游津藤梅記8「李明槐 故郷の蒼き空に吼える。」
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 寝台の上で、白舞陽は壁にもたれ膝を抱えてうずくまっていた。
 窓から差し込む光は既に夕刻のもので、游津城市の東側にあるこの家は、早くも蝋燭の灯火が欲しくなるほど薄暗くなっている。
 駐屯村のほうは、いたって静かだ。
ごく一部の者を除き大半は、先日海賊によって焼き払われてしまった塩田村の復興支援に行っている。
 家の中も静かだ。
芝玉は耀に連れられて部下の家族宅に遊びに行っているし、嘉は明槐の元に用事があって行ったきりまだ戻ってこない。
このさして広くもない家に今居るのは、舞陽一人だけである。
 ゆっくりと面を上げる。
半月前に負った脇腹の怪我は、適切な応急処置が行われたことと、舞陽自信の若さもあって、ようやく日常生活に支障が無いほどにまで回復していた。
けれど、鋭利な刃物で切られた痕は、傷口こそ小さいが深さは見た目では判らない。
完治までにはまだしばらくかかるだろうし、それまではやはり大人しくしているようにと――そして傷痕は残るだろうとも――医者にも言われた。
だからこうして「自宅療養」をしているわけだが。
 (結局。何をしに游津に来たんだろう、私は……。)
この一ヶ月。物事はめまぐるしく進展していった。
それなのに自分はそれに関わることもできずに、こうして暇をもてあましている……。
勿論気にならないわけがなく、むしろ先頭に立って関わっていたいのだが、嘉をはじめ全ての人間に「怪我を治すのが先だ」と諫められてしまってはどうしようもない。
――仕事に没頭していたほうが余計なことなど考えずに済むのだが。
 再び、抱え込んだ膝の中に顔をうずめる。
(嫌だな……。)
こんなふうに溜息ばかりついていることも、そんな自分も。
そして、こんな姿を誰にも見られたくないと思っていることも。
 あの後。
耀に抱えられて船に戻った舞陽は、人数を確認し水没しつつある洞窟からの退避命令を出すと、緊張が途切れたのかそのまま失神してしまった。
 歓欧壬将軍が游津に戻ることは、なかった。
 厳安石のその後も知れることはなかった。
 恐らく歓将軍と同じく水に飲まれてしまったのだろうというのが皆の見解であったし、それに対して舞陽は沈黙を保っていたため――必ずしも間違っているともいえない――、真実は表に出ることはなかった。
――ただ一人を除いて。


 数日後。
 ようやく外出できるようになった舞陽は一人、あの小さな雷龍廟が建てられている小山へとやってきていた。
 周囲から「戦力外通告」をされているにも等しいから、時間だけはたっぷりある。
大した山でもないのに途中何度も休憩を取り、ようやく雷龍廟がある広場にやってこられたのは、昼餉時を少し過ぎたころだった。
 初めてここを訪れたのは、夏の終わりだった。
今は、すっかり冬枯れした草々が海風に渇いた音を立てて揺れている。
明槐もここしばらく多忙で来ることができなかったのか、広場はすっかり荒れ果ててしまっていた。雷龍廟の前には落ち葉が深く吹き溜まっている。
 春節が近いということもあり、冷たく湿った冷気は靴を通してすらじんなりと染み込んでくる。
寒さだけで言えば彼女の故郷である馮州のほうが格段に厳しいのだが、冬季でも空気が乾燥している故郷とは異なり、游津の冬は海の風と湿気が体感温度を下げているらしい。
同じ「寒さ」でも、こうも違うものなのか。
小さく身震いすると、舞陽は外套の襟元をすぼめた。もう少し風通しが良くないところに移動しよう。
 自分だけでも生きて帰れたことを、雷龍に礼参りする。
 海賊退治そのものは、失敗したといってもいい。
拠点こそ潰せたが、海上で交戦した者たちを除けば捕縛・殲滅ができたわけではない。
荷もほとんどが運び出された後であったし、そもそも拠点を破壊したのは……。
むしろ、見事にかく乱させられたといってもいいだろう。
軍船数隻と数十名の兵を失い、そして何よりも歓欧壬将軍と厳安石の戦死。游津側の被害は甚大だ。
それに対し、海賊たちは拠点こそ失ったものの、まだまだ活動を続けるための資金も人材もある。
これで「我らの勝利」などと嘯ける官兵がいたらぜひ見てみたいものだ、と皮肉を込めて心中で呟いた。
 しかし。舞陽もこれで引き下がろうなどという気は無かった。
自分が皇帝から賜った任は、あくまで東海の海賊退治である。それは何が何でも全うせねばならない。
 海軍が立ち直るにはどんなに急いでもあと半年は要することだろう。
歓欧壬が死んだことにより、軍部や政庁といった支配者層での権力争いの構図が変化しつつあることも要因である。
勿論そんな彼らに頼ることはできないし、頼ろうとも思っていない。
ではどうするのか。
そのために舞陽は今日ここに来たのだ。
   …寒風山肌を撫で 陽光雲に遮られること久し
   人の世の煩わしきこと 海原の荒波をも凌ぐ
   されど我が胸中に差すは 桃花の如き柔らかき光
   此を裂くは北辰たりとも叶わず……

