青嵐雲遊顛末記3「紅江檄湍 桃蓮乱舞。」
巍国万世拾遺譚 目次へ

 「出られない、とはどういうことですか。」
憤然として、だが礼を欠くことがないように気をつけながら、深紅(しんこう)は門衛の一人に詰め寄った。周囲では彼の言に同調してうなずいている者が何人もいる。
「だから、さっきから言っているだろう。学長から『猫の仔一匹城壁の外に出すな』ときついお達しが出ているんだ。
特別な許可証でも持っていない限り、何人たりとも通すわけにはいかないんだ。」
「だから、何故?」
 太学を囲む城壁には計三つの門が構えられているのだが、そのいずれもが固く閉ざされ、新たに人を入れることも出て行くこともできなくなっているのだ。
少なくとも今朝深紅が同郷の者たちとともに入ってきたときには、何の異常も無かった。
周囲に集まっている者――太学内で消費される物資を運び込む業者であったり、一段落ついて恒陽城市内の自宅に戻ろうとする者だったり――の話を聞くと、正午ごろまではこんな措置は取られていなかったそうだから、なんとも急な話だ。
そんなわけで深紅は、馬を引いてきたはいいものの、城門の手前で足止めを食っているのだった。
 「そんなこと知るか! 俺たちはただ、偉いさんの指示に従っているだけだ。下っ端は下っ端らしく、言われたことをやっていればいいんだ。
何度も同じことを言わせないでくれ。」
どうにも、下手に深入りして面倒に巻き込まれたくない、といった風情がありありと感じられる。
門衛といっても、相手によっては(まだ無位無官に過ぎない)武官部門の学生よりも立場は下である。
指揮官という視点で見れば彼らの態度は実にできたものではあったが、残念ながら今の深紅にはその融通の利かなさが逆にわずらわしかった。
なるほど、これが俗に言う「お役所仕事」というものなのだろう。
 とにかく、これ以上粘っても通してくれる見込みは無さそうなので、仕方なく深紅は門前から一旦離れることにした。
主だった荷は恒陽の宿に預けたままになっているが、幸いいくばくかの銀子(ぎんす/お金)は所持している。
太学内には一軒だけだがこぢんまりとした宿泊施設も一応あるにはあるので、いざとなったらそこを押さえるのも手だろう。
…もっとも、同じことを考えている一時訪問者は、部屋数の何倍もいそうだが。
 さて。それではどこで時間を潰そうか……南広場にやってくると、深紅は隅にあった縁台に腰掛けた。
故郷にいたときも旅の合間も、時間ができたときは大抵鍛錬に費やしてきたのだが、いくらなんでもここで素振りを始めるわけにもいくまい。
手持ち無沙汰を覚えつつも、ぼんやりしている以外に無かった。
 さすがに閉鎖された空間では噂も広まるのが早い。
城門が閉ざされたという話は、瞬く間に敷地内に居た者の耳に行き届いたらしく、そこここで数人が集まってしきりにそのことについて話をしている。
そんな気は全く無かったのだが、他にすることも無いとあって、深紅の耳は無意識にそちらに向いていた。
 「おい、聞いたか。門を閉めたのは、太学内に曲者が紛れ込んでいて、それを逃がさないための処置らしいぜ?」
「ええ、本当かよ?」
「それって、太学の中を犯罪者がうろついているってこと?」
「閉めっぱなしってことは、そういうことだろ?」
「犯罪者って…なにやらかしたんだよ? 万引きとかわいせつとかくらいなら、いくらなんでも門まで閉鎖するなんてことありえないだろう。」
「そんなこと、俺が知るかよ。」
…………。
 「そういえばさ、今日はお忍びで皇帝陛下が視察にいらしてるっていうじゃない?」
「うんうん、聞いたわ。立派なお車が停まっているところを見たっていう子もいたし。」
「なんかね、そこで騒ぎを起こした奴がいるらしいのよ。出入り禁止になっちゃったのも、その曲者を逃がさないためなんだって!」
「ええー、それって随分迷惑な話よね。」
「でしょー? 明日彼が来ることになってるんだけど、それまでに開かなかったらどうしよう、って……。」
「あー、何よそれ、さり気なく自慢してない?」
「えっへっへ、ばれたか。」
…………。
 「何でも、恒陽の城市内で悪事を働いた者が、この太学に逃げ込んだらしい。それを追って、都警備の特殊捜査班も極秘に潜入してきているって話だ。」
「ふえー、極秘捜査。いったい何をやらかしたんですかね。」
