春とはいえ、夜の森は冷える。
火の始末を終えて寝静まった屋内もまた例外ではない。
明け方ともなればなおさらで。
書斎にはもうひとりが横になれるスペースなど用意していないので、父親は寝袋を居間に持ち込んでいた。
冷気が入ってくるので、玄関扉は閉めてある。
それでも夜明けの冷え込みは、眠りの中にある父親を目覚めへと引き戻そうとする。
睡魔と冷気の狭間で、ささやかな抵抗と寝返りをうつ。
わずかに意識が表層へとあがってきた彼の耳に、遠く犬の鳴き声が聞こえてきた。
確かにタローは就寝前に表へ出したけれども……。
しかしいったん気になりだすと、犬の声が耳についてはなれなくなり。
父親はわずらわしげに大きく息を吸い込むと、渋々うっすらとまぶたを開いた。
何かが目の前を横切った。
それが何なのか、半分以上眠った頭では即座に判断できなかった。
「何か」は物音を立てないよう注意しながら、静かにゆっくり歩いていく。そして…玄関扉の前で止まった。
しばし考え込んでいるようであったが、内側からの鍵として用いている掛け金を、やはり音を立てないようにそっと外す気配が耳に届く。
そのときになってようやく、父親は何が起ころうとしているのか悟った。
慌てて身を起こ…そうとして、自分が寝袋の中にいることを思い出した。軽く床に頭をぶつける。
掛け金が外れ、玄関扉が静かに開いた。ぼんやりとしたあかりが室内に差し込んでくる。
黎明の色に、父親は思わずまだ明るさに慣れていない目を細めた。
「どこへ行くんだい?」
そう声をかけるのがやっとだった。
しかし相手はそれが耳に届かなかったのか、振り返ることなく屋外へと歩み出ていた。
タローの吠え声はまだやまない。
「待って…待ちなさい…あっ。」
……何しろ、寝袋なんてものをまともに使ったのは今夜が初めてで。
タケノスケを追おうにも、うまく寝袋から出ることができない。
芋虫よろしくその場でもがく羽目になってしまった。
それでも何とかかんとか抜け出し、わき目も振らずに玄関へと向かう。
「タケノスケ君!」
思った通り、家の外は夜明け前の薄ぼんやりとした明るさに包まれていた。
森の木々も、折り重なった黒い陰の連なりから、徐々にその一本一本が自分の色彩を取り戻しつつある。
ぴんと張り詰めた早朝の空気の中、緩やかに右方向へカーブを描いている小道上に、ゆっくりと歩み去ろうとしている少年の後ろ姿が目に入った。
走らないと追いつかない距離だ。
「いいんだよ、君はこの家にいて、いいんだよ。」
その声が届いたのか。少年の足がふと止まった。
肩越しに振り返ったその顔がちらりと見えた、そのとき。
強い光が正面から突然差し、植物学者は視界を失った。
「!?」
日の出の方角を向いているのは確かだが、朝日にしてはそれはあまりにも力強くて。
再び物を視認できるまで回復するには、少しばかり時間を要した。
代わりに耳に届いたのは……羽音だった。
力強く羽ばたく音が、静かな朝の中に、妙に大きく響く。
「タケ…。」
ようやく視力が戻ってきた。しかし、少年の姿が無い。
慌てて周囲を見回してみるが、それらしき影すら見当たらず。
小走りに彼を見失ったあたりに近寄ってみたが、春先の森はまだ葉が生い茂りきる前で身を隠せる場所などありそうで存外ないというのに、あの短時間で一体どこに姿を消したのか、それらしき気配すら見つけることはできなかった。
「…………。」
言葉を失い、ふと目に見えて明るくなりつつある空に目を向けると。
薄青い空の中に、遠ざかっていく紅い後ろ姿が目に止まった。
豊かな尾羽と目の覚めるような紅い色。イヌワシと見まごうほどの大きく力強い翼。
見覚えがあるのは当然で、しばらく前に怪我していたのを保護した後逃げ出した、あの鳥に相違ないというのは直感だった。