 山道のほうから、下手くそな詩歌が風に乗って流れてくる。その声の主が誰であるか悟ると、舞陽はにやりと苦笑を浮かべた。
 「小嘉を撒くのに手間取ったか。」
枯れ草の間から姿を表した明槐を見つけるや否や、舞陽は少しばかり意地悪な口調で問うた。
「あれ? 先に来るつもりが遅刻しちゃったみたいだな…。」
いつものように小脇に硯箱を抱えたまま山道を登ってきた明槐は、そう言ってやはりいつものように頭を掻いた。
こちらも外套を着込んでいるので、いつもよりふっくらした輪郭になっている。
「構わん。私もつい今しがた来たところだ。」
「そうか…? で、誰にも聞かれたくない用事って、何?」
部下にも、そして妹たちの耳にも絶対入れたくない話がある。
そう言って舞陽は明槐をここに呼び出したのだ。ここなら、うっかり表を通りがかった身内に立ち聞きされる恐れも無い。
実は…と言いかけて、我慢できなくなって舞陽は一つくしゃみをした。
「大丈夫か? まだ本調子じゃないんだから、無理するなよ?」
「病で臥せっていたわけではないのだがな。」
とはいうものの、いくら慣れているとはいえ、やはり寒いものは寒い。
「屋根の下に入ろうか。風が無いだけでも随分違うだろうし。」
吹き込んできた風に思わず身震いすると、明槐は不思議そうな表情の舞陽をその場に残しておもむろに雷龍廟へと足を向けた。そして。
「らいりゅうさまらいりゅうさま、さむいんでちょっとなかにいれさせてください。」
廟に向かってぺこんと頭を下げる。
そして唖然としている舞陽を尻目に、そのまま両開きの扉を開けて中に入ってしまった。
と思ったら頭だけ出した。
「何してるんだよ、早く入れってば。」
「……おい、それはいくらなんでも……。」
前にも記したとおり、巍の皇室において雷龍は特別な意味を持つ存在である。そして、舞陽は巍皇室を心より崇拝している。
そうでなくても雷龍は「神」だ。
その廟に図々しくも入るというのは……。
「大丈夫だって。雷龍様も、大事な信者が風邪を引くのを黙って見過ごされるほど薄情じゃないだろうし。」
そんな神様ならこっちから願い下げだ、とまでは言わなかったけれども。
「それに俺、掃除のときとかにちょこちょこ入ってるけど、罰なんか当たったこと無いぜ?」
…前科があったのか。
ともかく明槐がしつこく手招きするので、舞陽は気乗りしないながらものろのろと雷龍廟の中に足を踏み入れた。
 廟の中は思ったより広かった。
奥の壁には雷龍を奉った祭壇があるが、それ以外は特にこれといったものもなく、二人が腰を下ろしても充分すぎるほどの広さがある。
床には多少の塵が積もっていたが、これは明槐が海賊討伐少し前くらいから急に忙しくなってここを訪れることができなくなっていたからなのだろう。
確かに、屋根壁があるだけで随分違う。
「ちょっと待ってて」と言うと明槐は奥から古ぼけた油皿と火打ちを持ってきた。
油皿から伸びる申し訳程度の芯に灯が灯ると、薄暗かった廟内がほんわかと明るくなる。これくらいの空間ならこれで充分だろう。
それでも罰が当たるのが心配なら帰りがけにちょっと掃除をしていけばいいさ、と明槐は言った。
 「で、話ってのは?」
燭台を挟んだ真正面に陣取ると、明槐は脇に硯箱を置いて座った。
その言葉に舞陽が懐から取り出して差し出したのは、書簡だった。
全部で八通。あの日、海賊の拠点にあった隠し引き出しの底から出てきたものである。
それを舞陽は今日まで誰にも見せることなく隠していたのだ。
ともかく明槐は一番上にあった一通を手に取り、広げてみた。
静かに読み進めるうちに、明槐の顔色がみるみる変わっていくのが、薄暗い灯火の下でもはっきりと判った。
「これは……!」
「つまり、そういうことだったのだ。残念ながら、な……。」
「……なるほど。確かにこれは、誰にも聞かれるわけにはいかないよなぁ…………。」
大きく息を吐き出すと、明槐はへなへなと書簡を持つ手を下ろした。
「…誰にもつけられなかっただろうな?」
「俺なんかつけたって得するような奴なんか、游津中探したっていやしないさ。いたとしても…小嘉くらいなんじゃない?」
「ならいいんだが……。」
眉間にしわを寄せたまま、舞陽もまた書簡の一つを手に取る。
「しかし……まさかこんなところで秦将軍の名が出てくるとはな……。」
 秦牙雷。
游津陸軍の総司令であり、歓欧壬亡き今游津軍部において最も強い権力を持つようになった男である。
これらの手紙は皆、秦将軍と海賊の間で極秘裏にやりとりしていたものの一部のようであった。
手紙にはこう記されている――秦牙雷は海賊の最も親とする友人である、と。
 更に数通を見ると、この件には秦牙雷の他にも何人かが噛んでいるような節が見受けられた。
残念ながら個人名は記されていなかったが、それでも掘り返してみたらばかなり根が深そうだというのは、明槐も舞陽も言下に察していた。
 「…こっちの、『内通者』ってのだけでも判れば、そこからどこかしらに調べてたどっていけるかもしれないけどなぁ…。」
「…安石だ。」
ぽつんと消え入りそうな言葉は、明槐の耳に中途半端に届いた。
「え?」
「巌安石…衍州生まれの、仕官するより以前から海に通じていた男さ…。
彼が、海賊に、情報を流していた……。」
とつとつと抑揚の無い声が紡がれる。我が耳を疑い、明槐は目をしばたかせた。言葉が出てこない。
舞陽は面を伏せたまま。肩が小刻みに震えていた。
「あの日、我らが拠点を総攻撃するということも、事前に漏れていた……!
海賊どもは囮船を迎撃に出している間に荷ごと撤収を済ませ……そして…拠点ごと官軍を……!!」
「そんな……! それに、安石さんだってあの作戦で……。…!?」
ふと何かに思い至る。まさか、と目が言っている。うつむいたまま、舞陽は静かにうなずいた。
「この傷は、安石に斬られたものだ……。」
「ああ……。」
深い溜息をつくと、それきり明槐も黙り込んでしまった。
舞陽が安石を信頼しきっていたのは知っていたし、彼女の妹たちも実の祖父のように彼を慕っていた。明槐自身、安石にはとても世話になった。
だから、この事実を受け入れるのには今しばらく時間がかかる。
「…お前、もしかして知っていたのではないか? いつだったか、『見張っている』とか言っていた相手がいただろう?
それは、安石のことだったのでは…?」
「…ああ、うん……。…そう、安石さんのこと…だった、けど! でもあれは……。」
 あれは白軍がまだ游津に入ったばかりで、明槐も舞陽たちとそれほど馴染んでいなかった頃。
仕事で湊を訪れた明槐は、そこで一人の船乗りと話をしている安石を見かけた。
游津に来たのは初めてだと言っていた安石が何故こんな地元民しか入っていかないような路地に居たのか不思議だったが、衍州の出身だというから知り合いにでも出会ったのだろうと思い、挨拶をしようと近付きかけた。が。
 そのとき明槐は見てしまったのだ。二人が、海賊が使う符丁を使って話をしているのを。
とはいえその符丁は割りと一般にも知られているものだったし、他所の土地では別の意味で使われているのかもしれない。
そう思い直し、彼の言動には気をつけるに留めることにしたのである。
しかし、共に仕事をしていく間にも彼の行動に不審なところはみられず、白姉妹もそろって安石を慕っていたこともあり、明槐自身もしばらくしたらそのことを忘れてしまったのであった……。
 「…ごめん、申し訳無い。あの時俺がきちんとこの話をしていれば、こんなことには……。」
深々と、明槐は頭を下げた。しかし舞陽は。
「いや……。話してくれていたところで、やはりどうにもできなかったと思う…。」
何故なら、そのころ舞陽は明槐よりもずっと安石を信頼していたから。さすがにそれは口に出すのははばかられた…。
「それだけ、安石のほうが上手だったということ……。」
 ぽつり、と床に水滴が落ちた。
「どうしよう…。もう誰も、信じられないかもしれない。信じたいのに、信じられなくなるかもしれない……!」
頭を抱えて、絞り出すように呟いた言葉は、明らかに震えていた。
はっ、と面を上げる明槐。…こんな舞陽を見るのは、初めてだ……。
気まずい沈黙が流れる。しばし迷った後、明槐はそっと手を伸ばして舞陽の手に触れた。
「…大丈夫、信じられるよ。だって、こんな大切で重たいこと、俺には話してくれたじゃないか。
それってさ、俺を信じてくれているから…なんじゃないの?」
触れられると、ぴくり、と反応した手はすぐに引っ込められてしまった。
「それは……。」
「それに、例え君が誰も信じられなくなったとしても。
俺も、小嘉や小耀も小玉、それに馮州から一緒に来た兵隊たち…皆、皆、君を信じている。
それは、忘れないで。」
明槐の声音に角張ったところはどこにも無く。
深く静かな音色のような響きを伴ったその言葉は、まるで乾いた大地に撒かれた潤水のように、静かに、だが確実に、舞陽の中へと染み込んでいった。
 ぽつり、ぽつり……。木板の床に、音を立てて何かが零れ落ちる。
ふと、それに気づいた明槐の表情が困惑のものへと変わった。
右を見て、左を見て。逃げ場が無いことに今更ながらに気づく。困った挙句。
「あれー? おかしいなぁ。なにもみえないし、きこえないぞぉ??」
咄嗟に両手で耳を覆うと、くるりと背中を見せた。
「せまいところにずっといたからかなぁ? しかたないなぁ、ちょっとそとのくうきでもすってくるかぁ。」
そのまま舞陽のほうを見ないようにして、扉に手を伸ばした。が。
 何かに引っかかる。思わず振り返ると……服の裾の端を、伸ばした舞陽の手が握っていた。
「……あ、えっと、その………。」
明槐、既に半ば混乱状態である。今にも背面の壁に張り付いてしまいそうな表情で、女将軍を見つめている。
……自尊心の強い彼女のことだから、こんな「醜態」を自分などに見られるのは嫌がるだろうと思っていたのだが。
 舞陽は何も言わない。ただ、裾を握ったまま、ふるふるふると力なく頭を振った。うつむいたままなので、その表情はやはり見えないのだが。
 嗚咽が、雷龍廟の狭い空間に、静かに響いた……。

