游津藤梅記7 「白舞陽 洞穴にて真実を知る。」
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 じゃあん、じゃあん、じゃあん……。旗艦「碧鳳」の甲板に下げられている銅鑼が打ち鳴らされている。
 海賊たちは、游津側の軍船に火矢を射かけたり体当たりして船そのものを破壊しようとしたりはするものの、何故か乗り移って白兵戦をしかけようとはしなかった。
 海に不慣れな舞陽はそのことに全く疑問を抱かなかったが、後日報告書を作成するにあたって明槐にその話をしたら「そりゃそうだ、軍船にお宝が積んであるわけないもの」と回答された。
海賊が白兵戦をするのは船を沈めずに乗組員だけ殲滅したいからであって、めぼしいものを積んでない軍船などまともに相手するだけ無駄、ということらしい。
 ともかくそんなわけで、状況が不利と見るや否や、海賊船たちは無駄な抵抗をせずに海軍からの距離を開き始めた。
しかし、「ここを拠点とする海賊を掃討する」のが目的である海軍としては、逃がすわけにはいかない。後退を始めた海賊船に、追いすがるように追撃をかける。
賢明な指揮官たちの中には「罠」を警戒する者もいたが、旗艦が前進を始めたとあっては追従せざるをえない。
 そんな中、ただ一隻だけ白兵戦が発生している船があった。仕掛けたのは海賊ではなく、官軍に属する者たちである。
最初からまともに戦う気が無かった証に、海賊船の乗組員は既に射倒された射手の他には大した戦闘員は居らず、また「意外な戦力」のおかげで「乗っ取り」は思ったよりもあっけなく成功した。
幸い動かせないほどの重傷者は紅蛟には出ていなかったので、全員が新しい船に乗り移り、味方に攻撃されないようすぐさま官軍旗が掲げられる。
事の顛末を見ていた者でもいたのか、新しい官軍船は思ったよりすんなりと海軍に迎え入れられた。
 その新官軍船の甲板にて。
舞陽は愛剣の刃についた返り血を拭い取ると、「意外な戦力」に向けて静かな怒りのこもった目を向けた。
「いやー、荷の中で昼寝していたはずなんだけど。
気がついたら海の上だし、戦いが起きているし、水は入ってくるし……。」
あははははー、と乾いた笑みを浮かべながらなんとか言いつくろおうとしているのは、舞陽の三妹、耀だった。決して「こんなところ」に居ていい人物ではない。
当然と言おうか、舞陽の目線はあくまで「冷たかった」。
「…………。」
どうしてこの時機に、どうして紅蛟に、耀がもぐりこんでいたのか。
言いたいことは山ほどあるのだが、怒りが先にたって言葉にならない。
その無言の圧力は、当の耀だけでなくその場に居た者たちの口出しを封じてしまうには充分すぎる威力を持っていた。
それでも舞陽が「雷」を落せずにいるのは、何を隠そう、「乗っ取り」の際に正規兵を差し置いて大活躍したのが、このわずか十歳の少女だったからである。
 海賊との交戦中に甲板に出た耀は、舞陽が戦闘から目を放せないでいるのを幸い、後方で火消し作業を手伝っていたのだ。
沈みゆく紅蛟から海賊船に、誰よりもまっ先に飛び移るや否や、生来のすばしこさを最大限に発揮して当たるを幸いにばったばったと海賊どもをなぎ倒し、気がつけば海賊の半数は耀一人の手で撃沈されていたのであった。
ちなみに、耀自身は徒手空拳であったために、彼女の手にかかった者たちは全て存命で、今は馮州兵たちによってもれなく縛り上げられ、邪魔にならないよう甲板の隅に転がされていたりする。
 そのときの武勇伝は、後々まで馮州兵の語り草になった…かどうかは不明だが。
 そんなわけで、この戦闘での最功労者は誰の目にも三妹であることは明白だったから、舞陽としても怒るに怒れなかったのである。
 「……小耀。」
「はっ、はい!?」
 反射的に耀の背筋がぴんと伸びる。
怒気とも殺気ともつかないものが、大姉の全身から放たれている。
こういう状態になった大姉には逆らわないに限る。
全身に嫌な汗をかきつつ耀はただただ、嵐が過ぎるのを待つしかないな、と悟った。尻尾があったら確実に腹の下に巻いていただろう。
「……游津に帰ったら、小嘉と二人分の説教だから、覚悟しておけ。」
それだけどそっと言い置くと、舞陽は踵を返した。
この騒ぎの間も船団は海賊の根拠地へと近づいている。無鉄砲な三妹の相手をゆっくりしている暇が無いのは事実だった。
 (舞陽姉と嘉姉、二重のお小言!? ひえぇぇぇぇ〜〜〜〜……。)
安石にまで気の毒そうな目を向けられ、耀は兵の一人に促されて、船室の奥へと連れて行かれた。
けれど、それでも、耀の瞳から輝きが消えることはなかった。
(でも。「お小言」は帰ってからだもんね♪)
 …どうやらこの娘、まだ何か、考えているようである…。


 船対船の戦いは、一応の決着をみていた。
現在の戦力は游津軍が十八隻、海賊船が七隻。双方合わせて九隻が既に戦線を離脱していることになる。