「知るかそんなこと。だから『極秘捜査』なんだろ。」
「なるほど! さすが先輩!!」
「……あのな…。」
…………。
 「とりあえず、どこかに移動しましょうよ。いつまでも道の真ん中で喋っているってのもなんだし。」
「どこかって、どこへ?」
「英台さん、どこかいいところ知らない?」
「…いいところというのは、さしずめどういう場所をさすのかしら?」
「んー、静かで、人通りが無くて、なおかつ日当たりが良ければいいんじゃないかしら。」
「…別に翡蓮姉さんの好みを訊いているわけじゃないんだから…。」
「それでしたら……私が普段読書に使っている場所にご案内しましょう。日当たりも良いですし、通りから外れていますから静かですよ。」
「どこでもいい。俺はそろそろ座りたくなってきたぞ……。」
「はいはい、わがまま言わないの。」
…………。  やれやれ、噂には尾ひれが付くものだと心得てはいるが。どうにも噂が噂を呼んでどんどんあらぬ方向に規模が拡大していっているようである。
少なくとも「全部が本当」というわけではあるまいし、下手をしたら全てが「虚報(デマ)」ということだってありうる。
話半分以下にしておいたほうがよさそうだ…と考えたところで深紅はふと、小腹が空いていることに気づいた。
 どうせ城門が開かないことには何もできないのである。腰をあげると深紅は、再び馬を預けに行くことにした。


 (それにしても。都というのは本当に騒々しいところなのだな。)
すっかり浮き足立っている人々の様子を横目で眺めながら、深紅はそんな感想を抱いた。
勿論ここには都以外の出身者も大勢いるから、必ずしもそうではないのだろうが。
それでも、国境線に面しており、わずか二十年ほど前までいろいろと騒ぎの絶えなかった邂州の州都でさえも、ここまで騒がしくはない。
さっさと用事を片付けて家路に就きたいものだ、と元々お祭り騒ぎの苦手な深紅は思わずにいられなかった。
 手持ち無沙汰の二乗である。
時間を潰すといっても既に食事は済ませてしまったし、講義の聴講も書庫へ貴重な書物を閲覧しに行こうという気分にもなれない(それ以前に許可されないだろうが)。
広場で昼寝をする――不特定多数の人間の前で無防備な姿をさらす――こともできないし。
さて、ではどうしようか。
考え抜いた挙句深紅が取った行動は……学内の散策だった。
 邂州で待っている婚約者の顔を思い出し、深紅は我知らずほんの少しだけ表情を緩めた。
お遣いが終わって邂州に戻ったら、式を挙げることになっている。
生まれてこのかた邂州から一度も出たことがないという彼女には、彼が見聞きした都の様子は何よりも良い土産になるだろう。
勿論、太学の門が開いて都に戻れたら、物理的な土産も選ぶ予定だが。
(それに、殿にも太学内の様子の報告にもなるだろうし。)
祖父の代から仕えている彼の主人は、頭が切れていざとなったら大胆な決を下すことができるのに、普段はどうにも小心で、そして邂州一の恐妻家とも言われている。
なのに、その人柄の為か民衆にやたらと人気があった。
そして深紅もまた、この人物に対して好感を抱いていた。
「忠誠とか主従とか、そういうもの一切抜きにしてこの人に何かしてやりたい」、そう周囲の者に思わせてしまう、そんな人物なのである。
 要するにこの散策も「実用を兼ねた土産話を持って帰ってやろう」という程度のものであった。
 とはいえ、道々で聞いた噂のとおり、学内はやはりどことなく騒然としている印象は否めなかった。
こんな様子を報告したところで、次回の太学入学試験に挑もうとしている者たちの参考には、ならないではないか。
(これだけざわついていては、少なくとも今日一日は、学生も勉学に集中することはできないだろうな。)
時間の経過と共に、次第に学生たちの苛立ちも大きくなっているような気がする。あまり良くない兆候だな、と深紅は眉根を寄せた。
訓練の行き届いた軍隊ならともかく、浮き足立った一般人というのは、何がきっかけになって暴発するかわからないからだ。
(ともあれ、さっさと賊を捕まえてもらわないことには、私も困る…。)
ここは国が直接運営している施設だし、軍部への仕官を希望している者の学び舎もあるということだから、この広い敷地内のどこかで必死に捜索が行われているのだろうが。
(そういえば。先ほどの尋ね人は、見つかったのだろうか…?)
