少年は、駆けていた。
ただひたすらに正面だけを向き、一心不乱に草を、枝を掻き分け、斜面を登り、沢を渡る。
それをもうどれほどの間続けているのか。
何日もさまよっているのか、それともまだ日が暮れてから間もないのか、そんなことすらわからなくなってくる。
腕といわず足といわず、切り傷、擦り傷、打ち身といった類の痕が無数に刻まれている。
血のにじんでいる箇所も一つや二つではない。
だがそれでも少年は、歩みを止めようとはしなかった。
全身にまとわりつく、酷い疲労感。
それすら強引に引きずって、悲鳴を上げ続ける体を鞭打ち。
目的地がどこなのかはわからない。あやふやな言い伝えにすがっているに過ぎない。
けれど、迷っている暇は無かった。
早く、早く、早くしないと間に合わないかもしれない。
いや、たどり着けるのかどうかすらわからない。
でも、少年は行かなければならないと信じていた。それ以外の方法など考え付かなかった。
たとえそれが、ひどく不確かな方法なのだとしても。
もう、それしかすがるものは無いのだから。
【私を探している人間とは、君のことかね。】
不意に、頭の中に声が響き。
少年は夢想から現実に引き戻されたような表情を浮かべて、面を上げた。
元から質素な身なりであったが、森をさまよう間にあちこちに引っ掛けたのだろう、それに輪をかけるように着物はそこここが裂けていた。
顔といわず足といわず泥だらけ、履いていたはずの草履もいつの間にか揃って失っている。
だがそんなことは、少年にとっては全くどうでもいいことだった。
「誰だ、誰かいるのか!?」
姿の見えない相手に向かって放った問いかけの叫びは、自分でも驚くほど貧弱な響きしか伴っていなかった。
腹の底から出したはずの声は、消耗した体力の分だけ張りを失っているようだ。
【人間がこんな人里遠く離れた森の奥まで訪ねてくる理由など、それくらいしか思い至らんからね。】
「! 仙鳥様! 仙鳥様ですか!?」
森の中はいまだ暗く。
これが鬱蒼と茂る木々によるものなのか、それとも夜の帳によるものなのか少年には判別しかねた。
周囲が暗いことよりも、相手の姿を認められないことのほうに、強い不安と、願いに近い焦燥を覚える。
「お願いです、弟を、助けてください!!」
【あっ、こら…。】
一歩、二歩踏み出し。足元に直感的に不安を覚えた次の瞬間。
少年の体はガラガラと崩れる土砂と共に、斜面を滑り落ちていた。
転倒した体を、腕を、足を、礫が容赦なくこすっていく。
滑落はようやく止まったが、少年はしばらく起き上がれないでいた。
崩れた土は少量で、埋まらずに済んだのは幸いか。
それでも力を振り絞って、上体を起こす。
そして、暗い世界に向かって再び呼びかけた。
「弟を、助けてください……!」
【…まず自分の心配をしたらどうだ。】
再び頭の中に響いた声には、若干の呆れが含まれていた。
「俺のことなんかいい、それよりも弟を、あいつを……!」
【…ひとの言に耳を貸す気があるのか無いのか、どっちなんだね君は。】
言われて、少年はようやく口をつぐんだ。
つぐんでようやく……自分がひどく呼吸を乱していることに気づいた。
【…まぁいい。
そのまままっすぐ進むと岩清水があるから、それで傷口を洗いなさい。
この森に人骨をさらしたくはないからね。】
最後の一言の意味はよくわからなかったが、それでも少年は声に示されたとおり、進んでみることにした。
右足を引きずっていることに気づいたのは、今更である。
しばらく進むと、少し開けた場所に出た。ぼんやりと薄明るいのは、夜明け前なのかそれとも日没直後なのか。
相変わらず周囲は鬱蒼とした木々に囲まれているが、それでも物の形と色彩を認識できるほどには視覚的刺激に満ちていた。
……視覚というものがあることすら忘れていたことに、少年は今更ながらに気づいた。ずっと「見えて」いたはずなのに。
「見えて」いたはずなのに「見て」いなかったのは、頭の中を占めていたのがたった一つのことだったからなのだろう。
ともかく、あの声が示したとおり、岩場から水が湧き出している。
近寄ってそっと触れてみると、水は冷たく澄んでいて、そして…少年の痛覚を強く刺激した。よく見ると、右手だけでも随分な傷の数である。
なかには既に塞がりかけているものや、膿んでしまっているものもある。
言われたとおり傷口を洗い、そしてようやく少年は己の全身の有様を確認することになった。負傷していないところを探すほうが難しそうだ。
なるほど、あの声が心配するのももっともである。
と同時に、猛烈な痛みと疲労感が襲ってきた。自覚するしないでこれほど感覚に差が出るとは、思いもしなかった。
