游津藤梅記6 「巌安石 海原に草原の民を見る。」
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 夜が明けた。
 賊と白軍の戦いは予想どおり、後者の圧倒的な勝利であっけなく決着した。
賊のほとんどは騎兵隊に追われて海上へと敗走し、逃げ遅れたり刃向かって白軍の刃にかかった者は生死を問わず海岸に集められていた。
 村ではあちこちでまだ小さな炎がちろちろと舌を伸ばしていたり、白い煙が昇っていたりするが、確実に鎮火へと向かっていた。
 村の中央にあるちょっとした広場では生存者たちが身を寄せ合って、変わり果てた「我が村」を呆然とみつめている。
 村外れにあるかろうじて焼け残った数件の家屋が村長の協力のもと、白軍の臨時の本部となっていた。そこでは負傷者の手当ても行われている。
 「どうだ、気分は。」
その部屋の隅っこ、壁際に背を預け床に両足を投げ出した姿勢で、顔に水で濡らした布巾を載せていた明槐の耳に、至極馴染みのある声が入ってきたのは、游津の一般家庭では朝餉と昼餉のちょうど中間と思われる時間帯だった。
「…良くはない…けど悪くもない。」
顔の布巾を取るでなく答える明槐。
「そうか。なら、ちょっと来てくれ。」
「? どこへ?」
首を動かすと、顔面から濡れ布巾がずり落ちた。ちょっと迷惑そうな表情の明槐の目に飛び込んできたのは、こちらも適度に疲労した舞陽の姿だった。
「隣だ。昨夜お前が捕まえてきた男が、目を覚ましたらしい。」


 本部が置かれている家の隣の棟。ここには、昨夜明槐が捕まえてきた不審者が、怪我の手当てを施した上で放り込んであった。
 「…俺に何しろっての??」
「そのうち判る。」
そう言って、舞陽は明槐に提灯と真新しい蝋燭を押しつけた。
 建物自体は普通の民家なので窓の無い物置部屋を選び、閂(かんぬき)をして開かないようにしてある。
目を覚ましたらしく先ほど中で大騒ぎをしているという報告を受けたので様子を見に来たのだが、騒ぎ疲れたのか既に静かになっていた。
 「どうだ? 様子は。」
何しろ薄い木製の扉である。ちょっと腕力に自信のある者なら、文字通り破れないこともない。
迷惑そうな表情で渋々見張りに付いていた兵が、舞陽たちの来訪に背筋を正した。
「頭を殴られたとは思えないくらい、元気なものです。
が、罵声ばかりで暴れる気配はありません。縄で戒めておいて正解でしたね。」
答えつつも、やはり兵の表情は冴えない。負け犬の遠吠えとは判っていても、延々と罵詈雑言を聞かせられるのは、誰だって忍耐を伴うものだろう。
ましてや、今は一人でも人手が欲しいとき。この兵も、捕虜より村の様子のほうがずっと気になっているらしい。そしてそれは舞陽にとっても同じであった。
「……後回しにしておきたかったんだが。先に片付けておいたほうがよほど効率が良さそうだな……。」
嘆息し、兵に閂を外すように命じる。用心しつつ、兵はそっと戸を引いた。
 真っ暗だった物置の中に、明槐が手にした提灯の明かりが射し込む。、
柔らかい光であってもそれまで暗闇の中にあった者には眩しいらしく、捕虜となった男は目を細めて二人を迎えた。
「……ちっ、またガキかよ。」
入ってきたのが少年少女と知り、男は剥き出しの土床にこれ見よがしに唾を吐き捨てた。
見張りをしていた兵はそのまま入り口を固めている。
「ガキにしてやられるなんざ。俺もヤキが回ったか……。」
「ガキだと思ったから、突っかかってきたんでしょ?」
珍しく冷たい眼差しで明槐が応じる。気分が優れないのと、命の危険にさらされた記憶がまだ新しいのとで、無意識にそうなってしまうらしい。
明槐の襟元はまだ、昨夜の破れ目がそのままになっていた。
「では、取調べを始める。」
「けっ、ガキどもが。調子に乗るんじゃねぇ。」
「悪いけど、こっちは忙しいんだ。手っ取り早く済ませたいから、少し荒っぽくなるかもしれないよ。…貴方が協力してくれないとね。」
淡々と言いながら、明槐は物置の隅から木箱を引きずってきた。
そのまま底をひっくり返して文机の代わりにすると、村長宅から借りてきた紙と文具一式を広げる。
提灯の不安定な明かりがちらちらと、三人の影をそのまま壁に映し出していた。
 そのとき。不意に、戒められていたはずの男の足が伸びた。狙いは尋問がし易いよう正面にかがんだ舞陽の腹。
完全な不意打ちであったが、それでも舞陽はとっさに肘を引き、腹への直撃だけは防いだ。
しかし足は腕よりも何倍もの力がある部位だ。ましてやならず者の男と体重の軽い舞陽とでは話にならない。
腹を守った姿勢のまま、舞陽は後ろに弾き飛ばされた。
「舞陽殿!」
「将軍!」
戒めていたはずの男の縄が、いつの間にかほどけている。特殊な体術でも身につけているのか、それとも小刀でも隠し持っていたのか。
骨折していないほうの手を床につき転がるようにして体制を整えると、男は蛙の跳躍の如く出口に向かって突進した。が。
 すこーん!といい音がした。同時に男が前のめりにつんのめる。
そこに万が一に備えて待機したままだったあの兵が、上から圧し掛かった。
「明槐さん!」
「逃がすな!」
蹴飛ばされた衝撃で、土壁にしたたかに背をぶつけた舞陽がうめくように叫ぶ。
手元にあった墨をとっさに男の後頭部に投げつけた姿勢のままだった明槐は、すぐに部屋の入り口へ駆け寄ると、扉の横に積み上げてあった麻袋の山を通り道に崩落させた。
その間に舞陽は起き上がり、物置の隅にあった古い穴だらけの魚網を掴むと、上から被せて部下ごと男を捕獲した。
そこに明槐が戻ってくる。兵の下でもがいている男の腕を網の上から後ろ向きに捻り上げると、男は悲鳴を上げてようやくおとなしくなった。
 男は、今度は柱に縛り付けられた。
 一息ついて、取調べが再開された。
体力を消耗したためか、男はもう騒ぐどころか罵ることもなくなった。それどころか、今度は一言も口を利かなくなってしまった。
 「名前は? 海賊の仲間なのか?」
無言。
「何も喋らないのであれば、食事も提供できんぞ。何せ村人に配る分にも事欠いている有様だからな。」
無視。
「…将軍、少し痛い目に遭わせた方がいいのでは?」
見かねて、あの兵が物置の外から声をかける。しかし舞陽はきっぱりと言った。
「拷問は好かん。それに、怪我人をいたぶるわけにもいくまい。」
「しかし、このままでは日が暮れるどころか明日になっちゃいますよ?」
いつまでも、この男にかかりきりになっているわけにいかないのも事実だ。やらなければならないことはまだまだたくさんある。
(確かに。いつまでも根比べしているわけには……。)
いいかげん、舞陽自身もうんざりしてきた。外のことも気になる。
休憩も兼ねて、一旦中断しようかと腰を浮かせかけたときだった。
 それまでやはりつまらなさそうな表情で文机もどきの隅っこを人差し指で叩いていた明槐が、顔を上げた。そしてあの兵を手招きする。
不思議そうに顔を寄せる兵に、明槐は何事かを耳打ちした。二人の顔に悪戯小僧の笑みが浮かぶ。
(???)
