【なるほど、それでこんなところまで私を探しに来た、と。】
言われたとおりいくつかのものは口にしたが、すぐに再び額を地にこすりつけた少年に、幻紅鳥はため息交じりの呟きをもらした。
少年の衣はあちこちが破れていて女衆でなくても嘆きの声を上げそうな状態だし、草履を失った足は水で血を洗い流したため、より惨状があらわになった。
腕といわず顔といわず擦り傷切り傷打ち身だらけで、何度も転んだのだろう、洗い忘れた髪にはまだ泥がこびりついている。
なりふりかまわず、飲まず食わずで駆け続けてきたことを示すには十分すぎる姿だった。
「お願いします、どうか、どうか……!
弟が助かるのなら、俺はどうなったってかまいません、命だって差し出します、だから……!」
【……そういった類のことは、軽々しく口にするもんじゃない。】
忌々しげに、幻紅鳥は少年から視線をそらした。
【そういうことを言うのは、人間だけだ。全く…。】
「申し訳ありません、でも…!」
【その前に。はっきりさせておきたいことがある。】
翼を広げると、幻紅鳥はふわりと舞い上がった。
あれだけの大きさだというのに、その動きはとても軽やかで、重力というものを感じさせない。
そのまま、数歩後ろにある岩の上に舞い降りた。
【…君は、私に会えばすぐに願いをかなえてもらえると…いやそもそも幻紅鳥は他者の願いをかなえてくれる奇跡の鳥だと信じているようだが。】
そのあと何かひとりごちたようだったが、その内容は少年にはわからなかった。
【…幻紅鳥というのはね、この森と共にある。
だからよほどのことがなければこの森からは出ないし、ましてや君の住んでいた郷になど行ったこともない。
そこにどうして「願いをかなえる仙鳥」などというものの話が伝わっているのか。】
一気にまくし立てるのは、今まで言いたいことをぐっとこらえていたからなのだろう。
しかし、ただ一縷(る)の望みにすがって山野をひた走ってきた少年にとっては、絶望を宣告されるにも等しい言葉だった。
【…噂が一人歩きをしているとしか思えん。
だから、私は君が思い描いているようなものではないのだよ、残念ながらね。】
少年は面を上げない。
距離を開けた幻紅鳥の目にも、その肩が震えているのがはっきりと見て取れた。
「じ…じゃあ…あいつは……。」
【…確かに私は仙獣の端くれだが。
仙人だからといって、世の理(ことわり)全てに通じているわけではない。
それは神の領域であり、仙人のそれじゃないのだから。】
幻紅鳥の声音には、先ほどまでの突き放したような語調はやや薄れていた。
【付け加えるなら仙人の中にだって格というものがあってね。
私なんぞはかなり未熟な部類になるのだよ。
そんな私に無条件に誰かの願いをかなえることなど、ましてや生き死にをどうにかすることなど……。】
「そ……んな…………。」
呟きは嗚咽に代わり。
いまだ薄暗い森の中で、少年は面を伏せたまま、泣き崩れてしまった。
幻紅鳥は変わらず岩の上から少年を見下ろしている。
【……君がどんな思いで、どんな覚悟で、ここまで来たのか。それはもう十分伝わった。
どうにかしてやりたいのはやまやまだが、死んだ者を蘇らせるというのは、】
「生きてます!」
思わず面を上げた少年と、幻紅鳥の目が合った。その瞳には、彼がまだ望みを捨てていないことを示す光があった。
「まだ生きてます! 死なせるもんか!」
幻紅鳥は何か反論しようとしたようだが、初めてまっすぐ向けられた少年の面には、一切の揺るぎも迷いも無く。それは彼が強い意志の持ち主であることを示していた。
幻紅鳥は静かに目を閉じた。
【…仮にそうだとしよう。
まだ余命あるはずの者を死の淵から引きずり戻すのであれば、確かに私にだって手の出しようはある。】
「それじゃあ…!」
【まぁ待て。
それでも君の願いをおいそれとかなえてやることができないのは、他にも理由があるからなんだ。
ひとつには…、】
いったん言葉を切りちらと少年を見、彼の表情が一転して希望の輝きを取り戻しているのを見て、幻紅鳥は何故か一つ嘆息してみせた。
【君がここへ来るきっかけとなった、君の郷に伝わるという伝承だ。
ここでもしも私が二つ返事で君の願いをかなえたとしたら、どうなると思う?】
伝承は本当だった、仙鳥は実在するのだといううわさは、瞬く間に近在の村々に広まるだろう。
都にだって届くかもしれない。
そうなれば、願いをかなえてもらうべく大勢の人々が幻紅鳥の元へ押しかけてくることになるだろう。
いや、願い事を独占しようと幻紅鳥の捕獲をもくろむ者まで現れるかもしれない。
