游津藤梅記5「白嘉 我知らず嫉妬を覚える。」
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 暑さもめっきり弱まり、朝晩には上着の一枚も欲しくなるような季節になっていた。
 水揚げされる魚の種類も変わり、秋の味覚が市場に並び、上空を流れる雲の形と町を駆け抜ける風の向きが変わっても、游津の町は変わらず栄えていた。
 季節は、時は。人の思惑など関係無く、ゆっくり、静かに、そして確実に、過ぎていく。


 水練も一通り終え、白軍では軍船「紅蛟」を使った訓練が既に始まっていた。
と言っても最初の数日は、船体の朱がわからなくなるほどびっしり貼り付いたフジツボを落としたり、甲板の清掃をしたり、
古くなっていた綱を新しいものと取り替えたり、帆の修繕をしたり、舵の動き具合を確認したり…
といったことに費やされてしまって、やっと今日になって安石の指示のもと初めて舫綱(もやいづな/船を係留しておく綱)を解いたわけだが。
 湊からの帰途。舞陽の足取りは重かった。日の傾きは既に夕刻のものとなっており、太陽の昇る方向へと長い長い影をひいている。
 ある程度予想はしていたが。やはり海上というのは陸地とはかなり勝手が違う。
何より閉口したのは、いわゆる「船酔い」だった。選りすぐりの兵五十人の実に過半数が、わずか一刻ほどの海上訓練で何らかの不調を訴えたのである。
そしてその中には――本人、まことにもって不本意なのだが――舞陽自身も含まれていたのだ。
まだ波の穏やかな入り江ですらこの有様なのだから、外洋に出たら一体どうなることか。まだまだとても海戦などできる域ではないことに、少なからず衝撃を受けていた。
 だが、彼女の足取りが重い理由は他にもあった。
 彼女が向かう駐留村の事務所では、明槐が留守番をしている。


 白軍の精鋭たちが訓練を終えて駐留村に帰りつく頃には、そろそろ家々から立ち上る夕餉(ゆうげ/夕食)の支度をする煙も、ほとんど消えていた。
操練場で解散を命じ、舞陽は安石と共にそのまま事務所へと足を向けた。…我知らずと溜息が漏れる。
「騎兵というものは揺れに強いものだと思っていましたが。」
その嘆息の意味をどう解したのか。安石はにこりともせずにそう言った。
「思い違いだったようですな。」
「揺れの種類が違う。」
ぼそりと舞陽が答える。
「馬の揺れとはすなわち、生き物の鼓動だ。呼吸を合わせる事で人馬一体となり、揺れそのものを心地よく感じるようになる。」
だが。游津に赴任してからそろそろ半年近くも経とうというのに、舞陽にとってですら海はいまだに「得体の知れないもの」であった。
一定の拍子を刻み上下に揺れる騎上とは異なり、海は上下どころか前後左右無秩序に揺れるのだ。
 しかし何よりも恥ずかしいのは、つい今朝ほどまで安石と同じ事――騎馬での戦いに慣れている馮州の者であれば、海の揺れなど障害にならない――を考えていた己の甘さであろう。
とにかく、指揮官が船酔いで使いものにならない、というのはいくらなんでも情け無さ過ぎる。ましてやこの事が、彼女と同じように海賊退治の為に近隣の都市に居る他の派遣軍の耳に届こうものなら……。
(明日から特訓だ……。)
そんなことを考えながら歩いていると、ほどなく事務所の扉前にたどりついた。自然と足が止まる。
舞陽が物思いにふけったままなかなか扉に手をかけようとしないのを安石は訝しげな目で見ていたが、そのままそこで立ち尽くしているわけにもいかないので、代わりに手を伸ばして扉を開いた。
室内の明かりがさっと宵へとさしかかった表に漏れる。
 入り口を入ってすぐの部屋に、文机が三つ、着席者の顔が互いに見えるように設えられている。
机はいずれも簡素なもので、引出しなども無く、机上のものを片付ければすぐにでも屋外に運び出せるようになっている。
正面右手に二つの通路があり、片方はやはり簡易の棚が据えられた資料室、もう片方は小さいながらもちゃんとしたかまどを設置した給湯室へとつながっている。
 事務室には二人の人物が居た。
一人は白軍担当の游津官吏、李明槐。そしてもう一人は…舞陽の妹である白嘉だった。意外な組み合わせに、舞陽は思わず目をしばたかせる。
二人は何やら話をしていたようなのだが、自席に着いたまま穏やかな表情で受け答えしている明槐に対し、嘉のほうは腰に手を当てた姿勢で立ったまま剣呑な目つきで明槐を見下ろしていた。
 「やぁ、おかえりなさい。」
入室者の気配に、明槐と嘉はぴたりと会話を止め、同時に出入り口に目を向けた。
はからずも舞陽と明槐の目が合う。途端に明槐の表情に緊張が走ったのを、舞陽は見逃さなかった。半瞬と経ずにふい、とどちらからともなく目線をそらす。
それに気付いているのかいないのか、嘉は大姉の元に歩み寄った。
「お疲れ様でした。すぐ熱いお茶を淹れますわね。」
かいがいしく大姉の外套を脱がせ、壁際の衣紋掛け(ハンガー)に引っ掛ける。
「留守中、変わったことは?」
嘉が相手にしてくれないからなのかどうかはともかく、上司に代わって安石が明槐に声を掛ける。明槐は静かに首を振った。
「おかげで書類の作成はすこぶる順調に進んで。明日にでも提出してこようかと思ってます。」
「そうか。なら、出勤前に済ませてくれ。明日も船を出す事になるだろうからな。」
「わかりました。」
墨の乾き具合を確かめ、枚数を確認し、明槐は書き上げたばかりの書類を丁寧にたたむと、愛用の文箱の中にしまった。
この書類を作成するのにここ数日を費やしたのだから、無事に通ってほしいものである。
 そこに湯気を立てる湯呑を載せた盆を持った嘉が戻ってきた。湯呑の数は三つ。大姉舞陽と、安石と、自分の分である。
「あれ? 俺のは?」
「…先ほど淹れて差し上げたじゃありませんか。」
「え? あれ白湯(さゆ)じゃなかったの?」
…どうやら明槐には出涸らしの茶葉でしか淹れなかったらしい。
安石の分をきちんと用意したのはただ単に、彼が舞陽の副官であり、また嘉よりもずっと年上だから、である。
「小嘉。」
舞陽が軽くにらむと、嘉はしぶしぶ給湯室へと戻っていった。彼女にとって家長でもある舞陽の言は絶対なのである。
 嘉の姿が消えると、事務室は途端に居心地の悪い沈黙に包まれた。
 いつもなら、ここで明槐と舞陽の軽口にも似た遣り取りが交わされる。だが、今聞こえるのは安石が熱い茶をすする音のみ。
自分の椅子に腰掛けたまま舞陽は湯呑片手に静かに溜息をつくだけだし、明槐もまた黙々と筆記具の後片付けを始めていた。
 こんな雰囲気が、もうかれこれ半月ほども続いていた。


 どうしてあんなことを言ってしまったのか。
 後悔ばかりが胸をよぎる。
 酒の勢いだったとはいえ。どんなに傷つけてしまったことか。
 けれど。それは向こうだって同じ。
 不用意に放たれた言葉はとても細いものだったけれども。その分深く鋭く、心に突き刺さったまま。
 あれ以来、気まずい雰囲気が延々と続いている。
 謝ろう、と思ったこともある。けれど、そのたびに同時に自らの胸に刺さった棘がうずくのだ。
 受けた痛みはお互い様なのだ、と。
 そんな葛藤が、頭を下げる機会を得られぬままの状態が、今も続いている。
 時が経てば経つほど、心は硬化していき。
 彼は。彼女は。
 「その一言」を口にできずにいた。


