「どうやら落ち着いたようだな。眠ったよ。」
後ろ手にそっと書斎の扉を閉めると、そう言って父親は自分の椅子に腰掛けて待っていた娘の元へとやってきた。
「そう…。」
「彼が普段どこで寝泊まりしているかは知らないが、今夜はこのままうちに泊めよう。」
椅子を引き目の前の席に腰掛ける父に、ミコは頬杖をついたまま目を向けた。
「……訊きたいことが山ほどある、って顔だな。」
「当たり前じゃない!」
なにしろ、どれもこれも寝耳に水と言っていい。
自分の先祖の詳しい話を聞いたのも初めてなら、この森に来てから関わってきたあの少年が実は親戚(それも四代も前の)だったと言われて、にわかに信じられるはずもない。
とにかく頭の中は疑問符だらけなのに、疑問符だらけだからこそ何から訊いていいのかわからないのだ。
口を尖らせ、小鼻にしわまで寄せている娘に、父親は小さく嘆息した。
「…とりあえず。
どうしてパパは鳥さんの名前知っていたの?
どうして教えてくれなかったの!?」
「…鳥さん、ではないんだがなぁ…。」
「だって! わたしはちゃんと見たんだもん、この目で!
あの紅い鳥が変身してあの人になったの、目の前で、見ーたーのー!
本当の本当に、嘘じゃないもん!!
パパだって、同じところ怪我しているの何度も見てるでしょっ!?」
「こら、そんな大きな声を出したら……。」
たしなめられ、ミコはようやく口を閉じた。
「彼が変身するしないという話は、今は横に置いておこう。ややこしくなる。」
「それ抜きにしたって、十分すぎるくらいややこしいよ……。」
行儀悪く食卓の上に上半身を投げ出し、足をぶらぶらさせたら、父親の足に当たってしまった。
「僕だって、確信があったわけじゃない。
ただ…あの絵にあれだけ強い関心を示す人物となると、持ち主だった曽祖父さん以外だと、やはり描いた本人であるタケノスケさんくらいしか思いつかなかった。
もう一人のお兄さんであるショウタロウさんの子孫には、僕も会ったことがあるしねぇ。
僕と母さんの結婚式に招待したから。」
「でもそのタケノスケさんって人は、わたしの曽々お祖父さんのお兄さんなんでしょ?
だったらもっとずっとうんとお爺ちゃんじゃなきゃおかしいんじゃないの?」
ミコが自分の手をあごに当てて、長い長い髭をしごくようなしぐさをしてみせた。
昔話に出てきそうな、地面にまで届きそうな長いあご鬚の老人を想像しているらしい。
「でもあの人…はどう見たって、わたしとそんなに変わらないよ?
…そりゃ、着ているものは随分古めかしい感じだったけど…。」
「そこなんだよなぁ…。」
すっかりぬるくなってしまったお茶をまずそうにすすりながら、父親はそんなに高くない天井を見上げた。
「あれだけはっきりと肯定したんだから、やはりタケノスケさん本人であることは間違いないと思うんだよ。
けど…僕が聞いていた話と照らし合わせても、彼の姿は行方不明になった当時とほぼ変わっていないように思えてならないんだ。
それこそ…タイムスリップでもしてきたみたいに。」
せっかく沸かしなおしたやかんの湯も、同様にすっかり冷めてしまっている。
そしてミコにはもう沸かしなおす元気は無かった。
父には潔くあきらめてもらおう。
「まぁその辺りのことは、やはり改めて彼に話を聞くしかないんだろうな。
…身内だと判ったなら、なおさら放っておくわけにはいかないし。」
「でもパパ。鳥…タケノスケさん、だっけ。
あの人、ずっと口利いてくれなかったんだよ?
今日、初めて『ありがとう』って言ってくれたけど、それだって随分たどたどしかったし。」
だから、ものすごく嬉しかったんだけれども。
「…タケノスケさんに言語障害があったとは、聞いてないけどねぇ。
何か精神的に強い衝撃を受けて突然話せなくなる、失語症というのは聞いたことがあるけれど…。
あるいは…。」
「あるいは?」
「……ほら、山の中や人里離れたところに一人で住んでいる人たちには、無口な人が多かったりするだろう?
