荷物(それもかなり大きい)が増えたので、帰路は思ったよりも時間がかかった。といっても、午後のお茶の時間までにはまだ十二分に余裕があったのだが。
傷の手当てが終わっても、目隠しを取り外しても、鳥が目を覚ます気配は無かった。
迷った末、ミコは納屋から先の住人が置いていった古い大きなたらいを引っ張り出してきた。
そこに毛布を敷き、鳥を寝かせた。
少しばかり窮屈そうにも見えるが、他に寝かしつけられる場所が無いのだから仕方ない。
「しかし…何なんだろうねあの鳥は。」
鳥を寝かしつけた隣室で、娘が淹れてくれたお茶に手を伸ばし、父親が呟いた。
森の中の一軒家である。
台所兼居間には小さなテーブルと椅子が二脚。やはりこれも先人の置き土産である。
「僕は動物や鳥類は専門外だから、一般的な知識しか持ち合わせていないんだけれども。
どうもワシやタカの仲間ではなさそうだな。」
「え、そうなの?」
「水かきが無いから水鳥でないことは確かだし、大きさから見て、最初はワシだと思ったんだけどね。」
湯呑みを手にしたまま、何かを思い出すように中空に目をやる。
「ワシにしては、くちばしも脚もそれほど鋭くも強くもなさそうだし。ツルやサギの仲間にしては背が低い。
第一ツルやサギは沼地や大きな川の周辺にいるものだけど、この辺りにはそういったものはないはずだし。」
「…学校の図書館だったら、鳥類図鑑があるんだろうけどなぁ。」
煎り豆を小皿に取り出しながら、ミコも首をひねる。
「まぁ、強いて言うならニワトリやキジの仲間に近そうなんだけど。」
キジや野鶏なら地上付近が主な生活場所である。
危険と同時に障害物も多い森の中に棲む彼らは、体が小さいほうが有利なのだという。
紅い鳥のあの図体では、生活しづらいはずだ。
「それに、あの尾羽。
体に対してあれだけ大きいとなると、地上では邪魔でしかないと思うんだが…。」
「ねぇ、それってつまり…あの鳥は新種かもしれないってこと?」
「かもしれないねぇ。
ジュウキチのやつが聞いたら、喜んですっ飛んできそうだ。」
知人の鳥類学者の名を出し、父親は苦笑した。
「えー駄目だよ、ジュウキチおじさんに見せたら、あの鳥の怪我が治っても、自分の気が済むまで記録観察!とかやるに決まっているんだから!」
「おいおい、いくらあいつでも希少野生種を独り占めになんかしたりしないよ。」
まぁ気持ちはわからないでもないけど、とは心中で留めておく。
「それはともかくとして。
怪我の回復には食欲が不可欠なんだけど。
…種類がわからないんじゃ、どんなものを与えればいいかもわからないなぁ。」
「豆とか魚とかお肉とか。鳥によって食べるものが違うものね。」
「そのあたりなら、持ってきた食料の中からでも出せるけど…。
万が一『毎日昆虫採集』なんてことになったら、どうする?」
「う…芋虫以外だったら、なんとかするよっ。」
大抵の昆虫は平気だし、必要とあらば触ることもできるミコだったが、どうしても芋虫・毛虫の類だけは幼い頃から苦手なのだった。
「さて。じゃ私、洗濯物取り込んでくるね。」
湯呑みを置くと、ミコは立ち上がった。炒り豆の皿も、いつの間にか空になっている。
湯呑みと空いた皿を洗い場に片付け、テラスのほうへ向かおうとし…面している部屋にあの紅い鳥を寝かせてあることを思い出した。
「ついでに、後でロバにも餌をやっておいてくれるかい。
…あれにもいい加減名前をつけてやらないとなぁ。」
改めて玄関(?)から表へ出ようとしている娘の背に、父の言葉が飛んでくる。
「了解。…確か女の子だったよね。いいの考えておく。」
肩越しに振り返って笑うと、ミコは後ろ手に扉を閉めた。
――南側に面したテラスからオレンジ色の光が、ガラス越しに斜めに室内に差し込んでいる。
春分を過ぎたわけだから日の入りは決して早いわけではないのだが、それでも空気の温度は光の暦より少しばかりのんびりしていて。
故に、ガラス戸はぴっちりと閉じられている。
ガラス戸といっても、そこは十年近くも放置されていた物件である。
はめ込まれていたはずのガラスのうち何枚かは無残に割れていて、先日父娘が木の板を応急処置的に貼り付けてしのいだ代物だ。
だから部屋に差し込む夕日も均一なものではなく、ところどころがまるでクロスワードパズルのように塗りつぶされていたりする。
そのオレンジ色の光の中で、紅い鳥は静かにまぶたを開けた。
重たげに数度まばたきをし、そしてゆっくりと頭を持ち上げた。
ぼんやりとしていた焦点が、次第に像を結んでいく。
右を見やり、左を見やり。
黒い瞳はようやく、ここが自分の見知らぬ場所だということに気づいたようだった。
一気に覚醒したのか、今度は慌てて周囲を見渡す。
そして、四方どころか上も下も囲われた空間に居る事実を知る。
慌てて立ち上がろうとして毛布に足を取られてよろけ、バランスを取ろうと翼を広げたところで…右の翼に激痛と、そして異物の感触を覚えた。
見やると、何かが翼に巻きつけられている。…自然界には存在しないものが。
反射的に、鳥は異物を取り除こうとくちばしを伸ばした。
くわえて引っ張ってみるが、痛みは収まるどころか増すだけで。
それでも強引に引き剥がしにかかろうとして…ふと、差し込んでいる日の光が夕刻のものであることに気づいた。
大慌てで紅い鳥は立ち上がった。
光の差す方向――ガラス窓に全力で向かい……派手に衝突した。
派手な衝突音が部屋中に響き、鳥はぶつかった勢いそのままに弾き飛ばされ、もんどりうって板張りの床の上に転がった。
ガラス窓のほうは無傷であった。
軽く頭を振って、鳥は再び起き上がった。
何故、どうして「見えている」のに「通れない」のか、わからない。
と、そのとき。
「なに? 今の音。」
不意の声に、鳥は振り返った。背後の扉の向こうに、誰かの気配がある。
記憶が確かならばそれは人間という生き物であり、それがどんどんこちらに近付いてくる。
鳥はますます慌てた。
何とかしてここから逃げ出さないと! そうでなくとももうすぐ日没だというのに!