 (余所者、か……。)
 寝台の布団の中で、舞陽は何度目かの寝返りをうった。
 判っていたことであった。
 自分たちが游津に来てから、まだ半年あまり。
 舞陽にとっても、お国から預かった兵士たちにしてみても。游津は確かに「異郷」であった。
 巍国はあまりに広い。慣れない風土、慣れない風習、慣れない食べ物……。けれどそれに順応しようと、最大限の努力は惜しまなかったつもりだ。
土地に慣れなければ、生きていくことはできない。それは「軍隊」以前に「人」としての試練である。
 けれど。そんなことよりも。
 自分にも妹たちに対しても、不自由をさせまいと日々砕心してくれている明槐が、実は心の底では自分たちをあんな風に思っていたのだということが、舞陽にいささかならない衝撃を与え、今日まで引きずらせていた。
 そう思われていたことが、腹立たしかったし、悔しかったし、哀しかった。
 所詮、自分は余所者。甲州の民ではない。それは厳然たる事実。事実であるが故に、やりきれなさもひとしお。
あの一件以来、游津の町を歩いているときも、常に疎外感が付きまとうようになっていた。
 (だけど……。)
舞陽自身、明槐だけを責めることはできないな、という自覚はあった。
 月見酒の最後に口論になったとき。……初めて明槐の「完全なる怒気」を目の当たりにした、あのとき。
哀しさと、後悔と、やりきれなさが混在した、あの横顔が、脳裏に焼き付いていて離れない。そして、彼にそんな表情をさせる原因を作ったのは、間違い無く。
(私だ…。)
 こぼれるのは、嘆息。明槐だって「人間」なのだから、逆鱗があるのは当然のこと。
そして、知らずにとはいえ、自分はまさにその「逆鱗」に触れてしまったのだ。……誰にも悟られぬよう明槐が心の奥底に封じていた「逆鱗」に。
 (傷付けてしまった…んだな……。)
 ゆっくりと舞陽は寝台から身を起こした。…どうにも寝付かれない。明日も海に出るのだから、休息は必要だというのに……。
そっと雨戸を開けると、ひんやりとした夜の空気が舞陽の頬に触れた。朔(さく/新月)の日は過ぎてそろそろ細い三日月へと成長を始める頃だ。
代わりに満天の星空が、月不在の漆黒の夜を留守番するかのように広がっていた。
煌煌とした銀の望月(満月)の下で酌み交わした酒は、あんなに美味かったのに……。もう、笑いながら盃を交わすことは、かなわないのだろうか…?
 (……謝る…べきなんだろうか……。)
そう思ったことも、実は一度や二度ではない。しかし「歳下」である明槐に対して自分が先に頭を下げるというのは、それとは別の次元で我慢のならないことだった。
…せめて、明槐の方が先に折れてくれれば……。
(いや、私の方が先に非を侵したのだ。)
けれど。でも。
 嘆息と共に、窓辺りに額をつける。ここは彼女の私室だ。他には誰も居ない。その姿は帝国の将軍ではなく、どこにでも居るごく普通の、一人の十七歳の少女であった…。


 海上での訓練に重きを置くようになったので、舞陽が事務所に居る時間も自然と減り、明槐と顔を会わせる機会もまたそれに比例して減っていた。
少なくともここ三日ほどは完全なすれ違いになってしまっている。
 「どうしてあの方のことをそんなに気になさるんです?」
明槐が帰宅した後の事務所で待っていた嘉が、とうとうそんなことを言い出した。舞陽と明槐の間の連絡役を引き受けているので、このところ毎日のように顔を出している。
安石もまた先ほど帰ってしまったので、事務所には姉妹の他には誰も居なかった。
「大したことではないのでしょう?」
「…関係がこじれたままでは、後々面倒だからだよ。」
嘆息交じりに返す舞陽。
「妾(わたくし)の見る限り、そんな素振りなんてありませんけど。あの方のことだから、すっかり忘れてらっしゃるんじゃありません?
お姉様が心配なさるほどのことはないと思いますけど。」
相変わらず嘉の物言いは容赦が無い。それは今に始まったことではないのだが、相手が明槐となると輪をかけて扱いが酷くなっているように感じるのは、気のせいだろうか?
「だといいんだがな…。」
明槐と意見や価値観が衝突したことは、今までにも何度かあった。けれど、いつも翌日には普通に言葉を交わし、いつもと変わらぬ遣り取りをしていた。
…こんなに尾を引くのは初めてのことだったのだ。だからこそ、気にかかるのだ。
「いいじゃありませんか。少なくともそこまで繊細な方とは、妾、到底思えませんわ。放っておけばよろしいかと。」
そう言い置くと、嘉は空になった湯呑を携えて給湯室へと下がってしまった。さして広くもない事務室に、舞陽一人が取り残される。
 「…放っておけばいい、か…。」
嘆息を一つすると、舞陽は椅子の背もたれに身を預けた。
「……全く、手のかかる奴だ…。」
呟いたその言葉は、嘉の耳には届かなかったようだ。

