ガラス戸を背にして、少年は立っていた。
いや立っているというより、これ以上後ずさりできないよう妨げているのがこの戸です、といった姿勢である。
残照を背にしているので細部はわからないが、どうやら身につけているのは絣(かすり)の着物のようであった。
まだ朝晩は冷え込むというのに、上衣も下衣も丈がやや短く、足元は裸足である。
着物はあちこち擦り切れているようにも見えた。
だがミコの注意を最も引いたのは、そんな「時代がかった」彼のいでたちではなく、その眼差しのほうだった。
大きく見開かれたそれは、まっすぐにミコに向けられている。
けれどそれは決して好意的なものではなく……畏怖の色に満ちていた。
まるで、怯えた野生動物だ。ミコはそう直感した。
そして彼が怯えている対象というのが、他でもない自分なのだということも。
この家は最も近い町まで馬車で半日という距離にある。周辺に人家など無く、そしてここには自分と父親しか住んでいない。
一体、この少年はどこから現れたのか。
その答えは、彼の右の袖からのぞいている腕に巻かれ半分ほどけかけた包帯が、教えてくれていた。
「あの…。」
沈黙に先に耐えられなくなったのは、ミコだった。
しかし彼女が言葉を口にした瞬間、少年はびくりと身を震わせた。
『ヘビに睨まれたカエル』という言い回しがあるけれども、そういう表現がぴったり合いそうである。
…ミコにはそんなつもりなど全く無いというのに。
とにかく、警戒を解いてもらわないことには話にならない。
意を決すると、ミコは半歩身を乗り出した。
対して退路を絶たれている少年は、ますます身を硬くした。
まだ夜間は火が恋しい季節だというのに、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。
「わたしは、あなたを、たすけたいの。」
少年の黒い瞳をまっすぐ見つめたまま、ミコは静かに、ゆっくり、言葉をつむいだ。
目を逸らしたら、その瞬間に拒絶されてしまいそうな、そんな気がしたから。
そうなったらきっと、この少年は二度と自分の言に耳を貸してくれなくなってしまうだろうと、感じたから。
だから。
「あなたに、もう一度、飛べるようになってほしいの。」
「ひ…………!」
少年の口から漏れたのは、小さな悲鳴だった。初めて聞く少年の声だ。
「閉じ込めたかったわけじゃないし、あなたをどうにかしたいわけでもない。
ただ…あなたの怪我を、治してあげたかったの。それだけなの。」
想いが伝わらないのは悲しいことだ、とミコは思う。たとえそれが人間だろうと、動物だろうと。
けれどそれを上手く伝える方法というのは、まだ十年ちょっとしか生きていない彼女には、わからない。
だから、必死で語りかけ続けるしかなかった。
「その怪我じゃ、まだ上手く飛べないよ。毎日薬をつけないと。
だから、あなたにここに居てほしかったの。…でも、」
少年が彼女を見る目はまだ変わらない。
だが、先ほどとはわずかに表情が異なっているような気がする。
恐れているは相変わらずのようだが、どうやら彼女が言っていることを理解しようと耳を傾けている節が見受けられた。
「あなたが怖かったのなら、やっぱり謝らないといけないと思うの。ごめんなさいね。」
まつげを伏せると、ミコは静かに歩み寄った。
途端に少年は再び身を緊張させる。
一定の距離を保とうと彼は横に体をずらしたが、しかしミコは少年から目を離し、まっすぐガラス戸に近寄った。
「ここをこうすると、開くの。」
わずかな軋みをあげて、ガラス戸の一枚がわずかに開いた。隙間からさっと宵の空気が流れ込んでくる。
少年の表情に驚きの色が加わる。
そのときだ。
「おぉい、ミコ! 何かあったのかい?
ずいぶん派手な音がしていたけど、怪我とかしてないだろうね?」
「パパだ!」
扉の向こう――居間に別の人間の気配がある。
今頃になったのは、書斎にした奥の部屋から出てくる際に、おおかた彼自身も何かひっくり返したのだろう。
父親の声に緊張を覚えたのは、少年だけではなかった。
ミコは大急ぎでガラス戸をいっぱいに開けた。冷たい空気に、少女は小さく身震いする。
「帰りたいんでしょう? パパが来たら、説明するの大変そうだしね。
…包帯は自分で巻き直せるよね? でも…薬は毎日つけなきゃいけないの。」
結果とはいえ手を伸ばせば触れられそうな距離にまで近付いていたミコは、少年の顔を見上げて、言った。
「だから…また来てね。明日も来てね。
わたし、待ってるから。」
いつのまにか、少年の目から怯えの色が何割か消え去っている。
その分、真意を量りかねるような色合いが加わっていた。
が、次の瞬間、少年はミコの脇を駆け抜けると、一度も振り返ることなく春の闇の中へと走り去ってしまった。
明かりの灯らない室内に、ミコだけが一人、それを見送っていた。