人と話す機会が少ないと、だんだん無口になるらしい。
その可能性もあるね。」
ふとミコの脳裏に、最初に保護した日の少年の姿が蘇った。
「それって…ずっと長いこと一人ぼっちだった……ってこと…?」
「ここから一番近くの町でも、この森の中に他に人家があるという話は聞いてないよ。」
だから口車に乗せられて、そこで予定以上に生活物資を買わされる羽目になったのだが。
…とはいえ、備えあれば憂い無しとも言うし、買わされた本人はあまり気にしていないようだ。
「ともかく、彼がこちらの言葉を完全に理解できて、なおかつ話せないわけじゃない、ということは判っているわけだから。」
今夜彼が訪問してきた目的は、(手土産持参だったことから考えても)ミコにお礼を言うためだったのだろうし。
「…ふるさとから姿を消してから、何があったのか。
どうして今になって僕たちの前に現れたのか。
そのあたりのいきさつは、彼が言葉を取り戻すまで辛抱強く待つしかないかな。」
「……。ねぇパパ。」
同じように自分の湯呑み(機会を逃したのか、タケノスケはまだ手をつけていなかったようだ)に手を伸ばし、娘は小さな水面に映る薄いランプの色に目を落とした。
「わたしたちも知りたいこと訊きたいことはいっぱいあるけど。
でも同じように、あの人も知りたいことはいっぱいあると思うの。」
ようやく来月十二歳になろうというミコには、四代にも渡る長い長い年月など、到底実感できようもないほど途方も無い時間で。
そしてその間ずっとずっと、家に戻ることも、消息を誰かに伝えることも、できずにいるというのは。
一体どんな状態なんだろうか。
でも、ふと思った。
…町に居る自分の友人たちは、今頃どうしているだろうかと。
きっと次に会えるのは何年も先のことなんだろうなと思って、別れを告げてきたことを。
そりゃ、自分にはパパが居るし、まだこの森に来たばかりだから、そんなに深刻に感じていないだけなのかもしれないけれど。
でも、あの人は……。
「…あのね。
もちろんきっかけはあの絵だと思うし、あれ見つけるまでは普通に元気だったし。
でもね。パパが昔話したのが、一番の原因だと思うの?」
「あー…うん。」
まさか泣きだされるとは思わなかったが。
「だからね、責任を取るべきなんじゃないかと。」
「そりゃ身内だと判った以上、いや身内じゃなくてもこんなところで一人暮らしをしているようなら、やはり面倒は見るべきだろうし。」
「そうじゃなくって。
あの人が今、一番知りたいのは、『自分が居なくなった後のこと』だと思うの。
だってさっきのパパの話は、ものの見事にそれだったじゃない?
だから泣いたんだと思うし。」
「…そんなこと言われてもなぁ…。
僕が知っていることはさっき全部話しちゃったし……。」
「……そうなんだ…………。」
嘆息してミコはうつむいた。
…もうこれ以上、彼にしてあげられることは無いのだろうか。
その気持ちは父親も同じだったようで。
小さな沈黙が居間に舞い降りたが、ややあって小さく嘆息した。
「…よし、今度町に出るときに、本家のタエコおばさんに手紙を出してみよう。
さっきの話も本家で聞いたものだったし、もっと詳しいことがわかるかもしれない。
…信じてはもらえないだろうけど…まぁ手紙の理由は適当にごまかしておくさ。」
「パパ…!」
なるほど、その手があったか。
目を輝かせる娘に、けれど父は釘を刺すのを忘れなかった。
「ただし。あちらにも都合があるだろうから、すぐに返事をもらえるとは限らないけどね。
事によっちゃ調べる時間だって必要だろうし。
それは覚悟しておいてくれよ?」
ミコは大きくうなずいた。
「……さぁ、今日はもう遅い。お前も寝なさい。」
「うん…パパはどうするの?」
父親の寝台は客人が使っている。
「野歩き用に、知り合いから古い寝袋を譲ってもらってきたんだ。あれを使うよ。」