次の日も。その次の日も。
いつもの時間になっても、どんなに夕闇の中に目を凝らしても、どこにもあの少年の姿を見つけられなくなってしまった。
「もう随分怪我の具合は良くなっていたからね。
…お前の言うとおりあの子の正体が『鳥』なのだとしたら、それこそ支障無く飛べるようになってもう怪我の治療に通ってくる必要が無くなった、ということなんじゃないのかい?」
「うん……そう…だよ、ね……。」
夕食の食器を下げた後の食卓で。
父親に軽く肩を叩かれ、小皿に乗った握り飯を見つめながら、ミコは力なくうなずいた。
三角にはやはりまだ程遠いけれど、それでも丸には大分近くなった、と思う。
毎日作っていれば、さすがに多少は上達するというものだ。
しかしその表面は、今日も既に乾燥し始めていた。
ちなみにタローはというと、もう随分前に部屋の隅で丸くなっていた。
一応玄関脇に犬小屋を設置してあるのだが、「鳥さん」来訪時に毎度大騒ぎしてくれるので、日暮れ前に屋内に入れておくようにしていたら、すっかりそれが当たり前だと思い込んでしまったらしい。
諦めてこのままにしておくか、それともいずれはけじめをつけて屋外に戻すかは、目下父娘で思案中である。
それはそうと。
「彼がどこから来たのかは知れないけれど。
でも、仲間のところへ帰れたんだとしたら、そのほうが幸せなんだと思うよ。」
「わかってるよそんなこと。わかってるけど…。」
それにしたって、何かしらそぶりくらい見せてくれたらよかったのに。
いやそれよりも。あの寂しげな顔を晴らしてあげることができなかったのが、ひどく心残りであった。
体の傷よりも、心の傷のほうが深く、また治りにくいものなのだと。どこかで聞いたことがある。
怪我が治って、また元のように飛べるようになったのなら、それは嬉しいことなんじゃないの?
でも、あの憂い顔と怪我の具合は、直接は関係なさそうだということもまた、ミコにはなんとなく察しがついていた。
では、彼は一体何を憂いていたのか。
仲間のことなのだろうか、それとも……。
「さぁ、もう遅いし、休みなさい。後片付けは僕がやっておくから…。」
あの少年が現れてからというもの、娘の精神的な浮沈が激しいことを、父は心配していた。
これでは彼も研究になど手がつかない。
言われて、ミコは重い腰を上げた。
確かにあの少年のことを案ずるあまり、父親にまで迷惑をかけるわけにはいかない。
これでは何のためについてきたのかわからないではないか。
「ううん、わたしがやるよ。パパのお仕事のために、ここに来たんだもの。」
無理に笑って腕まくりをしてみせる。
父親はわずかに表情を曇らせたが、そうか?と言って娘に任せることにした。
二人分だから、洗い物の量もそう多くない。水がめの中身も潤沢だ。
ただ、照明が少しだけもったいないな、とは思うが。
かめに溜めてあったとはいえ、水はそれなりに冷たく、柔らかかった。
少なくともミコの意識を強引に現実に引き戻すくらいには、手を冷やしてくれた。
何しろ人里遠くはなれた森の中である。
発電機が無いから当然電灯など使えない。
あかりと言えばかまどの火か、あるいはランプの炎か。
いずれにせよ燃料が要る。
焚き付けには豆炭を数袋持ち込んでいるし、いざとなったらなら周囲の森でなんとでもできるのだろうが、ランプの油は町まで買いに出なければならない。
一番良いのは大昔の人のように「日の出と共に起きだし、日の入りと共に床に就く」という生活なのだろうが。
生まれてこの方町中で「文明的な」生活を送ってきた父娘にとって、体に染み付いた生活のリズムを切り替えるのは、まだもう少し時間がかかりそうだった。
…いずれはそうすることになるんだろうけども。
ともかく、このところ夜更かしぎみだったのは事実だ。あの少年のことで父親の仕事も随分遅れているはずである。
それは申し訳無いと思っている。
そんなことを考えながらも手早く作業を済ませ、寝支度をするために隣室へ行こうと、ランプの栓に手を伸ばしたときだった。
ミコの耳に確かに届いた。かすかなかすかな、扉を叩く音が。
はっとして玄関扉に目を向ける。
何故か心臓がどきどきし始めた。
自分でもよくわからない間に、しばらく息を殺して様子をうかがっていた。
静寂。
[…やっぱり気のせいだったのかな…。]
妙な期待を抱いた分、反動も大きくて。
小さく嘆息し、ミコはもう一度ランプに手を伸ばした。
すると。
タローがのっそりと起き上がったのと、…再び扉を遠慮がちに叩く音がしたのは、ほとんど同時だった。
白茶の犬が、「開けないの?」と言わんばかりに軽く尻尾を振りながら飼い主の顔を見上げている。
再び心臓が早鐘を打ち始めた。
全神経を扉の向こう側に集中する。
間違いない、少なくとも何かの生き物の気配がする!
扉に飛びつきたい気持ちをを必死で抑えながら、ミコはゆっくりと近寄った。
「…鳥さん?」
扉の向こうに声をかけてみる。
わずかに動揺する気配が伝わってきた。が、遠ざかる様子は感じられない。
期待と不安がないまぜになったまま、緊張で震えそうになる手でそおっと扉を開けると。
そこには、扉からこぼれたランプのあかりに、まぶしそうに目を細めた少年の姿があった。