「だれかいるの?」
声と共に、勢いよく扉が開いた。
顔をのぞかせたのは、若い人間のメス。
ミコと、鳥の目が合った。
一瞬固まる、時間。
先に沈黙を破ったのは、ミコのほうだった。
「良かった、目が覚めたんだね。」
その言葉に、まるで呪縛を解かれたかのように、再び鳥はガラス戸に向かって飛び込んでいった。
翼は相変わらずひどく痛むが、もうそんなことになど構っていられない。
予感は当たっていた、よりによって人間に捕まるなんて!
「あっ!」
ミコが止める間もなかった。再び響く衝突音。
さすがに今度は頭から突っ込みはしなかったが、それでも先ほどよりも勢いがあった分、反動も比ではない。
無様にひっくり返った。
紅い羽毛が数枚抜けて、ふわふわと部屋の中に漂う。
「駄目だよ、まだ傷がふさがってないんだから。」
驚いたミコが部屋の中に踏み込んできたから、鳥はさらに慌てた。
とにかく、一刻も早くここから出なければ!
その思いだけで、狂ったようにガラス戸への突進を繰り返す。
そのたびにガラス戸は大きな悲鳴を上げ、強く当たれば当たるほど手痛い反撃を受ける羽目になった。
「お願い、暴れないで!」
さらに数歩少女が歩を進めたのは、鳥の翼に巻いてあった包帯が半分ほどけていたからだ。
どうやらここには「見えない壁」があるらしい、ようやくそう気づいた鳥は、別の脱出口を捜すことにした。
目に付いたのは、今ミコが入ってきた扉である。あそこからなら出られるかもしれない!
翼を広げ、少女の上を抜けようとしたが…激痛が走り、思うように羽ばたけない。
バランスを崩した勢いで室内にあった椅子を蹴倒してしまった。
転倒した椅子もまた床板に当たって悲鳴をあげる。
「大丈夫、何もしないから。ねぇ!」
ガラス戸から差し込んでいた日の光は、既にかなり弱々しくなっていた。
陰になっていない部分も、先ほどよりぐんと減っている。
日没が近い。
「ミコ! 何の騒ぎだい。」
椅子がひっくり返った音が聞こえたのか、扉の向こう――居間の先にある書斎から父親が声をかけてきた。
それを聞いて鳥が急停止する。
こっちにも別の人間がいる!? ならこちらも駄目だ!
再び方向転換。
「パパ! 鳥が…!」
頭がくらくらしそうになる痛みを無理やり押さえつけて、もう一度少女の横を抜ける。
その際に傷めている右の翼をさらに何かにぶつけたらしい。脳に直接響くような痛みが駆け抜けた。
たまらず小さな悲鳴を上げる。
まだ収納先が決まっていない、衣類を収めた箱が崩れ落ちた。
「お願いだから!」
後生だから!
「動かさないで!」
外に出して!
祈るような気持ちで、ガラス戸にすがりつく。
ああ、日が暮れる!
自分が怪我をしているということを、紅い鳥はわかっている。負った理由も覚えている。
だから、人間によって傷つけられたのではない、ということもわかっている。
けれど。でも。
「じっとしてて…。」
ミコはもう泣きたい気持ちだった。
どうすればいいのだろう。
どうすればあの鳥はおとなしくしてくれるのだろう。
気持ちをわかってくれるのだろう。
やはり、父の言うとおり簡易のケージを作って入れておいたほうがよかったのだろうか。
でも、それは嫌だったのだ。
この神秘的な鳥は、そんな強引なことなどしなくても、わかってくれるだろうと、漠然とした期待を持っていたのだ。
でも、その結果がこれだ。
驚いてパニック状態になった鳥は部屋中を飛び回り、あちこちにぶつかり、暴れ続けている。
かえって怪我を増やすことになっている。
「あなたを助けたいの、わかって!」
半泣きになってミコが叫んだ、そのときだった。
森の木々の向こう、連なる山々を示す稜線の端に、夕刻の太陽の最後の光が名残を惜しむように隠れきるのと同時に。
突然、何の前触れもなく、紅い鳥が強い光を放った。
薄暗い室内に目が慣れていたミコには、それは刺すような衝撃にも近く、また本当に突然のことだったので、思わず目を閉じ顔を背け両腕でさえぎるだけで精一杯だった。
一体何が起こったというのか。
光自体はすぐに消えたようだ。室内に静寂が戻ってくる。
「な…に……?」
呟いて恐る恐る目を開く。ようやく視界を取り戻した彼女の眼に映ったのは……。
「えっ…………。」
自分よりわずかに年嵩と思われる、一人の少年であった。