 そうか。自分は泣きたかったのだ。きっと……。


 ちろちろと、粗末な燭台の炎が静かに揺れている。
「……で、どうするの?」
ひと段落着くと、明槐は改めて舞陽に問うた。
「どうするって?」
「さっきの手紙の話。俺に話したってことは、どうにかしたいってことじゃないの?」
「……ああ。だが……。」
静かに、舞陽は頭を振った。
「私は海賊退治のために派遣されてきたのだ。例え根がそこにあろうとも、私には游津の内政に口を差し挟む権限は……。」
「俺としては、」
座を正すと、明槐は真剣なまなざしで舞陽の顔を見た。いつの間にか「李明槐」から「官吏」の顔になっている。
「このまま引き下がるのは、面白くない。」
「…それは、私だって同じだ!」
「この手紙を見る限り…ほとんど真実なんだろうけど…海賊と秦将軍をはじめとする一部のお偉いさんたちの利益のためだけに、沢山の人が利用されたってことになる。
俺も、君も、それから……海賊に殺された大勢の人たちの命も……!」
「……。」
「…安石さんは、『海賊に恩があるから手伝っている』って言ってたんだろ? あの人ももしかしたら…いやきっと、奴らに利用されただけなんだと思う。
俺はそう思うし、信じている。」
珍しく強い口調で明槐はそう言った。目には力強い輝きが宿っている。まっすぐに向けられた視線に、迷いは感じられなかった。
「何より、悔しいじゃないか。そうだろう? 他人の命を踏み台にして、のうのうと高見の見物している奴がいるなんてのはさ…!」
「しかし、どうする?
秦将軍は既に、新しい海軍指令が決まるまでの間、一時的に海軍権も預かったという話はお前も知っているだろう?
例の作戦でぼろぼろになってしまった海軍再建の任を正式に太守より賜ったとも聞いている。
いくら我が軍が聖上よりお預かりした精鋭揃いとはいえ、陸・海軍を同時に相手することなど……。」
「そんな無茶は俺だって言わない。それに…真正面からぶつかり合うのだけが『戦い』じゃない。」
明槐が何を言わんとしているのか、舞陽にはさっぱりだ。
「一つだけ、方法がある。」
少し考えをめぐらせた後、明槐はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「…このことを知っているのは、まだ君と俺だけなんだよな? なら、まだ動きようがある。
なぜなら、君は游津に仕えている人じゃないからだ。」
「確かに私は、中央の命で游津に来たのだが…。」
「うん。游津の官吏をやっている俺がこのことを公にしたって、お偉いさんたちにもみ消されるのは目に見えている。でも、」
中央に直接報告する義務と権利を、舞陽は持っている。
「…君なら、太守様や州牧をすっ飛ばして、直接国に訴えることが、できるんだよ。」

          ◆   ◆   ◆

 皇甫静、という人物がいる。
字を公台といい、鎮東将軍の位に就く女将である。
現在はその名の通り巍帝国東部の鎮撫を任としているが、数年前まで平北将軍として北部に赴任していた。
その際、当時まだ一地方豪族の頭領に過ぎなかった舞陽の戦地での働きを認め、将軍として中央に推挙したのである。
舞陽にとっていわば大恩人でもあり、また憧れの人でもあった。
 その皇甫将軍に、舞陽は自らしたためた訴状に明槐が一ヶ月近くかけて集めた証拠資料を添えて、密かに使者を立てた。
公明正大な人物として東海のみならず巍全土に聞こえている彼女ならばきっと、この腐敗が浸透しつつある游津に正しき裁きを下すために力を貸してくれるはずだと。
中央の高官たちの耳にも届き、必ずや「正しい裁き」が行われるものだと。
 そう、二人は信じていた。
 だが。
 あれから二ヶ月。中央からはいまだに、何の沙汰も無い……。


 年が明けた。
 安石との戦いで負った傷もすっかり癒えた舞陽は、少し前から自身も塩田村の復興作業に加わっていた。
といっても既に大方は済んでおり、後回しになっていた集会場などの施設の修繕や、全焼した家屋を撤去した際に大量に出た廃材の処理、そしてめちゃくちゃに踏み荒らされてしまった大切な塩田の整備などが現在の主な仕事となっている。
 舞陽の腰には新しい剣が二振り、吊るされていた。
いずれも直刀で、銘は無いが片方の柄尻に紫水晶、もう片方には紅色の小さな珠がはめ込まれている。
海賊の洞窟で安石と戦った際、舞陽は愛剣を失ってしまった。
その代わりとなるものが欲しいと明槐に注文したところ、安石を通じて職人を見つけてくれたのである。
双剣は初めてだが、一目で気に入った舞陽はそのまま購入し、その場で護手(鉤状の唾のようなもの)をつけてもらう。
職人は少し不機嫌そうだったが、黙って客の注文どおり護手をつけた。
柄尻の二つの石は遠い西国ではアメジスト・ガーネットと呼ばれているもので、それぞれ「忠実」「勇気」を意味する石だと知ったのは、ずっと後年、帝国中枢に名を連ねるようになる大商家の娘と再会したときのことである。