          ◆   ◆   ◆

 「…………あの……………………。」
ずんずんと前を向いたまま歩いていく舞陽の後に続きながら、明槐がおずおずと尋ねる。しかし舞陽は振り返ろうとすらしない。
 『大事な話がある』。そう言って、事務所から連れ出された。
しかし舞陽の背中から発せられているのは、ぴりぴりとした怒気にも近いもの。
先日来のわだかまりのこともあり、明槐の表情は冴えないどころか、気まずげな色が浮かんでいた。
もっとも当人はそれを必死で隠そうとしているようなのだが、残念ながら扶養家族を三人も抱えている舞陽にはお見通しなのであった。
 (もっと隠し事の上手い奴だと思っていたのだが…。)
あるいは、隠しきれないほど不快な思いをさせてしまったのか。
ともかくここで振り返ったら最後、機会を逸してしまうに違いない。だから舞陽は問いかけられても返事せずに前だけを向いていた。
 「入れ。」
駐留村の中にある一軒の建物の扉の前まで来ると、舞陽はようやく振り返った。ぶっきらぼうに扉を示す。
意図することが解らず躊躇する明槐に対してもう一度身振りで示すと、ようやく取っ手に手をかけた。
 扉が開いた。
「あ、いらっしゃーい。」
突然飛んできた明るい声に、明槐は目をしばたかせた。
 この家で最も広いと思われるその部屋の中央には、駐留村で最も大きい食卓が運び込まれていた。
壁には赤い紙を切り抜いて作った祝いの飾り文字がいくつも貼られており、食卓には質素を求められる軍隊の家族寮とは思えぬほど豪勢な料理が幾つも配膳されていた。
その大半は、甲州ではお目にかかれない珍しい北方の肉料理である。
そしてその料理群をせっせと配膳していたのは、白耀だった。先ほどの声の主も彼女である。
「何ぼーっとしてるのさ? さぁ、入って入って!」
いつもと変わらぬ朗らかな表情で、状況が把握できず戸口に立ち尽くしている明槐を手招きする。
「何? 何が始まるんだ??」
思わず同じように扉の際に立っていた舞陽の顔を見る。舞陽は無言のまま室内に入るよう促した。
華やかな室内と、不機嫌な表情の舞陽と。しばしの戸惑いの後、明槐は指示されたままに敷居をまたいだ。そこへ。
「まぁ! どうして貴方がここに居らっしゃるんですのっ!?」
素っ頓狂な声が奥から飛んできた。明槐もさすがに慣れつつある、この声の主は…。
「ここは仮とはいえ白家ですのよ! 一体誰に断って…!」
「私が招いた。小玉のたっての希望でな。席も五人分用意するように言っておいたはずだが?」
…さすがの嘉も、敬愛する大姉の決では逆らえない。もう二言三言言いたそうな顔をしていたが、なんとか言葉を飲みこんだ。
その代わり「無礼な振る舞いをしたら承知しませんわよ!」という威嚇を込めた視線を向ける。
「…嘉姉、手伝わないんなら、邪魔だからどいてよ。」
まるで犬でも追い払うかのように軽く片手を振りながら、耀がその脇をぱたぱたとすり抜ける。てっきり反論するものかと思われたが、どういうわけか嘉はすんなり妹に道を譲った。
…本当に手伝わないつもりなのか?
 事態が全く飲み込めていない明槐は、玄関口で立ち尽くしていても邪魔になるだけと気付き、部屋の隅に移動した。
その間にも耀はくるくると働き、あっと今に宴席の準備が整っていく。
舞陽はというといつもの戦襖(せんおう)姿のまま、席の一つに腰掛けた。しかし家長であるにもかかわらず、最上座ではない。一体どういうことか。
「何をしている。さっさと座れ。」
「あ……うん……。」
どうやら宴席に招待されたらしい、ということは判った。示されたまま舞陽の向かいの席に腰掛ける。
竹箸が載っている箸置きもまた、赤い紙を飾り結びにして作ったものだった。
(?????)
頭の中で暦を広げてみる。今は秋の半ばだから新年の祝いというわけでは絶対にないし、海賊退治が完了したわけでもない。
結婚式という雰囲気でもないし、何より該当しそうな人物に心当たりもない。
正面に座っている舞陽はというと、相変わらずにこりともしないときている。
首をひねることしきり。
(…まさか、皆して俺を担いでいるんじゃないだろうな…?)
仲の良い白姉妹のこと、ここ最近自分と舞陽の関係がぎくしゃくしているということはとうに気付いているのだろうし、特に大姉を敬愛している嘉ならば多いにあり得ることだ。
ならば敢えてそれに乗ってみるのも面白いかもしれない。そんなことを頭の隅で考えていると。
 「あ、みんにいさまだー。」
ほわわんとした声と共に現れたのは、末妹の芝玉だった。赤を基調としたかわいらしい衣装に身を包んだ芝玉が、まっすぐ明槐のもとへとやって来る。
そこで初めて明槐は、この宴席の理由を悟った。
「こんにちは。今日の主役は小玉なのか。」
「うんっ。」
「『うん』じゃない、『はい』だろう。」
「はーいっ。」
舞陽にたしなめられるも、上機嫌なのか芝玉はにこにこ笑っている。そしてその場でくるりと一回転してみせた。衣装に結わえられていた飾り紐が綺麗な弧を描く。
少し回りすぎたもののぴたりと止まると、少しすました姿勢をとった。
「あのね、わたしね、よんさいになったのよ。」
「へぇ、おめでとう。」
 華央では年齢を数え年(誕生時点で一歳とし、その後は正月を迎える毎に一歳ずつ加えていく数え方)で表すのが普通なのだが、どうやら地方や部族によってはそれ以外の加齢方法を使っているところもあるらしい。世の中は広いな、と明槐は思った。 ということは、どうやらこの宴会は小玉が四歳になったお祝いらしい。
「ありがとうございます。」
事前に練習していたのか。芝玉はぴょこんと頭を下げた。勢いがつきすぎて頭を戻したときに少しふらついたが、転ばずには済んだ。
そこに耀と嘉が戻ってくる。
「あれ? 安石さんも呼んだんじゃないの?」
「指揮官級の者が二人とも留守にするわけにはいかないから、今日は辞退するそうだ。そのうち改めて訪ねると言っていた。」
「そうなの…。」
舞陽が答えると、芝玉は本当に残念そうにうつむいてしまった。が、すぐに面を上げる。
「でも、みんにいさまはきてくれたのね。」
「…あ、うん。」
返事をしながら、明槐は内心「まずいことになったな」と思った。
何しろ今の今まで、今日ここで、芝玉のための宴席が開かれるなんて知りもしなかったのだから。つまり、「手ぶら」だということ。
祝いの席に招かれておいて贈り物の一つも用意していないというのは、華央では礼節に反する。
お祝いの品を持参していないと知ったら芝玉はさぞやがっかりするだろうな、と思うと明槐は申し訳無い気持ちになってしまった。
 姉妹がそれぞれにの席に着くと、祝宴が始まった。


 白潤には三人の妹がいるが、上の二人とは異なり末妹である芝玉だけは、彼女たちとは父親が違う。
 潤の父が亡くなったのは彼女が十二歳のときで、男の兄弟がいなかったため長女である潤が白家の家督を継ぐことになった。
 「舞陽」という字(あざな/本名以外に持つ名。字を持つと一人前とみなされる)を持ったのもそのときで、男性級である「陽」という文字を敢えて用いたのも、一族を支える大黒柱として「女としての幸せ」を望まぬよう自らを戒めるためであった。
 しかし、家督を継いだといっても所詮は十二歳の小娘。
 まだ幼い娘たちを守るために、母は北威から馮州都蓁坦(しんたん)に住む巍皇室傍流の流れを汲んでいる男と再婚した。
三人の子持ちであっても「馮州一の美貌」と謳われた母を、男は喜んで娶(めと)った。
やがて母は、新しい夫との間に子を身ごもった。
 異変が起きたのは、一年後のこと。
 酷い難産だった。新しい命の誕生と引き換えに、母は息を引き取った。
 男は母に心底惚れていたので、例え我が血を引く子といえども、愛しい妻の命を奪った者を赦すことはできなかった。
 男は赤子を捨てた。
 例え父は違っても。同じ母の血を引く「妹」には違いない。舞陽は自分の養子として「巍皇室傍流の血を引く」赤子を引き取り、「芝玉」と名付けた。
 早いもので、それから四年が経ったということになる…。