ふと、娘の主張が脳裏に蘇る。
「……まさか、な。そんなことって……。」
―――――
『ねぇ、タケ兄ちゃん。』
『うん?』
『……冬になったら家を出るって、本当……?』
『…………誰に聞いたんだよ、そんなこと。』
『…ショウ兄さんと姉さんが話してるの聞いちゃったんだ…昨夜。』
『ふぅん……。』
『ねぇ、嘘だよね。ずっと家にいるよね?』
『……本当だよ。』
『えっ。』
『稲刈りが終わって、秋祭りが済んだら…家を出る。』
『…………。』
『そんな顔するなよ。
家を出るっていったって、三つ向こうの村に行くだけなんだからさ。』
『十分遠いじゃないか!』
『まぁ確かに近くはないけど。
でも、その気になれば行き来できない距離ってわけでもないだろ。』
『そうだけど…。
……あっ、じゃあ兄ちゃん、本当に絵描きになるんだ!』
『違うよ。……そんな金、どこにあるってんだよ。
あったら…とっくに兄さんも姉さんも結婚してるだろうに。』
『…あきらめるんだ……。』
『…兄さんにも『夢を見るのは寝ている間だけにしろ』って言われたしな。』
『…じゃあ、働きに出るんだ…。』
『あのなぁ。うちは小作だぞ。
…兄さん、何も言わないけど。あんな小さな借り物の田んぼで稲作って、そこから小作料納めて。
それで三人も養うなんて、もともと無理なんだよ。
…なら、口減らしは早いほうがいいに決まっているじゃないか。』
『……そうかもしれないけど…。
でもあそこの村だって、ここと同じで田んぼと畑ばかりのところでしょ。
どんな仕事があるっていうの?』
『知らないのか?
あそこには紙漉きをやっている家が何件もあるんだ。』
『! 兄ちゃん、紙漉き職人になるのか?』
『…土いじりで食っていけないのなら、手に職をつけるしかないからな。』
『……。でも、小作人が職人になんて……。』
『あっちの紙漉きやっている家のひとつにさ、去年一人息子を病で亡くしたってところがあって。
それで、跡継ぎになる養子を探しているって話があって。』
『兄ちゃん、まさか……。』
『俺、頑丈さには自信あるし。細かい作業とかも好きだし。
兄さんの負担を減らせて、技術を身につけられて、お金まで稼げて、それでもって向こうは跡継ぎもできて。
こんな良い話、他にあるもんかい。それに…。』
『……それに?』
『どうせ一人前になるには何年もかかるんだ。
…少しでも早く一人前にならなきゃいけないのは当然なんだけど。
でも、それまでは到底商品にならないような失敗作を、何枚も何枚もこしらえることになるはずだ。
そしたら……それにだったら存分に絵も描けるだろう?』
『兄ちゃん…。』
『お、やっと笑ったな。
まぁ全部に描いたらさすがに見つかって怒られるだろうから、たまにしかやれないだろうけど。』
『じゃあ兄ちゃんは、絵を描く紙が欲しいから、紙漉き職人になるのか。』
『…いや、別にそれが目的ってわけじゃないけどな。
一人前の紙漉き職人になって、お客さんに名前を覚えてもらって。
もし名指しで注文が取れるようになれたら、それはすごいことだと思わないか?』
『うん、すごいよね。
そしたら、この郷にも兄ちゃんのうわさは聞こえてくるようになるよね。』
『ああ。そうしたら、兄さんや姉さんにも恩返しが、きっとできると思うんだ。』
『……僕たちがいなかったら、ショウ兄さんも姉さんも、もっと楽な暮らしができていたはずだもんね。
……そっか。じゃあ、こうやって兄ちゃんと山菜採りに来られるのも、今年で最後なんだね……。』
『そういうことになるかなぁ。
でも、二度と会えなくなるわけじゃないんだから。
…さ、そろそろ山を降りないと、日が暮れるまでに帰れなくなっちまうぞ……。』
―――――