 梅の花がぽつぽつと咲き始めたある日、所用のために舞陽は一旦游津に戻ることとなった。
塩田村と駐留村との間を毎日行き来させている者を交代で常設しているのだが、やはり責任者が自ら赴かねばならない用事というものは発生するものらしい。
 今日の当番である連絡兵と共に游津に入った舞陽は、いつものように事務所に向かう。
いつものように二妹の嘉が出迎えてくれたが、いつもとは明らかに違う事態が起きていた。
 「おかえりなさいませ。」
事務所で彼女を待っていたのは李明槐ではなく、歳の頃三十前後と思われる男だった。
背は高くないが上唇の髭は丁寧に手入れされており、どことなく成金めいた印象を抱かせる。
「貴方は?」
「本日付で貴軍の担当となりました王徽来と申します。よしなに。」
眉をひそめて尋ねる舞陽に、男はそう答えて恭しく拱手の礼を執った。
作法にはなんら問題は無いというのに、何故か舞陽は好感を抱くどころか嫌悪を覚えた。
「はて。わが軍の担当は李明槐であったはずだが。」
「李明槐は解任となりました。」
「そのような話、私は聞いてないぞ。」
「そうおっしゃいましても…私も上の命令で配属されただけですので。私ではお答えいたしかねます。」
答えるが、その顔には言葉とは全く逆のことが書かれている。動揺を覚えつつも、舞陽は毅然と新しい担当官吏とやらを見やった。
「そうか。だが本日付ということは、引継ぎなどはまだ済んでおらんのだろう。こちらから発注しておいた案件も幾つかあるのだが。」
「申し訳ございません。前任者は既に別の任に就いておりますので、私が改めて承ります。」
「…………。」
 こういう手合いは問い詰めたところでしらをきられるだけだ。
表面上は平静を装いつつ何とか型通りの挨拶を済ませて徽来を追い返すと、舞陽は事務所の隅で珍しく居心地悪そうにしていた嘉を呼び寄せた。
「一体、何があったんだ? 私が留守にしている間に……。」
「それが…妾にも…。」
いつも気丈な嘉ですら、心なしか青ざめているようだ。どうしていいのかわからない、とでも言うようにふるふると頭を振った。
「昨日までは明槐さんがいらしていたんです。でも何もおっしゃっていませんでしたわ。
いつものようにお仕事なさって、いつものようにお帰りになって。どこにも変わった様子はありませんでした。」
今朝になって突然徽来が現れたのだという。
そして「身内とはいえ民間人が出入りするのは感心しない」と言って事務所から嘉を追い出そうとしたらしい。
亡くなった安石の代わりに雑務を処理しているのだと言うと、「白将軍から正式に貴女が副官代理であることをうかがうまでは、一切の処理を禁じます」と応じられてしまった。
なにやら大変なことになったらしいと直感した彼女は、白家の近臣の一人に留守を頼むと、一人政庁に向かい事実を確かめようとした。
が、門衛は取り合ってくれない。
仕方なく明槐の親友である呈安を訪ねると、商人らしく独自の情報網を持つ彼は「噂でしかないけれども」と前置きをして、話をしてくれた。
「…なんでも、游津のお偉方にどこからか圧力がかかったらしい、というのが呈安さんのお話でした。
明槐さんが何の前触れもなく突然担当を外されたのも、そのためだと。」
「なぜ? 明槐はどこの派閥にも属していないと言っていた。
もし呈安の言のとおりなのだとしても、明槐を解任することで得をする者など、いるのか?」
「わかりません。妾にもわからないんです…!」
悲鳴のように呟くと、そのまま嘉はうつむいてしまった。
そうだ、二妹は姉の言いつけを守って留守を忠実に守っていてくれただけで、何の落ち度もない。それを思い出すと、舞陽は踵を返した。
「どちらへ?」
「政庁だ。明槐を捕まえて、直に話を聞いてくる!!」


 二妹嘉がそうであったように。
政庁を訪れた舞陽が明槐への取次ぎをどんなに頼んでも、門衛はとうとう首を縦に振ってはくれなかった。
そうこうしているうちに日が暮れ、多忙な舞陽は帰途に就かざるをえなくなった。
 舞陽の元に中央から使者が訪れ、新しい任務が伝えられたのは、その数日後のことだった。
新しい赴任地は、遼州。甲州から遠く離れた、巍帝国の最東北端に位置する半島である。
 「まだ任務半ばである」と反論したが、使者に噛み付いたところでどうしようもなく。また、白舞陽とってお国に逆らうことなどできようもなく。
 後ろ髪を引かれつつも、彼女は従わざるをえなかった。

          ◆   ◆   ◆

 白軍がここ游津に入ったのは、紫色の藤の花が満開の、春から夏へと季節が移り変わろうという頃だった。
空は青く輝き、緑はより深みを増し、海にも陸にも命の躍動が満ちていた。
最初は嫌悪すら覚えた潮の香も、今ではなんとも感じなくなった。
 あれからいろんなことがあった。
明槐に男と間違えられていたというのも、今ではいい思い出だ。
作業の進み具合を確認しながら、舞陽は静かに苦笑した。
 游津城市の東側に設けられていた白軍の駐留村は今、解体作業が着々と進められていた。
舞陽と明槐と、そして安石が常に詰めていたあの事務所も、今はもう無い。
兵士たちも木造の仮設家屋から移動用の天幕へと寝所を移し、白姉妹が住んでいた小屋も明日には解体されることになっていた。
わずかな家財道具は既に馬車に積み込まれている。
作業が終了次第游津太守に挨拶をし、発つことになっていた。
 海軍の新しい司令官は先月決まった。
会う機会はとうとう無かったので顔は知らないが、どうやら秦将軍の縁者であるらしいという噂は、どこからとも無く流れてきた。
これについていろいろ思うところは勿論あったが。游津政庁内部のことに、中央からの派遣軍を預かっているだけに過ぎない彼女が口を差し挟むわけにもいかず。
やりきれない思いを、無理やり胃の腑に落すしかなかった。…この癖は、一体いつからついたのだろうか。
 明槐が担当を外されてから、十五日。
塩田村の復興作業にかかりきりだったので、舞陽自身はもう二十日あまりも顔を合わせていないことになる。
 先日、新しい旅に必要な物資の調達を発注してあった陳家の跡取りである玉翠堂の若旦那が、荷を届けに来た。
表向きは「大口注文をしてくださった大得意様だから」ということになっていたが、下男ではなく彼自ら足を運んだのは、勿論別の意図があってのことだ。
王徽来が所用で場を外した隙を狙って、呈安は素早く舞陽に囁いた。
 表向きは新しい仕事に回されたことになっているが、明槐は今一切仕事を任されていない。
それどころか、勤務時間中は政庁から出ることを固く禁じられてしまった。
仕事が終わっても全ての門兵に「李明槐を城市から出さないように」という連絡が回っていて、駐留村はおろか大好きな釣りにすら行けなくなっているという。
「…それでもあいつは、『慣れているから』とかなんとか言って、自分のことよりむしろ白将軍の心配ばかりしていました。
…本当は、余計なことは言うなと口止めされていたんですが……。」
それでも二・三日に一度は店に嘉が訪ねてきて『何か新しい情報はないか』と訊くので、黙っていることができなくなり、こうして参上したのだ、と呈安は言った。
「一体、何があったんです? 明槐のことといい、貴女の異動といい、この突然の動きは……
いえ、一介の商人が知りうるようなことではありませんな。失礼いたしました……。」
背後に徽来の気配を覚え、そこで呈安は口を閉ざしてしまった。
そして、そのまま彼は駐留村を去った。
 それ以来、舞陽の元に、情報らしい情報が入ってくることは無かった。
その間にも着々と準備は進み。
そして、ついに旅支度が整ってしまった。
 翌日游津を発つという日、舞陽は游津政庁に上り、太守に出立の挨拶をした。
赴任してきたとき同様、太守の反応は薄っぺらなものだった。
無理も無い、短い期間とはいえ中央から派遣されてきた軍隊だというのに、結局海賊を退治することはできなかったのだから。
だが、今なら判る。海賊を退治する前に何より、この游津政庁の中に巣食っている汚職の根を刈り取らねばならないということが。
けれど哀しいかな、それを糾弾することは、外部の者である自分にはできないのだ…。
太守の元を辞し廊下を行くとき、すれ違った官吏たちの幾人かから半ば敵意めいた視線を感じたのも、真相を知ってしまったからなのだろうか。
急速に力をつけた秦将軍にへつらう者もきっと少なくないのだろう。
…どうして、今までこの視線に気づかなかったのか。やはり己に甘さがあったからなのだろうか、と自嘲せずにいられない。
政庁を出て城門を抜けるまでの間、ずっと自分を尾行する影があったこともまた、舞陽は知っていた。
別に知られて困るような行動を取るつもりも無いので、そのまま放置していたが。
 そんなこんなで。游津で過ごす最後の夜がやってきた。