 その後すぐ出ていった兵が戻ってきたのは、饅頭が蒸し上がるのに充分な時間が経過した頃だった。何やら茶色くてふわふわしたものを二・三、持っている。
そのうちのひとつを受け取ると、明槐はおもむろに虜囚の元へとやってきた。
「…こっちもいじめたくてやっているわけじゃないんだから。できるだけ穏便に済ませたいんだよ。」
男は仏頂面のまま眉ひとつ動かさない。
「せめて名前だけでも教えてくれないと、こっちも仕事が進まないんだよね。
……このまま黙ってたりすると、貴方のこと『魚三次(次=号)』とか『百足のひげ』とか呼ぶことになるけど? それでももいい? それで調書作っちゃうよ??」
……『魚三次』とか『百足のひげ』とかいう命名感性に若干理解に苦しみつつ、舞陽はそれでも明槐が一体何をするつもりなのか黙って見守ることにした。
…少なくとも、この膠着状態を破る方法があるのなら、むしろ歓迎したい気分であったから。
男はやはり無言を貫いている。
ひとつ嘆息すると、明槐は兵に目配せした。…兵の目が一瞬きらり、と輝いたように、舞陽には、見えた……。
 悲鳴とも歓声ともつかない奇声が、物置から飛び出した。
「ひいいいっ、やめっ、やめて…………ぶわははははははははははははっ!!」
…男の、挫いていないほうの足の履物を脱がせ。兵は先ほどみつけてきた鶏の羽でもって男の足の裏をくすぐっていた。
強くもなく、弱くもなく。見ているだけである舞陽までもがこそばゆくなってくるような、見事な(?)手並みである。
「どう? 教えてくれる気になった?」
並の商人にも引けを取らないような『営業用の笑み』を浮かべて明槐が問う。彼の手にもまた、先ほど手渡された初列風切羽(翼の最外側にある大きな羽)の抜け羽が握られていた。
「だっ、誰が………うひ、うひひひひひいいいいいいいいっ!!」
言葉にならない。もだえ、のたうち、男はこそばゆさに耐え切れずげらげら笑い転げている。
「明槐さん、人間ってやつは足の裏よりも脇腹のほうがずっと敏感らしいですよ?」
「うひ?」
「へえ、そうなんだ。今度呈安に教えてやろう。」
文机もどきの前で自分用の羽根をくるくるともてあそびながら、明槐が言う。そしてちらりと舞陽のほうを見やった。
「…やってもいいですか?」
わくわくしながら兵も上官の顔を見る。…舞陽は偏頭痛を覚えながらうつむいた。
「お前たち……。」
「うーん、そうだな。これだけくすぐっても何も教えてくれないんだったら、一段階上げるのもやむをえないかも。」
顔色ひとつ変えずにさらりと明槐に言われて、男は色をなした。…どうやらこの男、人一倍の「くすぐったがりや」らしい。
「ひいいっ!?」
「あ、でも、笑いすぎて呼吸困難起こして失神されるとまた最初からやり直しになっちゃうから、手加減はしないと。」
「…明槐。」
「あ……。」
先ほど本人も言っていたとおり、舞陽は拷問という手段を好まない。そしてこの「くすぐり地獄」もまた、拷問の手段には違いない。
さすがにまずいと思ったらしく、明槐は羽をもてあそんでいた手を止めた。しかし。
「私は表に出てくる。…夕方までに調書を作成しておくよう。」
そう言い置くと、舞陽は踵を返して戸口へ向かった。
虜囚となった男はしばしきょとんとしていたが。
「ま、待て待て待て、待ってくれ! こいつらだけにしないでくれえええぇぇっ!!!」
どうやら、「この程度」で済んでいたのは舞陽という「歯止め」があったからだ、ということにようやく気付いたらしい。涙混じりの悲鳴で舞陽を呼び止める。
それを聞いて明槐は何事も無かったかのように涼しい顔で筆に墨液を含ませ、兵は少しばかり残念そうな表情を浮かべた。


 その後。
男は至極協力的になり、調書作りはすこぶる順調に進んだ。そこには驚くべき情報が多く含まれており、結果的に大きな収獲となった。
一通り取調べが終わり舞陽と明槐がその建物から出ると、日はまだ西の山並みに差し掛かる前であった。一時はもっとかかると思っていただけに、余計に早く感じたのかもしれない。
何はともあれ、簡単な内容であればもう一仕事くらいはできそうである。
 「明槐。すまんがこれから一走り游津まで行ってくれるか。」
仮の事務所として借りている家屋の一室に戻ると、舞陽は早速に腰をおろして一息ついた官吏に声をかけた。
「…今から?」
怪訝そうに問い返す明槐の正面に腰掛け、舞陽もまたようやく息をつく。
「飛ばさなくても、日がくれる前には着けるだろう。
何しろほとんど燃えてしまったからな。物資が絶対的に足りない。薬も、食料も、それから…人も。」
白将軍が連れてきたのは三十騎の騎兵のみ。今は村人たちもまだ半ば放心状態で座り込んだままだが、家を失った大勢の人々の世話をするには圧倒的に人手が足りないのだ。
いずれは游津の町に移動させるにしても、怪我の手当てをしたり、今日明日の食べ物だけでも確保する必要がある。
けれどもう一つ――舞陽個人にとって最も気にかかること――についてはついぞ口にしなかった。
「…わかった。物資については偉いさんたちに直に掛け合ってみる。応援のほうはどれくらい送ろうか?」
「そうだな…あまり多すぎても回す食料が無いし、やはりあちらを手薄にするわけにもいかん。
お前の言うとおり村人を一時的に游津に移すとなると、受け入れ体制の準備も必要になるだろう。
となると二・三十くらいが妥当かもしれん。それでも足りないようならまた使いを出すさ。」
「了解。」
