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都から遠く遠く離れた、小さな寒村に。四人の兄弟が住んでいた。
両親は早くに亡くなったが、兄が父親役、姉が母親役となって、仲良く暮らしていた。
二番目と三番目の間はやや歳が離れていたこともあって、末っ子の面倒は主に三番目が見ていた。
年少の二人は、どこへ行くのもいつも一緒だった。
毎日村外れまで水を汲みに行き水がめを満たすのも、里山に分け入り焚き付けを集めるのも、ちょっと油断すると天井裏に棲みつくネズミを退治するのも、川へ行って小魚を釣ってくるのも、畑仕事の合間に鶏小屋の掃除をするのも、近所の老人の元へ竹細工の作り方を習いに行くのも、村長の家で飼われている犬をからかって追いかけられ村長と兄からこってり絞られるのも、決まって二人一緒だった。
その日、少年と弟はいつものように里山へと足を踏み入れた。
春分も過ぎ、山中はいよいよ生命という生命が輝きを増し。
いずこに目をやっても、萌え上がる新緑が見る者にさわやかな感動を与えてくれる。
生い茂る手前の木々の根元には、この時期だからこそ差し込む春の輝きを一身に受けて、色とりどりの小花たちが懸命に花びらを天に向けている。
そんな花々の間を飛んでいくのは、チョウかハチか。
細長い葉の上を固い背をした丸い虫が、小さな足を懸命に動かしながら歩いていく。
若葉の陰でじっと身を潜めているのは、生まれて間もないカマキリの子供たち。
そんな景色の中を、クマ除けの鈴を鳴らしながら、二人は歩いていた。
目当ては山菜である。春の恵みを採取し、食の足しにするつもりだった。
彼らの姉は山菜料理が好きなのを知っていたので、二人は張り切って背負いかごの中を満たしていった。
夢中になって採取をしているうちに、二人はどんどん山深くに入り込んでいった。
山の恵みを求めて分け入る村人は他にも毎年大勢いるが、さすがにこのあたりまで踏み込んでくる者はそういない。
せいぜい鳥獣を狩る猟師くらいのものだ。
ふと面を上げると、日は既に暮れかかっていた。いつのまにか空が赤く染まっているのに気づき、少年は急いで弟を呼び寄せた。
日が暮れる前に、帰らねばならない。
そうでなくとも春先の山は危険だ。
万が一冬ごもり明けのクマにでも出くわそうものなら、ましてや子連れともなれば気が立っていて非常に危険である。
それに、真っ暗になってしまったら郷への道がわからなくなってしまう。こんなに遅くなるつもりなどなかったから、そもそも明かりになるようなものなど携行していない。
二人は大急ぎで山道を下り始めた。
背負いかごの中には、上出来といえるほどの収穫が納まっていた。
だが、一つ一つは大したことがなくても、これだけの量となるとやはりそれなりの負荷になる。
はやる心をあざ笑うかのように、背負いかごは頻繁に木の枝に引っかかり彼らの足を止めることとなった。
迷った末、兄はひとつの決断をした。
山道を大きく外れ、谷川のほうへ進路を変えたのである。
山道は大きく蛇行していることを、兄は知っていた。蛇行している部分をまっすぐ突っ切れば、その分早く郷に戻れると考えたのである。
勿論それは大変危険な道のりであることも重々承知している。
けれど、この山にはヤマイヌの群れが棲みついているらしいと、聞いたことがあった。
だから、多少の危険を冒してでも一刻も早く郷に帰りつくことが大事だと、考えたのだ。そのときは。
やがて二人の前につり橋が現れた。
それほど長いものではない。端から端まででも、水車小屋一軒分ほどの長さしかない。
少し下流に新しく作られた橋があるので今ではほとんど使う者もいなくなったが、ここを渡れば郷まではあと一息である。
まず兄が橋を構成する綱に手をかける。
危ないから使うなとは言われていたけれど、強くゆすってみても返ってくる手ごたえは力強かった。まだ綱に張りがある。
意を決し、そろりそろりと足を運ぶ。途中一度足を踏み外しかけたが、何とか渡り終えた。
振り返り、注意を促す。
続いて弟が渡り始める。高いところがで苦手で当初は難色を示していた弟だが、先に渡り終えた兄に促されると、こわばる体を無理やり動かし、一歩を踏み出した。
弟の体重と、背負いかごの重量を受けて、つり橋は大きく揺れる。半分ほど進んだところで、手すり綱にしがみついたまま、弟は動けなくなってしまった。
兄が再度促す。しかし弟はおびえた表情で首を振るばかりで、いっこうに立ち上がろうとしない。
その間にも日はどんどん暮れていく。もう空の半分ほどが夜の色に染まりつつあった。一番星が輝くのも間もなくだろう。
業を煮やした兄は、その場に背負いかごを下ろすと、再びつり橋に足を乗せた。
二人目の重量に橋は大きくたわみ、弟がたまらず悲鳴を上げる。