 「やっぱりあれだよ、嘉姉も料理の一つくらい覚えるべきだって。」
「妾はいいんです。お茶を淹れるくらいならともかく、誇りある白家の娘が、ケダモノの毛をむしったり解体したりなど、どうしてできますか。」
「そのケダモノの肉を喜んで食べてるのは、誰だよー。」
「お黙りなさい。第一、貴女が調理したのはほんの一部ではなくて? ほとんどを家族寮の妻子たちに作らせたのを、妾が知らないとでも?」
「違うよ、手伝ってもらったのは確かだけど、教えてもらったんだよう。」 「小玉、好き嫌いせずに何でも食べないと駄目だぞ。それ、取り分けてやろう。」
「はい、ぶようねえさま。ようねえさま、これおいしい♪」
「だろ? 大きくなったら小玉にも作り方を教えてあげるよ。」
「まぁ、芝玉さんにまで包丁を握らせるつもりなの、貴女は。」
「何でも、できないよりできたほうがいいに決まってるじゃない? なぁ、小玉。」
「いいえ、芝玉さんには妾のように、たおやかな淑女になって頂かなくては。家事なんてとんでもない!」
「…二人ともいいかげんにしないか。せっかくの祝宴を台無しにする気か?」
とうとう舞陽にたしなめられ、嘉と耀はやっと言葉の応酬をやめた。
とはいえ、こんな遣り取り自体がしごく日常な白家の面々は、いたってけろりとしているのだが。
その証拠に、あれだけのおしゃべりの最中であっても手は一向に止まっていなかったりするのである。
 反面、一人だけ沈黙を守っている者がいた。明槐である。
 別に、好きで黙っていたわけではない。むしろ、賑やかな宴会は好きなほうだ。
だが、実家に居た頃から家族全員が一同に会して食卓を囲むということが少なかったことと、四姉妹の「姦(かしま)しさ」にすっかり当てられてしまったため口を挟む機会を逸してしまい、輪に入りそびれてしまったのだ。
それ以前に、女性ばかりの中に一人だけ放り込まれたこと自体初めてで、官吏とはいえまだ思春期の少年である明槐は、正直言って「どうしていいのかわからない」のである。
 「…口に合わなかったか?」
客人が肩身狭そうにしているのに気付き、舞陽が尋ねる。
今日の食卓に並んでいるのは、たっぷりの油と肉を使った馮州の郷土料理ばかりだ。
魚介類を主な食材とする、あっさりした味付けの甲州料理を食べて育った明槐にとっては初めての味なのだろう。
しかし明槐の主な関心事は、料理とは全く別のところにあった。
「いや、そういうわけじゃないけど……。」
(どうして、俺を呼んだんだ? 「小玉が望んだから」って言っていたけど…。)
舞陽が特に末妹を「目に入れても痛くない」ほどかわいがっているということは知っている。
理由はもっともなのだが、やはり安石が参加してくれなかったことを、明槐は少しばかり恨んだ。
しかも、正面の席は舞陽である。
先日の一件のこともあってまともに顔を見ることもできず、芝玉には悪いが、明槐は早く解放されることばかりを願っていた。
料理の味などわかるわけがない。
 「………ところで。」
どれほど経っただろうか。それまで「普通に」食事を進めていた嘉が突然箸を下ろすと、もったいぶりながらこほんと咳払いをしてみせた。
そして、あからさまに不機嫌そうな視線を明槐に向けた。
「……貴方、ご馳走を食べに来ただけですの?」
ぴたり、と姉妹の会話がやんだ。微妙な空気が嘉と明槐の間に漂う。
勝利を確信したかのような笑みがほんのうっすらと嘉の面に浮かんでいるのに、芝玉以外の者は気付いていた。
 嘉は明槐が嫌いだった。大嫌いだった。
 今日は白家の末妹芝玉の、誕生日祝いの祝宴だ。
本来なら親戚を集めて賑やかに宴を開くところだが、遠征先の地であることから、今年は家族だけでささやかに行うものだと嘉は思っていた。
ところが何故か家長である舞陽は、一族とは何の縁もない明槐を招いた。
安石も招いたらしいが、このさい彼のことはどうだっていい。
 そうでなくてもここ半年あまり、嘉が敬愛してやまない大姉舞陽が帰宅してまでも明槐のことを口にすることがあるのを快く思っていなかった。
甲州という異郷で家族四人、結束してどんな困難にも立ち向かって行こうと心に決めていた嘉にとって、いつのまにか自分以外の家族全員に受け入れられていた明槐の存在は、腹立たしい以外の何者でもなかったのである。
加えて、舌戦ではそれなりに自信を持っていた嘉をいともあっさりと論破し、なおかつ本人は「なんでもないこと」のようにいたってけろりとしているというのもまた、神経を逆撫でしてくれる。
とにかく、嘉にとって明槐は「邪魔以外の何者でもない」存在でしかなかったのだ。
 その明槐が、大事な妹芝玉の祝いの席に手ぶらで現れた。これを絶好の機会と言わずしてなんと言うのか。
 そしてその自覚は、明槐にもあるらしい。嘉からの「挑戦」を、明槐は静かに受けとめていた。
「…そうだな。今日は小玉のお祝いだものなぁ。」
「そうですとも。」
してやったり、と嘉はほくそえむ。どう言いつくろったところで、明槐が筆一本すら持ち合わせていないことは、この場に居る誰もが知っている。
大姉の前で明槐に恥をかかせることができる。嘉の関心は既にその一点に向けられていた。
「先に申し上げておきますが。この場で詩作して吟じる、などというのは、妾、認めませんことよ?」
「ああ、それもいいねぇ。」
頭の良い子だな、と明槐は思った。
どちらにしろ明槐自身「詩才はさっぱり」という自覚は多いにあったので、その発想があったとしてもやらなかっただろうが。
ともかく、嘉は巧みにかつ確実に明槐の退路を断っていく。さて、どうしたものか。
 「…嘉姉、何をそんなにムキになってるのさ…?」
ただならぬ空気にいささか不安になった耀が、そっと二姉の袖を引く。
しかし臨戦体制に入っている嘉の冷ややかな目を向けられ、思わず口ををつぐんだ。
「ムキになってなど、おりません。」
(……目一杯なってるじゃない……。)
でも、矛先がこちらに向くのは嫌なので、耀は反論を諦めて口を閉じた。
 一方。困っているのは、明槐だけではなかった。
 (まずいことをしたな……。)
 明槐を連れてきたのは、舞陽だ。だが、事前に彼に何も教えなかったのも、彼女だ。