逃走を図る海賊船にはもはや統制といったものは見受けられず、それぞれが勝手な方向に散っていく。
しかし、それをさせまいと歓将軍は全船に指示を出した。火災を起こさずに済んだ十八隻の軍船が、左右に大きく広がっていく。
しかし海賊たちも大人しく包囲されるいわれはない。巧みに波と風を捕まえ、半数は包囲網を突破してしまった。
「歓将軍! 奴等の主戦力はここには無いぞ!!」
舞陽の忠告が届いたのかどうかは判らない。しかし主力ではないからといってこのまま海賊船を逃がすわけにもいかない。
懐に飛び込まれ海軍に乗り移られると、海賊たちは拍子抜けするほどあっけなく縛につくこととなった。
 「将軍、逃げた賊どもを追撃しますか。」
旗艦碧鳳の甲板で兵の一人が歓将軍に問うた。歓欧壬は一呼吸の間考えていたが、「それには及ばん」と短く答えた。
「これだけ距離が開いてしまっては、捕らえるのはもはや無理だ。
それよりも、このまま予定通り彼奴らの拠点に入る。半数はここに残し、賊どもの処理をさせる。」
 再び碧鳳が前進を始める。次第に小さくなっていく逃走船を渋い顔で睨みつけたまま、舞陽もまた碧鳳に続くよう操船士に指示した。

          ◆   ◆   ◆

 まるで鋭い刀剣で撫で切ったかのように。その入り江は細く、深かった。
崖の落差が大きく、頂上付近は鬱蒼と木々が茂っているため、上からも崖下の様子はよく判らないであろう。
「まったく、よくもまぁこんな場所を見つけ出したものだ。」
周囲の景色に面食らいながら、舞陽は呟いた。
 外海と直結しているわけだが、地形そのものが消波の役割をしているらしく、入江の中は驚くほど穏やかだった。
だからこれだけ狭いにもかかわらず、衝突の恐れなしに複数の船が同時に進めるわけである。
 入江の最深部には、船のまま入っていける洞窟がぽっかりと口を開けていた。入り口付近には、明らかに人の手が入った形跡がある。間違いない。
待ち伏せがあるかもしれない、と緊張が全軍に走ったが、特に何事も起きることなく、数隻の船が静々と洞窟内に侵入した。
 明かりが灯される。照らし出された洞窟内には、簡素ではあるが桟橋が作られており、修理中と思われる海賊船も何隻か係留されていた。
壁際には様々な荷が積み上げられているが、少なくとも視界の届く範囲には人影どころかネズミの気配すら無かった。
 充分に警戒しつつ、兵たちが次々と上陸を始める。
「我々も上陸するぞ。」
不安げな表情を浮かべる操船士たち(彼らは軍人ではなく、雇われているだけに過ぎない)に隠れているよう指示すると、舞陽もまた上陸準備を始めた。
ここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかない。彼女と彼女が率いてきた兵は瑞府から派遣された正規軍であり、海賊退治をするのを任としている。
その正規軍が遠征先で何もせずに帰ってきた、ということは決してあってはならないのだ。
 「私が参ります。」
声に振り返ると、安石だった。既に上陸準備は済ませているようで、彼愛用の倭刀(日本刀)を佩いている。
「いや、お前は留守を頼む。」
隠れている賊に船を強襲される恐れがある。
指揮官が二人とも船を下りてしまったら、万一の場合に船を守る者がいなくなってしまう。
賊を殲滅することが出来たとしても、船が失くなってしまったら帰ることはできなくなり、舞陽たちはこの洞窟で一生を終えることになってしまうのだ。
 しかし。いつもは舞陽の補佐を過不足なくしてくれる優秀な副官である安石が、何故か今日に限って一歩も引こうとはしなかった。
「いいえ。お願いします。私に行かせてください。」
まっすぐに、安石は孫ほどの歳の上官を見つめている。
何故安石がそんなに上陸したがっているのかは判らなかったが。
しばしの沈黙の後、結局舞陽はその熱意に押されてしまった。静かにうなずく。
「…解った。だが、私も上陸するぞ。ここまで来て中途半端に終わらせるわけにはいかない。」
代わりに馮州から連れてきた信頼できる私兵の一人を呼び寄せ、留守を命じた。
そして連れてきた兵の半数を彼につけると、残り半数を率いて、舞陽と安石は海賊の根拠地へと降りていった。


 洞窟は、舞陽が思っていた以上の規模があるようだ。
元々洞窟自体が天然のものであるため非常に入り組んでいる上に、そこに海賊たちが逐次「拡張工事」を加えていったらしく、二次元どころか三次元に空間が広がっているのである。
通路は人一人が通るのがやっとのところもあれば、それこそ宴会でもできそうなほどだだっ広い空間まで、多岐に渡っている。加えて。
(……こんなところで寝起きして、よく息苦しさを感じないものだ…。)
地平線が見える地で育った舞陽にとって、この圧迫感を与える空間というのはどうしても不快以上のものを覚えずにはいられなかった。
生理的な相性がよくない、とでも言うのだろうか。まるでモグラか地ネズミにでもなった気分である。