 「遼州ですか。この際ですから、少々遠回りして北威に立ち寄るというのもよろしいですわね。」
移動用の馬車の中で。明日着る衣服を用意しながら、努めて楽しげに言ったのは嘉だ。
だが故郷の名が出たというのに、たしなめるどころかそれに応じる姉妹は何故かいなかった。
それどころか、口にした嘉自身もまた心からはそれを望んでいないように聞こえるのは、やはりこの移動が納得のできるものではないからなのだろう。
大姉が納得できていないものが、彼女に受け入れられるわけが無い。
「おうちにかえるの?」
三姉に夜着へ替えるのを手伝ってもらいながら尋ねたのは、末妹芝玉。
その紐を結わえてやっている耀の表情もまた、珍しく冴えない。
「んー、帰る…わけじゃないよ。また新しいとこに引越しするのさ。だよね?」
「そんなようなものだな。」
馬車の隅で一人、手酌でちびりちびりやっていた舞陽が応える。
本来なら長旅への出発前夜に飲酒などしないのだが、どうにも今夜だけは飲みたい気分だったのだ。
いつも以上に言葉少ない大姉の心情を慮ってか、嘉も耀もやめろとは言わなかった。
「どんなとこなんだろうな、遼州って。」
「呈安さんからうかがったところによると、あんまり豊かなところではないみたいですわよ。」
玉翠堂は遼州とも取引があるらしい。さすがは海運の町の商人といったところか。
「土地が痩せているところが多くて、畑作は盛んではないそうですわ。」
「じゃあ、あんまり美味しいものは無いかもなぁ。」
見当があっているんだか外れているんだかよくわからない感想が耀の口からこぼれたが、やはり周囲からの反応は無い。
 「さ、小玉はもうおねむだよー。明日はいっぱい移動することになるから…。」
耀に促され、芝玉は布団に収まった。が、ぱっちり開いた瞳は睡魔とは縁遠いことを如実に物語っていた。
「ねぇ……。」
「なに?」
「……ううん、なんでもないの……。」
もぞもぞと鼻まで布団にもぐりこむ。馬車の中は狭いので、耀も同じ布団の中にもぐりこむ。
嘉が明かりを消すと、瓶首と杯が触れる音がたまに聞こえるだけになった。
 馬車の外壁を軽く叩く音が聞こえたのは、そんなときだった。
ほんのかすかな音だったが、舞陽と嘉が同時に面を上げた。
何か言おうとする嘉を身振りで制し、そっと傍らの剣を取る姉。そして息を殺した。
再び、叩く音。それもかなり遠慮がちだ。
こんな夜更けに訪ねてくるあてなどない。用心しつつも、舞陽はそっと扉を開いた。そこに居たのは……。
 「明槐……?」
その言葉にまっ先に反応したのは、芝玉だった。布団を飛び出し、舞陽の陰から表を見る。
そこには確かに、少年官吏の姿があった。
続いて嘉と耀が顔を出す。歓声を上げかけた芝玉に、しかし明槐は慌てて人差指を唇に添えてみせた。芝玉もそれを真似する。
 「入れ。」
周囲に素早く視線を走らせると、舞陽は扉を更に開けて手招きをした。
こんな時間にこんな場所に、何よりこんな事態の最中にこっそり訪ねてきたのだ。この訪問を誰かに目撃されるのは得策ではないはず。
わかっているのか明槐も一つうなずくと、無言のままするりと舞陽の脇を抜けて馬車の中に滑り込んだ。
 「わぁい、みんにいさまだー。」
ただでさえ狭い馬車の中に更に人が増えたのだから、ほとんど身動きが取れないほどだ。それ幸いにと芝玉が明槐に抱きつく。
苦笑しながら、明槐は膝の上に芝玉を座らせた。
 「…ごめん、なかなか来られなくて。……明日、発つんだって?」
「ああ……。」
もう一度馬車の周囲に人の気配が無いことを確認すると、舞陽は静かに扉を閉めようやく腰を落ち着けた。
「お前のほうこそ、こんな時刻によく出てこられたな。そうでなくとも、城市から出さないよう各門に触れが出ていると聞いたが。」
呈安だな、とはじめて明槐は表情をゆがませた。
「前にも言っただろ、農門の門番とは大抵顔見知りだって。」
それでも今日の今日までその手段を用いなかったのは、知人たちに迷惑をかけたくなかったからなのだが。
「…知っているのなら話は早いや。そういうわけで、俺、明日は見送りに行けそうにないから……。」
「それで、深夜に婦女子だけの馬車を訪ねていらしたんですの? なかなかいい根性をなさっておいでですわね。」
すかさず嘉の舌鋒が飛ぶ。が、今日ばかりはその切れ味もいささか鈍かった。
苦笑しつつ、明槐は懐から何かを取り出し、膝の上の芝玉に渡した。
「なーに?」
小さな芝玉の掌に載っているのは、これまた小さな陶製の小鳥だった。中は空洞らしく、それをつなぐようにぴんと上向いた尻尾とくちばしに穴が開いている。
「水笛だよ。中に少し水を入れて吹くと、鳥がさえずるような音が出るんだ。」
いつだったか、芝玉は明槐に笛を教えて欲しいとせがんだことがあった。だが芝玉の小さな手では笛の孔をふさぐことはできない。
大きくなったらね、となだめた明槐にしぶしぶうなずいたのを、耀が覚えていた。
「小玉、お礼は?」
「ありがとう、みんにいさま。」
なるほど、この水笛なら芝玉にも吹ける。何より芝玉はその形状が気に入ったらしく、目を輝かせてしきりに掌の上で転がした。
 「明槐。」
姉妹の最後方に控えていた舞陽が、何か言いたげな目でこちらを見ている。
皆まで言うなとでもいうように明槐は小さく首を振り、そして表情を改めた。
 「……俺も、詳しいことは判らない。でも政庁っていう半分閉鎖された場所っていうのは、噂が広まるのも早くてね。
そういうのをつなぎ合わせていけば、大体当たらずも遠からじ…ってところにまでいけるものさ。」
二ヶ月前、舞陽と明槐が連名で皇甫将軍に提出した訴状は、きちんと中央にまで届きはしたらしい。
だが、所詮游津は地方の一都市なので対応が後回しにされていたようだ。そして、公が動く前に動いた者がいた。