だから、今明槐が「気の強い」妹に追い詰められている責任の半分は自分にある、ということになる。
だがその反面、この状況に至ってなお落ち着き払っている明槐が一体どうやって二妹がつけてきた難癖を回避するのか、興味が全く無いわけでもなかった。
さて、どうきり返すのか。そう思い、ふと視線を外したときである。
 「う…………。」
舞陽の目に、「本日の主役」であるはずの芝玉の姿が飛び込んできた。
おめでたい赤い色の服に身を包んだ芝玉のつぶらな瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれている。
「けんかしないで…じやねえさまも…みん…にいさまも、けんかしないで…わたし、いいこにするから……。」
「あ、いやその…。」
「べっ、別にケンカしているわけではありませんのよ? ね、ねえ明槐さん?」
「そ、そうそうそう。」
大あわてで嘉と明槐が同時に取り繕う。鼻を鳴らしながら、芝玉は必死に声をあげて泣くのをこらえているようだった。
「…………ほんと?」
「え、ええ、本当ですとも!」
そして、何を思ったのか――本人ですら何故このときこんな行動に出たのか、この後何年経っても理解できなかったのだが――嘉は明槐の手をいきなりがっしと握ると、末妹の目にもはっきり判るように、ぶんぶんぶんと大きく振ってみせた。
「ほらほらほら芝玉さん、妾たちこーーーーんなに仲が良いんですのよ? だからケンカしているわけではないんですの。ね? ね?」
そして素早くきろり、と鋭い視線を明槐に向ける。彼女が意図することを瞬間的に察知した明槐もまた、同じように笑顔を作って芝玉に向けた。
「そうそう。これは俺たちにとって、あいさつみたいなものだから。」
…少なくとも明槐にとっては、この言葉は嘘ではない。
「だから、小玉が気にすることなんて、全然無いんだよ?」
「………そうなの…。」
そこまで聞いて、やっと芝玉は安心したらしい。舞陽に鼻をかんでもらうと、ようやく笑顔が戻ってきた。それを見て、年長者たちもようやく安堵の溜息をつく。
……怖いもの知らずの少年少女たちといえども、やはり「泣く子」には勝てないものらしい。
 「…ちょっと。いつまで握っているつもりですの!?」
騒ぎが一段落着くと、嘉は芝玉に気づかれないようこっそりと、だがきっぱりと明槐の手を振り払った。
 (…でもなぁ……。)
明槐が贈り物を持参していない、という事実は変わらない。誤魔化し通せるものでもない。これは素直に謝ったほうがいいかなぁ、と明槐は腹をくくった。
「……ねぇ、小玉。」
「なぁに?」
干した果物をふんだんに使った菓子を頬張っていた芝玉が振り返る。「話すのは口の中を空にしてから」と舞陽に注意され、大急ぎで飲み下した。
「小玉は、何か欲しいものって、ある…?」
多少のものであれば、無茶もきくつもりだった。…来月の給金を前借りすることになろうとも。
芝玉のつぶらな砂金色の瞳が、さらに真ん丸くなった。
「あ、えっと……。お願い事とかでも、いいんだけど……。」
芝玉がとっても良い子だということは、明槐もよく知っている。姉たちに心配をかけないよう、小さいながらも彼女なりに気を遣っているのだということも。
だがだからこそ、彼女の口からどんな注文が飛び出してくるのか、明槐には全く予想がつかなかった。故に、そんなつもりは無くてもつい身構えてしまう。
明槐だけでなく、三人の姉たちの視線もまた、末妹に注がれていた。
芝玉は下唇に右の人差し指を当てると、「うーん」とわざわざ呟いて考え込んだ。
「あ、えっとねぇ。…なんでもいいの?」
「うん、なんでもいいよ。」
(…ああ、雷龍様。あんまり熱心な信者じゃないけど。どうかどうか、俺の給金で買える物でありますように……。)
「えっとねぇ、うんとねぇ、…みんにいさまのふえがききたい。」
間。
「……え?」
「あのね、このまえぶようねえさまがね、みんにいさまはふえがとってもじょうずだっていってたの。だから、わたしもききたいなぁ。」
「し、小玉…。」
にっこり笑って言う芝玉に、舞陽が動揺する。まさかここで自分の名が出てくるなど、しかも明槐のことを誉めていたなどと言い出すとは…。
驚いたのは明槐も同じで、思わず舞陽の顔を見る。はからずも目が合い、双方同時に視線をそらした。
 「……参ったなぁ……。」
思わず明槐の口から漏れた言葉は、正真正銘の本音だった。
今まで。明槐は人前で笛を奏でたことは無かった。
彼に笛の心得があることを知っているのは演奏の仕方を教えてくれた人と、先日偶然にも聞かれてしまった舞陽くらいのものである。
…まさか芝玉の耳にまで届いているとは、思っていなかったらしい。
「……だめ?」
「あ、いや、そんなことはないよ、うん。」
「芝玉さん、音楽でしたら、妾が二胡を…。」
腰を浮かす嘉の、しかし袖を引っ張ったのはまたしても耀だった。
「嘉姉のなら、いつだって聞けるじゃない? それに、オレも明兄の笛は聞いてみたいなぁ♪」
舞陽まで「諦めろ」という表情をしている。
二対の期待に満ちた目と、一対の面白く無さげな眼差しと、もう一対の事態を面白がっている視線とを向けられて……明槐はとうとう観念した。
……何より、芝玉に「なんでもいい」と約束してしまった手前、拒むわけにもいかない。
「……人に聞かせられるほどの腕は、持ち合わせてないんだけどな……。」
なおもそんなぼやきをもらしながら、明槐は懐から一本の筒状になった金属を取り出した。
筒には吹き口の他に計七つの孔が開けられていて、藤色の飾り紐が結わえられているのが、無骨な金属製であるそれにささやかな趣を与えていた。
椅子を引き、立ち上がる。「そんなに注目されるとやり難いんだけど…」と心の中で呟きつつ、明槐はちょっと考えた後、吹き口に唇を添えた。
 やはり、既存の曲ではなかった。少なくとも姉妹の知っている曲ではない。
けれど、最初は戸惑っていた旋律が次第に明るく楽しいものへと変化していくのを、三度目になる舞陽だけは何となく感じ取っていた。
明槐の感情は、どうやら笛の音には正直に出てくるらしい。
…何だかんだ言って結局、明槐自身もまた楽しんでいるようである。


