「信じたいのはやまやまだけどねぇ……。」
次の日の夕食時。父親は箸で豆をつまみながら苦笑した。
小さな居間の小さな食卓に、父娘が向かい合って座っている。
植物学者である父親は、現実主義…というより、幽霊や怪奇現象といったものにそれほど興味を持ち合わせていなかった。
彼にとってそれらはあくまで「お話」の世界のものであり、それらと共存したり、ましてやそういったものから身を守るために具体的に何かをする…という発想は無い。
平たく言えば「年中行事には参加するけれど、かといって信心深いほうではない」といったところである。
だから、ミコが「昨日保護した鳥が目の前で人間に変身して、逃げていった」と必死に説明しても、到底信じる気にはなれなかった。
勿論、愛娘の言を疑っているわけではないけれども。
できれば信じてやりたいというのが、親心なのだけれども…。
「本当なんだってば! 嘘じゃないもん!!」
今日一日、一体この台詞を何度繰り返したことか。ミコはもう数える気も失っていた。
昨夜目の当たりにしたあの不思議な出来事は、やはりもしかしたら本当に夢か幻だったのかもしれない、と一時は思いかけた彼女であったが。
それでも、朝起きて改めてあの部屋に行ってみると、あの鳥を入れていたたらいはやはり空っぽで。
それどころか、あの鳥がぶつかってめちゃくちゃにひっくり返したものは、全てそのまま床に散乱したままで。
だから、やっぱりあれは夢などではなかったのだと、ミコは確信した。
「まぁ、変身したかどうかは別として。逃げられちゃったことにはかわりないんだし。」
「“逃げた”んじゃないの、“出してあげた”の!!」
「はいはい。」
苦笑して、父親は椀に残っていた汁物を流し込んだ。娘の料理の腕は、また上達したようである。
愛犬タローも室内にいる。
犬小屋は屋外にあるのだが、餌を平らげたあと部屋の隅でさっさと丸くなってしまったのだ。すっかり熟睡している。
「どちらにせよ、僕たちがしたことは、あの鳥にとっては『余計なお世話』だったということなんだろうねぇ。」
「そんなこと……。」
「それが『野生』というものなんだよ。
彼らには彼らの世界があり、決まりごとがある。
そこに部外者である人間がむやみやたらと介入するのは……。」
ミコの脳裏に、昨夜のあの少年の顔が蘇った。
あの怯えた眼差しは、父の言うとおり「拒絶」から来るものだったのだろうか。
野生動物を見たのは、実は初めてではない。
この森へ来る道中で立ち寄った山村でも、生け捕りにされたイノシシを見かけた。
畑を荒らすので罠を仕掛けておいたら、かかったのだという。
父親が用事を済ませている間に、興味本位で見せてもらったのだが。
檻の中に居たそのイノシシの眼差しは…恐怖と怒りに満ちていた。
命の瀬戸際に立たされたものだけが見せる、絶望と拒絶の色。
あの目を一生忘れることはないだろう、とそのとき強く思ったものだ。
しかし、昨日の少年からはそこまでの「何か」までは感じなかった…ように思う。
とても漠然としたもので、上手く言葉にはできないけれど……。
ただ『怯えた』だけではない、ただ『恐れた』だけではない、もう一つ何か別の感情が、あの瞳に映っていたような、そんな気がしてならないのだ。
「…ミコ?」
呼ばれて、少女は面を上げた。
父親が心配そうに覗き込んでいる。急に黙り込んでしまったので心配したらしい。
「ううん、なんでもない…。」
答え、箸で小鉢の芋を拾おうとしたときだった。
不意に、タローが跳ね起きた。その直後。
隣の部屋で、物音がした。
父娘は揃って音のしたほうに首をめぐらせた。
隣室は、ミコの部屋ということになっている。先日紅い鳥が大暴れした、あの部屋だ。
また音がした。ガラス戸が揺すられる、がたがたというわずかな音。
尻尾をぶんぶん振り回して、タローが派手に吠える。
「…なんだろう?」
「ガ、ではないだろうなぁ。あっちの部屋は真っ暗なんだし。」
いぶかしげな顔をしながら、父親は立ち上がった。
引き出しから懐中電灯を取り出し、隣室へと続く扉にそっと近寄る。
「表に食べ物は出していないよね?
腹ぺこクマじゃないことを祈るよ…。」
「やだ、怖いこと言わないでよ……。」
また音がした。強引に何とかしようとするものではなく、なんだか遠慮がちな音である。
単に、強く揺するだけの力がないだけなのかもしれないが。
「少なくとも、地震じゃないことだけは確かだな。」
鍋のなかに残っていた汁も湯呑みの中身も、水面は揺れていない。
足の裏にも何も感じない。
「ああ、こんなことならタローを表に出しておくんだった。」
ひとしきりぼやくと、父親は扉の取っ手にそっと手をかけた。
震えてはいないが、何もしないうちからしっとりと汗ばんでいる。
三度、音。
今度は、今までとは揺すり方が少し変わったような気がする。
それは、むやみに障害物を撤去しようというのではなく、たとえば…ネコが前足を器用に使って引き戸を開けようとするような…。
父親がそっと扉をわずかに開いた。
懐中電灯のスイッチを入れ、部屋の中を確認しようとし…
「待って!」
たところで、娘が懐中電灯を持つ手を引いた。
「もしかして……。」
「ミコ!」
「パパ、タローを静かにさせて。」
父の脇の下をすり抜けて、少女が室内に滑り込む。
目がまだ室内の暗さに順応できていないが、自分の正面――ガラス戸とテラスがあるほう――に生き物の気配があることを、ミコは確かに感じ取った。
相手もまた、ミコの登場に驚いたようである。そんな気配が伝わってくる。
反射的に逃げ出そうとして、…何故かそうせずその場に踏みとどまったようである。
それで、確信した。
「待って、今開けるから。」
明かりをつけようかと思ったが、驚かせたくないので自粛する。
一応昨日散らかしたものは昼間のうちに片付けてあるけれども、そもそも引越しの荷解き自体がまだ完了したわけではないので、室内は障害物だらけだ。
ぶつからないように、何かをうっかり踏まないように、そろそろと手探りで歩を進める。
「ミコ! 危ないから…。」
「大丈夫。」
ようやくガラス戸にたどり着く。
うっかり伸ばした手がガラスを叩いてしまい少し大きな音を立ててしまったが、それでも「相手」はわずかに後ずさりしただけで、やはり逃げ出さなかった。
まだテラスにいる。
大急ぎでミコは掛け金をはずし、できるだけ静かに戸を開いた。
夜気がさっと少女の頬をなでる。
無意識に、表情が緩んだ。
「……来て、くれたんだね……。」