ひととおり傷を洗い、ついでに体がもういいというまで一心に喉を潤すと、少年はようやく腰を下ろし、岩場に背を預けた。
…体が、動かない。立ち上がるどころか、腕を持ち上げる、いや指一本動かすのさえひどく億劫で。
だが残っていた気力を総動員して、少年は面を上げ、再び口を開いた。
「…仙鳥様……っ!」
【…今何か食べるもの…人間でも口にできるものを探してきてあげるから。
それを食べて体が休まったら、郷に戻りなさい。
ここは、人間が生きていけるようなところではないのだから。
…わかったね?】
「嫌です!」
拒絶の言葉は、自分でも驚くほど早く飛び出してきた。
「仙鳥様におすがりするしか、もう………!」
【…いいから、そこに座っていなさい。……死ぬんじゃないよ。】
言葉が終わると同時に、どこか意外なほど近いところで羽音が起きた。
葉擦れの音、木々のざわめき。そして。
少年のすぐ目の前に、何かがひらりひらりと舞い降りてきた。
静寂と少年の心中を表したかのように薄暗い世界に映える、輝くように鮮やかな紅い色をしたそれは。
一枚の、鳥の羽だった。
いつの間にか眠ってしまっていた、らしい。
頬を伝う冷たいものに、少年は否応なく意識を覚醒させられた。
体の重さは相変わらず、いや、もっと酷くなっているようだ。
もはやまぶたを開けるのすら気力を要する始末。
けれど、ぽたりぽたりと頬に落ちるそれは、少年の意識が再び深淵へと落ちていくのを阻止してくれた。
次第に合っていく焦点。ようやく像を結んだものは。
【やれやれ、人間とはこうも手間のかかる生き物だとは、思わなかった。】
鮮やかな、紅。
それも、少し手を伸ばせば容易に触れることができるほどの至近距離だ。
それは、鳥の姿をしていた。
かなりの大きさである。
おそらく成人男子でも両手で抱えなくてはならないだろうと思われるだけの胴回りがある。
首は長めで、くちばしは白と黄色の中間のような色をしている。
頭部に冠羽とよばれる小さな飾り羽がいくつかならんでいた。
尾羽は地面に引きずるほど長く豊かで、全体的にふんわりとした印象を受ける。
足はくちばしと同じ色をしていて鋭く力強いが、ワシやタカよりはかわいげがあるな、と思った。
瞳の色は、ひときわ目を引く紅と対を為すかのように、真夏の空のような深い青色をしていた。
その青い瞳が、少年に向けられている。
くちばしには大きく肉厚な葉が一枚くわえられていて、そこから垂れ落ちる滴が少年の頬を叩いていた。
眠りから引き戻したものの正体は、これらしい。
【目が覚めたかね。】
「…仙鳥…様?」
【仙獣仲間からは、幻紅鳥(げんこうちょう)と呼ばれているよ。】
頭に響いた声が終わるのに合わせたように、目の前の鳥は軽く頭を振った。
葉の上に残っていた水が全て少年の顔に落ちる。
【さて。君が食べられそうなものを見繕ってきたぞ。
といっても、人間は大抵のものは火を通してからでないと食べないらしいからな、そのあたりの判別は自分でしてくれ。】
鳥――幻紅鳥が見やった先に視線を向けると、やはり大きめの葉の上に草の実と、あちこち傷だらけになった小魚が一匹乗っていた。
…草の実はともかくとして、魚を獲るのには随分苦労したとみえる。
しかし促されても少年は、食料に手をつけようとしなかった。
ようよう体を起こし、しかしそのままうずくまるように、幻紅鳥に向かって深く深く頭を下げた。
「俺のことはどうだっていいんです。お願いします、弟を助けてください…。」
【他に言葉を知らんのか、君は。】
鳥の左肢が、いらだたしげに軽く地面を引っかく。…それから、まるで嘆息でもするように軽く首を振った。
「お願いします……。」
【ええい、わかった、わかった。話くらいは聞いてやるから!
だから、まずはそれを食べて腹を満たしなさい。それからだ。】
半ばやけっぱちにも聞こえた言葉と共に、軽くその場で羽ばたいてみせる。
紅色の翼が描く軌跡は、まるでそこだけ現実から切り取ったかのように幻想的な色彩となって少年の目に映った。
まさしく幻紅鳥、その名に恥じぬ美しさであった。
「ほ…んとうですか!? ありがとうございます、ありがとうございます……っ!」
【いや待て、聞くのは話だけであって、助けるとか助けないとかいうのはまた別………。】
慌てて言葉をさえぎろうとして……途中で止めてしまったのは、少年の目からほろほろと涙がこぼれ落ちているのに気づいてしまったからだ。
【……それにしたって、まずは君自身が落ち着くのが先だ。いいね?】
困ったように下からのぞき上げた幻紅鳥に、少年はようやくうなずいてみせたのだった。