ようやく暗さに慣れてきた彼女の目に、昨日のあの少年の姿が映っていた。
いでたちも昨日とそっくり同じ、絣の短衣に袴(はかま)そして素足のままだ。
少年もまた、ミコの顔を見つめている。
…相変わらず油断無く身構えているようだが、それでもこちらに関心があるのだということはよくわかった。
[本当に、野生動物みたい。]
「寒いでしょう? 入って。熱いお茶淹れるから。」
扉を大きく開き、室内に手招きする。
しかし少年は何故か、それには応じようとしなかった。
もじもじとその場で足踏みをするものの、どうもガラス戸の内側に入るのを戸惑っているようである。
それで、思い至った。
「あ、入りたくないのなら、そこで待ってて。今お薬取ってくるから。ね?」
何しろ、昨日あれだけ怖い思いをさせてしまったのだ。
この部屋に恐怖心が残っていたとしても不思議ではない。
ミコとしても、少年にこれ以上不快な思いをさせたくなかった。
踵(きびす)を返すと、ミコは大急ぎで居間に戻った。
自家発電機は持ち込んでいないので室内照明はランプしかないから、今度はすんなり明るさに順応した。
まっすぐ戸棚に向かい、薬箱を取り出す。
「ミコ、もしかしてあの子が……。」
「そう、昨日の鳥さん。」
短く応えると、娘はさっさと父親の前を通り抜けて、隣室にとって返した。
状況がさっぱりわからない父親もそれに続く。保護者として、親として、それは当然のことだったのだが。
あっさり娘に拒否された。
「パパやタローが来たら、びっくりして逃げちゃうかもしれないじゃない。
せっかく来てくれたのに…。」
仕方が無いので、父とタローは引き続き扉の向こうで待機である。
ただ、すぐに飛び出せる用意だけはしていた。
…娘はああ言っているけれども、やはり昨日のあの紅い鳥と、あの少年が同一であるとは、どうしても信じられなかった。
もしも万が一、あの少年が娘に危害を加えるようであれば…と気が気でない。
そんな父親の心配などつゆ知らず、ミコは何の迷いも無く開け放したままになっていたガラス戸を抜けて、テラスに出た。
屋外に出ると、月明かりが存外明るいのに気づいた。
空を仰ぐと、まだ西の方角がほんのり明るい空に、満月を少し過ぎた月が東から昇ってきたところだった。
少年はやはりテラスにいた。が、もう随分端である。
彼の中で葛藤があったらしいということは、ミコの目にも明らかだった。
苦笑すると、ミコはその場に腰を下ろした。傍らに薬箱を置く。
「お薬持ってきたの。ガーゼと包帯も換えるから、こっちに来て?」
少年に手招きして、少女は薬箱のふたを開けた。
こちらから近づいたところで、少年は逃げてしまうに違いない。
あの少年の正体が鳥であるのなら、なおさら。
生まれてこの方、何かと動物と触れ合う機会の多かったミコは、そう判断した。
辛抱強く、向こうから近付いてきてくれるのを待つしかない。
少年はというと、そんなミコの態度に戸惑いを覚えているようで、わずかに視線を泳がせた。
どうやら、ミコの背後に別の人間と犬がいることに気づいていて、そちらも気になるようである。
「タロー? 大丈夫だよ、パパが捕まえてくれているから。こっちには来ないよ。」
言いつつ、ミコは薬箱の中から薬と換えのガーゼとはさみを取り出した。
「雲が無くてよかった。これなら明かりつけなくても、よく見えるもんね。」
準備が整うと、少女は再び面を上げ、「ね?」と軽く首を傾げてみせた。
それで観念したようである。
少年はそろりそろり静かにミコに近寄ると、彼女の前にしゃがみこんだ。
完全に腰を下ろしてしまわないのは、いつでも逃げ出せるよう用心しているからなんだろうな、とミコは思った。
ふと、少年とミコの目が合った。
吸い込まれそうな黒い瞳に、少女の姿が映っている。
その眼差しが、昨日のものとは随分異なっているように感じた。
確かに、怯えと警戒の色はまだ拭われることなく残っている。
けれどそれ以上に、なんだか寂しげな、そして何かを問いかけるようなものに変化していた。
ふわり、と夜風に少年の髪が揺れた。
「ざんばら」といっていい中途半端な長さの髪は、あの目の醒めるような羽毛の紅ではなく、月明かりの下でもはっきりと判る、ミコと同じ黒い色をしていた。
風の音に我に返ったのか、少年は困ったように視線を外してしまった。
おどおどとした様子は、再び野生動物然としたものに戻ってしまっている。
代わりに唇がわずかに動いたような気がしたが、そこに音は乗っておらず、読唇術の心得の無いミコには彼が何を言おうとしているのか理解することはできなかった。
「包帯は持ってきてくれた?