「…秦将軍は、海賊と癒着して得た利益の一部を、賄賂として中央に送っていたらしい。その送った先までは調べられなかったんだけど。
とにかく正式な処分が出る前に先に動かれたらしくて…。」
明槐が白軍の担当を外され半軟禁状態におかれることになったのも、そして舞陽が任務半ばにして急に遼州へ飛ばされることになったのも。
その黒幕が各所にかけた圧力のためなのだろう、と明槐は語った。
 「そんな…お姉様も明槐さんも、間違ったことは何一つしていらっしゃらないのに!
どうして、明槐さんはともかくお姉様がこのような目に……!」
「小嘉。」
「だって、そうじゃありませんか! 理不尽ですわこんなの!!」
「私は巍の臣だ。お国の命令には従う。それだけだ。」
「お姉様……。」
納得していないのは大姉の表情を見れば明白だ。けれどそれでもまだ建前を通そうとする彼女以上のことを言うことができず。結局嘉も沈黙してしまった。
「俺がこの程度…官吏を辞めさせられずに済んでいるってのは……さすがの秦将軍も、絶縁状態とはいえ李泰寧の息子にはさすがにおいそれと手が出せないから、なんだろうな、きっと…。」
こんなところで、こんな形で、父に守られることになるとは…自嘲の色が濃い苦笑がそれを物語っていた。
李明槐の父はそれほどまでに、強い立場にあるのだ。明槐自身はそれを利用することをむしろ嫌っているのだが。
 「半ばにして任務を外されることについては何も言わない。
ただ…海賊はいまだに健在で、游津をはじめ周辺の住民が今後もその害に悩まされるであろう、そのことだけが心残りだ……。」
そして、秦将軍が游津の中枢で力を持つ限り、海賊の掃討に本腰が入れられることは決してないであろうということも。
自分の力でそれを解決させることができなかった悔しさが、やはり舞陽の中にはあった。
「まぁ、なんとかするさ。」
しかし明槐は、そんな彼女の憂いを払拭するかのようにどんと胸を叩いてみせた。
やせっぽちな彼の胸板はおおよそ頼りになりそうには見えないのだが、それでも彼が浮かべていた表情は、いつもの――去年の春、藤の花の季節に出会ったときの――妙な自信に満ちた笑顔があった。
「游津は俺の故郷だぜ? 何とかなるし、何とかしてみせるさ! 游津っ子をなめるなよ。」
「まぁ、気勢だけは一人前ですのね。」
すかさず嘉。まぁね、と明槐は膝に座っている芝玉の頭をくしゃくしゃっとなでた。
「それに。俺の耳にすらこれだけのことが入ってきているんだから、これからは親父が秦将軍の牽制をしていくことになるんじゃないかな…否が応でも…。」
だがその先は? と言いかけて舞陽は慌てて口を閉じた。
いくらなんでも明槐の前では言えない。――李泰寧が秦牙雷と同じ道を歩まないという保証など、どこにある?
「明槐。」
「うん?」
「お前は、なるなよ。汚吏などには。」
突然何を言い出すのか、と明槐はきょとんとしていたが。すぐに真摯な輝きが目に戻った。
「君こそ。そのまっすぐなところが、君の最大の美点なんだから。」
「遠征先でちらとでもお前の悪い噂を聞いたら、どこからでも駆けつけて私が成敗してやるからな。覚悟しておけよ?」
「そっちこそ。曲がったことをやっているって聞こえたら、あることないこと噂にばら撒いてやるからな!」
真面目な顔で言葉を交わし。舞陽と明槐は同時に破顔した。巌安石が亡くなって以来の、笑顔だった。
 「さて。そろそろ帰らないと。」
「えぇ、もう帰っちゃうの?」
心底残念そうに耀が不満の声を上げる。ごめんな、と明槐は苦笑した。
「通してくれた門番のおっちゃんがさ、そろそろ交代する時間なんだ。
人が代わったら俺、家に帰れなくなるし。
何より俺をこっそり城市から出したことがばれて、おっちゃんに迷惑をかけることになるから。」
いつの間にか水笛を握り締めたまま眠ってしまった芝玉を嘉に譲ると、明槐は立ち上がった。
「じゃあ、皆元気で。旅路が無事であるよう、雷龍様にお祈りしておくよ。」
芝玉、耀、嘉、そして舞陽の顔を順に目に焼き付け。名残惜しそうに明槐は扉をくぐって馬車から出ていった。
 「明槐。」
馬車から出て数歩歩いたところで、呼び止められた。舞陽だった。
「なに?」
何か話し忘れたことでもあったのだろうか? 数歩の距離を開けて、二人は向き合った。
 寒気にきんと澄み渡った東の空に、十六夜の月が高く上っている。
遠く、寒々とした波の音がかすかに聞こえてくる。
城壁の陰なので、風はあまりない。
それでもほつれた黒と象牙色の後れ毛が、ふわふわと揺れていた。
「…あれから、いろいろ考えた。
わだかまっていたのは不信ではなく、世界中のどこを探してももう巌安石という人間は存在しないのだ、という事実を認めることのほうだったのだと、ようやく気づいた。
その証拠に、安石に対する「憎しみ」は、あの時も今も、欠片も無いのだから。」
深呼吸。
「だから、信じられる。
恐れずに、人を信じられる。信じる勇気を、これからも持つことができる。
…それを、伝えたかった。」
「そう。」
短い相槌だった。
だがたったそれだけの言葉の中に、深淵ともいえる優しい響きが含まれていた。全てを肯定されたような、気がした。
「それだけだ。ではな。…お前も、達者で。」
それだけ言い、舞陽はくるりと踵を返した。衣の裾に付いていた飾り紐が遠心でひるがえり、美しい孤を描いた。
「舞陽殿。」
今度呼び止めたのは、明槐のほうだった。肩越しに振り返る舞陽。
「あ……いや、なんでもない。」
はにかんだように視線を外す。
そしてもう一度顔を上げてにっ、と笑うと、そのまま明槐は踵を返し、今度は振り返ることなく、夜の闇の中へと駆けていってしまった。