そんな弟を励まし、兄は一歩、また一歩、慎重に弟に近付いた。そして、もうあと一歩というところまで来たとき。
突然、橋を支えていた綱の一本が、切れた。がくん、と橋全体が大きく揺れる。弟の悲鳴が谷川に響いた。
つり橋というものは、何本もの太い縄を渡して造るものである。その中の一本切れたところで、そう簡単に落ちたりはしない構造になっている。それが普通だ。
しかし下流に新しい橋がかけられて以来使う者のいなくなったこのつり橋は、手入れされていなかった。通常なら定期的に縄を交換するのだが、それがされていなかった。
長年風雨にさらされ続けた綱は、当然劣化する。
綱が一本切れれば、その分の負荷は他の綱に振り分けられることになる。
一時は持ちこたえたかのように思われたつり橋は、しかし二人の耳に嫌な音を届け始めた。
連鎖するように次々とほころびはじめる、綱。切れ目はひとつが二つになり、あっという間に少年二人の体重を支えきれなくなった。
悲鳴。
それをかき消すような音を立てて、つり橋は崩落した。
負荷の原因となった少年たちがいた場所から、前後に千切れている。
その千切れたつり橋に、兄はしがみついていた。
右手はつり橋の踏み板だったものを掴み、そして左手には。
弟の右手があった。弟の体は宙に投げ出されており、自力で届く範囲にはもうつり橋を構成していた綱は無かった。
自身の体重と、弟のそれと、弟の背負いかごの重量が、全て少年の右手にかかっている。
谷川までの高さは、物見やぐらがすっぽりと納まるほどはあった。そしてその底にある川は、春の雪解け水によって嵩(かさ)を増している。落ちたらただでは済むまい。
恐怖のあまり、弟はもはや声も出ない。引きつり動けなくなった弟を、兄は叱咤した。
とにかくこのままではいけない。暴れないでくれているのは幸いだが、それでも弟の体を片腕一本で引き上げるのは、至難だ。
それでもやらねばならない。
歯を食いしばり、早くも感覚を失いかけている指に気合いだけで力を入れる。
たとえ自分の腕が今後使い物にならなくなろうとも、弟だけは絶対に助ける。助けねばならない!
しかし、二人をつなぐ手はそんな思いとは裏腹に、徐々に緩んでいき。
次の瞬間、弟の体は一足先に夜の帳が下りた谷川の中へと、吸い込まれていった。
兄の絶叫が、谷間に響いた。
ようよう自力で岸を登り郷へ帰り着いた兄の知らせで、郷の者が総出で谷川の下流域を捜索することになった。
幸い夜明け前に流木に引っかかっているところを発見・救出されたが、雪解けの冷水にもまれた体は冷えきり、ひどく衰弱していた。
自宅に運び込まれた末の弟は、昏睡状態のまま目を覚まさない。弱々しく上下する胸だけが、辛うじて生きている証であった。
当然、すぐ上の兄は長兄に呼び出された。
怒り心頭だったはずだが、当事者である少年自身が恐怖と激しい後悔とで震えているのを見て、長兄は怒声を引っ込めた。
姉は泣きながら必死に末弟の看病を続けている。
しかし、末弟の具合はいっこうに良くなる気配は無かった。
それどころか体温もなかなか回復する様子が無い。
郷に医者はいない。
遠く離れた町まで行けばいるが、そもそも医者を呼ぶだけの金など、兄弟には無かった。
郷の薬草師も、もうできることは無いと言って、帰っていった。
もはや祈るしか、兄弟にできることは無くなった。
夜はじりじりと更けていく。
緊張と静寂とが支配する屋内に、ただ部屋を暖めるために焚かれ続けている火鉢――近所の者が貸してくれたものも合わせて三つ――の炎だけが、赤々と揺れていた。
少年――共に山に入った次男――は一人、土間の隅でひざを抱えて座っていた。
もっとしっかりつり橋の安全を確かめていれば。
あのつり橋を使おうなんて思いつかなければ。
近道をしようなんて思わなければ。
もっと早くに山を降りていれば。
いやそもそも、山に入ろうなんて思いつかなければ!
心を占めるのは、後悔の念ばかり。ああ、俺は何てことをしてしまったんだろう!
もしも弟が居なくなってしまうようなことになれば、それは全て自分の責任なのだと。
弟が助かるのなら、自分はどうなってもかまわないのだと。
そんな思いでいたとき。
ふと、脳裏に、ずいぶん前に郷の老人から聞いた話を思い出した。
『いくつも山を越えた先の深い森の中に、願いをかなえてくれる仙鳥が住んでいる』――。
気が付くと、少年は家を飛び出し、夜明け遠い暗闇の中に駆け出していた。
弟が助かるためなら、俺は何だってする。
山の向こうというだけで、詳しい場所などわかるはずもない。そもそも、件の里山より遠くへ行ったことなど、生まれてこの方一度も無い。
けれど弟が助かるのであれば、何だってしてもいい、と少年は本気で思った。
…たとえ、代わりに自分の命を差し出すことになろうとも――――!