ふと、あの女性の姿が脳裏に浮かんだ。
 そんな具合で、門前の広場まで戻ってきたときである。
「おや?」
 先ほどけんもほろろに深紅を追い払ったあの門衛と、話しこんでいる人物がいる。
見覚えがあるなと思っていたら、こちらを向いた。思ったとおり、あの女性であった。
 「お探しの人は、見つかりましたか?」
軽く会釈をした彼女に、深紅は尋ねた。彼女は少し疲れた笑顔を浮かべて、静かに首を横に振った。
「まだ、なんです。本当に、どこに行ってしまわれたのか…。」
「どうも学内がざわついているようですし。このように、」
さりげなく門衛に目を向けたら、にらみ返された。
「敷地外へ出ることも禁じられていますから、見つかりそうなものなのですけどね。」
「ええ、そうであって欲しいのですが…。」
心底困った表情を浮かべて、学び舎が立ち並んでいる方面に視線を送る女性。
「連れの者たちも手分けして探してくれているのですが、なにぶんいろいろな意味であちらのほうが上手でして…。」
「上手?」
問い返したが、女性はうなずいただけで具体的なことは教えてくれなかった。
「方々に迷惑をかけることになるので、何としてでも今日中に探し出さねばならないのです…。それでは。」
再び頭を下げると、女性は再び踵を返した。
まだそれほど時間は経っていないというのに、その後姿には先ほどよりもはるかに疲労の色が濃くなっているのが見て取れた。だからなのかもしれない。
 「もし、」
女性が振り返る。
「よろしければ、私もその人探しを手伝って差し上げましょうか?」
「貴方が、ですか?」
「どのみち私も門が開かない限り、宿に戻ることすらかなわないのです。暇を持て余して無為に時間を潰すくらいなら、人様のお役に立っていたほうがいい。
…ご迷惑なようでしたら、辞退いたしますが。」
「いえ、そんな。」
女性の面に浮かんだのは、感謝と戸惑いの両方だった。無理もない、初対面も同然の相手なのだから。
しばし考えた後、女性はようやく表情を緩めた。
「…それでは、お言葉に甘えるといたしましょう。よろしくお願いいたします。」


 『悪者に追われている以上、人目に付く場所に居るのはまずかろう』ということで。
伯明以下総勢七名になった若者たちは、学内にある、とある建物の裏手へとやってきた。
そこはちょっとした広場になっており、これから何か建てるのか地面はきれいにならされた上に隅にはちょっとした資材が積み上げられ、雨風を防ぐためか筵(むしろ)がかけられていた。
日当たりが良く風もなく、南側にはちょっとした木立まであり、なおかつ学内の賑わいもここまでは届かず穏やかな静けさに包まれているとあっては、なるほど伯明が読書のために通う「とっておきの場所」にするのも判る。
そしてそれをまた惜しげもなく英台たちにも教えてしまったのだから、『伯明君ってば太っ腹…☆』と桃香は改めて惚れ直していたりした。