 海軍兵達が走り回ったり物をどかしたり言葉を交わしたりするのが、岩壁を伝わって驚くほどよく耳に届くのも、また不思議な感覚だった。
ということは、自分が漏らす言葉もあちこちに聞こえてしまう、ということなのだろうか。
 海兵たちは、一足早く奥深くまで探索に入っているようで、舞陽の周囲に居るのは自身が連れてきた精鋭の他には、数人が伝令用に残されているくらいだった。
「やれやれ、これではどちらが賊なのか判りませんな…。」
居住区として使われていたと思しき空間を覗き込み、安石が嘆息交じりに小さく呟く。
布団や寝台の下などに隠れている者が居ないか探った後なのだろうが、まるで強盗でも押し入ったかのような散らかしぶりである。
だが、それも仕方の無いことかもしれない。
というのも、官軍がこの洞窟に到達してからいい時間が経過しているというのに、これだけ探しても海賊の姿はどこにも、陰一つすら見つけられずにいたからである。
兵たちも、そして歓将軍も舞陽も、次第に不気味な焦りを感じ始めていた。
 「将軍、私はあちらを探索してみます。」
そう言って安石が示したのは、歓将軍が向かった通路だった。そのことを舞陽が指摘すると。
「大勢で騒ぎ立てればいいというものではありません。追跡者の気配が消えた直後というのが、最も気のゆるむ時。
もし隠れている者がいたら、むしろ今のほうが発見し易いのです。」
「……好きにしろ。私はもう少しこの近辺を探ってみる。」
許可を与えると、手勢のうち二人を安石につけた。
わずかな間があったが、安石は黙って彼らを連れ、そのまま舞陽とは別行動へと移っていった。


 「探せ! 先ほどの奴らが脱出のための時間稼ぎだったとしても、他に出た船は無かった。
なら、どこかに地上に出る抜け道があるはずだ!!」
びりびりと、怒声が洞窟内に響き渡る。
自ら下船し、部下と共に深部に向かい陣頭指揮を取っていた歓将軍の眉間に、深いしわが刻まれている。
居住区から出てきたという銀製の装身具を握り締めたまま、ぎりりと歯噛みした。
 これだけ探しているのに、海賊どころか、ネズミ一匹見つからないというのは、一体どうしたことだ。
それだけではない。海賊たちが強奪して溜め込んでいるはずの財宝や食料が、ほとんど出てこないのだ。
出てきたとしても比較的価値が低いものや、重かったりかさばったりして持ち運びに不便なものなどがほとんどである。
 功を焦っているのは、歓欧壬将軍としても同じだった。
 もともと海賊を退治するのは游津海軍の仕事であり、他者(白軍)の手を借りるなどというのは、自尊心の強い彼にとっても我慢のならないことだった。
情報をもたらしたのが白将軍の部下であったから共同作戦をとっているに過ぎない。
この、歓欧壬ともあろう者が、北方出の田舎小娘の手を借りねばならぬなど、屈辱もいいところだ。
そうでなくても游津土着の名家に名を連ねる欧壬は典型的な東海人らしく、中央に対して良い印象を持っていなかった。…そういう風に育てられてきたのだ。
 そして彼の部下たちは、そんな上司の性格をよぉく把握していた。だから、必死にもなるのである。


 「やはり、足止めをしている間に財宝を持って逃走したのか…。」
もぬけの空となった空間に、舞陽は忌々しげに呟いた。
歓将軍はああ言ったが、彼女はそうは思っていない。
海戦に気を取られていた間にこっそり船を出されてしまった可能性は否定できないのだ。 それも、こうも徹底的に荷を運び出されているということは……。
心中の暗雲が次第に濃くなっていくのを覚えつつ、舞陽は目の前の扉を開いた。
 そこは、言ってみれば書斎のような部屋だった。恐らく幹部が使用していたのだろう。
他の部屋には見られなかったどっしりとした机が設えられており、壁には游津近海の(ものと思われる)海図のようなものが貼られていた。
「やはり、目ぼしい物は持ち出してしまった後のようだな……。」
無駄なんだろうなという気分に支配されそうになりながら、舞陽は部下たちに指示を出した。
それを待つまでもなく、兵たちは隠し部屋等が無いか既に探索を開始している。
年代ものの老酒が詰まった瓶首や真珠や珊瑚で細工された箱などが幾つも見つかったが、こっそり懐にねじ込もうという者は一人もいなかった。
彼女の部下たちは、歳下の女性とはいえ上官である舞陽を慕い敬っていたので、彼女が望まないこと――略奪行為――をしようという気にはならなかったのである。
それこそが、舞陽自身がそれと意識せずとも築いてきた「人徳」なのである。
 「将軍!」
と、机を調べていた兵が声を上げた。
無言のまま舞陽が近づくと、兵は引き出しの一つを取り外した。
引き出しの奥にもう一つ隠し引き出しがある。それも引っ張り出してみたが、中身は空だった。
「…やはり、肝心な物は全て持ち去ってしまったようだな。奴らもそこまで間が抜けては……。」
諦めて部屋を出ようとしたときだった。
隠し引き出しを受け取った別の兵があっ、と声を上げた。