書き上げたばかりの調書を懐に入れると明槐はうなずき、立ち上がった。
「それから。護衛を一人付けるから、あの男も連れていってくれ。
こちらで監禁し続けるには無理がある。取調べの続きは安石にさせてくれ。
応援人員のほうは、その護衛に道案内させて寄越してくれればいい。」
「そうだな。では、仰せのとおりに。」
破れたままである明槐の襟が、戸口から入ってきたそよ風にひらひらと揺れた。

          ◆   ◆   ◆

 三日後、海賊に襲われた塩田村の人々は徒歩で游津に入った。
難民と化した彼らには白軍駐留村の南隣の敷地――つまり城市の外――が与えられ、そこに一時的に身を寄せることになる。陸軍のお下がりである古い天幕と、食料が配られた。
 游津が通常では考えられないほどの厚待遇を施したのには理由がある。
この村が産する塩は近隣の州で名が知れるほど高い品質を誇っていたからだ。
それだけの技術をようする塩職人たちを失いたくない、という下心が見えるわけだが、それでもいいと舞陽は思った。
理由はどうあれ、寝る場所も食べるものも失った彼らが公に保護されるのだから。
 それとは別に、游津の街は軽い興奮状態にあった。
というのも、白軍の騎兵隊が駐留村を出て間も無く、游津の沖合いに海賊船が現れたからであった。
『それ見たことか』と自信満面の歓将軍率いる海軍がこれを迎撃、海賊たちは上陸どころか海岸に近寄ることすらできずに逃走した。
そのため町のそこここで人々は歓将軍の武勇を称え、「游津海軍万歳」と祝杯を重ねているのだった。
 「暢気なものだな。」
人々と共に游津に戻ってきた舞陽は、先に游津に戻していた明槐から新たな報告を聞いて、そう溜息をもらした。
少なくとも今受けた報告の内容は「游津海軍万歳」などという言葉は皮肉にしか聞こえなかった。
「いいんじゃない? 別に全部公表する必要も無いし。下手に公表して無意味な騒ぎを誘発するよりは、ずっといいと思うぜ?」
こちらも、疲れた顔を隠そうともせずに明槐が答える。
今彼らが居るのは駐留村の事務所であるが、いつも茶を淹れてくれる白嘉の姿は、無かった。


 先日虜囚とした男は、やはり海賊の一人であった。
略奪を行い村に火を放った海賊たちを蹴散らしに白軍が突進してきたとき、誤って海ではなく山側に逃げてしまい、仲間とはぐれてしまったのだという。
怪我はその際に負ったもので、明槐の馬を奪い、陸伝いに拠点へ戻るつもりであったのだ。
 海賊の拠点が陸伝いに行ける場所にある。この話を聞いたとき、舞陽は軽い興奮を覚えた。が、この男からはさらに興味深い話も聞き出すことができた。
 今回の塩田村の襲撃と游津沿岸に現れた海賊船は、二つの海賊団による共同作戦であったらしい。
計画ではまず塩田村で派手に暴れる組が陸軍を引き付け、次に必要最低限の操船士しか乗せていない海賊船が海軍を沖まで引きずり出す。
正規軍を游津から引き離したところで前日に忍び込ませておいた内応者が内側から城門を開き、主力が游津城市内に雪崩れ込む…という手筈だった、と彼は笑いに息も絶え絶えになりながら供述したのであった。
 結果としては、陸軍より先に白軍が動いたこともあり、陸軍が游津から離れなかったため、この計画は失敗したわけである。
 この男からは他にも有力な情報が引出せそうだ。そう思った舞陽は副官である厳安石に取調べの続きをさせるつもりであったのだが。
 游津に戻ってきた舞陽を待っていたのは、その虜囚が何者かによって殺害されてしまった、という報告であった。
 当然のことながら、安石は事務所で帰還した白将軍に面会するなり、頭を下げた。
せっかく捕らえた、それも有力な情報を持つと思われる捕虜をむざむざ死なせてしまったのだから、何かしらの処分は免れまい。誰もがそう思った。
「…死んでしまったものは仕方無い。」
しかし舞陽は軽く溜息をついただけだった。
物事とはなかなか思い通りにいかないものだ。これだけいろいろあればさすがに学習するというものである。
「それより、下手人は捕まえたのか?」
『殺された』ということは、自殺ではない、ということだ。自殺するくらいなら游津に護送される前、塩田村で既に自ら命を断っているはずである。
安石は静かに首を振った。
「いえ。不審者が侵入した形跡はあるのですが、どうやって侵入したのか……。」
見張りは交代でずっと付けていたらしい。
その目をかいくぐって侵入し、物音を立てることなく殺しを行い、また誰にも気付かれることなく立ち去ったということになる。
そんな芸当ができるのは、よほど手練れの間者か。舞陽は眉間にしわを寄せた。
「…随分と舐められたものだな。」
それだけのことができるのに、今まで手を出してこなかったというのは、『いつでも寝首を掻けるぞ』という自信の表れと脅しでもあるわけだ。
「処分はいかようにも。」
祖父ほども歳上の男がかしこまっている。
しかし舞陽は、彼にいかなる処罰も科さなかった。
甘いということは解っている。
だが、あいにく指揮官級の者を遊ばせておけるほどの余裕が自軍に無いことも、彼女はよく承知していたのだ。
「これから立てる功績で帳消しにしてもらう。」
そう呟いた舞陽の横顔を、明槐は何故か無表情で眺めていた。


 それから数日の間に、物事は急速に展開していくこととなる。
死んだ捕虜から得た情報を、舞陽は惜しげもなく海軍と陸軍に提示したのだ。
手柄を独り占めにしたい、などという発想自体無かった。何より、自分たちだけでは手が足りないことは明白であったし。
