愕然となった。
[わたしのおにぎり、食べたんだ……!]
ということは。
この二匹は「おかわり」を求めて握り飯に付いていたミコの匂いをたどってきた、ということなんだろうか……??
でもまだ安心はできない。
森の素人ではあっても、動物好きのミコは、知っていた。
春先に山中で仔グマに出会うのが、いかに危険なのかということを。
そして、事態はまさしくミコが「そうであってほしくない」方向へと展開した。
雷のような咆哮とともに、ミコより一回り以上大きな“それ”が仔グマたちに続いて飛び出してきたからである。
「ひいっ……!」
もう足どころか、体がすくんで動かない。
小さな子供を抱えている親は、人間も動物も関係なく神経質になっているものだ。
反して子供のほうはそんな親の気持ちなど露知らず、好奇心のままに動くのもまた然(しか)り。
特に野生下の動物は、子供に近づくものは何人たりとも容赦なく排除にかかる。
…近づいてきたのは仔グマたちのほうだが、母グマの目にはそうは映らなかったようだ。
おそらく握り飯を見つけた時点から警戒していたのだろう。
咆哮が生暖かい体温と獣特有の体臭を伴って、ミコの耳に届いた。
容赦などしない。
警告も無い。
姿を現すと同時に、激情のあまり目を血走らせた母グマは、唇をめくり牙をむき出しにして、まっすぐに仔グマのそばにいるもの――ミコに向かって突進してきた。
我が子に害なすものは問答無用に力づくで排除してやるという、母の激しい誓い。
その動きが、ミコにはどういうわけかやけに緩慢に見えた。
緩慢に見えるのに、やはり自分の体も動かなくて。息をするのも苦しく感じられる。
それは長く長く、もしかしたら永遠に続くのではないか、とミコに錯覚させたほどで。
[こ……殺される……!]
もう駄目だ。
観念してぎゅっと目を閉じた、そのときだった。
ホイッスルのような大きく力強く鋭い鳴き声が、ミコの耳をつらぬいた。
どこか命令でもするような、威圧と威厳に満ち、聞くものの魂を揺さぶるような、“叫び”。
続いてもうひとつ別の気配が、右手側から飛び込んできた。
厚く積もった落ち葉の上を駆ける足音は、ミコの目の前で止まったようであった。
母グマが興奮したうなり声を上げる。……手を伸ばせば届いてしまいそうなほど、ごくごく間近で。
再び、あの鋭い叫びが上がった。こちらはさらに――クマよりももっと近くで、である。
それは、ほんの一声でしかなかったのだけれど。
状況を動かすには十分すぎるほどの効果があったようだ。なぜなら……いつまでたっても、痛い思いどころか、何も体に触れてこないのである。
[…………?]
恐ろしくはあったが、それ以上に何が起こっているのか知りたくて。
ミコは恐る恐る、固く閉じていたまぶたをそおっと開けてみた。
そこには。
彼女があれほど捜し求めていた、紅い背中が、あった。