「言いません、あなたが助けてくださったのだということは誰にも言いません。誓います!」
【人間の言い回しに、“人の口に戸は立てられない”というのがあるそうじゃないか。】
苦笑めいた響き。
【いまひとつには、もう少し物理的な話になるのだけれど…先ほども話したとおり、理由あって幻紅鳥はおいそれとこの森から離れるわけにはいかんのだよ。
そして、君の弟さんがいる郷は、この森からいくつも山を越えた先にある。】
末弟を助けるためには、幻紅鳥がこの森を離れなければならない。
あるいは、末弟をこの森まで連れてくるか…。
【…弟さんは動かすのも危険な状態なんだろう? …まぁそういうことなんだ。】
「……どうにも、ならないんですか…?」
【仙人というのもね、日々自由気ままに暮らしているわけでは、ないんだよ。
これはこれで制約も多いんだ。】
そういうわけで、大変申し訳ないが諦めてくれたまえ……と翼を広げ飛び去ろうとして。
今まさに地を蹴り飛び立たんとしていた幻紅鳥の動きが、ぴたりと止まった。
せっかく広げた翼をゆっくり折りたたむ。
しばし中空を睨みつけていたが、何度か首をかしげる仕草をしたあと、改めて少年のほうに向き直った。
【……先ほど、弟さんを助けるためなら自分はどうなってもいい、と君は言ったが。
その言葉に偽りは無いかい?】
「はい。」
短く、力強く、少年は即答した。
ふむ、という呟きが少年の頭に小さく届く。
【…弟さんに、いや家族に二度と会えなくなるのだとしても?】
「……はい。」
今度はやや間があった。目を閉じ、一度深呼吸してからの返答には、それだけ彼の決意の固さが見て取れた。
【実は。先ほど挙げた“助けてあげられない理由”を、一度に解決する方法が、無いことも無いんだ。】
「本当ですか!?」
大仰に幻紅鳥はうなずいてみせた。
【……三年ばかり先の話になるが、この森を離れなければならない用事ができてしまってね。
その間の留守居を仙獣仲間の誰かに頼もうと思っていたんだ。
……君が留守居役を引き受けてくれるというのなら、予定を前倒しにして、用事のついでに君の郷に立ち寄ることもできるだろう。
それで手打ちという条件になるが…。】
「やります、留守居でも何でも、やります!!」
【留守居役と言っても、人間のそれとは少々勝手が違うんだがね?】
幻紅鳥の口調が次第にゆっくりしたものになっているのに、少年は気づいた。眼差しにも、試すような色がある。
【……この森の留守居を引き受けるということは、即ち私の体を預かってもらうことを意味する。
期間は…百年。】
敢えて感情を押し殺したような声が、少年の頭に静かに響く。
【百年間、君はこの森に留まり、私の代わりをするんだ。】
ざわり、と風が鳴った。
周囲の木々の枝という枝が揺れて、若葉どうしがこすれあう音がいやに大きく少年と幻紅鳥とを包み込む。
相変わらず色彩は無いが、夜明けが近いのか、ぼんやりとしていたものの輪郭がわずかにはっきりしてきたような気がした。
【あるいは、百年の奉公と引き換えなら君の願いをかなえてやることができる、というふうに解釈してもらってもいい。
……それでも、いいか? …というより、それしか解決方法を思いつかない。】
沈黙が、両者の間を支配した。
少年はやや視線を落とし、じっと考えているようである。
幻紅鳥のほうもまた、身じろぎ一つせずに少年を見下ろしていた。
【…まぁ内容が内容だからな。今すぐ返答しろというほうが無理だろう。
私のほうに急かす理由は無いから、じっくり考えるといい。…じきに夜も……。】
と、幻紅鳥の言葉が終わるのをさえぎるように、少年の体が動いた。
居住まいを正し、そして改めて両手と額を地に付けた。
「…構いません。
俺のせいで、弟は生死の境に立つことになってしまった。
迷っている時間は無いし…二度と家族に会えなくなるというのなら、それは俺がしでかしてしまったことに対する罰なんです。
だから…喜んで、百年間ご奉公いたします。」
【……本当にいいんだね?】
「はい。」
そうか、と呟くと幻紅鳥は翼を広げ、再び少年の間近に舞い降りた。
もう少し明るくなれば、瞳に映る互いの姿が見えそうなほどの距離である。
【では、私に触れてごらん。】
少年は面を上げた。言われるまま、恐る恐る右手を差し出す。指先が紅い羽毛にそっと触れた。
【くれぐれも、この森と、私の体のこと、頼んだよ。】
その言葉が頭に届いたのとほぼ同時に。
少年と幻紅鳥は強い強い輝きに包まれ。
そして。