「なんだこりゃ。」
「どうした?」
「底が二重になってるぞ!」
「何?」
わらわらと何人かが集まってくる。
先ほど声を上げた兵ががたがたと箱をいじっていると、ある拍子にぱかり、と底が外れた。彼の言葉どおり、底がもう一つ、現れた。
そこに入っていたのは……。
「信書(手紙)……?」
提灯の明かりの元、丁寧に折りたたまれた書簡が数通、わずかな隙間から姿を現した。
書かれた時期はばらばららしく、まだ折り目の甘いものもあれば湿気を吸ってすっかり形がいびつになってしまっているものもあった。
何しろ出てきた場所が場所である。その一つを手にすると、舞陽は黙って広げてみた。
 にわかに、白将軍の顔色が変わった。書簡を持つ手がかすかに震えている。
「…何が書いてあるんです?」
好奇心の強そうな兵が、沈黙に待ちきれなくなって思わず声をかける。
しかし舞陽はそれには答えず再び丁寧に折りたたむと、他の書簡も手にとり、全て自身の懐にしまいこんでしまった。
「…将軍?」
「…ここはもういいだろう。」
ようやく、舞陽は口を開いた。必死に隠そうとしているが、動揺しているのは誰の目にも明らかだった。
「歓将軍と合流する。安石には船に戻るよう伝え……。」
 深部で大音声が鳴り響き、洞窟全体の空気がびりびりと震えたのは、まさしくそのときだった。


最初はそれが何なのか、何が起こっているのか、皆目検討もつかなかった。
音にもならない音と、地を打ち鳴らすような響きが、耳と足の裏に同時に届く。
それは理屈抜きに、生あるもの全てに恐怖をかきたたせる。
何しろ、元は天然の洞窟である。人の手が加えられているとはいえ、やはり非常に不安定な空間であることは否定できない。
いかに厳しい訓練を施され、いかに統率の取れた軍隊といえども、やはり人間の本能まで支配することはできない。
 絶えることなく続く細かな振動、そして紅蛟の船腹に開けられた穴とは比べ物にならないほどの激しい流水音。草原の民にだって想像するのは難くない。
(水が来る!?)
水練で、いかに水中での自由が利かないか、体をもって覚えたばかりだ。波の穏やかな入江ならばともかく、濁流に飲み込まれでもしたら…!
馮州兵たちの顔色がみるみる青ざめていく。
 恐怖に駆られ狂乱状態に陥りかけたのは、白舞陽も同じだった。
けれど、それでも、彼女の目の前には苦楽を共にしてきた大切な部下たちがいた。
「落ち着け!」
この怒声は、むしろ自分に向けられたものだったのかもしれない。
しかし凛とした舞陽の声が岩壁に響くと、兵たちはぴたりと悲鳴を上げるのをやめた。本能的な恐怖に支配されながらも、それでも舞陽を注視し次の言葉を待っている。
「…水音は奥から聞こえてくる。洞窟の奥は下に向かって伸びており、ここより低い。
よって直ちにここまで水が来ることはない。」
努めて冷静な口調を装うと、緊張で破裂しそうな心の臓を無理矢理落ち着かせようと大きく深呼吸した。
――指揮官が取り乱した軍隊がどうなるか。故郷で目の当たりにしたことがある彼女にとって、それは自身を差し置いてでも防がねばならないことだった。
「だが、ここに留まる理由ももはや無い。いったん船に戻ろう。いずれにしろ、他の者たちと情報を交換せねばならん。」
「厳副官のほうはどうしますか。」
安石は、歓将軍の後について奥へ向かったはずだ。
「……お前たち、先に戻れ。」
言うなり、兵が手にしていた提灯をひったくって踵を返す。
何を意図しての行動なのか、部下たちはとっさに理解できなかった。が、勘の良い者が二人、数歩遅れて彼女のあとを慌てて追った。
「将軍! まさか、お一人で副官を探しに行くつもりじゃ……!」
「戻れと言っただろう!」
「しかし……!」
「これは命令だ! 船に戻り、点呼を取れ! 私が戻るまでに完了させておくんだぞ!!」
振り返りもせずそう言い捨てると、舞陽は血相を変えて我先にと逃げてくる海軍兵たちの間をかいくぐって奥へと向かった。
 怖くないわけがない。
 むしろ、今すぐにでも太陽の元へ飛び出したい衝動に、ここに来たときからずっと駆られている。
それらをねじ伏せているのは官軍司令官としての誇りと自尊心、そして……いつの間にか覚えていた「安石に対する依存心」だった。
 白舞陽の両親は既に他界している。白家の家長は今や彼女自身であり、ましてやここは故郷北威から遠く離れた異郷である。
つまり舞陽にとって、最も身近で最も頼れて、そしてほぼ唯一と言っていい「叱ってくれる」存在は、いまや巌安石という初老の男しかいないのである。
その安石の身にもしものことがあったら。
親孝行ができないまま亡くなった両親、その本来なら両親に向けているはずの敬愛の念を、いつの間にか安石に抱いていたことに、舞陽はようやく気づいた。
…例え血の繋がらない「上司」と「副官」であっても。安石は舞陽にとって大切な「おじいさん」だったのだ。
(安石…どこだ……!)