 睡魔の訪れを感じた芝玉が耀に連れられて寝室に引き上げてしまうと、客間は急に静けさに包まれた。
食卓の物はあらかた片付いており、すっかり冷めてしまった茶すらどの湯呑にも半分も残っていない。
日も游津の城壁に届きそうなほどに傾いており、上弦の月が代わりに高く昇っている。窓の外では早くも虫たちが演奏会を始めていた。
 「…じゃあ、俺もそろそろいとまさせてもらうよ。」
湯呑を食卓に戻すと、明槐はそう言って腰を浮かせた。
主役が退場した以上宴席はもう終わったも同然だし、耀がいるのならまだしも舞陽と嘉と三人だけというのは、やはりどうにも居心地…というか空気が辛かったのだ。
それを聞いて、嘉の顔がぱっと輝く。
「まあまあまあ、大したお構いもできませんで。道中お気をつけなさいまし。」
現金なもので、自ら席を立ち出口へと明槐を誘導する。しかしそれを止めた者がいた。舞陽だった。
 「まだ用事は済んでいないぞ。」
「……用事って。」
宴会への招待が主目的ではなかったということか? 怪訝な表情を浮かべたのは嘉も同じだった。
「『話がある』と私は言ったと思うが。」
「お姉様、お仕事の話でしたら明日でもよろしいんじゃありませんか? 明槐さんだってもしかしたら、いいえ、きっと他にご用事があるでしょうし。」
「いや、別に用事も予定も無いけど。」
思わず正直に答えた明槐を、嘉が横目で睨む。しかし舞陽はそんな妹の仕草を敢えて無視した。それどころか。
「馮州から持ってきた蒸留酒がまだあっただろう。あれを一本持ってきなさい。」
「えっ……ですがあれは………。」
「いいから。持ってきなさい。」
そして明槐に再び席に着くよう促す。舞陽の意図を察しきれないまま、それでも二人はそれぞれ指示に従った。
 奥から嘉が運んできたのは、大ぶりの瓶首と三つの盃だった。そして二妹が卓上の食器をあらかた下げると、舞陽は座を外すよう告げた。
そこには有無を言わさぬ家長ならではの威厳があり、当然嘉には逆らいようもなかった。
 隣室へと追いやられたものの。嘉は客間のほうが気になって仕方ない。しかし大姉の言いつけに叛くこともできない。なにより。
(お姉様とあの方を一つ部屋に二人きりにしておくなんて。危険っ、危険ですわ〜〜っ!!)
もしも明槐が大姉に対して妙なこと(具体的なことは言えない)をしようものならいつでもすぐに飛び出していけるよう、扉に張り付いていると。
「……嘉姉、何してるの??」
不意に背後から声をかけられ、嘉は文字通り飛び上がった。それでも悲鳴を上げなかったのはさすがである。
「…よ…耀さん、脅かさないで下さいまし……。」
「別に脅かしてなんかないけど…。」
実際、耀は普通に声を掛けただけである。嘉が「勝手に」驚いただけのことだ。
「そう言う嘉姉こそ。そんなところでこそこそしていないで、中に入ればいいじゃない。」
「……お姉様が人払いをなさったんです。」
(だから聞き耳を立てていたのか……。)
基本的に。耀は二人の姉を尊敬している。しかし二姉に関しては、時々何を考えているのか解らなくなるときがある。…例えば、今。
「……何してるのか知らないけどさ。ほどほどにしときなよねー。」
そう言い置くと、耀は嘉をそのまま放置しておくことにした。どうせ頼んだところで、皿洗いを手伝ってくれるような人ではないのだし。
 さて。
嘉が退出してしまい明槐が再び席に着くと、舞陽はおもむろに瓶首の封を切った。心地よい酸味を伴った爽やかな香りがゆっくりと二人の鼻腔をくすぐる。
「これは龍駒酒と言って、馬の乳で作った酒をさらに蒸留して強くしたものだ。」
 帝国の一部である馮州でも、都市部を離れれば定住せずに遊牧を行っている民も少なくない。
そんな遊牧の民が愛飲しているのが、馬の乳で作った軽い酒――馬乳酒である。
馬の乳が豊富にとれる夏場に作り、馮州の民は普段から水代わりに飲んでいるらしい。
だが巍の大半の土地では馴染みの薄い飲み物であるため購入することも、また馮州に居たときのように新鮮で大量の馬乳を入手することも難しい。
古の瀏族は遠征にも家畜を伴って移動したので、移動先でも乳酒を作るのは容易なことだった。
しかし、巍の臣民となった瀏族は、巍国内での遠征に家畜を連れて行くことはできない。
巍国北部以外の地では畑作のほうが盛んで、数百に上る家畜たちを養う草を確保することが難しい、というのも理由の一つだった。
そこで、馬乳酒の次に馴染みのある牛や駱駝の乳酒を蒸留したもの(馬乳酒は蒸留しないものらしい)を、馮州兵たちはわざわざ故郷から持参してきていた。
それでも量に限りがあるので、封を切るのは何かしら特別なことがあったときくらい、普段馮州出身の戦士たちは現地の酒を飲んで我慢しているのだ…。
そんな説明が、舞陽の口からぽつぽつと語られた。
 促されて明槐は盃を取った。蒸留酒ということで、盃に注がれた液体は美しいほどに澄んでいる。
なるほど、酒としては強い部類だが香りと同じく後口も爽やかで、独特の風味があるものの好きになれそうな味だな、と明槐は思った。
 盃を空けると、明槐は作法に従って舞陽に返杯をした。
こちらも酒豪であることは既に証明済みである。あっさり盃を干すと、再び明槐の盃に蒸留酒が注がれる。
差し向かいの席で、舞陽と明槐は無言のままさらに何度か盃を交わした。
 (……………。)
宴会が賑やかで楽しかった分。この静けさは嫌でも緊張と重苦しさとを与えてくれる。
その間も瓶首は二人の間を行ったり来たりしており、貴重な酒は既に半分ほどが消費されていた。
時だけが無為に、静かに過ぎていく。
 「「あの…………。」」
沈黙を破ったのは、同時だった。二人の声が見事に重なり、互いに驚いて口をつむぐ。そしてまた、沈黙。
 「……なに?」
掌で盃をもてあそびながら明槐が上目使いに向かいの席を見る。扉の向こうで歯をきしませる音がしたような気がしたが、気のせいだろう。
「いや、大したことではない。」
盃の中身をくいっと空け、舞陽が答える。顔色一つ変わっていないのは、さすがというべきか。
「…先にそちらの用件を聞こう。」
「別に、用件なんて言えるほど大したことじゃない……。」
そしてまた、沈黙。聞こえるのは盃に瓶首の口が触れる音と、盃を干した際の静かな嘆息と。
 時だけが、流れていく。
日はいつのまに完全に沈み、窓の外は夜の色へとすっかり変わっている。
星のきらめきは流れる雲にしばしば遮(さえぎ)られるが、白家の室内ではろうそくの明かりが二人の顔を蜜柑色に映し出していた。
 頭の中では、先ほどから同じことばかりぐるぐると巡っている。
どうすればいいのか、それは至極簡単なこと、いやというほど解っている。
けれど、その「きっかけ」が、つかめない。
でも、今のままというわけにもいかないということも。
いずれは乗り越えなければいけない。自分自身の力で。それも、早急に。
この、肌と心にまとわりつく心地の悪さから、早く解放されなければ…。
 永遠とも思われる沈黙が破られたのは、意外なきっかけだった。
 「「…………ごめん。」」
 その言葉に、二人は同時に面を上げた。同時に互いの顔を見たので、自然と目が合う。
はからずも全く同時に出た互いの言葉の意味が解らず、双方、一体何が起きたのか飲み込むのに数瞬を要した。
「…え…あ…?」
「その……この間のこと……。」
先に立ち直ったのは明槐のほうだった。盃を卓に戻し、ほりほりと前髪の生え際を掻く。まるで、叱られた仔犬のようだ。
「…あの後、すごく後悔した。ずっとずっと、悔やんでいた。
何であんな酷い事を言っちゃったんだろう……って。」
ぽつり、ぽつりと明槐の口から言葉が漏れる。視線は再び足元に向けられているが、意識は間違い無く舞陽のほうに向けられていた。
「…君がどんなに頑張っているか、よく解っていたはずなのにな。
あれは、絶対に口にしてはいけないこと…いや、思ってもいけないことだったのに。
本当に、駄目な奴だな、俺は。
……君が言うとおり、俺は逃げることしか、考えていないのかもしれない……。」
「……いや、謝らねばならんのは、私のほうだ。」
…酒の勢いを借りねば、己の非を詫びることすらできない、くだらない意地の塊なのだから。そう、心中で自嘲する。
「……そもそも。あれの原因を作ったのは、私のほうだったのだし。…下らないことを言ったものだと、我ながら心底呆れた……。
余所の家庭の事情に口を差し挟むのは、無礼極まりないことだからな。しかもよく知りもしないくせに、聞きかじっただけの知識で。だから……。」
水に流せ、とは言えないだろう。だが次の言葉がみつからず、舞陽は言葉を詰まらせた。
「だから」…どうしてほしいんだ、私は?
しかし明槐は静かに微苦笑しただけだった。
「…いや、政庁に出入りしたり関係者と接触していたりすれば、自然と耳に入ることだから。
…俺の親父は庁内で自分の派閥を持っているくらいだからな、「できそこないの息子」の話が出てこない方が、不思議だよ。」
だから俺は庁内で仕事をするのが嫌いなんだけどね、と明槐は笑って言った。
故に白軍とは直接関係無い仕事もわざわざここの事務所に持ってきてやっているんだ、とも。
「游津の官吏や軍部のお偉いさんたちの間じゃ、有名な話さ。れっきとした「事実」だもの。
だから、舞陽殿が気にする必要なんて、無いんだよ。」
…それが無理に作っている笑顔だということは、舞陽の目にもはっきりと判った。けれど、気付かない振りをしてやる。それが彼のためだと、思ったから。
 「……なぁ、明槐。」
「?」
「もしよければの話だが……たまにはうちで飯を食っていけ。」
「……え?」
意外な申し出に、明槐はきょとんとしたまま二の句がつなげなくなってしまった。構わず続ける舞陽。
「聞けばお前、実家を出て一人暮しだそうじゃないか。自炊にしろ外食にしろ、不経済にはかわりない。
うちはただでさえ人数が多いからな、一人ぐらい増えたところで大して変わらんさ。」
「…お言葉はありがたいけど……。」
「異存は無いな、小嘉。」
舞陽が奥の部屋へと続く扉に向かって声をかけると、扉の向こうで何かが盛大にひっくり返る音がした。
続いて聞こえてきたのは耀の押し殺した笑い声。それもすぐに収まった。
「…うん、じゃあ…そのうち、な。」
同じように扉に目線を向けながら明槐が浮かべた笑顔、今度は本物だった。
どうやらこちらも、最初から嘉の行動には気付いていたらしい。妙なところで息の合う二人だった。
 「ま…負けませんわよ……。」
扉の陰、ひと睨みで耀を黙らせ、謎の言葉を呟きつつ体制を立て直した嘉の耳に、激しく玄関扉を叩く音が飛び込んできたのは、まさにそのときだった。
 「何事だ?」
相手が自軍の兵だと知り、舞陽自ら扉を開ける。
ここまで駆けて来たのか肩で息をしているその若い兵は、顔から血の気が失せていた。
「報告致しますっ。南の岬の、山の向こう側の空が赤く燃えていますっ!」
がたん、と音を立てて明槐が椅子から立ち上がっていた。