 天晃暦二九三年、春。
 こうして、少年と少女は、再び別々の道を歩み始めることになる。
 秦牙雷の汚職が明るみに出て、游津政庁に巍政府から正式に沙汰が下ったのは、その半年後のことだった。

          ◆   ◆   ◆

 白舞陽将軍と彼女が率いる官軍が游津を去って、数日後。
李明槐はようやく勤務時間中に外回りの仕事に出る許可を得た。
 とはいっても、担当していた白軍はもう游津に存在しないわけだから、仕事の内容も以前と同じ、こまごまとした雑務をちまちまと片付けていくだけなのだが。
そんな中に備品の買出しというものも勿論含まれていて、わざわざ昼餉時を狙って明槐は玉翠堂を訪れた。
あわよくば昼飯をたかろうという下心が見え見えなのだが、そこは幼なじみというか悪友というか。
今に始まったことではないので、あんまり気に病まれない。何より財布の豊かさが違うのだし。
明槐が官吏登用試験を受ける決意をするずっと以前からの慣習だし、ごくたまにいいほど経ってから請求書もどきがこっそり回ってくることもあるので、既にどこまで奢ったり奢られたりなのかわからなくなっている間柄である。
 「おー、来たな貧乏官吏。」
顔を合わせるや否や。玉翠堂の若旦那こと陳呈安は、弟分の首を抱えると、わしわしわしと頭をなでた。
「いてててててててっ、やめろーっ!」
いつものやりとり、いつもの笑い声。そしていつものとおり政庁で使う備品を買い付ける。
何しろ三桁の人間が使う備品である。とても一人で持ち帰れる量ではないので、配達は午後から玉翠堂の下男がしてくれることになっていた。
これもいつものこと。
 そして少年二人は、繁華街へと繰り出した。
 さすが海上交易の中継地とでもいうのか、游津の繁華街は港へと続く海門から市の中心地へと延びる大通りに沿って存在した。
そこから北側へ折れれば歓楽街へ、まっすぐ西へ進めば政庁や古くからの名家や富豪などが居を構える高級住宅地のある一角へ、また左に折れて南に向かえば庶民の住む下町へ、出ることができる。
二人が向かったのは海門に程近い、行きつけの飯屋だった。
すぐ脇の路地を奥に行ったところに催伴柴という老人が営む小さな私塾があり、明槐と呈安は八年前にそこで出会った。
この店もその頃からの馴染みで、勿論店主も二人のことはよく知っていた。
いつもの席に陣取ると、注文もしていないのに二人の好みを承知している店主がいつもの料理を出してくれた。
 「どうした、溜息なんかついて。」
いつもなら成長期の少年の多分に漏れずもりもり食べる明槐の箸が、あまり進んでいない。
それどころか、食事中だというのにぼんやりと中空を見つめているかと思えば、終いには深々と溜息などついてみたり。
まるで、奢ってくれる相手が目の前にいることを忘れてしまったかのようである。
「おーい。」
「え、あ、いや?」
目の前で手をひらひら振られて、ようやく我に返ったものの。箸先からまだかじってもいない芋がぽろりとこぼれ落ちた。
「人に奢らせといて、なんだその態度は。食うなとは言わないが、もっとありがたがれ。」
言いつつ、呈安はできたてあつあつの胡麻団子を口に放り込む。こちらはとっくに食事を終えていて、仕上げにかかっていた。
明槐の目の前に置かれている具沢山の汁は、逆にすっかり冷めてしまっている。
「充分感謝してるぞ。」
「なら、もっと美味そうに食え。」
「美味そうにって…どうしろっていうんだ。」
「そんなだから、いつまでたってもちびって言われるんだ。」
「なっ! か、関係ないだろそんなこと!! お前こそ馬鹿みたいに縦方向ばかりひょろひょろ伸びやがって!」
「ふっふっふ、お前に何言われたところで痛くも痒くもないわ♪ それに、俺がお前くらいのときは、もっとこう、豪快に食ったもんだ。」
「一歳しか違わないだろっ! だいたいその胡麻団子、どこに入っていくんだ!?」
「ふっ。甘いものは、別腹だ!」
無意味に胸をそらす呈安。甘いものが苦手な明槐は、この呈安の論理はいまいち理解できなかったりするのだが。
 そんなこんなで料理もすっかり二人の胃袋の中に納まり。
皿が下げられ、代わりに湯気の立つ熱い緑茶が出てきた。
茶はお国の専売品であるが、名産地である仁州(じんしゅう)や斗州(としゅう)から都へ荷を運ぶ際の中継地でもあるので、甲州では比較的容易に入手が可能であった。
こうやって気軽に楽しめるのも、呈安の財布の厚さと、ここが海運の町であるおかげなのだ。
 「まぁでも、こうやってお前と差し向かいで飯を食えるのも、当分お預けになるからなぁ……。」
湯飲みの中に茶柱を探しながら、呈安がぽつりと呟いた。
「は? え? どういうことだそりゃ?」
「はぁ? だって、出発は明後日だぜ?」
「明後日? 出発?? 何だよそれ、どういうこと……。」
掴みかからんばかりの勢いで卓をはさんで身を乗り出してきた弟分に、呈安は思わず鼻白んで身を引いた。
「何って…衍州(うんしゅう)の臨汪(りんおう)にいる大旦那様の古い知り合いのところへ商いの修行に行くって、言わなかったか?」
「聞いてないぞそんなこと、初耳だ!」
「怒鳴るな! …初耳ってお前、この話は秋くらいはもうに決まってたんだぜ? 話してなかったか?」
「秋……。」
ぺたん、と明槐は力なく椅子に腰を下ろした。全くもって寝耳に水である。そこでようやく呈安は思い出した。
昨年の秋といえば、海賊の根拠地が判明して、游津海軍と白軍とが共同で強襲すべく水面下で念入りな準備を整えていた時期だ。
当然白軍の担当だった明槐も多忙で、自宅にも帰れない日が続いていた。
「……そうか。お前、知らなかったのか……。」
こくん、と無言のまま明槐はうなずいた。
「修行って、どれくらい…?」
「そうだなぁ…三年…いや、五年くらいかかるかも。何しろ親父…大旦那様曰く、『一人前になるまで帰ってくるなー!』だぜ?」
「そっか……。」
呟き、自嘲めいた笑みを浮かべると、明槐はすっかりぬるくなってしまった湯呑みの中身を一気に飲み干した。
「修行、頑張れよ。そんでもって、巍の財界を掌握するくらいになれ!」
「おいおい…。」
思わずこぼれる苦笑。そして玉翠堂の若旦那はぽつりと呟いた。
「白将軍がいなくなるってのは、正直、計算外だったんだよなぁ…。」
……胸の奥がずきりとしたのは、何故だろう?
「は? 何でそこで舞陽殿の名が出て来るんだ?」
今度は呈安、心底呆れた顔をした。
「お前……もしかして、気づいてないのか……?」
「…はぁ???」
「あ、いやいい。気づいてないならないで。そのほうが苦しまなくて済むだろうし……。」
「?????」
やっぱり意味が解らず首を捻っている明槐を置いて席を立つと、呈安は勘定を済ませてさっさと店をあとにした。
そのあとを慌てて追う明槐。
店を出た二人の姿が往来を行く人混みの中に消えてしまうまで、店主が孫を見るような優しい目で、彼らの背を見送っていた。

 その三日後、陳呈安は游津を発った。


 游津城市の東側にちょっとした空き地がある。
普段は陸軍の演習場として使われているのだが、昨年は中央から派遣されてきた官軍の居留地として使われていた。
 しかし。その官軍も、今はもういない。
ただの空き地に戻ってしまったその場所に、気がついたら李明槐はいた。
(……。)
ここに来たって、もう誰もいない。
そんなことは、判っていたはずなのに。それはれっきとした事実で、感傷などでどうにかなるというものではないというのに。
 それでも。気がつくと無意識にここに足を運んでしまっているのは、何故なんだろう?  もう誰もいないのだということを再痛感させられるだけだと、頭では判っているのに。
……ここには、思い出が多すぎる…。逃げるように明槐は空き地をあとにした。
 梅の花の時期はそろそろ終わろうとしている。
今日は仕事が休みなのだが、だからと言って特に何をするあてなど無い。
一人暮らしの身で借りている狭い部屋は寝る以外に用途を見出していないし、玉翠堂に行っても話し相手になってくれる者はいない。
なついてくれていた北威の姉妹も今は遠い旅の空。…実家に顔を出すなどもってのほかだ。
消去法で…というわけでもないのだろうが、自然と明槐の足は游津の南にある小山へと向かっていた。
 ようやく暖かくなってきたからか、冬枯れしていた小山の林にも新しい緑がそこここに芽吹き始めている。
雲の間を割って差し込む柔らかな春の光が、小さな雷龍廟に降り注いでいた。
廟の周りに芽吹いた雑草を抜き、目に付いた落ち葉を拾って藪の中に押し込む。
「白姉妹、そして呈安の旅路が無事でありますように。」
そして、そっと雷龍に祈った。
 雷龍廟の裏手にある槐の樹にも、春は訪れていた。みずみずしい若葉が輪郭を薄緑色に縁取っている。
枝の間をせわしく跳ねていた二羽の小鳥が、明槐の姿をみとめて慌てて飛び立っていった。あれはつがいだろうか。
 そのすぐ傍にある土饅頭の前、明槐はぺたりと地べたに座り込んだ。正面には槐の樹。
晴れて官吏になれた報告を故人にしたその日、日の光を浴びて金色に輝くように見えたこの樹から、明槐は字を貰ったのだ。
あれからもう、三年になるのか。
 「…皆、いなくなっちゃった……。」
自嘲のこもった口調で、明槐はぽつりと呟いた。
「俺だけ…取り残されちゃった……。」
今までは。呈安がいて、舞陽がいて、嘉が耀が芝玉がいることが、明槐にとって「当たり前」のことだった。
…彼らがいなくなるなんてことは、考えたこともなかった。
いや、任務で訪れた白姉妹はいずれこの地から去るということは判っていたのだが。それでも心の準備が整うまでの猶予があると、高をくくっていた。
呈安にしたって、玉翠堂という財産がある以上、ずっと游津にいるものだと、思い込んでいた。
なのに。
 「…ねぇ、イーリャン。なんだかわかんないんだけどさ…このところずっと…胸が痛いんだ。
ずきずきして、いてもたってもいられなくなるのに、でもどうすればいいのか、わからない……。」
声が震えているのは、何故だ。
「……気がつくとさ、俺、舞陽殿のことばかり考えてるんだ。何でだろ。
思い出して、会いたくなって、でも…もうあそこには、誰もいないことは判っているのに、でももしかしたら何か用事ができて引き返してきてるんじゃないかって、そんなことあるわけないのに変な期待して。
そして…やっぱり誰もいないことを確かめて……ああ俺何やってるんだろう…って、落ち込んで……。毎日そんなこと繰り返して。」
頬を伝っていくのは、涙か。
「……今頃になって、こんなに時間が経ってからになって、やっとわかった。
俺、同じことしてる。三年前と同じこと繰り返してる。
呈安の奴がいてくれたら、相談もしたかもしれないけど、でもあいつも今はいないし。」
突き上げてくる衝動。伸ばした手の指先が、土饅頭に小さな溝をつけた。
「…巍は広いから……きっと、もう、二度と会えない。
会えないのに、どうして! どうして、もっと早く、気づかなかったんだろう…
…そうしたら、言えたかも、しれないのに…………!」
胸の奥が、焼けるように、熱い。
「好きだって、舞陽に伝えられたかもしれないのに……っ!!」
そこから先は、言葉にならなかった。墓にすがりつき、明槐は、泣いた。声を上げて、泣いた。
土塊を掴む手は、あの瀞民族の少女の手が触れてくれるのを切望していたが、それがかなえられることは、無い。
 明槐の中に芽吹いた恋心は、しかししっかりと彼の心の中に根を張り。そして十年かけてゆっくりけれど確実に育っていくことになる。
この、槐の樹のように。
 墓の周りに咲いていた、名も無い小さな小さな野生の花が、まるで優しく微笑むように、静かに揺れていた。