道々すれ違う、船へと避難する兵の数は、どう見ても少なすぎる。そしてその中に、安石につけたはずの二人の姿もまた、見当たらない。
危険に対する恐怖よりも、なかなか見つけられない焦りと不安のほうが次第に大きくなっていく。
道…というか空間は、さらに下へ下へ向かって伸びている。
途中、上方に向かって伸びる分岐もあったが、舞陽ですら通れないほど狭かったり、すぐに行き止まりになっていたりした。
ということは、歓将軍や安石たちはさらに奥、つまりこの道を下っていったのだろう。
が。
 不意に、道が閉ざされた。
先ほどから足下でぴちゃぴちゃと水を踏む感触があったのは知っていた。
舞陽の目の前に現れたのは、巨大な水溜り。通路は水溜りの「中」に向かって伸びている。
(水没している!?)
しかも、気が急いている彼女の目にもそれと判るほど、水位は少しずつだが確実に上昇していく。
進もうと思ったら、この水溜りの中に踏み入るしかない。
しかし水は濁っており、いまや水底となってしまった洞窟の傾斜がこの先どうなっているのか、手にした提灯の明かり一つでは判別できなくなっていた。
「安石っ、歓将軍!!」
戸惑っている間にも、水は舞陽の靴を濡らしていく。いつの間にかくるぶし近くまで水位が上がってきていた。
ぐずぐずしていてはこちらも危ない。だが。
「安石っ!!」
岩壁に叫びが反響するが、それももっともっと低い音――地鳴りとでもいうのだろうか――にかき消されてしまう。
進むにも進めず、しかし戻るなどという発想もまた今の舞陽には無かった。
けれど迫り寄せる水の恐ろしい記憶は、あまりにも新しすぎる。それが彼女に二の足を踏ませていた。
もっと奥を見ようと、提灯をかざしたときだった。
何かが水面に浮かんでいる。
それが何なのかを悟ったとき、舞陽は己の心の蔵を何者かにつかまれたような感覚を覚えた。
人だ。軍服を着た人間が、うつぶせになって水面に浮いている。びくりとも動かない。
うつ伏せになっているので顔は判らない。けれど、身につけている衣装には覚えがあった。間違いなく、白軍の者の装備だ。
その人物の周囲だけ、水の色が違う。あれは……血の色!
「安石いいぃぃっ!!」
まだ間に合うかもしれない、その思いが舞陽を水溜りの中へと進ませた。ばしゃばしゃと音を立て踏み入る。
そのときだった。
 「そんなに騒がなくても、聞こえていますよ。」
不意の声に振り返ると。
彼女が今まで居たその後方、十数歩のところに、その男はいた。
血に濡れた抜き身の倭刀を利き手に下げたまま、静かに、立っていた――。

          ◆   ◆   ◆

 「安石、無事だったか。良かった……。」
声音にも安堵は表れていた。きっと表情もゆるんでいたに違いない。
 しかし、そんな舞陽の様子に気づいているはずなのに、安石がこちらに近づいてくる気配は無かった。
「……逃げなかったのですか。貴女のことだから、部下の安全を最優先させると思っていたのですが。」
「それを言うなら、お前も私の大切な部下だ。お前を残して私だけ逃げるなど、できるものか。」
「…その様子だと、船はまだ沈んでいないようですね。」
歩み寄りかけていた舞陽は、そこで初めて、彼に付けていたはずの二人の姿が見当たらないことに気づいた。 では、あそこに浮いているのは…、と振り返る。
「ええ、貴女の推測されるとおりですよ。」
淡々と、安石は言った。そして、軽く倭刀を振る。表面が固まりかけていた血糊が、床と壁に小さな水玉模様を描いた。
「……え?」
……最初は、彼が言っていることの意味が判らなかった。
そしてようやく、彼が「返り血がついたままの抜き身の剣」を手にしていることに気づく。
倭刀に付いている血と、流血したまま水面に浮かんでいる死体と。
 安石の表情は変わらない。
部下たちに「岩石顔」と愛着を込めてこっそりあだ名されているその角ばった顔には、いつもと同じ静かな、しかし淡白な表情が浮かんでいるだけだった。
 「仕掛けを動かしました。この洞窟はまもなく外から引き込んだ海水で満たされます。
海水の引き込み口は海面ぎりぎりにありますし、この洞窟は半分以上が海面より低い。
道を間違えたり躊躇していたら、逃げ道を失います。そして…。」
「安石…? 何を言って……。」
提灯の明かりがひどく揺れている。いや違う…提灯を持つ舞陽の手が、静かに震えていた。
 「……歓将軍は…?」
「その奥です。深く潜りすぎて溺れたか、それを免れたとしてもこの奥には通気孔がありませんから、じきに窒息死するでしょう。」
「…では、手紙に書かれていた『内通者』というのは……。」
声が震えている。いや、全身がわなわなと震えている。それは怒りのためか、それとも。その言葉に、安石は初めて少しばかり表情を曇らせた。
「…証拠品を処分していなかったのですか。一緒に沈めるつもりだったのか…やはり二代目というのは……。」
「答えろ!」
「既にお答えするまでもないと思いますが。」
そう言うと、安石はすうっと倭刀を構え、自分が仕えていたはずの上官に切っ先を向けた。
「何故!? お前は実直で、いつも官軍のために粉骨砕身してくれていてくれたではないか!!」
「私は、帝国の兵になった覚えは、ありません。」