          ◆   ◆   ◆

 「…それは、いつの話?」
大股に舞陽の隣までやってくると、明槐は報告をもたらした兵に静かに尋ねた。二人の顔は既に「李明槐」「白舞陽」ではなく「官吏」「将軍」のそれになっていた。
「見張りが異変に気付いたのはつい先ほどのことです。
見る間に明るさが増したと言っていますから、始まってからそれほど時間は経っていないものと思われます。」
「安石は?」
「先日と同じく陽動の可能性もある、まずは白将軍の指示を待て、と。」
「わかった、すぐ行く。」
 身支度を整えるから、と兵を先に返すと、舞陽は扉を閉めた。一つ嘆息し振り返ると、いつのまにか二妹と三妹がすぐ近くにまできていた。
「お姉様……。」
「すまんな、行かねばならなくなった。」
不安げな妹たちの頭をぽんぽんと軽く叩いて小さく微笑むと、舞陽は衣紋掛けの外套に手を伸ばした。
「あそこには確か、塩を作っている小さな村があるだけだ。人も少ないほうだし、襲っても旨みがあるとは思えない。」
あごに手を当てて明槐が呟く。
「…安石の言うとおり、陽動ということも考えられるな。游津海軍のほうも異変に気付いているだろうし。軍船が出払ったところを……。」
妹たちが怯えた表情を浮かべたので、最後まで言わずにおく。そのかわり、舞陽はすぐ下の妹の顔をまっすぐ見た。
「…なんでしょう?」
「…お前たちは小玉を連れて王夫人の家に行っていなさい。そして「万が一の場合」、家族寮に居る者たち全員を連れて、游津城市の中に避難するのだ。…いいな?」
自分が傍に居てやれない以上、幼い妹たちは近所の大人に預けておいたほうがいいだろう。舞陽はそう判断したのだ。固い表情のままうなずく嘉。
その言葉を受けて、明槐はすぐに紙と筆を耀に求めた。一息に書き上げ、丸めると、自らの髪をまとめていた布をほどいて紐のように巻きつけた。
「農門の門番とは、大抵顔見知りなんだ。これを見せれば、例え上から何を言われていようが、きっと皆を入れてくれる。
……使わずに済むことを願うけどね。」
手紙を嘉に預けると、明槐は手近にあった別の紐で無造作に髪をくくった。彼もまた、「民間人」と一緒に居られるという保証は無いのだ。
準備を整えると将軍と官吏は家族寮を後にし、足早に本部となる事務所へと向かった。


 連絡をもたらした兵の言葉通り。
游津の湊からもよく見える、東の海に気持ちばかり突き出した岬の向こう側の空が、赤く赤く染まっている。それは夜空の黒とあいまって、一種の禍禍しささえ感じさせた。
例え夜祭、火祭りであっても、あれほど明るくはならないだろうし、少なくとも明槐は、あの村にそんな習慣があるなどという話は聞いたことも無い。
 「游津海軍のほうも、出航準備はしているようですが、まだ湊を離れた軍船は一隻も無いようです。」
二人が事務所に着くなり、合流した副官の口からそんな報告がもたらされた。
「…この前ので痛い思いをしたのは、歓将軍も同じだからな。用心しているんだろう。」
…後に聞いた話によると。
海軍の総責任者である歓欧仁将軍は、先日の一件で、同じく陸軍総責任者(及び犬猿の仲である)の秦牙雷将軍に散々嫌味を言われたらしい。
(「してやられた」のは双方同じなのでどっちもどっちなのだが、舌の回りは後者のほうが若干よかったらしい。)
自尊心だけは「颯州(そうしゅう)の山々より高い」歓将軍のこと、自身の名誉を秤(はかり)にかけて「同じ手は食うものか」と迅速な行動に移れないでいるらしかった。
「…どちらにせよ、我が軍はまともに戦えるほどまだ船に慣れてはおらん。海戦は游津海軍に任せたほうがいいだろう…。」
この意見には、海戦の経験が唯一ある安石も賛成だった。
昼間ならまだしも。すっかり日が暮れた夜の海に船を出すのは、熟練の漁師たちだって二の足を踏む。
しかし、燃える空の明るさは一向に収まる気配も無い。あの赤の下に人が居るのだと思うと、いてもたってもいられなかった。
となると残るは陸路だが……。
 「…明槐、馬には乗れるか?」
「…人並み程度には。」
白将軍の意図を察しきれずとも、打てば響かんとばかりに明槐が答える。それを聞いて、舞陽はその作戦を決行することにした。
「騎兵隊全員に通達。馬装・武装をし、直ちに広場に集合のこと。その他の者は引き続き警戒体制を維持しつつ、厳安石の指示があるまで待機。」


 半刻(約一時間)後。
 馬蹄の音を轟かせて夜の山道を駆けていく三十の騎影があった。白軍自慢の騎兵隊である。
その先頭を行く赤栗毛の背に張り付いているのは、十五歳の少年官吏だった。
 「陽動の可能性があるからと言って、かの集落を見捨てることはできん。本隊は残し、機動力のある精鋭だけを連れていく。」
それが、白舞陽将軍の出した命令だった。
彼女が故郷から連れてきた自慢の騎兵隊は、馬と共に育ち、馬と共に戦場を駆け抜けてきたツワモノばかりだ。馬が人を、人が馬を信頼し、深い深いきずなを築いている。
例え夜道であろうとも、不慣れな山道であろうとも、怖れはしない。
だが、地理の不案内だけはどうにもならず。舞陽は明槐に現地までの道案内を乞うたのだった。
 「……こういうのは『人並み』とは言わない…。」
呟きかけて危うく舌を噛みそうになり、明槐は慌てて口を閉じた。
『人並み』という返答でこれだけの騎乗技術を要求するなんて無茶にもほどがある、と思う反面、舞陽の故郷ではこれだけ高い技術のことを『人並み』と評するのだろうか、と思い直す。
………恐るべし、馮州。
 彼が手綱を取る赤栗毛、実は白嘉の持ち馬である。
しかし軍用馬としての調教を受けているので、炎に対する訓練もきちんとされていた。
おかげで同道する者たちが松明を手にしていようとも、怯(おび)えたり混乱すること無く騎手の命令に従ってくれる。
多少の障害物程度なら「独自の判断で」飛越するすることもできた。
 「まだかかるのか?」
四分の一馬身遅れて続く舞陽が半ば怒鳴るように声をかけてきた。彼女が掲げている松明が、明槐と赤栗毛の前方を照らしてくれている。
…少なくともこの悪路、この速度の中、片手で手綱を操るなどという芸当は、明槐には到底無理だ。
「この谷を抜けると、道は大きな一枚岩を迂回している。その先の坂を登れば見えるはずだ。」
同じく怒鳴り返…したつもりだったのだが、しゃっくりのようなものが出かけたおかげで奇妙にかすれてしまった。
それでもきちんと聞こえたらしく、舞陽は一つうなずくと後続する部下たちに目的地が近いことを告げた。
 やがて明槐の言のとおり、駐留村の事務所ほどもある大岩が見えてきた。
明槐を除く全員が曲がり道の内側へと上体を傾け、馬の足にかかる負担を減らし、速度を落すこと無く通過する。
坂道を登りきったところで…舞陽は停止命令を出した。
 「…………なんという……。」
…ある程度、予想はしていた。しかし目の前に広がる景色の凄惨さは、予想をはるかに上回るものだった。
 村全体から炎が舞い上がっているようだ。濃い灰色をしているはずの煙さえ、炎の赤をうけて朱に染まっている。
地上に目を向けると、集落の向こうに見える美しい三日月型の砂浜――その大部分は塩田だ――に、幾艘もの中型船が乗りつけられているのが目に入った。
集落ではあちこちで黒い影がうごめいているのが判別でき、混乱はまだまだ続いているようだ。
逃げ惑う人々や家畜たちの悲鳴が、絶え間無く風に乗って彼らのもとまで聞こえてくる。
「将軍!」
騎兵隊の誰かが、指示を求めて声をあげる。自失しかけていた舞陽は我に返った。
「明槐、お前はここに居ろ。」
将軍の言葉に、明槐は無言のままうなずいた。
ここから先は「戦場」だ。戦闘能力の無い自分が行ったところで足手まといにしかならないということは、重々承知している。
馬首を返し、騎兵隊に道を譲った。
「…ご武運を。」
「馮州産騎馬隊の恐ろしさ、骨の髄まで思い知らせてやるさ。」
不敵に笑う。そして、舞陽は部下たちに号令を発した。
「蹴散らすだけでいい、住民の保護を優先しろ! ただし、賊が向かってくるようなら容赦せずともよい!」
そして、勇敢なる騎兵たちはそれぞれの馬腹に脚を入れた。