 情報を提示された以上、無碍に扱うこともできず。歓海軍総司令は渋々白将軍の軍議参加を認めた。
そこに秦陸軍指令が副官とともに現れる。
互いに主導権を握ろうと腹の探り合いと舌戦を展開する両将軍に、舞陽は心中で深々と嘆息した。
 このふたり、明槐たちから聞いたところによると、決して無能ではないらしい。
きちんと協力し合えばここまで海賊どもをのさばらせることもなかったのだろうに、と思うと空しさすら覚えた。
もしそうであったなら、自分も游津へ来ることなどなかったろう……。
そう考えたところで、舞陽はなぜか胸の片隅にひやりとした感覚を覚えた。だが、それが何なのかゆっくり考えている暇など、今の自分には無い。
 安石が同席していてくれたこともあり、会議は一応、三軍の協力体制を確認することができた。これでやっと一歩前進したことになる。
 数日後、秦将軍がひそかに放っていた密偵が、舞陽がもたらした情報を元に海賊の拠点と思しき怪しい洞窟を発見した、との報告をもたらした。
これより、三軍は慌しさを増す。
 決戦のときが、目の前に迫っていた。

          ◆   ◆   ◆

 よく晴れた日だった。
 高い高い空に、カモメが数羽、海からの風に流されてきたのか、青の中にぽつぽつと白いしみを作っている。
「恨めしいくらい良い天気ですわね。」
游津の大店「玉翠堂」の店先で、白嘉は本当に恨めしく思いながら呟いた。
 末妹芝玉の誕生祝の宴を開き、そして塩田村が海賊に襲われてから、そろそろ十日が経つだろうか。
 あれから。
嘉は一度たりとも大姉舞陽と顔を合わせていない。
いや、嘉だけでなく耀も芝玉もまた、あの晩明槐と共に飛び出していった背中を見たのが最後となっていた。
いよいよ海賊の根拠地を直に叩けるということで、舞陽は今までにない忙しさに置かれているのだということも、嘉も小耳に挟んで知っている。
大切なお姉さまの仕事の邪魔をする気は無い。だが、きちんと食事と睡眠を摂っているのかどうかははなはだ疑問だった。
仕事に没頭するとそれくらいのことは平気で「省略」しかねない、そんな生真面目な人だと判っているから。
 「おや、いらっしゃい。」
すっかり顔なじみになった玉翠堂の番頭が、そんな嘉の姿を見つけて声をかけてきた。
「今日はちっこいお嬢さんたちはご一緒でないので?」
「今日は他にも寄るところがありますので。」
にっこりと外出用の笑みを浮かべると、嘉は玉翠堂の中へと入った。
天気がよくて明るすぎる屋外から入ったものだから一瞬視界が真っ暗になったが、すぐに慣れて店内の輪郭が見えてくる。
こちらもまた最近すっかり見慣れた人物の体が、いつもと変わらない場所に据えられていた。
「来来、小姐(いらっしゃい、お嬢さん)。」
あちらもこちらに気づいたようだ。愛用の事務机から立ち上がり、こちらに笑顔を向ける。
ひょろりと高い背、ほんのり濃い肌の色。玉翠堂の跡取り、陳呈安である。
「何か足りないものでも出てきましたか?」
 塩田村からの難民が游津に移ってきたため、嘉はかねてより舞陽から指示されていた通り、家族寮に住まう者たちを連れて游津城市内に入っていた。
ひとつには駐留村の中がにわかに慌しくなり兵たちの邪魔になるのを嫌ったこと。
いまひとつは流入した難民たちが駐留村のすぐ近くに一時的に腰を据えたため、彼らとの間に問題が発生するのを懸念するような意見が家族寮の者たちから出てきたからである。
そんな彼らに呈安を紹介したのが明槐だった。呈安は明槐の幼なじみである。
「困ったときはお互い様だ。」
呈安は深く尋ねるようなこともせず、二つ返事で瀏族の婦女子たちの面倒を見ることを引き受けてくれたのだった。
 「いいえ。おかげさまで不自由などありませんわ。」
油断なく笑顔の仮面をつけ、嘉は微笑んだ。特に理由は無い。
この呈安という人物も、明槐の友人ではあるが、明槐よりもずっと信頼できそうな為人(ひととなり)、のようである。
ただ、「借りを作る」ということそのものが嘉にとっては屈辱的なのだ。例えその相手が血の繋がった親族であったとしても、やはり嘉は同じような反応をしていただろう。
そんなことに気づいているのかいないのか、呈安は店先にいる彼女の元にまでやってきた。
「今日は姉に届け物と…言伝があってまいりましたの。」
「? 白将軍とはご無沙汰しておりますが。いつぞやご挨拶を兼ねて墨をお届けにあがって…それきりかな?」
「あら、確実に届けてもらえそうな配達人がこちらに出入りしているじゃありませんこと?」
確かに玉翠堂には何人か下働きの者がいて、配達やら仕入れやら細々とした雑事をやらせている。
必要とあれば軍の中枢にも配達に出向くが、さりとて所詮は荷を届けるのが仕事なので、必ずしも白将軍に会えるというわけでもない。
むしろ実妹である嘉が直に出向いたほうがよほど確実だろうに。
合点がいかず呈安が首を捻っていると。
 「おーい、この前頼んでおいたのは入った……。」
呈安にも嘉にも至極馴染みのある声が飛び込んできたのはそんなときだった。暖簾をくぐって入ってきたのは、少年官吏である。
 次の瞬間、呈安は大笑していた。
 「??? 何だよ、人の顔を見るなり。失礼な奴だな。」
いつものように愛用の硯箱を小脇に抱えて現れた明槐は、げらげら笑い続けている幼なじみと、すましてはいるがやはりなにやら含み笑いを浮かべている嘉とを交互に見やった。
「なるほどなるほど。確かに、これほど確実な手段はありませんなぁ!」