さ、薬を塗るから手を出して…。」
言われて、少年はおずおずと右手を差し出した。
…どうやら人間の言葉を理解できるようである。
それはミコにとってとても嬉しい発見だった。
が、今はその喜びをぐっと我慢する。
下手に騒いでまた少年を驚かせてしまったら、今度こそ本当に逃げ帰ってしまいそうな気がしたのだ。
昨日保護したとき、傷口は右の翼の比較的付け根に近いあたりだったから、着物の袖を肩までまくりあげなければならないとばかり思っていたのだが。
少年が差し出した右腕には、肘よりも手首に近いあたりに、半分取れかけたガーゼが必死にしがみついていた。
…どうやら包帯を巻き直すのには失敗し、諦めたようである。
どきどきする胸を必死に落ち着かせながら、ミコは少年を驚かさないよう、そっとその手を取った。
温かいな、というのが第一印象だった。
いかつさとは縁遠い顔立ちに反して、ごつごつとした手。
よく見ると小さな傷の痕があちこちにある。
腕は思っていたよりも太く、がっちりした筋肉が付いている。
どこかで見たことがあるな、と思ったら親戚の農夫を思い出した。
……これは働く人の手だ、とミコは思った。
触れられた瞬間はさすがに反射的に手を引っ込めようとしたが、少年はおとなしくミコにされるがままになっている。
「ちょっと染みるけど、我慢してね。」
古いガーゼを取り払うと、何かにえぐられた痕が現れた。
昨日治療した際に散々見たはずなのだが、全く同じものでもそれが人間の腕にうがたれている様は改めて衝撃的で、ミコは思わず眉根を寄せた。
消毒液に浸した綿球で傷口を洗う。
刺激に少年はたまらず顔をしかめたが、それでもミコにつかまれていることもあって、振り解いてまで拒否しようとはしなかった。
…怪我の治療をしてもらっているのだ、ということを明らかに理解しているとしか思えない。
作業の間、ミコは黙々と手を動かしていた。
少年の方も、相変わらず何も言わない。
不思議な沈黙が、二人の間に流れた。
軟膏を塗り、化膿どめの粉末をふりかけ、新しいガーゼをあてがい、テープで止める。
その上からやはり新しい包帯を巻きつけた。
「はい、これでおしまい。」
作業自体はそれほど難しいものではなく、実際にはわずかな時間しか経っていないはずなのだが、ミコにとっては随分長く感じられた。
薬が染みて痛かっただろうに、少年は最後までじっとしていてくれた。それが嬉しかった。
「昨日の包帯は、洗っておくね。」
少年が差し出した包帯には、赤い血が少しにじんでいた。
ところどころに土のようなものも付いている。
包帯を受け取り、道具を薬箱に片付けると、ミコはそっと立ち上がった。
少年は…首だけめぐらせたが、こちらは立とうとしなかった。
「え…っとね。玄関はあっちなの。
明日はあっちから来てくれたら、私もすぐに出てこられるから。椅子もあるし…。」
少女が手を伸ばして示した方向に、少年も視線を向ける。
「そうだ、お茶持ってくる。すっかり冷えちゃったもんね。待ってて…。」
そう告げて、ミコは再びガラス戸の内側へと身を滑り込ませた。
なんとなく、ガラス戸は閉めてしまわずに人一人通れるほど透けておいた。
もしかしたら少年が付いて入ってきてくれるんじゃないか、という淡い期待を込めて。
一部屋抜けて居間に戻ると。
「ミコ。」
すっかり忘れていたのだが、早速父親に捕まってしまった。
足元では相変わらずタローが「やる気満々」になっている。
「大丈夫、ちゃんとお薬を塗らせてくれたよ。」
いやそうじゃなくて、と言いかけた父の目の前を、娘はまたしてもさっさと通り過ぎ、やかんの中にまだ熱い湯が残っていることを確かめている。
しかし、ミコが湯気を立てる湯呑みを携えてテラスに戻ってくると。
「あれ?」
少年の姿は、忽然と消えていた。
慌てて周囲を見渡すが、姿どころかそれらしき気配も感じられない。
「鳥さん?」
天然の闇の中へ声をかけてみるが、反応は無く。
代わりに足元を白茶の犬がすり抜けていった。
「タロー!」
驚いて叫ぶが、間に合わない。
タローはしばらくしつこく匂いをかぎまわったあと、テラスから飛び降りた。
尻尾をぶんぶん振りながら匂いをたどっていく。
「駄目だよ、鳥さんを驚かせちゃ!」
慌てて湯呑みを置き、ミコは愛犬のあとを追った。
タローは番犬としてつれてきたのだが、まだ子供ということもあって好奇心が非常に強い。
あの様子だと、猟犬のようにどこまでも少年を追っていきかねない。
そんなことになったら、きっと彼はもう二度と、ミコの前に現れてくれなくなってしまう!
「タロー!!」
タローはしばらく家の周辺をぐるぐる回っていたが、ミコがしつこく呼ぶとようやく戻ってきた。
そして、「褒めて」といわんばかりに得意げに彼女の前でおすわりした。
「もう……。」
怒る気力も失って、ミコはその場にへたり込んだ。
タローがあっさり戻ってきたということは、あの少年はもうこの周辺にはいないということなのだろう。
また怖い思いをさせてしまったに違いない。
今度こそ本当に、二度と来てくれないかもしれない。
そう思うと、ちょっと泣きたい気分だった。
夜風が、少女の髪を静かに揺らしていった。