「鳥さん!」
ミコの足元でタローが、こちらも嬉しそうに一声吠えた。
それにちょっと驚いたようだったが、少年は逃げなかった。
絣(かすり)の着物に裸足といういでたちも、いつもと変わらない。
この家は床が少し上げてあるので、玄関前に一段ある。
少年はその段の下にいたので、ミコとは目の高さがほぼ同じになった。
「こんばんは。いらっしゃい。」
目いっぱい笑顔になるのが、自分でもよくわかった。
彼の来訪をこんなにも心待ちにしていたんだなということを、改めて実感した。
が、同時にあることに気づいた。
「どうしたの? …また傷が開いちゃったの?」
父親の言うとおり、彼が顔を出さなくなったのが「怪我が治ったから」なのだとしたら、その彼が再び自分を訪ねてきたということは……。
しかしミコの気持ちを知ってか知らずか、少年はふるふると首を振った。
そして…胸の位置で両手に包み込むようにして持っていたもの(その時点までミコはそんなものがあることに気づかなかった)を、そおっと差し出してきたのである。
大きめの葉を何枚か使って包まれた、何か。
「? ………くれる、の……?」
戸惑いつつ尋ねると、少年、今度は首肯した。
受け取った葉の包みを、そっと開いてみると。
中から出てきたのは、ころころとした緑色のかたまり。それが五つ、六つ、七つほど。
「うわぁ!」
フキノトウである。ランプの薄くて黄色い光の中でも、採れたての新鮮なものだと一目でわかった。
フキノトウのてんぷらはミコの好物のひとつだから、喜びもそれだけ大きい。
ところが、『サプライズ』はそれだけではなかったのである。
礼を言おうと、ミコが口を開いたときだった。
「あ…………、」
全く同じタイミングで、少年もまた口を開いたのである。
驚いて口を閉じたのは、双方同じだった。いつもと同じ、妙な沈黙が訪れる。
タローだけが、不思議そうに両者の顔を見上げながら軽く鼻を鳴らしていた。
これがいつもだったら、沈黙に耐えられなくなったミコが先に口を開いてしまうんだけれども。
なにしろ、彼が自発的に声を発する機会はそう多くない。
だから、今日は待ってみようと思ったのだ。
……だって、明日も来てくれるとは、限らないから…………。
案の定、いつもと同じように少年の目がふらふらと泳ぎだした。
が、やはり今日はいつもと違っていた。
一度下を向いて呼吸を整えると、ぐいと顔を上げた。
そこには……ほんの数秒前までのおどおどした色が驚くほど鮮やかに、消えていた。
そして。
「……り、が……お…………。」
一生懸命口角を動かし、一語一語丁寧に、そう発音したのである。
そしてそれが、ミコが初めて聞いた彼の『言葉』だった。
…天にも昇る心地とは、このことを言うんだろうか。
別に愛の告白をされたわけではない。
ただ一言、それもつたない言葉で『ありがとう』と言われただけである。
なのに何故、こんなに嬉しいんだろう??
「…そのために、わざわざ来てくれたの?」
そう尋ねるのが精一杯だった。
返ってきたのは、首肯。
そして…やっぱり寂しそうなままではあったが、ほんの少しだけ、少年は笑いかけてくれたのだった。
こうだったらいいな、とミコが思っていた通りの、柔らかい笑顔だった。
「ありがとう…うれしい……。」
つぶやいて、思わず涙ぐんだ目じりをそっとぬぐう。
それを見て、少年は満足したらしい。
一度頭を下げると、そのまま踵を返そうとした。
その背中には、今度こそ別れを示す決意のようなものが現れており。
そのことに気づいたミコが思わず手を伸ばしたときだった。
「ミコ、まだお湯があるようならお茶を……。」
隣室から、父親が現れた。
その拍子に、少年の足が止まった。肩越しに振り返る。
父親のほうも少年の存在に気づいたようだ。一瞬目を丸くしたが。
「やぁ、こんばんは。」
何事も無かったかのように、植物学者は少年に声をかけていた。
道端で近所の知人に出会ったような、気負いの無い口調だった。
それもまた、幾分少年の緊張をほぐしたらしい。
「…久しぶりだから、良かったら君もお茶どうだい? うちの娘は、お茶を淹れるのが上手いんだよ。」
いつもと同じ、のんびりとした動作で食卓の自分の席に就く。
ミコが父親から再び少年に視線を戻すと。
少年はしばし迷っていたようだったが、再びミコのほうへ体を向けた。
そして。
ふらり、と自ら父娘の家のへと足を踏み入れたのだった。