「なんなんだよ、もう!」
珍しく不機嫌さをあらわにして、明槐は友人を睨みつけた。といっても本気でないのは一目瞭然。気心の知れた友人同士だからこそとれる態度である。
 「いやいや。お前があんまり絶好の時機(タイミング)に現れるものだから、つい、な。」
ようやっと笑いが収まると(それでもまだ顔に笑みが張り付いたままだが)、呈安はそう言って、二人を奥に招いた。
番頭が気を利かせてくれたのだろう、奥から現れた女中が茶を出してくれた。
「絶好の時機?」
「こちらの小姐が、お前にご用があるそうだ。」
「あら、よく明槐さんのことだとお判りになりましたわね。」
上品な所作で茶を頂きながら、嘉がすまして尋ねる。
「私の知る限り、これほど確実な『白将軍への直通便』は、他に存じません。」
にっこり微笑んで平然と答える呈安。
ここでようやく明槐は話の筋が見えたようだ。「苦」の割合が強い苦笑を浮かべる。
「なるほど。で、俺は何を届ければいいの?」
問われて、嘉は持参した風呂敷包みを明槐に渡した。
「お姉さまの着替えと、新しい外套。それからお姉さまのお好きな銘柄の茶葉が手に入りましたので入れてあります。
……言っておきますが、あなたの口に入れるために購入したものではありませんので、それはお忘れなきよう。」
「はいはい。」
嘉の棘も毎度のことである。すっかり慣れっこになっているので、三割ほど意味を間引きして明槐は承った。
 「それにしてもあれだな、海賊退治もいよいよ本番、ってところだな。」
空になった湯呑を盆に戻し、呈安は陳列棚に目をやった。陳列棚に並べられている商品の間隔は、明槐の記憶にあったころよりも広い。
「こちらとしても願ったりだな。何せ船に積んであるのは食料や金銀だけじゃないんだ。
嵩(かさ)や重さの割には値が付かないうちの商品は、読み書きができない者にとってはただのがらくただからな。真っ先に捨てられて海底行きさ。」
「そうか? あの硯はかなりの逸品だぞ。」
「それは読み書きができて、かつ物の価値を知っている者の視点だ。
仲間内に識者がいなければ、名品も凡品も十把一絡げな扱いしかされない。そういうものさ。」
游津は陸上交通の便が悪く、物流の大半を海上輸送に頼っている。つまるところ、玉翠堂も海賊の害に悩まされてきたわけだ。
そして商いの件を抜きにしても、「無識者」によって「逸品」が世に出ることなく海底に消えてしまうこともまた、呈安は快く思っていなかったのである。
「というわけで。当玉翠堂は白将軍の部隊への納品は勉強させていただきますよ?」
「狙いはそれか!」
「ふふん、転んでもただでは起きないのが商人というものだ。それに、お得意様は大事にしないとなぁ♪」
いつのまにか営業用微笑を浮かべている友人に、もはや明槐は突っ込む気は無かった。かつての悪童も、いまや立派な商人への道を歩んでいるのだ。
「それはそうと。明槐、お前いつになったらあれを引き取りにくるんだ?」
「え?」
「え? じゃない。硯だ、硯。
幼なじみのよしみで、手付けだけで二年も取り置いてやっているんだぞ。……まさか、忘れてたなんてことは……。」
わざとらしく腕を組み、呈安は斜めに明槐を見下ろした。
細身で背が高い呈安。歳のわりにちびでやせっぽちの明槐。こうして見ると、まるで本当の兄弟のようである。
「ああ、あれ……。うーんもうちょっと待って……。」
そういえば。少し前にも舞陽に何か言われたような気がする。乾いた笑みを貼り付けて、明槐は明後日のほうを向いて頬を掻いた。
「待ってって、いつまでだ。」
「ええい、そんなにおれがしんようできないのか? これがゆうじんとのやくそくをほごにするようなやつのめにみえるのか?」
「棒読みじゃないか。
例え身内といえども、金銭のことでだけはなぁなぁにするわけにはいかん、ってのが親父…じゃなかった、大旦那様の教えでなぁ。」
「わかった、わかったよ! 今度の給料が出たらなんとか工面するからー!」
どう言いつくろったところで、残金を支払っていないという事実と、自身がそれに対する負い目を感じている時点で、既に勝負にならない。
商人特有の「腹の底が見えない」微笑を浮かべる友人に、明槐はなんだか妙な敗北感を覚えたのだった。それ以前に、腕力でも勝てた覚えは…無い。
 「話を戻すけど。…そんなに噂になっているのか? その…海賊退治関連のことは。」
ふ、と真顔に戻ると、明槐は先ほどから気になっていたことを口にした。こちらも真顔になり、呈安は静かにうなずいた。
「ああ。聞いたところによると、もう海賊が退治されることを見越して投資を始めている気の早い奴もいるらしいって話だ。」
「ええ?」
海賊の根拠地を直に叩く――奇襲をかける――には、相手にそれを気取られるのは命取りになりかねない。
しかし嘉や呈安はともかく、巷にまでそんな噂が流れているとなると……。
「そういう反応をするということは、あれか。やっぱり噂は本当なのか?」
「それは…俺の口からは何も言えない。想像に任せるよ。」
「このところ軍部が慌しいからな。市民だって馬鹿じゃない。
尤も、お偉いさんたちは例の難民への対応があるからとか何とかって説明をしているらしいけどな。」
人の噂には尾ひれが付き易い。そして、こういった噂は瞬く間に広がるものだ。だから本当に正確な情報に基づいて流れているのかどうかは判らないけど、とも呈安は付け加えた。
「あるいは……。」
「あるいは?」
