三日後。
ようやく解いた荷の落ち着き先がほぼ決まったこともあり、父娘は背負い袋にそれぞれ弁当を詰め込んで、家の周辺を散策に出ることにした。
天然の森は生えている植物に秩序が無い。
落葉樹と常緑樹が思い思いに枝を広げているが、落葉樹のそれにはまだ葉が充実しておらず、幹が太いものも細いものも、まだ育ちきっていない若葉の間から晴れた空を見上げることができた。
その陽光を頼りにするように、足元では小さな草花がいっせいに小花を天に向けていた。
いずれも親指の爪より大きいかどうかというサイズの花ばかりだが、ささやかながらもそのどれもが誇らしげに花びらを広げているのが、少女には愛しく感じられた。
昨日降った雨のためか、足元の腐葉土はより弾力を増しており、感触だけなら毛足の長いじゅうたんと変わらないんじゃないかしら、と思う。
実際に歩いたことは無いけれど。
濡れそぼった土の匂いは嫌いじゃない。地面が生きているように感じられるから。
これからこの森は一気に緑色に染まっていくに違いない。
この匂いも、足元の感触も、少し質感の増した空気も、全て森に力を、命を与えるものなんだということを、知っているから。
それは植物学者である父の影響なのかもしれないけれど、好きだと感じるのは頭や知識によるものではなく、自分の五感で感じ取ったものだから。
父娘の背負い袋にはそれぞれ、獣除けの鈴がぶら下がっている。
春先に子連れのクマと出くわすのは、さすがにぞっとしない。
足元には、白茶の仔犬が一匹。
森の中に引っ越すと聞いた父の知人が、護身用に連れていけと勧めてくれたのだ。
仔犬といっても生後半年ほどが経過しているらしく、力も強い。
見るもの聞くもの全てが珍しくてたまらないのか、勢いよく駆けていってはあちこちの匂いを嗅ぎ、ときにはもう枯葉だか土だか区別がつかなくなっているものを掘り返したりしている。
そして置いていかれたと気づくや否や、またすごい勢いで二人のもとに駆け戻ってくる。そんなことの繰り返しだ。
父親のほうはというと、そんな連れたちのことはもはやすっかり失念してしまっているようで、手帳に何か書き付けたり、色鉛筆を取り出して植物のスケッチをしたり、はたまた背負い袋の中から携帯用の小型図鑑を取り出して広げてみたり…と、なかなかに忙しい。
そして、こんなときの父親には何を言っても無駄だということを、娘は十二分に承知している。
だから元気が有り余っている仔犬が、父のもとに突進していかないようにとだけは、気を使っていなければならなかった。
やがて、太陽が真南に差し掛かった。
半日が過ぎたというのに、寄り道せずまっすぐ戻れば家まで四半時ちょっと…という距離しか離れていないのは、やはり父親の知的好奇心の成せる業なのだろう。
さすがに頃合を見計らい、娘は父親の上着の袖を引っ張った。
「お昼にしよう?」
「あ? …ああ、もうそんな時間かい。ちょっと待って、これだけ…。」
「だめ。パパの『ちょっと』は、世間では半日のことだもの!」
「ああいや、わかった、わかったから。」
大急ぎでメモを取り終えると、父親はようやく手帳をポケットにしまった。
彼が着ているベストにはこれでもかというほどたくさんのポケットが取り付けられていて、いちいち背負い袋を下ろして取り出さなくても済むように、手帳だけでなく様々なものが納められている。
まだ新しい倒木を見つけると、父娘はそこに腰掛けた。背負い袋を下ろし、中から食料を取り出す。
「あれ。タローは?」
二口、三口弁当に手をつけたところで、娘は白茶の犬の姿が見当たらないことに気づいた。
育ち盛り、食べ盛りの若いオスの仔犬である。
普段なら二人にぴったりくっついて、自分の分が出てくるのをいまや遅しと待っているというのに……。
「何か強く興味惹かれるものでも見つけたんじゃないのかい?