「ここなら、どうでしょう?」
「いいと思いますよ。」
ひととおり近辺を見てきた大翼が、満足そうにうなずいた。
「ここなら誰かが来てもすぐに判るし、正面は建物、後ろは城壁。注意するのは二方だけでいいし、なにより袋小路にもなっていないし。」
「それに…荒事になっても、ここなら充分に広いから存分に暴れられるわね。」
「桃香姉さん…。」
「や、やぁね冗談に決まってるじゃない。」
「冗談で済めば、よろしいのですけどね。」
自分だけちゃっかりと木陰に避難していた英台が、桃香の言に眉根を寄せた。牡丹の花が描かれた絹張りの扇子がひらりと揺れる。
「あなた方、お気づきになりませんでしたの? こちらに至る道中、学内でなにやら妙な噂が飛び交っていたのを。」
「そうみたいね。」
相変わらずにこにこしながら応じたのは、翡蓮だった。
「とんでも悪い人たちが敷地内に居る、とか。
悪い人たちを外に出さないように全部の門を閉めちゃった、とか。
恒陽から特殊部隊がこっそり送り込まれてきているみたい、とか。
叛乱の第一歩として学生さんたちを人質にとって立てこもろうとしているんだ、とか。
なんだかそんなような話をいろいろいっぱい聞いたわ。」
最後に「うふ☆」と締めくくる。…口にした内容と彼女の話し振りが全く噛み合っていないのは気のせいだろうか?
それを聞いてにわかに緊張を覚えたのは、彼女の双子の妹である翠蘭だった。
「……その噂が全部本当なのだとしたら、学内には複数組の犯罪者がいることになるな…。」
「ええっ、それは大変です! ここにいるのは皆学問を志す無辜(むこ)の学生ばかりなのですから。」
伯明まで青くなっている。つられて桃香まで色をなしている。そんな彼らの様子を見て、独り嘆息したのは誰あろう、
「お前らな…噂なんてものは話半分以下で聞くのが常識だろうが。」
当事者であるはずのきーさんだった。ところが、それを聞くなり桃香は腰に手を当てて「甘い」と言い放った。
「そりゃ、そうかもしれないけど。でもそれは同時に『全部が本当』であるという可能性が皆無だという根拠にもならないわ。」
「皆無じゃない、という根拠にもならんぞ。」
まあまあ、と大翼が間に入ったので、二人はしぶしぶ口をつぐんだ。
特にきーさんのほうが何か言いたげのようだったが、代わりに口を開いたのは、やはり「腑に落ちない」という表情をしたままの英台だった。
 「まぁ、よほどのことでもない限り騒ぎの渦中に巻き込まれるということは無いといたしましても。
…伯明様、私たちはいつまでここにいればよろしいのでしょうか?」
「いつまで、とおっしゃいますと?」
「確かに、この方の身の安全も大切かもしれません。
ですが私たちは太学の学生であり、学生の本分とはすなわち勉学に励むことではありませんでしたかしら?