「…いや、止めておく。根拠も証拠も無いのに下手なことは言っちゃいけないよな、うん。」
ひとりで納得すると、明槐はすっかりぬるくなった茶を飲み干した。
 「ま、少なくともうちの大旦那様は、この件に関しちゃ静観する気のようだ。
米や生糸なんかとは違ってうちで扱っている品は、瞬間的に高騰したり暴落したりすることは無いから、長い目でどっしり構えていればいい、ってことなんだろう。」
だから自分ものんびり構えていられるんだけどな…と笑いかけて呈安は、あれほど口の達者な嘉が先ほどから眉間に縦しわを三本ほど刻んだまま沈黙を保っているのに気づいた。
 「……明槐さん…その……貴方……なんだか…臭いませんこと?」
わざわざ鼻をつまんで胡乱な視線を向ける嘉。言われて明槐は右の袖を鼻元に持ってきてくんくんと嗅いだ。
「あー……。そういえば、このところ忙しくてしばらく着替えてなかったっけか……。」
その言葉を聞くや否や。
嘉は大仰な悲鳴を上げて店の出入り口まであっという間に後ずさり、呈安はやはり同じように眉間にしわをひとつ刻むと奥から下男を呼び、泣こうが喚こうが構わないから襟首を引っ掴んででも明槐を熱い風呂に叩き込むように命じた。

          ◆   ◆   ◆

 東の水平線にうっすらと光の筋が走り、夜の空に新しい日の到来を告げるくさびを打つ。
外海だというのに波は驚くほどに穏やかで、たちこめる真白な朝もやの中に、だが何故か漕ぎ出だす漁船の影も、糧を求めて飛び立つ海鳥の姿も、無い。
 まるで、これから何かが起こることを予感しているかのように。


 游津の東側にある湊には、普段よりもはるかに大勢の人影があった。
 通常ならこの時間帯に最も賑わっているのは、地元の民が漁に使う船を係留し市場にも最も近い一の湊なのだが。
人影はあれども何故か今日はいつもほどの活気は無い。
いつものように湊にやってきた漁師の男は、自分の船に乗り込みながら、反対側の河岸の様子を穏やかならぬ心持で眺めていた。
 対河岸――三の湊――を行き来する人影は、皆軍人である。
係留されている軍船はごく一部を除き全てに渡り板が渡され、海戦用の軽装に身を包んだ兵士たちがせわしなく、ただしできる限り静かに、出港準備を整えていた。
皆、上官の命令で口に綿を含み、余計なおしゃべりができないようにされている。
 渡し板は、湊の隅に係留されているおんぼろ軍船「紅蛟」にも渡されていた。舵や帆、器具類等の最終確認が着々となされている。
 湊の奥にある事務所では、出航する二十三隻のそれぞれの指揮官が最終打ち合わせのために集合していた。
その中には海軍最高責任者である歓欧壬将軍と、中央から海賊退治のために派遣された官軍の指揮官である白舞陽将軍の姿もあった。
 「……以上である。」
舞陽の正面に立っている、海の男というよりは武術師範でもやっていたほうがよほどしっくりきそうな細身で眼光の鋭い男が、歓欧壬だ。
 (いよいよ、か。)
自分よりもずっと年上の将軍や副官たちに囲まれながら。舞陽はそっと拳を握り締めた。
もっと気が逸るかと思っていたのだが、妙に心静かなのが自分でもかなり意外だった。
それとも……。
 「では、これより作戦を開始する。雷龍様のご加護があらんことを!」
 歓将軍の号令一下。
 武人たちは、戦場へとその一歩を踏み出した。
 決して遠慮したわけではないのだが、気が付くと他の者に押しやられていて、舞陽が事務所から出たのは最後から二番目だった。その後に出てきたのは直属の部下である厳安石である。
 紅蛟が係留されているのは、三の湊の最も奥まった場所、つまり隅っこだ。
他の船と同じく既に兵が乗り込んでおり、甲板の上で二人の指揮官が戻ってくるのを待っていた。
 「将軍、いつでも出航できます!」
馮州から付いてきてくれている男が馮州式の礼でもって出迎える。
危なげない足取りで甲板の人となると、舞陽は一同の顔を見渡し、表情を改めて一つうなずいてから、船長に命令を下した。
「出航せよ!」
「出航だ! 帆を降ろせ!」
東の水平線から太陽が拳一つ分ほど浮き上がっている。
陸から海に吹いていた風が、今度は逆に海から陸へと向きを変える――つまり風がいったん止む――時間帯であるが、手錬れの操船士たちは巧みに風を捕まえ、どの船の帆も緩い孤を描く。
一艘、また一艘と軍船たちは静かに海へと滑り出していった。やがて紅蛟の番がやってくる。
静々と岸壁を離れた紅い船を必死で追いかけてくる姿があるのを見つけたのは、船の最も後方に居た兵士だった。
 「おおーいっ!!」
「将軍。」
部下に困惑混じりに呼ばれて振り返ると、舞陽は絶句した。ぱたぱたと石畳に足音を立てて駆けてくるのは、明槐である。
「……騒ぎ立てるやつがあるか……。」
思わず口元を押さえて、舞陽はうなった。
奇襲をかけるためにも、今朝海賊掃討作戦に出るということは、地元民にも知られるわけにはいかなかった。
兵士たちにもきつく私語を禁じなるべく物音を立てないようにと厳重に言いつけてあったのに、明槐一人であれだけ大騒ぎされては元も子もない…。
 (ええいっ、静かにせんか…っ!)
思わず船べりに寄り、身振りで怒鳴りつける。
目当ては舞陽だったらしく、明槐は少し安堵した表情を浮かべると、懐から何か取り出し、振りかぶると舞陽めがけて力いっぱい投げてよこした。
 それは、多少頼りない孤を描きつつ、なんとか身を乗り出して伸ばした舞陽の掌中に納まった。…届かなかったらどうするつもりだったのだろう?