舞陽に向けられた切っ先は、小揺るぎもしない。安石の目もまた、静かに、だがまっすぐに、舞陽を見つめていた。…彼に迷いは、無い。
「中央に出たのも、そもそもは彼らの手伝いをするためでした。
それが巡り巡って、こういう形で海に戻ってきただけの事。
官軍に籍があるからと言って、心身ともに官兵であるとは、限らないのですよ。
…お若い貴女にはまだ、解らないかもしれないが。」 「…最初から騙していたのか!? 聖上を、巍の民を、皆を、…私を……っっ!!」
「……剣を抜きなされ。正体を知られた以上、ここからお帰しするわけには、参りません……。」
 それ以上問答をする続ける意味は、もう無いのだろう。安石に態度を改める意思は感じられない。
怒りと、困惑と、悔しさと、そして哀しさと。さまざまなものが激しく渦巻く胸中を無理やり押さえつけ、舞陽は剣の柄に手をかけた。
 「よかろう! 私が直々に引導を渡してくれるわっ!!」
しゃらんっ、と音を立てて愛剣が躍り出る。そしてぴたりと安石に切っ先を向ける。安石の表情は変わらない。
 睨み合うことしばし。不気味なほどの静寂が彼らを包み。
 そして二人は、同時に地を蹴った。


 舞陽は決して小柄なほうではない。同じ年頃の娘と比べてももしかしたら大柄の部類に入るかもしれない。
 だが年老いているとはいえ、相手は海の男。膂力も、体重も、そして斬撃の重さも、全てが自分のそれに勝っている。一合しただけで、舞陽はそれを悟った。
とっさに力勝負を避け間合いを取ろうとするが、安石はそれを許さない。
まるで最初から判っていたかのように、水から上がった舞陽を、ぴたりと間合いを詰めたまま追ってくる。
「くっ!」
「私に引導を渡すのではなかったのですか。」
ひゅんっ、と目の前を切っ先がかすめる。
よけ際に剣を薙いだが、倭刀に止められてしまった。がきんという鈍い音とともに、火花が提灯のぼんやりとした照明の中で散った。
力だけではない、叩き上げとはいえやはり実戦経験の豊富な安石は、戦いでの駆け引きにも長けていた。
右、左、左、左、右、下、上、右、突き…受け止めるのが精一杯で、反撃に出る隙が見出せないでいる。
その間にも二人の位置は頻繁に入れ替わり、舞陽は改めて厳安石の実力を思い知ることとなった。
 加えて言うなら、がっぷり組み合っての力勝負というのも、どちらかというと苦手だ。
騎馬戦を得意とする一族の出身だからなのかどうかは判らないが、舞陽は一撃離脱型の戦闘を得意としていた。
体重が軽くて斬撃に重さも威力も加えられない分、それを補うのは…速さしかない。
速さでもって翻弄し、軽くてもじわじわと、そして確実に削っていくしかない。
自分が安石に勝るのはその速さと、若さによる持久力くらいしか思いつかなかった。
今戦いの主導権は安石にある。何とかしてこれを奪い返さない限り…舞陽は勝てない。すなわち……。
 象牙色の髪が数本、宙に舞った。同時に首筋をかすめる風圧。ぞくりとしたものが駆け抜けた。
だが止まるわけにはいかない。動きが止まったときが、勝負がつくときだ。
(しかし、こう足場が悪くては…。)
人が生活していたとはいえ、ここは天然の洞窟だ。ましてや崩落現場のすぐ近くである。
足元は平らではなく、ごつごつとした岩場が剥き出しになっており、浸り浸りと水も迫ってくる。 先ほどから何度も岩の破片や砂に足をとられかけているのだ。ぬれている場は滑りやすくもなっている。
しかしそれは安石にとっても同じはず。けれど安石の動きは、それをものともしないほど力強かった…。
だが反撃に出ない限り、勝つことはできない。
 幾度目かの刃を重心移動することでかわすと、舞陽は突然左側の壁を蹴った。その反動でもって体の向きを変え、安石の背後に回り込む。
勿論安石も簡単にそれを許してくれるほど甘い相手でないことは、承知の上だ。
ぐんっ、と倭刀が追う。切っ先が袖に引っかかり小さく裂いたが、肌までは届かなかった。
そのまま舞陽は床に身を躍らせ、空いているほうの腕を利用して衝撃を吸収しつつ着地すると、そのまま安石の足を払った。
さすがにこれは予想していなかったのか、安石は体の均衡を崩した。倭刀が宙を泳ぐ。
「やあぁっ!」
下から迫る鋭い斬撃。しかし舞陽の剣は、安石の体を守る軽鎧の表面を滑っただけだった。角度が悪かった。
「ちぃっ。」
「その程度で私が倒せるとでも!」
今度は舞陽の懐ががら空きになっている。稲妻のように降ってくる突きを、舞陽は横に転がってかわした。
がつん、がつん、ひゅおっ。
転がるのに必死で見えはしないが、倭刀が放つ剣圧は、いつ体を貫かれてもおかしくないことをまるで嘲笑うかのように本能へ告げてきた。
 提灯の明かりの範囲から出てしまう。さすがに暗闇の中で戦うだけの技術は無いのか、安石の追撃が止まった。
壁際なら少なくとも背後から攻撃される心配は無い。背中に岩盤を感じながら、舞陽は立ち上がった。
慣れない条件に、いつの間にか息が上がっている。目を回さなかったのは、ひとえに戦いに対する集中力から来るものなのだろう。
 再び、睨み合い。
長引けば、安石にだって何かしら隙ができてくるはず。しかし……水はそれを待っていてなど、くれない。
 その、一瞬集中が途切れた瞬間を見透かされたのか。大きく一歩踏み出した安石の動きに対する反応が、一瞬遅れた。
(しまっ…!)
