あれから十日ほどが過ぎた。ミコは十二歳になった。
季節は足踏みすることなく、確実に緑色を深めていた。
今年芽吹いた若葉も次第に幼さが抜けて、どれも一人前然とした大きさと硬さと色とを備えていく。
風に乗ってさまざまな鳥の声がしきりに聞こえてくる。
それはパートナーを求めてのものであったり、あるいは自分の縄張りを主張するものであったり、またあるいは男同士の戦いの前哨であったり…と理由はさまざまだが。
いずれにせよ、姿は見えなくても森のそこかしこから響いてくる命の讃歌は、ミコにも十分肌で感じることができた。
けれど。
あの少年――タケノスケはあれから一度も姿を現していなかった。
先日現れたときも数日間を開けてからのことだったので、あせらずに待てばいいのかもしれないとも思うものの。
互いに肉親だと判ったというのに、どうしてまた黙っていなくなってしまったのか、というやるせない思いもぬぐえないでいた。
……この広い森の中、いったいどこで、どうしているのか。
家の南側、二本の木に渡したロープに洗濯物を干していた手を止めて、ミコは小さな嘆息とともに空を仰いだ。
ここまで気持ちよく晴れたのは、久しぶりである。
周囲を森の木々に囲まれているため全天を見渡すことはできないが、それでも見える範囲の空は、雲の白よりも圧倒的に青い色が占めていた。
「…どうして、一緒にいられないの?」
知らないうちに、何か嫌われるようなことでもしてしまったのだろうか。
でもあの日、そんな感じは受けなかった。
いやそれとも、自分の素性を知る者がいたということが、彼にとって不都合だったのか。
どちらにせよ…水臭いという思いがある。
[…そりゃ、鳥に変身するって知られたら、気まずいって気持ちはわかるけど…。]
その件について、ついにパパが認めてくれたというのは、ミコにとって大きな収穫であった。
あの日自分が見た光景が、夢想などではなかったということが証明されたわけである。
が、肝心のタケノスケがいないのであれば、そんなことはほとんど意味を成さないのも事実で。
[…だから、帰ってしまうの…?]
よほど深い事情があるんだろうということは、今までのいきさつだけでも十分にわかる。
鉄の塊が空を飛んで海を越えてよその国まで飛んでいってしまうようなこの時代に、神隠しとかタイムスリップとか、ましてや変身などといった“非科学的”事象の大行進だなんて、ここへ来る前であったなら笑って全く相手にしなかったに違いない。
だけど……。
気まぐれに訪れた風が、洗濯物とミコの髪を静かに揺らした。
春真っ盛りの中を駆け抜ける風は、冷たくも生暖かくも、ましてや湿った重さも無く。さわやかな肌触りをしている。
そしてこの森も。
都会の、いや人の営みから遠く隔絶された世界であるこの森という空間は、ミコが今まで経験したことの無い空気に包まれている。
それは単に、町育ちの自分がこの豊かな自然に慣れきっていないだけなのかもしれないけれど。
自分には霊感というものは無いと思っているが、それでも漠然とではあるが、ここには“不可視の何か”が満ちているような気が、する。
霊力のある森、とでもいうんだろうか。
そんなところだから、どんな不思議なことがあったとしても、すんなり受け入れてしまえそうになる。
……タケノスケが神隠しに遭ったことも、時代を超えてミコたちの前に現れたことも、そして…鳥へと変身することも。
だからこそ。
[会いたい。]
そんな気持ちが日に日に強くなっている。というか、とにかく放ってなどおけない。
彼が背負っていると思しき『何か』をひっくるめて、受け入れる用意が、自分にも父親にもあるのだということを、伝えたい。
空から視線を戻すと、ミコは足元にあった洗濯かごを手に取った。
中身を取り出し空になったかごが、持ち手の接続部分で小さく文句を言っている。
家の中は静かだ。
というのも、父親は朝からタローを伴って森へ出かけているからである。
ついていくつもりだったが、今日は少しばかり危険なところへ行くから駄目だと言われた。
夕方には帰ると言っていたので、おとなしく家事をしてすごすつもりだったのだが。
「もうやること無いんだよねー…。」
洗い物も掃除も洗濯も終わった。
通っていた学校の先生が自分のためにわざわざ作ってくれた“個人学習用問題集”も、今日の分は済ませてしまった。
リスは夜行性の動物だから昼間は寝ているので、チャップも構ってくれない。
引っ越してくるときにラジオも持ち込んだのだが、電波が届かないらしくどんなに頑張っても一局も拾えない…というのは初日に確認済みだった。
要するに。
「ひまー……。」
こんなにお天気が良いというのに、家でじっとしていなければならないなんて。
[……家で?]