 「お守りだ! 貴方は海の人ではなく陸(おか)の人なんだから! 無茶するんじゃないぞ!!」
 余計な世話だ! という台詞をかろうじて飲み込む。
彼我の距離は既に大きく開いており、船体が波にきしむ音も加わって、湊に響き渡るような音量でないともう言葉は届かないだろう。
嘆息すると、舞陽は掌の中に目を向けた。
 小さな鈴だった。金色の本体に、鮮やかな赤に染められた紐が通してある。
掌の中で転がると、鈴はちりん、と涼やかな音色を耳に届けてくれた。
 再び顔を上げると、明槐はその場所で立ち止まってこちらをじっと見ていた。遠くはなっていたけれど、その唇がこう動いたのは、何故かはっきりと見て取れた。
 『雷龍様のご加護がありますように』。
 言葉では応えず。舞陽はただ黙って、鈴を大きく掲げて明槐に見せた。
それで満足したのだろうか、明槐もまた一つうなずいた。
そこで操舵士が大きく舵を切ったので明槐の姿は見えなくなってしまった。
 (必ず。必ず海賊どもを退治してみせる。…お前の労に報いるためにも。)
吹き始めた潮風に象牙色の髪をなびかせ。舞陽は静かに鈴を握り締めた。


 游津の湊を出ると、船団は舳先を南へと向けた。そのまま海岸線に沿って外海を南下していく。
さすがに外海は波が荒く船も大きく揺れたが、紅蛟の乗組員たちは誰一人として顔色ひとつ変えることはなかった。これも地道に訓練をしてきた成果なのだろう。
太陽は既に南中線と水平線の中ほどにまで昇っており、帆も今や本格的になった潮風をはらんで力強い孤を描いていた。
 昨夜のうちに留守番組が用意しておいてくれた豚肉入りの粽(ちまき)が、操船士を含めた全員に配られる。
すっかり冷えているが、一戦を前に腹ごしらえをしておくのは大事なことだ。
 ――これから戦いに赴くのだというのに、兵士たちの表情は固くはなかった。むしろ穏やかに、戦場に着くまでの短いひとときを談笑などして過ごしている。
だがその中からある一定の緊張感が失われることは決してなかった。
…本物の戦士は、いざというときまで無駄に緊張したり力んだりはしないものだという。
紅蛟に乗り込んでいる兵は、そういうことが自然にできる精鋭たちなのだ。
 「将軍。」
船室で椅子に腰掛け、静かに目を閉じていた舞陽に声をかけてきたのは、副官の安石だった。ゆっくりと瞼を開く。
「…これは、失礼しました。」
「いや、起きてはいたんだ。」
微笑すると、舞陽は安石に座を勧めた。
「船長によると、あと一刻足らずで目的地に付くそうだ。
打ち合わせでは、海賊どもに接近をぎりぎりまで気づかれないよういったん海岸線から離れて、沖合いから追い風を受けて一気に突入することになっている。
…力を温存しておくのも、将たる者の務めだからな。」
失礼します、と安石は舞陽の隣に腰を下ろした。知らぬ者が見たら、孫娘の初陣を心配する祖父、くらいにしか見えないだろう。
 「…海賊というのは、何なのでしょうな。」
不意に、安石がぽつりとつぶやいた。舞陽は横目で彼を見た。…普段の彼からは想像もつかない言葉だった。
「…何って…賊は賊だ。それ以上でもそれ以下でもない。」
おかしなことを言う、と思いながらも。律儀に舞陽は返した。
安石はまっすぐ、船室の壁にかけられた銛(もり/魚を獲るための槍に似た道具)に目を向けたままである。
「古来…今は巍と呼ばれている地も、巍となる以前は多くの国々が興っては滅び、戦乱が絶えることはなかったと聞いています。
その頃は、勝者が敗者の物品を入手するのはごく当然の権利だったそうです。」
「入手すると言えば聞こえはいいが、要は略奪ではないか。金銀を前にすると理性を失うなど、武人の風上にも置けぬ。」
「…。恒陽に居た頃、遠く西の大国から来たという学者と知己になる機会がありました。
西国にもやはり、他者の者を奪わなければ生きていけない民族がいる、という話でした。」
「家畜を飼い、畑を耕し、商いをすればよいこと。
自ら立つ努力をせずに他者の努力を暴力によって掠め取るなど、いかな理由があっても許されるものではない。」
明瞭な舞陽の回答に、安石は静かに首を振っただけだった。
そこにはさまざまな感情が込められているようだったが、哀しいかな、その全てを読み取れるほどには舞陽はまだ人生経験というものを積んではいなかった。
なんだか馬鹿にされたような気がしなくもなかったが、舞陽は安石を心から信頼していたので、むやみに反論したり問い詰めたりはしなかった。
…彼が何を言いたかったのか、そのうち解る日も来ることだろう。
「我々の任務は、海賊を退治し、游津の民の平和を取り戻すことだ。そのためには、いかな労力も惜しまない。」
「……そうでしたな。」
 静かに安石が答えたとき。船が大きく左へと舵を切った。どうやら予定通り沖へ出る進路をとったようだ。ということは……。
 揺れが安定するのを待ち、舞陽は立ち上がった。その足で甲板へ出る。
さすが精鋭部隊といったところか、既に彼女が何を言うでもなく、兵士たちはそれぞれに表情を引き締めていた。
「全員、戦闘用意。」
荒々しい外海の波と風に負けないように、舞陽は力強く命令を下した。


 水平線に横たわっていた黒い影が、だんだん大きくなってくる。陰だったものが次第に山や森や断崖などに視認できるようになってくる。
その崖の一ヶ所を目指して、船団は大海からの追い風を受けてぐんぐんと加速していく。――何も無い、壁面目指して。
だが、舞陽たちは知っていた。似たような岩肌のために気づきにくいが、陸地をえぐるような形の入江が存在することを。
そして、その奥には……。
 先頭を走る船の甲板で、銅鑼が打ち鳴らされた。銅鑼の低い低い響きは、波の音にも風の音にも消されることなく、全船に届く。
舞陽はじめ全ての者の視線が、進路上に向けられた。
銅鑼の音は相手にこちらの位置を示すようなもの。それを敢えて使ったということはすなわち……こちらの存在を隠す必要が無くなった、ということ。
 「…こういうところは、草原での戦いと同じなのだな。」
不敵な笑みを浮かべて、舞陽はひとりごちた。
海原も草原も、身を隠す場所は無い。だから接近するためにはこちらの姿をさらさなくてはならない。
その上で迅速に、いかに自軍に有利な形で戦場を押さえられるかが勝負の分かれ目となる。
 だから、海賊が自分たちの根拠地を教えてしまうという危険を冒してまで打って出てきたのも、うなずけるといえよう。
見つけられてしまった以上、この根拠地はもう捨てざるをえない。だがだからと言って大人しく官軍の侵入を許すいわれはない。
本気でこちらを返り討ちにするつもりなのか、それとも単に今まで奪い蓄えた財貨や食料などを運び出すための時間稼ぎにすぎないのかは判らないが。
どちらにしろ海上で一戦交えるのは避けられそうにないな、と舞陽は思った。
「…馬鹿な。」
背後で安石が呟いたのが、風に乗ってかすかに耳に届いた。
 その間にも、海賊船はぐんぐんこちらに近づいてくる。その数、十一隻。
こちらの半分以下の数だが、あちらのほうがはるかに小回りが利き、腕利きの操船士がそろっていることは、すでに実証されている。油断は禁物…。
草原育ちのため遠目が利く馮州の戦士たちは、射程距離に入るより早く、敵船の甲板に出ている海賊たちが、手に手に火矢をつがえているのにいち早く気づいた。
(なるほど、船ごと燃やす気か!)
