「いやだって、ちゃんと缶に入れて密封してあるから大丈夫だろう?」
「駄目だよ、アリんこはね、ちょっとした隙間からだってずんずん入ってきちゃうんだから。
町にいた時だって、ドロップの缶開けたらうわーー…ってことがあったもの。」
「それはお前、きちんと栓をしていなかったからだろう。」
「そんなことないよぉー……?」
父親の背中に文句を言っていたミコの横を、ふらりと少年が通り過ぎていった。
一瞬、帰ってしまうのではないかとひやりとしたが、少年が向かったのは玄関扉とは反対の方向――父親が探し物をしている棚のほうだった。
一点を見つめたままふらふらと、生気の無い足取りで父親の、さらに右手に向かう。
その様子に何やらただならぬものを感じ、二人はそのまま口論(と呼べるほどのものでもないが)を続けるのを忘れてしまった。
少年は棚の手前で足を止めた。
が、相変わらず何かを凝視している。
それは棚の一段に飾られていた、写真立てだった。
いかにも手作りといった風情の白木のフレームに、安物のガラスがはめ込んである。
ただし、中に飾られているのは写真ではなかった。
厚さが均等でないでこぼことした、明らかに失敗作然とした和紙の表面に、炭の粉で描いたと思しき細い線がたくさん走っている。
素描といっていいその絵に描かれているのは、ミコによく似た子供の顔だった。署名は見当たらない。
少年はしばしその写真立てをじっと見つめていたが、やがておずおずとそれを手に取った。
その間にも視線は一切外さない。
まるで、すぐそばにミコたちが居ることすら失念してしまったかのように。
写真立てを持つ少年の手が震えているのが、ミコの目にも明らかに判った。
「それが気に入ったのかい?」
少年の不思議な反応に少し戸惑いつつも、父親は少年に歩み寄った。
やはり少年は写真立てから目を離さない。
「それは、僕の曽祖父(ひいじい)さんの形見分けのときに、もらってきたものさ。
そこに描かれているのは、子供の頃の曽祖父さんなんだそうだよ。」
ぴくり、と少年の肩がわずかに揺れた。
が、話をしている本人はそのことに気づいていないようだ。
「曽祖父さんが亡くなったのは、僕がまだミコよりずっと小さかった頃なんだけどね。
両親に連れられて曽祖父さんの家に形見分けしてもらいに行ったときに、きれいな紙に挟んで丁寧にしまわれていたその絵をみつけて。
どうにも気に入ってしまって。
大人たちは不思議な顔をしていたんだけど、無理言ってもらってきたんだ。」
当時のことを懐かしむように、父親は小さく笑った。
「曽祖父さんは八十二歳で亡くなったんだけど。
あの当時でも八十二といえば大往生だよね。
…でも曽祖父さんは子供の頃に川で溺れて死に掛けたことがあったんだって。」
「あれ、パパ。私その話初めて聞くよ?」
「そうだったっけ?
まぁ勿論助かったからこそ、こうして僕たちが生まれて来れたわけだけれども。」
話が長くなりそうなので、ミコは父親の椅子に腰掛けた。
少年は相変わらず微動だにしない。
「…ただ、そのときに曽祖父さんのお兄さんが、行方不明になったらしいんだ。
ところが、まるでそれと引き換えみたいに急に曽祖父さんの具合が良くなったもんだから、周りの人たちは『お兄さんが身代わりになってくれたんだ』とか『神隠しに遭ったんだ』とか。
騒ぎになったらしい。」
寝入っていたはずのタローがおもむろに首を上げた。
ちらりと人間たちに目を向けたが、睡魔が勝ったのか大きなあくびをひとつすると、体の向きを変えてまた眠ってしまった。
「…けど、それっきり。
お兄さんは見つからずじまいだったそうだ。
曽祖父さんはそのお兄さんと大そう仲が良かったらしいから、ずっと気にしていたらしいよ。」
「へぇ、そんなことがあったんだ。」
「うん…。
で、その絵は、その神隠しに遭ったというお兄さんが、居なくなる前に描いたものなんだそうだ。
…その話は、学生時代に本家に顔を出したときに聞いたんだっけか。」
「ふぅん…。」
急に興味が湧いたのか、腰を上げるとミコは少年の手元をのぞきに右側から回り込んでみた。
引越しの荷物の中にあったその絵をこの場所に飾ったのは自分だが、そんないわくのあるものだとは知らなかった。
てっきり父親がどこかの蚤の市か何かで、自分に似た肖像を見つけたものだから気まぐれで入手したもの…くらいにしか思っていなかったのである。
「そうそう、もうひとつ面白い話があってね。
曽祖父さんにはもう一人別のお兄さんがいたらしいんだけど、三人の名前が見事に松竹梅なんだよ。
それで、記憶に残っていたんだな。
ええと…なんて名だったっけかなぁ。」
少年の手元の絵を見ようと、ミコが横から覗き込むと。
ぱたり。
何かが写真立ての上に落ちてきた。
水滴?
ぱたり。ぱたり。
立て続けに落ちてきたそれの元をたどると。
少年の頬を大粒の「何か」が伝っているのが見えた。
その理由が、ミコにはわからない。
ただ、少年の肩がそれとはっきりわかるほど震えているのには気づいた。
「曽祖父さんは末っ子だったから…………うめ…………そうだ、ウメキチだ。」
ようやく思い出した父親が嬉しそうに呟いたのが、引き金となったらしい。
ミコの耳に、ついに嗚咽が届いた。
ようやく少年の異変に気づいたのか、驚いた父親が視線を戻す。
涙は留まることを知らず。
父娘の目の前で、頬どころか写真立てといわず彼の着物の袖といわず、濡らしていく。
「え、なに? どうしたの?」
『鳥さん』の、こんな反応を見るのは初めてである。
どうしていいのかわからず、ミコはおろおろと、ただ声をかけることしかできなかった。
「どこか痛いの? この前の傷が痛むの?」
しかしミコの心配が届いているのかいないのか、少年からの反応は無く。
顔をゆがめ、ただひたすらにほろほろと涙を流すだけで。
「パパ…。」
困ったミコは、助けを求めて父親を見上げた。
あるいは男同士であればその理由が判るのではないか、という全く根拠の無い希望であるが。
さじを向けられた父親のほうも、困惑の度合いは同じであった。
ただ、涙の理由が肉体的なものではないことだけは、まず間違いないだろう。
では、感情的なものか。
今までそんなそぶりなど一切無かったというのに、どうしてこの少年は、この絵を見て泣くのだろう。
絵に感動している、というわけでもなさそうだ。
強いて言うなら…何か特別な思い入れがあるような、そんな感じである。
しかし、そうだとするならば。
この少年は…この絵の存在を予め知っていたということになりはしないか?
そこまで考えて、ふとある可能性が浮かび上がった。
[いや、まさかそんなことが…。]
けれどもしもそうならば。
つじつまが合いそうな気がする。
少年はいまだに例の絵をしっかりと手にしていた。
それをなだめようとしているミコもまた、困惑のあまり泣きそうな顔になっている。
自分でも信じられないけれど。
迷った挙句、父親はそっと震えている少年の肩に手をかけた。
「……もしかして。
君の名は…タケノスケというんじゃないのかい……?」
確信は半分以下だったが。
少年はうつむいたまま、これ以上ないというくらい大きく首肯し。
そしてそれと同時に、写真立て――ミコに似た少年の絵を掻き抱き、その場に泣き崩れたのだった。