既に午後一番の講義は始まっておりますし。これ以上講義を放棄するというのは、いかがなものかと。」
言われて、伯明は本当に困った顔をした。心情を素直に面に出すのが彼の美点であり、また短所でもある。
彼の夢――立派な官吏になること――と、現在に至るまでの苦労を思い起こすと、確かに英台の言うとおり講義をすっぽかすというのはかなり心苦しい。
「桃香さんと弟妹方がついていてくださるようですし。私たちは講義の方に戻りませんこと?」
しばし思案した後、しかし伯明は静かに頭を振った。
「…ご心配ありがとうございます。
でも私は、やはりここに居ることにします。きーさんを置いて自分だけ講義に出るなどということは、やはりできません。」
申し訳ありません、と伯明は頭を下げた。
「それに…もしここに連環太夫様がいらしたとしても、やはり同じ選択をされたと思いますし。」
「いや、父様はあれで結構面白がりなとこがあったから、伯明君と一緒にするのはどうかと思うのよ?」
冷や汗と乾いた笑みを浮かべながら、慌てて桃香は伯明の袖を引いた。その後ろではやっぱり翡蓮が「そーねー」とか言ってにこにこ笑っていたりする。
「連環太夫? 失礼ですがどなたのことでいらっしゃいますの?」
「俺も聞いたこと無いぞ?」
英台ときーさんが揃って不思議そうな顔をしている。本当に知らないらしい。
「ええっ!?」と呟くと伯明は、今度はがっくりとうなだれてしまった。
「そんな…。」
「…あのねぇ伯明君。どう頑張ったって父様は有名人じゃないから。」
その後ろでやっぱり「そーねー」は翡蓮。
それでも、どうやら白姉弟の父親のことらしいというのは、英台たちにも判ってもらえたようであった。
 「…そういうことですので。私のことは構わず、どうぞ英台さんは講義を受けてきてください。」
丁寧に、それも穏やかに応じられてしまい。逆に英台は困ってしまった。ちらと桃香にも目をやる。
「……そういうわけにも…参りませんわ……。」
「どうして?」
すかさず桃香が問う。彼女も伯明も、いたって素直に不思議そうな顔をしている。
「……どうしてって…。伯明様がいらっしゃらなければ……いえいえそうではなく!
先ほど申し上げませんでしたかしら。今日一日は単独で行動してはならないことになっている、と。」
「なんだ? そうなのか??」
と、横から首を突っ込んできたのはきーさん。
「ええ。本日は皇帝陛下が御忍びで視察にいらっしゃっているとかで、曲者対策として常に複数の者が連れ立って行動するように、と学長様から指示が出ておりますのよ。」
翠蘭たちもうなずいているところをみると、どこかで聞いてきたのだろう。
「なに? そんなことになってるのか? 法馬廉(ほう・ばれん)め余計なことを…。」
「? 学長先生をご存知なんですか?」
「うん? まぁ、顔くらいならな…。」
不思議そうな顔をしている伯明に、きーさんは平然とそう言い放った。既に関心は別方向に向いているらしく、きょろきょろと周囲を見回している。
「そんなことより。そいつのいうとおり、講義に行きたけりゃ行ってきたっていいんだぜ? こっちはこっちで適当にやってるから。」
「適当…って。」
誰のせいでこんな騒ぎになっていると思っていらっしゃるの!? と言いかけて、英台は何とか言葉を飲み込んだ。
眉間に縦しわを寄せ、たっぷり数えること、十五。
 「ああ、もう! わかりましたわっ! 私もお付き合いいたします!!」
「えっ、でも講義のほうはどうするの? 学生の本分は勉学に励むことなんでしょう?」
「…今日入学してきた貴女に言われたくありませんわね桃香さん……。」
桃香と英台か見えない火花を散らす間で。
 伯明は「よかったですね、きーさん」などと、ほえほえ微笑していたりするのであった。
…正真正銘、他意は皆無なのである、この人。

          ◆   ◆   ◆

 さて。
「……俺はお遣い犬じゃないぞ……。」
すっかり諦めた表情で大翼は、学舎と学舎の間に設けられた小道をほてほてと歩いていた。
だいぶ踏みならされてはいるものの、さすがに石畳が敷かれているわけでもなく地面はむき出しで、あちこちに小石が転がっていたりする。