左脇腹に走った違和感。続いてその部分が熱くなり。更に遅れて、激痛が脳天へと駆け上ってきた。
斬られた、と本能的に悟った。
(!!!)
間合いを取り直し、顔をゆがめる。
視線を安石から外さないままそっと左の手で押さえたら、生温かくてぬるりとしたものが掌にまとわりついた。
軽鎧越しとはいえ、手で触れた感覚さえ消えてしまうほどの、痛み。
近くに血管が走っていたのか、出血は止まる気配が無い。
「もう、終わりですか?」
わずかに切っ先を下げながら安石が問う。
安石の刃は海戦用の薄いものとはいえ鎧をあっさり貫き、舞陽の柔肌を傷つけた。なんという膂力。なんという剣技。
きっ、と舞陽は睨み返したが、膝が震えていることはもう隠しようが無かった。
「…聞かせてくれ。最初から…私たちを騙すつもりで……。」
「貴女が東海岸に来なければ、私は忠実な部下のままでいられたのですよ。」
静かに、安石は言った。
そこにわずかばかりの愛惜の色が漏れ出でていることに気づけたのは、やはり苦楽を共にし気心が知れていた――と信じていた――相手だからなのだろうか…。
「貴女にも、游津の民にも、そして巍にも。私は何の恨みもありません。」
「ならば何故…!」
「受けた恩は、返さねばなりません。それだけです。」
「恩…?」
その問いに、安石は答えてくれなかった。代わりに迫る、倭刀の斬撃。
とっさに剣で受け流したが、更に二撃、三撃が襲い掛かってくる。その都度、火花が薄暗い戦場に散った。
「さぁ、そろそろ終わりにしましょうか。長引かせても苦しいだけです、痛みを感じないように一瞬で終わらせて差し上げます。」
「安…石……っ!!」
「…そろそろ私を楽にさせてください…。」
倭刀を構えた安石の目には、いつの間にか憐憫の色が映っていた。そして珍しく気合の声を発すると、一気に舞陽との距離を詰めた。
その動きが、やけにゆっくりに見えるのは、何故だろう……。
 不意に、游津に残してきた妹たちの顔が脳裏に浮かんだ。
そうか、これが噂に聞く走馬灯というやつか。本当に出てくるものなのだな。そんな悠長な感想が浮かぶ。
このまま私は父上母上の元に逝くのだろうか…。
 ちりん…。
 どこかで鈴の音が響いた。
それが何だったのか思い出す間も無く、眼前に迫り来る刃。頭で考えるより早く、舞陽は反射的に後方に飛んでいた。
左脇腹に激痛が走る。血はまだ止まっていないが、構ってなどいられない。
「!」
立っているのもやっとな舞陽に、まだこれだけ鋭い動きができるほどの体力が残っているとは思っていなかったらしい。
宙を薙いだ倭刀に、安石の姿勢がわずかに崩れる。泳いだ刀はまだ構えの位置に戻っていない。
考えるよりも先に、舞陽は手にしていた剣を投げていた。
直後、背中を壁にぶつける。失神しかけるほどの激痛が脇腹から脳へと突き上げた。
意識を保っているのが精一杯。そのままずるずると床に崩折れる。
「がふっ…。」
同時に、鈍い声が安石の口から漏れた。
つい先ほどまで白軍の副官だった男の腹の真ん中に、一振りの剣が突き刺さっていた。
 「…………。」
静かに、安石は視線を下に落した。自分の腹に刺さっているのが紛れも無く舞陽の剣だと確認する。
直後咳込み、大量の血が口からこぼれ出た。膝から崩れ、倒れる。
だがその表情には何故か、穏やかな微笑が浮かんでいた。


 肩で息をつき、激しい痛みと戦いながら。舞陽は安石が横たわるのを目で追っていた。
(……勝った…のか? 私…が……?)