あれだけ大騒ぎしていれば、野生動物のほうが嫌がって逃げていくだろうし。」
「うん…でも迷子になっているのかもしれないし。」
傍らに弁当を置くと、娘は立ち上がった。
口の中のものを飲み下すと、両手を口の両端に添えて、仔犬の名を呼ばわった。
数度声を張り上げたところで、少女の耳に遠く犬の吼え声が聞こえてきた。
間違いない、愛犬の声である。
「…なんだろう。いつもはあんなに鳴かないのに。」
「呼んでいるみたい。…! 怪我でもしたのかな!?」
呟くと、少女はもう駆け出していた。
「待ちなさい! 何か動物が居るかもしれない……、」
慌てて父親が静止するが、もう娘の背に届くには距離が離れすぎていた。
犬の鳴き声はやむことなく続いている。
それがいやに胸中をかきむしって、少女は理由の無い不安に襲われた。
愛犬の居場所までまっすぐ行くには、獣道すら無いやぶの中に突っ込んでいかなくてはならないようだ。
迷うことなく、少女はそこに飛び込んだ。
「タロー、どこ? タロー!」
足を止めることなく、こちらも犬の名を呼び続ける。
それに気づいたのか、早く早くと急かすように犬の鳴き方が微妙に変化した。
「タロー!」
一歩ごとに引っかかる枝葉を掻き分け掻き分け、進む。
さすがに閉口しはじめた頃、突然ぽっかりと開けた場所へと出た。
「あっ。」
本当に唐突に藪が終わったので、少女はバランスを崩してよろけた。たたらを踏み、転倒を免れる。
そこは、ちょっとした広場のようになっていた。
まず目に付いたのは、巨大な丸太だった。いや、倒木である。
大人が二人手をつないでようやっと囲めるような立派な胴回りをした樹が、一生を終えて大地に横たわった姿がそこにあった。
真新しいものではないようだが、かといって古いものでもなさそうだ。
樹皮に生気は全く感じられないが、原形をとどめないほど腐敗が進んでいるわけでもない。
妙なきのこもみあたらないし、苔もところどころに申し訳程度に生えている程度である。
ここは、この樹が倒れてにわかに陽光がいっぱいに差し込むようになったばかりの場所なのだろう。
春先ということもあり地面の上では、あちこちで様々な植物が一斉に芽吹いていた。
この中のどれかが生存競争に打ち勝ち、いずれこのぽっかりと開いた「森の穴」をふさぐようになるのだ。
愛犬タローの鳴き声は、その倒木の向こう側から聞こえてくる。
倒木の根のほうから、少女はぐるりと回りこんでみた。そこには。
春先の深い森の中にあってはかなり珍しい色が、少女の目に飛び込んできた。
紅の、塊。それもかなり大きなものだ。
白茶の仔犬は、その「紅い」ものの傍らにあって、やはりしきりに吠えていた。
少女の姿を見つけて元気付けられたのか、細い尾を激しく振っている。
そのくせ、その「紅いもの」には一定の距離を保ったまま、近付こうとはしないのであった。
「えっ…何? これ……。」
おっかなびっくり近寄ってみる。
こういった場所では得体の知れないものには不用意に近付かないよう普段から父親に言われてはいるのだが、タローの存在が彼女を大胆にさせた。
「鳥……?」
まさしく鳥、だった。
羽毛に包まれた体、大きな翼、くちばしの付いた頭となれば、それはもう誰が見たって「鳥」と答えるだろう。
ただ、大きさが半端ではない。
今は半開きになっているが、翼開長(翼を広げた差し渡しの長さ)は大人の身長を軽く超えてしまいそうなサイズである。
そんな大きな鳥が、地面にぐったりと横たわっていた。
こんな至近距離であれだけタローが吠え立てているというのに、ぴくりともしない。
とにかくもっとよく観察してみようと、少女が身をかがめたときだった。
「ミコ!」
「パパ!」
先ほど少女が来たのと全く同じルートを通って、父親が現れた。
彼女以上に苦労したらしく、シャツの左袖の一部が破れていた。
「全く、森の中では………何だいその鳥は。」
娘をとがめるのを中断して、父親もまたその「紅い塊」に目を向ける。
早春の色彩の乏しい世界の中で、この紅い色は強烈に人の目を引いた。
「タローが吠えていた原因みたい。……全然動かないの。」
「どれ…。」
ミコと呼ばれた娘に犬を下げるよう促すと、父親は紅い鳥の傍らに近寄った。
「…怪我をしているな。」
「えっ。」
犬を抑えたまま、ミコが視線を向ける。父が示した先――右の翼の一部がえぐれて出血しているのが見えた。
紅い羽の色に目を奪われていて、気づかなかったらしい。
「タローが興奮していたのは、この血の臭いのせいだったんだな。」
「ねぇパパ、その鳥……。」
「うん? ああ、息はあるようだよ。死んではいない。
おそらく墜落したときに頭を打ったんだろう。」
そう言うと、父親は立ち上がった。
「さぁ行こう。
血の臭いをかぎつけて、もうじき他の動物もやってくるに違いないからね。危険だ。」
「えっ、手当てしないの?」
驚いた拍子に、ミコの手元からタローが逃げ出した。主人たちが来てくれたのでもう吠えはしなかったが、それでもまだ鳥の周りをうろうろ歩き回っている。
「…人が自然界に必要以上に介入するのは、僕は感心しないな。
この怪我が原因で他の動物に襲われることになったとしても、それもまた自然界の定めのうちだからね。」
「でも……私、やっぱりこの鳥を助けたい。だって、」
歩み寄ると、ミコは鳥の傍らに座り込んだ。手を伸ばせば容易に触れられる距離である。
「私、こんなきれいな鳥、見たことないもの。
そりゃパパの言うことが正しいんだってことは、わかってる。わかってるけど…。
助けてあげられるのに、見捨てるのは、やっぱりできないよ。
手当てをして、元気になってから森に返してあげるのじゃ、駄目?」
その間にも、傷口からの出血は続いている。
鳥が目を覚まさないのは、貧血も影響しているのかもしれない。
小さくうなると、植物学者である父親は腕を組み……そして、ふっと表情を緩めた。
「やっぱりお前は母さんの子なんだなぁ。やれやれ。」
「じゃあ…!」
「その代わり、僕の荷物はお前が持つんだよ。」
「ありがとう、パパ!」
思わず抱きついてきた娘を制すると、父親はハンカチを出すよう促し、それを鳥の頭を覆うようにかぶせた。さながら覆面である。
「もし運ぶ途中で目を覚まされて、暴れられたらかなわないからね。
こうやって目隠しをしてやると、おとなしくなるんだそうだよ。」
そう言って父親は、その大きな紅い鳥を担ぎ上げたのだった。