          ◆   ◆   ◆

 天晃暦三〇四年、春。
 白舞陽率いる部隊の正面に、大きな建造物が見えてきた。
巍国の都「恒陽」へと続く街道を守る四つの関の一つ、段谷関(だんこくかん)である。
州境でもあるこの関を抜ければ、そこはもう都が置かれている「瑞府」だ。
 この冬まで巍国最南端の地である邂州(かいしゅう)にて異民族と刃を交えていた彼らであったが、任期切れにより指揮官の白舞陽共々、都への帰還を余儀なくされた。
 もっとも、舞陽自身はこんな生活がもう十年余りも続いているので、今では何とも思わなくなってしまったが。
 長い旅路であったが、兵の大半は恒陽周辺で徴兵された者たちなので、久し振りの故郷に自然と足取りも軽くなってくる。
邂州に限らず、現在の巍は国内全体が浮き足立っている感があった。きな臭さを感じる各地の噂話も、庶民の耳に届いているほどである。
国の軍隊である以上、またいつどこへ派遣されるのかわからない。もしかしたら着いた途端に次の赴任地を言い渡されるかもしれない。
それでも、やはり生きて再び故郷の地を踏めるというのは、やはり何ものにも代えがたい歓びであった。
騎馬隊を構成する白家の私兵たちも、そんな彼らの様子をほほえましく見ている。
あるいは彼らの様子に、まだまだずっと北の地である故郷馮州のことを思い起こしているのだろうか。
しかし世の中は不穏な動きを見せつつある。あまり浮かれて緊張感を失うようでは困る…と思いつつも、部下たちの様子に指揮官である白舞陽は馬上で目を細めた。
 白舞陽は二十八歳になっていた。
特に出世するでもなく、今も前線に自ら立ち指揮を取るのが常となっている。
白家の家督を継いだときに立てた誓いどおり色恋沙汰にはいまだもって無縁であったが、それでも様々な経験や出来事を通して得た知己の数はちょっと自慢できるほどだ。
 恒陽に戻ってからのことは、まだ聞かされていない。これもいつものことだ。
どうせまたすぐに何処かの地へ派遣されることになるのだろうが。
(今度の地には、一体どれくらい就いていられるのだろうか。)
短ければ半年・一年で任地が変わる今の生活の発端となったのが、十二年前での游津でのことだというのは解っている。
解っているが、信念を曲げてまで一つ所に留まれるようお上に媚びようとも思わない。
信念を貫くための代価と思えば辛くはなかったが、それでもせっかく親しくなった人々とすぐに別れねばならないのだけは、やはり寂しかった。
 段谷関の門前には、旅人や隊商などが長い行列を作っていた。
国都へと続く公路なので普段から検問が行われているのだが、特に今は物騒且つ大規模な事件があちこちで起きているので、検問は日増しに厳しくなっている。
 舞陽たちの部隊も、門前で一旦歩みを止めた。人間だけでも一千という数だし、その上武装までしている集団である。
味方とはいえ軍隊である以上、首都の防備の要でもある関の通行許可を取り付けるには、それなりの手続きが必要なのであった。
恒陽に帰ってこいとは言われたが、期日を指定されたわけではない。午後までかかるようならここで野営するのも選択肢の一つだ。
先方の都合がよければ、関の責任者と面会することにもなるだろう。
それに、その間兵たちは休息を取れることになる。都までは徒歩でまだ二・三日ほどかかるのだ。
副官に後を任せると舞陽は二人の部下を引き連れて、門前で通行者の荷を改めている役人たちのほうへと馬を進めた。
 「よしよし、関を通ったら宿に泊まれるからな。」
はるばる旅路を共にしてきた愛馬――こちらもかなりのじゃじゃ馬だったのを、心配する元の持ち主である友人に無理を言って譲ってもらった汗血馬(かんけつば/血の汗を流して一日に千里を駆けるという馬、転じて名馬を指す語)だ――の首を軽く叩いてやりながら、のろのろと前進していく行列の横を通り過ぎていくと。
 ふと前方に、行列から離れてうろうろしている一人の男の姿が目に止まった。
 肩幅も上背もあって、なかなか立派な体躯をしている。
服装から地元の民ではなく旅人なのだと判るのだが、荷物は極端に少なく、小脇に包みを一つ抱えているだけだ。
馬も、連れと思わしき人影も見当たらない。
旅人であるならこの関を抜けるために訪れたのだろうが、長く延びている行列に加わらずに通り過ぎていったのを、舞陽は眉根を寄せて目で追った。
…時々、こういうことを平気でやってのける輩がいる。嘆かわしいことだ。
…それとも、行列の後方についた連れの代わりに先の様子を見にでも来たのだろうか?
 「…うあっちゃー…参ったなぁこれは。」
舞陽より十数歩ほどのところで男は足を止め、行列がまだまだ続いていることを確認すると、嘆息混じりにそんな台詞をこぼした。
「さぁて、どうしようか……。」
が、言葉とは裏腹にあんまり困っているように聞こえなかったのは、気のせいだろうか?
そして包みを抱えていないほうの手を頭にやり、所在無げにほりほりと掻いている。
その様子に、舞陽は失礼だと思いながらも、思わず吹き出していた。
世の中にはそっくりな人間が少なくとも三人はいる、などという話を小耳に挟んだことはあるが。
「まるで明槐みたいだ。」
歩き方といい、小荷物を抱えた後姿から受ける印象といい、あの台詞といい。
遠い昔、共に戦った『親友』をくっきりと思い出させてくれる。
思わずこぼれた言葉だったが。
「え?」
どうやら聞こえてしまったらしい。男が振り返った。
 そこには。
舞陽の思い出の中にある少年がそのまま十年の年月を重ねた、まさにその通りの顔が、あった――。
「舞陽殿…?」


 一度分かたれた道が、再び出会った。
 その後もさまざまな出来事がこれらの道をさえぎろうとしたが。
 再び重なった二つの道は、二度と分かたれることは、なかった。

藤梅後記へ。