「射撃用意! あちらに射させるな!!」
安石は一瞬耳を疑った。
舞陽は船ではなく直接射手を射ろと言った。
海賊たちは船に火をつけるのが目的だから、的が大きい分、あちらのほうがはるかに狙いをつけ易い。
しかしさらに驚いたことには、その無茶な注文に異を唱えることなく馮州兵たちが黙って弓を構えたことだった。
 弓弦が鳴り、数十の矢が海賊船に襲い掛かる。追い風を受けた矢は波にも風にも負けることなく、海賊たちの腕を、胸を、あるいは頭を、貫いた。
紅蛟から確認できただけでも数人が、船縁の向こう側に倒れたまま起き上がってこなかった。
(草原の民は、騎射(馬上から弓を射ること)を得意とすると聞いてはいたが……。)
命中精度もそうだが、追い風を受けていたとはいえ敵船まであの威力を保たせるだけの豪腕もあなどれない。
そして命中精度を上げさせていたのはやはり、馬上生活によって培われた強い足腰と平衡感覚だ。
足腰の強靭なばねが、うねり続ける荒波と船の揺れを吸収し、正確な射撃を可能とした……。北方の田舎者だと侮ってはいけない、ということか。
 そんな安石の驚きなど全く気づかず、舞陽はただ黙って敵船を睨みつけていた。
紅蛟からの鋭い射撃に鼓舞されたのか、他の軍船も弓での応戦を始めている。
それでも二隻の帆に火矢が届き慌てて前線から退いていくのが視界の端に映っていたが、それでも敵船から目を離すわけにはいかなかった。
 歓将軍の乗る旗艦「碧鳳」の甲板で銅鑼が打ち鳴らされる。既に互いの顔が確認できるほど、両軍は接近していた。
矢はいよいよ雨のように行き交う。しかし互いの距離が縮まったというのに、その威力は彼我を問わずに落ちていた。
だが、その中でも紅蛟の射撃だけがいまだ鋭さを落さずにいる。
 弓矢というものは、総じて湿気に弱い。
幹(弓の本体部分)もそうなのだが、特に巍では絹製の弦が主流であるため、湿気を帯びると威力が落ちるどころか壊れ易くなる。
陸軍でも保管や携行の際には湿気らないように細心の注意を払うものだ。
戦が冬に行われることが多いのは、田畑の収穫が済んでいるからというのもあるが、空気が乾燥するため射兵の能力を最大限に発揮できるからというのもあるのだ。
いわんや、海戦では弓を使うことはまず無い。
しかし、馮州の弦は湿気に強い獣の筋でできていたので、絹製のものよりは若干もちがいいのだ。
 それでも、届く限り火矢はやはり脅威だった。
鏃(やじり/矢の先端部分にとりつける部品)を取り付ける代わりに油を染み込ませた布が巻かれているため貫通力は無いが、届きさえすれば、そして引火しさえすれば、目的は達成されるからである。
船縁で弓を構える馮州兵の後ろでは、非戦闘員たちが右に左に駆け回っては、届いてしまった火矢に海水をかけて消火していた。
その間にも白軍の兵たちは確実に海賊たちを射倒していった。
 どしん、と船が揺れた。不意打ちだったので、さすがの舞陽もよろめく。
見やると、別の海賊船が紅蛟の斜め後方から体当たりを仕掛けてきたのだった。
海賊船の舳先には鉄板のようなものが張られていた。そうでなくても紅蛟はもともと廃船寸前のおんぼろ船である。
紅蛟の船腹には大きな亀裂が走っていた。
「!」
百戦錬磨の馮州の男たちが、次々に情けない悲鳴を上げた。…亀裂から、海水が勢いよく流れ込んでくる…。
それを見た瞬間、舞陽は底知れない冥い冥い恐怖が体の奥底から湧き上ってくるのを自覚した。
  ふ ね が こ わ れ る   …し ず む……!!!
 頭の中が真っ白になる。
それでも悲鳴を上げなかったのは、部下たちの前だからという自尊心のほうが、わずかながらに勝ったためだ。
だが、呆然としたまま立ち尽くしているのは同じである。
 ちりん…。
 そのとき、どこがで鈴の音が聞こえたような、気が、した。我に返り幻聴かと疑うのと、背中を押されたのは、同時だった。
「一緒に沈むおつもりかっ!!」
安石だった。
そうだ、自分は指揮官だ。部下たちを守る義務がある。しかし、どうすればいい……?
海水はただの一時たりとも待ってくれることなく紅蛟の中に侵入してくるし、周囲では変わらず戦闘が続いている。
体当たりを仕掛けてきた船はというと、既に紅蛟に戦闘能力は無くなったと判断したのか、海賊たちの意識は別の船へと移っていた。
 やはり、海賊たちの操船能力は高い。改めて、舞陽はそのことを思い知った。
海に生まれ船の上に育ってきた者でなければ、あれだけ自在に船を操ることはできまい。…馮州の民が馬上で育つのと同じように。
 (…馬?)
 そのとき、そのひらめきが舞い降りたのは、まさしく雷龍の導きであった、と舞陽は今でも信じている。
馬を駆って戦う民が戦場で馬を失ったとき、どうするか。
「離脱させるな! あの船を捕る!!」
 沈みゆく紅蛟の甲板で舞陽は叫ぶと、佩いていた剣を鞘から抜き放った。
陽光を映し、愛剣の刃が気高く輝く。
その輝きには、ひるがえる戦旗と同じくらいの威力があった。

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