「ここが、新しいおうち?」
ロバが引く荷馬車から飛び降りると、少女は小走りにその建物へ近寄った。
家、というよりは山小屋といった風情である。
母屋部分は丸太を組み合わせた小洒落た外観になっているが、建設者は途中でくじけてしまったのか、裏手に回ってみると何の変哲も無いただの平屋がくっついていた。
それでも無理やりテラスが備え付けられているところを見ると、…どうやら先の住人は複数人で、なおかつ少なくとも一人は住空間にうるさい人物だったようである。
二階部分があるようには見えず、代わりに煙突のようなものがにょっきりと屋根の上に突き出しているのが見えた。
「なかなかステキじゃない?」
「気に入ってくれたようで、何より。」
応じたのは、四十前後の男性である。どうやら父親のようだ。
中肉中背で、運動よりは文机が似合う雰囲気の持ち主である。鼻の上には四角いレンズの眼鏡が乗っていた。
振り返った娘の目がきらきら輝いているのを見て、父親は少し安心したような笑顔を返した。
「でも、もう十年近く放置されていたらしいから、中がどうなっているかは開けてみないとわからないよ?」
言いつつ、自身も建物の玄関口へと向かう。ズボンの右ポケットに手を入れ、鍵を取り出した。
「ほら、鍵だってこの通り。やっとここまで錆を落としたんだから。
むしろ錠のほうが錆付いて使い物にならなくなってないか…。」
「別にいいじゃない、鍵なんか無くたって。こんな森の奥深くまで来る暇な泥棒なんて、いないと思うけどな。」
後ろ手に組んだ手を持て余しながら、少女はその場でくるりと回って見せた。
来月十二歳になるのだが、素直な性格が災いしてか、少しばかり幼い印象を与えることが多い娘である。
現に、早く早くとせがむ子供のように、その場でくるりくるりと回り続けている。
数日前にばっさりと短くしてしまった髪が、動きに合わせて一生懸命揺れていた。
「…お、開いたぞ。」
取っ手に手を駆け、まず父親が扉から中を覗き込んだ。…ところで止まってしまった。
そこに娘が割り込んでくる。父親の腕の下から同じようにのぞきこんで……眉根を寄せた。
「…臭ぁい。」
「そりゃ、ずっと閉めきってあったんだから仕方ないさ。
それに…どこかの隙間から小動物が入り込んでいる可能性もあるしね。
ともかく、まずは換気だな。」
「はーい♪ 窓を開ければいいんでしょ?」
陽気に答えて飛び込もうとする娘の腕を、父親が慌てて掴む。
「こらこら、先住民がいるかもしれないんだから、気をつけて。」
「先住民って?」
「キツネとかモモンガとか…ヘビとか。」
「えー。」
言いはしたものの、少女はあまり嫌そうではない。それどころか父親と一緒にずんずんと室内に入っていった。
…なにしろ幼い頃から父親のこの生活に付いてきたのだ、野生生物との付き合い方は心得ている、つもりである。
換気と掃除と生活用品の運び込みおよび開梱に丸二日かかったが、どうやら今夜は布団を敷いて眠れそうである。
さすがに畳は交換しなくてはならないだろうが、板の間のほうは長らく使われていなかったとは思えないほど状態が良かった。
「明日は、パパの荷物を解けばいいんだっけ?」
一足早く夜着に着替えながら、娘が尋ねる。
昼間に汲んできておいた水を少しずつ使いながら夕食に使った食器を洗っていた父親が、肩越しに振り返った。
「いや、まだまだ先にやっておかなきゃいけないことがあるから。
外の納屋だって、いつまでも硬い地面の上にロバを寝起きさせておくわけにはいかないから、乾いた草を集めてきて敷き詰めてやらなきゃいけないし。
暖炉もまだ煙突の具合を確認していないから使えないし。
取水場だって……。」
「んー…でも、ここにはパパのお仕事のために来たんだよ?
お仕事の道具とか資料とかを出すのが先なんじゃないの?」
「生活に支障があるうちは、どのみち落ち着いて書き物なんてできやしないよ。」
笑って、父親は食器を戻した。水がめ内の残量を確認し、着替え終えた娘と共に隣室に向かう。
少女がこれから使うことになる部屋は、まだ荷が解かれておらず、箱に詰められたまま無造作に積み上げられたままになっていた。
電灯などという便利な設備など無い家なので、かざしたろうそくの明かりを頼りに障害物の間をぬって、寝台へとたどり着く。
「それに、僕はむしろこの近所を探検したくてうずうずしているんだ。ペンを取るのはそれからだな。」
「そうだね、もしかしたらすぐ近くに珍しい草があるかもしれないもんね?」
「そういうこと。…というわけで近日中には野歩きに出たいから、明日も頑張ってくれよ?」
「はーい。」
元気よく返事をすると、娘は寝台に腰掛けた。
「そういえば、パパ。スザクソウって何?」
「スザク草?」
「一昨日、町を出る前にぶつぶつ言ってたじゃない。」
枕を抱え、楽しげに見上げる。
「もしかして、それが今回のお目当て?」
「……これだけってわけじゃないけどね。
スザク草ってのは、最近すごい勢いで自生地が減っている植物のひとつさ。
以前この家に住んでいた人から目撃情報を得られたんで、それで研究者を派遣しようって話になったのさ。」
「それがパパだったってわけか。…というより、自分から立候補したんじゃないの?」
娘の問いに、父親は笑声で答えた。
「何年パパの娘やっていると思っているの?」
「まぁ、この森は広いから。
前の住人は猟師だったそうだから、一度猟に出たら数日戻らないことだってあっただろうし。この家の近所に自生しているとは限らないからねぇ。
…だから、お前をおばさんのところに預けてきたかったのに。」
「…そりゃ友達と別れるのはちょっぴり寂しかったけど、でも永遠に会えなくなるわけじゃないし。
それよりもパパだよ。一度研究に没頭したら、三日くらい平気でご飯抜くじゃない!
人里離れた森の奥に引っ越すなんて聞いたら、怖くて一人になんかできないよ!」
口を尖らせると、娘は寝台に枕を放り投げた。
そば殻が詰められた枕は、しゃらりと涼しげな音を立てて敷き布団の上に横になった。
「…勉強の続きなんて、町に戻ってからいくらでもできるもの。
パパの身の回りの世話は私がちゃーんとやりますから、覚悟してね?」
「…すまんな。」
「そんな辛気臭い顔しないの。じゃあね、おやすみー。」
笑って軽く手を振ると、娘は寝台に横になり頭から毛布を被った。
どこかで遠くで、フクロウが静かに鳴いているのが聞こえてきた。