「それにしても、一体どこに行ってしまったんだろうなぁ。」
さらに翌日のこと。
やはり夕食の席で、植物学者はそう言って箸先で漬物をひとつ摘み上げた。
さすがにちょっと気になって、今日は仕事を午前中で切り上げて、午後からミコと一緒に周辺の捜索に出たのだ。
ミコは「鳥さん」と言っているけれども、彼にはどうしてもあの少年は人間以外の何者にも見えなかった。
先述の通り、この近辺には他に人家など無い。無かったはずだ。
この森は手付かずの自然が豊かに残っており、その分様々な動物が数多く棲息している。
それにはクマもヤマイヌもイノシシも、サルだって含まれている。
フィールドワークを主体とする彼は、身を守る都合上、そういった野生動物に関する知識を多く備えていた。
だから人が、それも何の装備も無い状態でこんな深い森の中で野宿をするのが、いかに危険なことなのかということを、重々承知している。
ましてやあんな酷い怪我をしていては、血の匂いが肉食獣を呼び寄せてしまいかねない。
あの少年がどこから来たのかは定かでないが。
ともかくそういう理由で、彼もまたあの少年を放っておくわけにはいかない、と思い直したのである。
が。
「それとも、どこかにご家族がいるんだろうか。」
「そんなふうには見えなかったよ…だってどう見ても大人だったじゃない。
そりゃ確かに、今の時期はどの鳥も子育て真っ最中のはずだけど。」
「子育てって…。」
…やはり娘はあくまでも、あの少年を鳥として扱っているようである。
「それよりも。あの怪我が治るにはまだしばらくかかると思うの。
一昨日だって、部屋の中だったけど右の羽をかばって上手く飛べてなかったみたいだし。」
昨夜のタローの様子を思い出し、ミコは深々と嘆息した。
嫌な思いをした場所で、あんなふうにいきなり犬が吠えて飛び出してきたら、ミコだって二度と近寄りたくなくなるだろう。
でも向こうから自分たちの元へ来てくれなければ治療はできないし、あの怪我はまだ放置してもいい段階まで回復しているとはいえない。
とにかくそのことが気がかりだった。
「あの鳥さん、何を食べているのか知らないけど。
飛べないと食べ物だって手に入らないよねぇ?」
自力で食料を獲得することができなくなった野生動物がたどる道は、ただひとつ。
「…きっと今頃、お腹も空いてるんだろうね……。」
心配で、今日は朝から食欲が無い。せっかく作った夕食も、ほとんど減っていなかった。
そんな娘の様子に、父親も軽く嘆息する。
勿論少年のことも心配だが、娘が気に病みすぎて体調を崩してしまうことのほうがよほど不安と感じるのが、親心というものだ。
「…ともかく、明日もう一度探しに出てみよう。
どちらにしろ徒歩なんだ、そう遠くないところに寝泊りする場所を確保している可能性が高いからね。」
そう言ってかまどにやかんを取りにいこうと腰を浮かせたときただった。
室内にいたタローが、勢いよく立ち上がった。
その一拍後に、タローが注意を向けている方向――居間に直結している玄関扉からごつん、と軽い音がした。
玄関扉といっても、部屋数の少ない元猟師小屋である。何の変哲も無い片開きの扉でしかないのだが。
ともかくその、主となる出入り口となる扉に何かがぶつかったような音がしたのだ。
いや、「ぶつかった」というより「軽く叩いた」ようにも聞こえた。
父娘は思わず顔を見合わせた。そして、そろって件の扉のほうに目を向けた。
また、扉から音がした。今度は軽くゆするような音。
それはとても遠慮がちで、扉越しであっても粗暴さは微塵も感じられない。
が、タローにはそんな機微は理解できなかったようである。
扉に向かって、これが平素なら百点満点をつけたくなるような凛とした声で、一吠えした。
途端に、扉をいじっていた音がぴたりとやんだ。
人間二人が目配せしあう。
「ほら、タロー。」
父親が犬の首輪を掴んで引き寄せたのを確認して、ミコはそっと扉に近寄った。
わずかに、扉の向こうに生き物の気配を感じる。
「鳥さん? 来てくれたの?」
驚かさないように、自分でこれ以上は無いと思うほど柔らかく、問いかけてみる。
気配は、逃げなかった。
確信した。
「パパ、タローをわたしの部屋に入れて。
鳥さん、今開けるね。」
「さぁ、タロー。おいで。」
言われるまま、父親は隣室に白茶の犬を押し込んだ。
閉め出しをくらってタローは怒ったように何度か吠えたが、父親が少し扉を透けて軽く叱ると、ちょっと悲しげな表情をして吠えるのをやめた。
番犬は吠えるのが仕事なのだから、こんな仕打ちは矛盾していると二人とも思ったけれど、仕方が無い。
驚かさないように、とミコがそっと玄関扉を開けると。
はたして、そこにはあの少年がいた。いつもの絣の着物姿である。
開いた扉から室内照明が、すっかり薄暗くなった屋外に向かってさっと差し込む。
それがまぶしく映ったのか、少年は半歩身を引いて顔を背けた。
「あっ、ごめんね。」
慌てて扉を細めると、ミコは昨日と同じように薬箱を持ってきた。
「こんばんは。ちゃんとこっちから来てくれたんだね。」
昨日「玄関から来て」と言ったら、本当に玄関側に訪ねてきた。
やはりこの少年は人間の言葉を完全に理解している。
…でも何故、ノックはしてくれなかったんだろう? ノックをしてくれれば、もっとすんなり開けたものを。
昨日より少し細くなった月は、ようやく木々の隙間から顔をのぞかせようとしているところである。
手元を照らすには不十分だ。
仕方が無いので、玄関扉を指二本分ほど透け、そこから漏れてくる光を頼りに、薬箱を開いた。
「さ、そこに座って?」
ミコが示したのは、玄関脇に伏せて置いてあった木製の桶だった。
これも先人の置き土産だが、雨ざらしになっていたためか持ち手が腐って取れていた。
一応洗って乾かしてあるが、直して使うか、あるいは諦めて植木鉢代わりにでもするか、迷っていた代物である。
戸惑っていたようだが、昨日より幾分素直に、少年は少女の言に従った。
その正面に、ミコがひざをつく。実際、このほうが作業しやすい。
手順は昨日と同じだったし、何より少年がおとなしくじっとしていてくれたので、手当てはあっという間に終わってしまった。
「まだふさがってはいないけど、でも随分良くなってるよ。これなら…。」
包帯を留めて、面を上げると。
またしても少年と目が合った。
どうやら作業の間ずっとミコ(の後頭)を眺めていたようである。
それも、何か深刻に考え込んでいるような表情だった。
が、ミコが顔を上げたのに驚き、反射的に身をのけぞらせてしまった。
「あっ。ごっ、ごめんね。びっくりした?」
慌てた拍子に、ミコも少年の手を離してしまった。
しかし当然というか、少年は彼女の問いに肯定も否定もしなかった。
ただ、黙って今巻いてもらった腕の包帯へと視線を落とした。
ともかく、これで今日の用事は済んだわけである。
けれどミコは、このまま少年を帰してしまうのはなんだか勿体無いような気がした。
せっかく知り合えたのだから、やはり仲良くなりたい。
「そうだ、ちょっと待っててくれる? いいもの持ってくるから。」