 官軍は護民の軍、武とは人を護る為にある――。
戦場へと駆け下りていく騎兵隊の後ろ姿を目で追いながら明槐は、舞陽がいつだったかそんなことを言っていたのを思い出し、微笑した。
(世の中、そんな人ばかりだといいのにな…。)
小さく嘆息し、鞍から降りようとして…膝が笑い、明槐は無様な姿で地面に転がった。
 …頭がぐらんぐらんする。たっぷり飲んだ馮州の酒が、今ごろになって効いてきたのだ。
加えて、山道を騎馬で全力疾走してきたおかげで胃の中身も程よく攪拌(かくはん)されている。吐き気をもよおさないだけまだマシなのだろう。
そういう意味でも、ここに残ったのは正解だったかもしれない。
手近な樹に手綱を結ぶと、自身もその根元に座りこんだ。
そういえば舞陽も同じ酒を同じだけ飲んで、自分以上に荒っぽい手綱さばきでここまで駆けてきたのに、そんな気配は微塵も無かった。
一体どういう体の作りをしているんだろう…? それとも単に慣れの差なのか??
 村のほうから、新たなる鬨の声(ときのこえ/士気を鼓舞するなどの目的で皆で発する声)が聞こえてきた。白軍騎兵部隊と賊が接触したらしい。
ここからでは詳しいことまでは判らないが、それでも黒い影が三々五々、砂浜に向かって駆けていくのが見えた。
 彼らに任せておけば大丈夫だろう。明槐は馮州の勇者たちを全面的に信頼している。程なく、事態は官側の勝利で終息するはずだ。となると。
明槐の考えは早くも戦闘終了後のことに向かって動き始めていた。
 火勢いはいよいよ強く、村を構成する建築物の大半を飲み込んでいる。誰の目にも、既に消火は不可能と思われた。もはや燃えるに任せるしかないだろう。
自然鎮火を待つとして、村人たちをどうするか、さしあたってはそれが一番の重要事になるはずだ。
この村の人口は、五百を超えていなかったと記憶している。とはいえそれでも、白軍よりも多いわけだが。
それだけの人数を一時的にしろ受け入れることができるのは、距離の面から考えてもやはり游津の町が最も妥当であるように思われた。
そんなことを時折偏頭痛のおこる頭で考えていると。
 気配を感じて、明槐は思考の世界から意識を戻した。気のせいだろうか、視線を感じる……。
(こんな時刻に、こんな場所で……?)
野犬やイノシシなら、あれだけの火事騒ぎだ、とうに逃げ出しているはずである。現にヨタカの鳴き声も虫の音も聞こえない。皆、危険を察知して火元から遠くへ逃れているのだ。
では……?
赤栗毛の耳が真後ろに倒れている。落ち着き無く黒絹の尻尾を振り続けているのを見て、明槐は懐に手を入れた。そのまま「さりげなく」立ち上がる。
相変わらず不快感は拭えずにいるが、構ってなどいられない。
 「へへぇ、なかなか立派な馬じゃないか。」
木立の隙間から現れたのは、少し背の曲がった三十前後と思われる男だった。
頭からすっぽりと頭巾のようなものを被っており、卑屈そうな顔つきが覗いている。
手には倭洲(わしゅう)渡来と思しき、抜き身の反った片刃剣。
怪我をしているのか、右足を微妙に引きずる歩き方をしていた。
「おい、小娘。怪我ぁしたくなかったらその馬よこしな。」
肉食獣を思わせる光を双眸(そうぼう/両眼)に宿し、舌なめずりをしながら男は剣の切っ先を明槐に向けた。
明槐は歳のわりにちびで痩せっぽちだし、髪も今は下ろして紐でくくってあるだけだ。
顔つきも強いて言えば柔和な部類に入るので、火事による明かりのみが遠くわずかに届く夜闇の中では、異性に間違えられたのも無理からぬことだろう。
それでも思春期の少年にとって、かなりの侮辱であるには違いない。
違いないのだが、自身の生命が天秤の片方に乗っているとなると、沈黙を保っているほうが良策に思えた。
男に対して正面を向けず、左半身を見せるような姿勢で顔だけをそちらに向ける。
「聞こえねぇのか、よこせっつってんだよ!」
切っ先と明槐との間の距離がさらに詰まる。明槐は動かない。
男はそれを「怯えて動けないのだ」と判断したようだ。そのままそろそろと近寄ってくる。
赤栗毛がそわそわと首を振った。
(村人の反撃にでも遭ったのか…。)
男が怪我をしているのは足だけではないようだ。剣を持っている右手は相変わらずこちらに向けられているが、左側の腕は体の向こうに隠すような姿勢のままなのである。
(一(イー)…二(アル)…三(サン)……。)
男との距離はもう目と鼻ほど、こちらの呼気が酒臭いことにも気付いているはずだ。
(四(スー)…五(ウー)…六(リュー)…七(チー)…。)
それでもなお明槐が動こうとしないのを見て、男はにやりと笑うと、赤栗毛の手綱に手を伸ばした。そのとき。
(八(パー)!)
男の目が明槐から赤栗毛にそれた。その一瞬を逃さず、明槐の右腕が閃(ひらめ)いた。
懐から金属製の筒を電光の如き速さで取り出すと、躊躇(ちゅうちょ)している間もあればこそ、そのまま手加減全く無しで力いっぱい男の脳天に叩き込んだ。
…夜の闇の中に、骨と金属がぶつかり合う鈍い音がやけに大きく響き。一呼吸の間の後、男の体はその場にずるりと倒れこんだ。…動かない。
 いつのまにか。明槐の額には玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。肩で息をつく。
男が倒れた拍子に剣の切っ先が引っかかったのだろう、自身の襟元に大きな裂け目ができているのに気付き、慄然(りつぜん)とした。
幾つもの偶然に救われたのだと、自分の幸運(と雷龍)に感謝した。
 明槐の右手に握られているのは、昼間白姉妹の前で披露した、あの鉄笛だった。
明槐が常にこれを持ち歩いているのには二つ理由がある。
一つには彼自身が笛をたしなむ身であること。
そしてもう一つは…鉄製の筒であるが故に軽くて大変丈夫なため、護身用の武器として充分通用するという面を持っているからだった。
もっとも、楽器として以外の用途で用いたのは今回が初めてだったのだが……。
 「死んだ……かな…………?」
つま先でちょいちょいと男をつついてみる。動かない。息はあるから失神しているだけのようだ。
鞍袋に縄が入っていたのを思い出し、転がっている反身の剣を彼方に蹴り飛ばしてから、男を手近な樹の幹に縛りつけた。
この男があの村を襲った賊の一味だというのはほぼ間違い無いだろうし、例え違うのだとしても便乗犯である可能性もあるので放置しておくわけにもいかない。
どちらにしても白将軍に引き渡すことになるだろう。
 一通り作業が済むと、明槐は再び赤栗毛の脇に座りこんだ。気分の悪さはまだ治らない。いや、この男のおかげでさらに増したような気さえする。
村での戦いも終息に向かいつつあるようで、聞こえてくる叫び声も徐々に減っている。
だが、まだ全てが終わったわけではない。
これから起こるであろう数々の可能性に備えるためにも、今は無理にでも体を休めるときだ、と明槐は自らに言い聞かせた。

游津藤梅記6へ。