大急ぎで薬箱の蓋を閉めると、少女は立ち上がった。
扉に手をかけようとして…まだそこに少年がいてくれていることを確認する。
「すぐ戻るから。絶対だよ?」
言い置いて、急いで中に入る。
扉のすぐ横には…やはり父親がいた。どうやら隙間から外の様子を伺っていたらしい。
いや別に覗き見をしていたわけでは…と訊いてもいないのに言い訳する父の横を、またしてもミコは素通りした。
かまどへ向かい、大急ぎで用意をする。
「お待たせ。」
またしても父親の前を素通りして表へ出たミコは、さすがに桶から立ち上がってはいたものの、少年がまだ居てくれていたことに安堵した。
あきらめ切れないのか、家の中でタローが鳴いている。
が、気にしてはいるものの、それが理由で踵を返す気配も無い。
タローが来られないことも解っているのだろうか?
でも、玄関扉よりは確実に数歩遠ざかった位置にいる。
必要以上に刺激しないよう気をつけながらミコは少年にゆっくり近付き、手にしていたものを差し出した。
「残り物で悪いけど…良かったら食べて?」
ミコが差し出したもの。それは小皿に乗った握り飯だった。
ただし形は三角というには程遠く、それどころか丸ですらなく、いびつな塊でしかない。
大急ぎで作ったから、海苔も巻いていない。
たまたま卓上に出ていた梅干だけはどうにか突っ込んだ。
「…お母さんみたいには、上手に作れないんだけど……。」
差し出された「飯の塊」を、少年はわずかに目を見開いて凝視していた。
いつの間にか、あれほど漂わせていた警戒色がほとんど消えている。
それは呆けたような、あるいは何かに思い至ったような、そして…何かを思い出そうとしているような、そんな表情だった。
そして、視線をミコに戻す。
その目には明らかに「何故?」と問いかけていた。
…少年の「意志」のようなものを、ミコはこのとき初めてはっきりと感じ取ることができた、と感じた。
「…お腹、空いてるんじゃないかと、思って……。」
しばらくの間、少年は動かなかった。視線があちこち泳いでいるのは、迷っているからなのだろう。
やっぱり駄目なのかな、とミコが半ば以上諦めかけたころ。
そっと伸びてきたのは、左手。
しばし躊躇したものの、握り飯はその手の中に収まり。
もう一度ミコと、それから玄関(の向こう側にいる父親だろう)をちらりと見てから、少年はそれをゆっくりと口元へと運んだ。
[食べてくれた!]
それは、昨日に続いて嬉しい発見だった。
なぜなら、野生動物はよほどのことがない限り食事している姿を人間に見せないことを知っていたからである。
一口目こそ何かを確かめるようにゆっくりと咀嚼していた少年だったが。
二口目には、まるで「何か」が外れたかのようにすごい勢いで握り飯をむさぼり始めた。
見開いた目には、今まであった戸惑いの色は完全に消し飛んでおり、代わりに……そう、例えるなら「生への渇望」みたいなものが強く浮かんでいる。
結局、怪我している右手まで使って、少年は半ば押し込むように一気に握り飯を食べきった。
両手のあちこちについてしまった米粒も、きれいに拾う。
握り飯が完全に消えてしまうと、少年は再びミコを見…すぐに視線を逸らした。
そのしぐさは、ミコの目には「思わず食べてしまったことに対する後悔の念」のようにも解釈できた。
再び奇妙な沈黙が、二人の間に舞い降りてきた。
[どうしよう、余計なことしちゃったのかな、あたし……。]
明らかに困っている様子の少年に、ミコの心臓が早鐘を打ち始めた。
もし人間から食べ物をもらうのが『鳥さん』にとって都合の悪いことだったのなら…………。
「あの…、」
「あ…………。」
不意に、ミコの耳に誰かの声が届いた。父親でも、自分のものでもない、『第三者』の声が、目の前から。
それが意味することに気づき、ミコが逸らしていた面を上げた、そのとき。
突然、鳥の奇声がさほど遠くないところでした。
鳴き声は一羽きりのものだったし、何かの異変を知らせるようなものでもなく、後から思えばそれは単に寝ぼけたカラスか何かのものだったのだろうが。
停止していた二人の時間を動かすには、それは十分過ぎるものだった、らしい。
弾かれたように我に返ると、次の瞬間に少年は身をひるがえして駆け出していた。
「脱兎」という表現が見事に当てはまるような後姿だった。
ただ…首をめぐらせたとき、彼の面にひどく悲しく寂しげなものが浮かんでいたのが、どういうわけかミコのまぶたに強く焼きついていた。