ここでふと、ミコはあることに思い至った。
父親には「ついてくるのは駄目」とは言われたけれども、「家で留守番していろ」とは言われていない。
……まぁ、そういうことだ。
せっかく新しい環境に移ってきたというのに、よく考えたら近所の“探検”をまだしていなかったとは、我ながらうかつだった……と思う。
引越し直後に、周囲の環境を確認するため父親と二人連れ立って散策はしたけれども、それは“探検”とは言わないのだ。少なくともミコにとっては。
そんなわけで、背負い袋に握り飯と水筒と、あとその他ちょっとしたものを入れて、ミコは家を後にした。
遠出するつもりはない。ちょっと近所を回ってくるだけだ。
ほんの少し、近場を回ってくるだけ。
…それこそ、近道だとか秘密の抜け道だとか、役に立ちそうなもののありかとか。
そんな些細な発見がしたいだけ。
…もしかしたら、“彼”も近くに来ているかもしれないし。
大丈夫、日が暮れる前には帰ってこられる。
明るいうちなら、道に迷わない自信がある。
というかそれ以上家から離れないよう常に注意していられる。
ロバ(モモコと命名した)は柵で囲った運動場に放してある。
獣よけに、モモコの首にはヤギ用の大きな鈴だって下げてある。
…大丈夫だよね、今の時期なら森に食べ物がいっぱいあるから、クマとかヤマイヌとかも来ないよね。
すぐ戻ってくるから、大丈夫大丈夫。
自宅がある森の中の広場から一歩出ると、そこはもう“人間の世界”ではなくなる。
そのことをミコは改めて実感した。
なにしろ、地面が平らではないのだ。
単に“平坦ではない”というのであれば、家の周囲だって例外ではない。
でこぼこしていて、手押し車だって一歩進むごとにがたがたと大きな音を立てる。
だが“人の手が全く入っていない原生林”は、当然だが手押し車の進入そのものを拒否してしまう。
人間の都合など全く考慮してくれないのだ。
まっすぐ足を下ろせる場所のほうが珍しい。足首はたいていどちらかの方向に曲がっている。
昼日中ということも会って、昨年の落ち葉が厚く敷き積もった陣には木漏れ日がそこここに降り注いでいるが、そんなところにはほぼ間違いなくと言っていいほど、新しい緑が芽吹いていた。
ここは限られた光を少しでも求めて、より広い場所を確保しようと、静かだが激しい戦いを繰り広げられている戦場でもあるのだ。
そんな中を、ミコはゆっくり、だが確実に、歩を進めていた。
森で出会うのは植物たちだけではない。
葉を食べるもの、空を舞うもの、それらを捕獲するもの、擬態するもの、攻撃するもの、さまざまな虫たちもまた別の戦いを日夜繰り広げている。
大きなヤスデをうっかり踏みそうになったり、足元に気をとられて頭から大きなクモの巣に突っ込んだり、果てはシャクトリムシが袖の上に落ちてきて思わず悲鳴を上げたり…といった目にも遭いながらも。
ミコはそれでも、足を自宅のほうに向けようとしなかった。
[だって、これこそが“探検”じゃないの!]
むしろわくわくどきどきが増している。
何しろ小さなころから父親にくっついてしょっちゅう里山を散策していたミコである。
この程度でへこたれていては、“女の子”など勤まらない!と思っているくらいだ。
(このあたりは男性陣の目には賛否両論あろうが、そのあたりに気が回るほどミコ自身が「敏感」ではない、というのも原因のひとつなのかもしれない。)
そして。
[鳥さん…タケノスケさんは、ずっとこんなところで暮らしていたのかな…。]
そう思うと、これくらいで音を上げるのは恥ずかしいとさえ思う。
だって、ただ“通る”のと“暮らす”のとでは、やはり雲泥の差があるから。
[最近は来なくなっちゃったけど…でも最初のうちはちゃんと毎日通ってきてくれていたんだもの。
…きっとそんなに遠くないところに住んでいるはずだ。]
父親とも何度か探しに来たことがあったけど、あのときは彼を見つけることはできなかった。
でもそれはきっと探し方が悪かったんだろう。きっとそうだ。
だから、今日はそのとき探さなかったところを探索してみよう。
きっとどこかに、あの人が踏み固めた道か、うまくすれば生活の跡みたいなものがあるはずだから。
それさえ見つけられれば…。
倒木を越え、コケの生えた石の上を滑らないように気をつけて踏みしめ、鋭い葉やトゲで服のあちこちを…時には背負い袋を引っ掛けながら、ミコは太古からの営みを今も続けている世界を、進んでいった。
行けども行けども景色が変わらない…と感じるのは、やはり新参者だからなのだろうか。
道に迷わないように、目印になるような特徴のある石や樹などの形を覚えつつ進む。
そういったものが見当たらないときは、足元の草を引っこ抜いて、木の枝に結びつけた。
これはいつも父親が山中の散策をするときにやっていたことである。
彼は草ではなくひもを結んでいたのだが、うっかり用意してくるのを忘れてしまったので…パパごめんなさい。
そんなことをしながら半刻ほど“探検”を続けたころだろうか。
どこまで行ってもやっぱり人の気配を感じられる場所に出くわすことができず、だんだんと気分が萎えてきた。
それは言い換えれば、注意が散漫になっていたということでもあり。
「あっ!」
と思ったときには、視界が大きく横転していた。
続けて全身に襲い掛かる、衝撃。
ミコの体は斜面を転がり落ちていた。