その一つを腹いせよろしく、ぽーんと蹴ってみたり。
というのも。
「だって。しばらく隠れている場所は見つかったけど、いつまでここに居ればいいのかわからないじゃない?」
腰に手を当てふんぞり返りながら、彼の大姉はそう言い切ったのだ。
まぁ言いたいことはわかるし、あながち間違ったことを言っているわけでもないので、それはそれでいいのだが。
「…こういうとき、最年少っていうのは損だよなぁ…。」
聞けば、きーさんも大翼と同じ十五歳らしいのだが、さすがに当事者に「篭城(?)用食料の買出し」をさせるわけにもいくまい。
「ぼやくな。だから私もついてきてやっただろう?」
苦笑を浮かべながらぽんと彼の肩を叩いたのは、すぐ上の姉(といっても二姉と三姉は双子だから、大して変わらないのだけれど)翠蘭だった。
大翼と翠蘭は共に軍部への仕官を志望しているので、普段から何かと行動が一緒になることが多いのだ。
「…時々思うんだけれども。うちって桃香姉さん中心に回っていない?」
「そりゃ、父様が亡くなって母様が現場に復帰してからは、姉様が代わりに母親役をやってきたんだから、仕切るのも板についているさ。
…不満?」
うーん、と大翼は歩きながら腕を組む。
(どう返事したところで大姉のことだから、例え翠蘭姉さんが黙っていたとしても、何かしらの方法で聞きつけるに決まっている。
あの人はそういう人だ…。)
「…大翼、考えていることが全部顔に出ているよ…。」
「えっ!?」
大慌てで顔に手をやる少年。その様子に、二歳年上の姉は心中で静かに嘆息した。
(姉様も姉様だけど。この子も、近い将来白一族の長になることが内定している人間には、見えぬよなぁ…。)
「大丈夫。翡蓮ちゃんに比べたら、まだ姉様のほうがずっとましだから…。」
うっかり肯首しかけて、すんでのところで思いとどまる大翼。…翡蓮は桃香以上に「油断のならない人物」なのだ。
そういう意味では母似(人前で男言葉を使うところまで真似しなくてもいいのに、と大翼は思っている)の「常識人」である翠蘭は、大翼にとって最も頼りになる味方ともいえる。
そして。
「伯明さんて、偉大だよなぁ…。」
「そうだな…。」
伯明の言であれば、白家の無敵の長女はどんなことでも無抵抗で従ってしまうのである。心底惚れこんでいるから、許婚者の言いなりなのだ。
(本人にその自覚は全く無いのだろうが)結果的に桃香を意のままに操れている伯明を、二人はしみじみと尊敬せずにはいられなかった。
 そんな会話をしつつ学生用の売店(こういうところにも商人というのはたくましく入り込んでくるものらしい)がある一角に差し掛かったときである。
「翠蘭? あら大翼も。こんなところで会うなんて偶然ね。」
背後から声をかけられ、二人は同時に振り返った。さすがに武人として日々鍛錬を積んでいるだけあって、その動きもなかなか様になっている。
 そんな二人の視線の先には、先ほど深紅と話していた、あの女性がいた。


 その頃。広場に残った伯明たちはというと。
「…壁?」
「そうよ。」
そう言いながら、桃香はきーさんの目の前でかけられた筵をわざわざめくり上げ、資材をてちてちと叩いてみせた。
「伯明君が見たっていう連中って、かなり屈強みたいだし。さっき道々で聞きかじった悪い奴らの話も結構油断ならなさそうだし。
どっちにしても守備は固めておいたほうがいいと思うのよ?」
「そりゃ面白そう…じゃなくて。」
「何よ、きーさんは反対なの?」
「賛成とか反対とかいう以前の問題ですわよ桃香さん…。」
きーさんの代わりに、英台がこめかみに指を当てゆるゆると首を振る。
「いったいどなたが、その壁とやらを作るんです?」
「そんなもの、皆でやるにきまっているじゃない。」
「……もしかして。その中に私も含まれているとでもおっしゃるのかしら?」
英台は巍でも名門中の名門、皇甫家の一員だ。
幼い頃から淑女としての礼儀作法から男性にも負けないほどの知識と教養を身につけてきた、いわゆる「筆より重いものを持ったことが無い」という種類の人間である。
ところが桃香はそんなことに気づいているのかいないのか。