手ごたえはあったが、確信は無かった。…安石が倒れるなど、今の今まで考えたことも無かったから。
 悲鳴をあげる体をなだめながら、舞陽はじりじりと安石に近寄った。
出血はようやく止まりかけていたが、身動きするたびに傷口が激しくうずく。それでも構わずに、舞陽は安石の傍らまで何とかたどり着いた。
 安石の息はまだあった。
が、風前の灯なのは明白であった。見る間に赤い池が広がっていく。
 「貴女の勝ちです、白将軍……。」
浅い息の下で、しかしはっきりと安石は舞陽の顔を見て言った。いつもと変わらない、しっかりした口調で…。
けれどそこに力強い響きは、もう無かった……。
「安石…何故よけなかった……。」
彼の実力なら、あの体勢でも充分よけることができたはずだ。よけていれば、確実に自分にとどめを刺すことができたはずなのに……。
しかし安石は、満足げに小さく首を振った。
「あなたの実力が…私に勝っていた。それだけのこと……。」
再び吐血。
自身の傷も忘れて、舞陽は夢中で安石にしがみついた。
腹に刺さった剣を抜きたい。しかし抜けば傷口から更に大量の血があふれ出してしまう…。
「そんな顔をなさるな…貴女は勝者……。」
「もういい! もう喋るな!!」
叫びというより悲鳴に近い舞陽の声は、涙に濡れていた。
「今、助けを呼んでくる。それまで……!」
入り口のほうに身を翻そうとする舞陽の、服の裾を安石はしっかりと握った。どこにそんな力が残っているのかと不思議なくらいに。
「それには…及びません。それが…貴女のためです……。」
「どうして!?」
「裏切り…者が部下に居たと…なれば、いろいろとまず…いでしょう……。」
息が次第に浅くなってくる。
まだちろちろと揺れている提灯の明かりの中ですら、目の焦点が合わなくなってきているのが、舞陽には判ってしまった。
がくがくと震えているのは、負った傷の痛みのせいではない。顔と同じようにごつごつした安石の手を握りながら、舞陽はふるふると頭を振った。
「そんなこと…。」
「白将軍…強くおなりなさい。どんな困難にも…誘惑にも…打ち勝てる強い…心をもったにんげんに……。
…あなた……にはそれ……だけのうつ…わがあ…る。わたし…がほしょうし…ます…………。」
「安石……っ!」
「あな……たにうたれたこ…とを、わたし…はほこりに…おもい……。」
不意に。握っていた安石の手が重くなり。するりと舞陽の手の中から滑り落ちた。
 そして。
 厳安石という男は、二度と動くことはなかった。
 「あ…あ……!」
震えが、止まらない。再びそっと手をとるが、勿論反応は無く。
「安石いいいいぃぃぃぃぃぃ……っ!!」
絶叫が、洞窟内にこだまする。提灯の炎がわずかに震えた。


 そのまま、どれだけの間そこで放心していただろう。
安石の遺体が半分以上も迫り来る水に沈みつつあることに気づき、舞陽は面を上げた。
そのとき。
「舞陽姉?」
不意に、やたらと耳慣れた声が背後に響いてきた。反射的に振り返る。自分のことをこう呼ぶ者は、一人しかいない。
「耀!?」
「ああ、やっぱり舞陽姉だ!」
ちろちろと揺れる提灯をかざしながら近づいてきたのは、先ほど海上で大暴れしたために船室に軟禁してあったはずの三妹だった。
またしても混乱に乗じてこっそり抜け出してきたのだろう。好奇心が強すぎるこの娘だったらやりかねない。
しかし雷を落すどころか、舞陽はすぐそばにやってきた三妹をいきなり強く抱き寄せた。
わけもわからず、耀は目を白黒させるばかりである。
「ぶ、舞陽姉???」
「見るな! 小耀、見るな……っ!」
人懐こい耀は、安石にもよく構ってもらっていた。
そうでなくても三妹はまだたった十歳の女の子である。大切な妹に、大好きだった安石の今の姿を見せたくはなかった……。
そんな姉の必死な様子に、耀もなにやらただならぬものを感じたようである。おとなしく大姉の言葉に従った。
代わりに姉の顔を覗き込む。
「皆心配してたぜ? 将軍が戻ってこないって。でも命令だから探しに行くわけにいかないって。
だからオレが来たんだ。オレは舞陽姉の「部下」じゃないからな。」
「そうか。心配をかけたな…。」
「へぇ、珍しく素直じゃ……って、なんだよコレ!?」
抱きしめられた際に付いたのだろう。腕に、服に、べっとりと付いた血が舞陽のものだと知り、耀は危うく悲鳴を上げそうになった。
そういえば、大姉の顔色も悪い。
「大丈夫、大したことない……。」
「大したことあるじゃないか!! こんなに血が出てるってのに!!」
呆れ混じりに叫ぶと、耀はその小さな肩に姉を担いだ。
一瞬ためらいを覚えたが、三妹がその年恰好に不釣合いなほど人並み外れた膂力の持ち主だったことを思い出し、そっと重心を預けた。
 …妹のぬくもりが、こんなに嬉しいものだなんて。今まで、どうして気づかなかったんだろう…。
「さぁ、皆が待ってるよ。」
「…ああ。」
水は妹の膝まで来ていた。
立ち去る直前、舞陽は肩越しに背後を振り返った。
折りしも、彼自らが招いた水によってふわりと浮かび上がった安石の亡骸に、心の中でそっと別れと感謝の言葉を告げ。
 そして姉妹は今度こそ、仲間たちの待つ船へと、戻っていった。

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