余計なことをして「鳥さん」の気分を害してしまったのではないか、と翌日も心配していたミコだったが。
杞憂だったようで、それからというもの、少年は父娘の家に毎日通ってくるようになった。
最近では父親が姿を見せていても、それどころかタローが傍に居ても、すぐには逃げ出そうとしなくなってきた。
犬を怖がっているわけではない、ようである。
ただ、いきなり吠えられたりすると身をすくめる場面は何度かあったが。
これはミコたちにとってもありがたいことだった。
何しろ若犬タローをおとなしくさせておくのは、なかなかに大変なことだったからである。
少年の怪我は、欠かさず治療を続けることができたこともあって、順調に回復していた。
とはいえ、完治したところで残念ながら傷跡は残りそうな気配だったが。
けれどそれは、ありあわせの薬と素人の治療では、仕方の無いことなのだろう。
扉を叩くことを教えたら、ちゃんと訪ねてくるとノックしてくれるようにもなった。
おかげで来訪時には互いに驚かなくて済むようになった。
また、日を重ねるごとにミコはいくつか不思議なことに気づいた。
ひとつは、少年が現れるのは一日一回、決まって日没後まもなくの時間帯だということ。
そして必ず、用事が済むとすぐに森の奥に帰ってしまうということ。
ひとつは、身につけているものが毎日全く同じものだということだ。
保護したあの日、初めて少年の姿を見たあの時彼が身につけていた絣(かすり)の上下。
足元は裸足だということも変わらない。
そしてもうひとつ。
相変わらず、少年は沈黙したままだということだった。
ときおり「あ」とか「う」とかいった呟きはもらすものの、それは言葉というには程遠く。
いまだもって彼が何を感じ、ましてや自分たちの事をどう思っているのか、ミコには量りかねていた。
その表情はいつも憂いに満ちた寂しげなものばかりだということも、彼女を戸惑わせている理由のひとつだった。
辛いのなら「来ない」という選択肢だってあるはずである。
でも、通ってくること自体は嫌というわけでもなさそうで。
それがますますミコを混乱させるのだ。
そして、少年は変わらず沈黙を保ったままで。
そのことにどうにも耐えられなくなってきたミコは、手当ての最中に自分のことを話すようになっていた。
父親は植物の研究をしている学者で、この森の草木を調査するために引っ越してきたのだということ。
自分はその身の回りの世話をするために、半分無理やりくっついてきたということ。
母親は病気で二年前に亡くしたということ。
兄弟姉妹はいなくて、自分は一人っ子だということ。
この森へ来るまではちょっと大きな町に住んでいて、父親はそこから電車に乗って研究室へ通っていたということ。
自分は町の学校に通っていて、仲の良い友人が三人いたこと。
得意な科目は、音楽と体育だということ。
あと、父親の影響で理科の特定分野も好きだということ。
「お手伝い」は昔からやっていたけれど、本格的に家事を覚えたのは母親が亡くなってからのことで、ほとんど近所に住んでいたおばあさんに教えてもらったのだということ。
タローはこの森へ来ることが決まったとき、父の知り合いのジュウキチおじさんから強く勧められて(そして半ば彼の家で生まれた子犬を押し付けられる形で)連れてくることになったのだということ。
その他にも、家の中にチャップという名のリスを飼っているのだということ。
チャップは母が他界したときに、寂しさを紛らわせようと父が都会のペットショップから取り寄せてくれた友人なのだということ。
しかしチャップは外国からペット用に輸入された種なので、この森の生態系に影響を与えないように、家の外には絶対に出せないのだということ。
…そういったことを、思いつくままに少年に語って聞かせた。
最初は、嫌がられるかな?とも思ったが、少年の方は特に嫌がるそぶりも見せず、じっと耳を傾けてくれているようだった。
少なくともミコにはそう見えた。
「鳥さん」ともっともっと仲良くなりたい。
あの哀しそうな顔が少しでも晴れて、できたらいつか笑ってくれるようになったら、いいな。
そんな日々が数日続いた、ある日。
突然、ぱったりと少年は現れなくなった。