「大当たりー♪」
にこやかに返した。
「もう少ししたら大翼たちも戻ってくるだろうから、体力派のあの子たちにも手伝わせるわ。皆でやれば早いわよ。
設計のほうは…翡蓮にお任せするわ。得意だし。」
「そーねー。」
『愛しい翠蘭ちゃん』に置いていかれてそれまでちょっぴり消沈気味な翡蓮だったが、姉の提案に毎度おなじみの調子で返す。
鼻の上にちょこんと乗っている眼鏡が、今回に限って何故か『きらりんっ』と光ったのは抜群に秘密だ。
「待ってて、今二つ三つ仕掛けを考えているから。」
「仕掛け? おっおっ、なんか面白くなってきたな。よーし、俺も手伝うぞ。」
「微力ながら私もお手伝いします。」
おもむろに立ち上がったのは、なんと伯明だった。全員の目が彼に注がれる。
幸薄く日陰で芽を出してしまった草花を彷彿とさせる細い体躯。どう見たって筋肉が付いているようには思えない胸板。
資材を持ち上げた途端にぎっくり腰か骨折でもしそうである。
「こう見えても、工作は得意なんですよ。桃香さん、さしあたって何をすればよろしいのでしょうか?」
「ありがとう、伯明君! きーさん!」
 早速翡蓮が地面に棒で何事か書きつけ始めた。それが見る見るうちに広範囲に広がっていく。
文字ありーの数字ありーの図形ありーの。どうやら設計図のようである。
「踏んじゃ駄目よー。踏んだら…今試作している素敵栄養剤の、第一号被検体にしてあげるからー。」
ほんわりとした口調でさらりととんでもないことを言ってのける眼鏡娘。
その言葉に、桃香と伯明が大急ぎで翡蓮の計算域から飛びのく。よく飲み込めないまま、きーさんと英台も同じように距離をとった。
 出来上がった設計図は、予備の計算も加えると、ちょっとした部屋ほどの広さに展開していた。かかった時間は、点心が蒸しあがるかどうかという程度である。
「うん、これでいいと思うわ。」
出来上がった設計図をしげしげと見やって、翡蓮は満足そうに――でもあくまでいつもと変わらない様子で――うなずいてみせた。
「うーん? 私には何がどうなっているのかさっぱり解らないんだけど…。」
「姉様は解らなくていいのよ。…そうね、まずそれをあっちへ持っていってもらえるかしら?」
てきぱきと指示を出し始めた翡蓮に、桃香、伯明、きーさんの三人が楽しそうに(?)資材を運び始める。
「桃香さん、半分お持ちましょうか?」
「あら、ありがとう伯明君。でも大丈夫? 結構重いわよこれ。」
「…う……本当に重いですね…。」
「無理しちゃ駄目よ?」
「はい。」
桃香と伯明、…なんだかとっても「いい感じ」である。
そして、それを黙って見ていられるほど、英台は(自身が思っているほど)大人ではなかった…らしい。
「……服が汚れますわね…。
まったく、こんな平民の方々がやるようなことを自ら進んでなさるだなんて…桃香さんもきーさんも、なんて物好きでいらっしゃるのかしら。」
さりげなく伯明を除外しているのは意識的なのか無意識なのか。
ともかくぶつぶつ言いつつも、英台は絹地に大輪の牡丹が描かれた扇子を、傍らに置いたのだった。

          ◆   ◆   ◆

 「探す」とは言ったものの。深紅は早くも少しばかり後悔し始めていた。
 まず、広すぎる。
門が閉められているため探索範囲が限定されるぶんいくらかは探しやすいかとも思ったのだが、それでも太学の敷地は広かった。
勉学をするためだけなのに何故これほどの面積が必要なのか、武門出身の深紅にははなはだ疑問である。
いや彼自身士人(しじん/教育・地位のある人)のたしなみとして一通りの学問を修めているが、それでもやはり学問に面積はあまり重要な意味はなさないはずである。
周囲を壁で囲い城市としての体をなしているくらいだから、皇室の離宮くらいの規模はもしかしたらあるかもしれない。
 次に、人が多すぎる。
都に近いぶんここに出入りする者たちは流行に敏感らしく、出会う人出会う人、皆同じようないでたちをしているのだ。
官吏という狭き門を目指す者たちの集まりだから、突飛ないでたちをして悪目立しようとする者も滅多にいない。
その上鳥小屋の鳥や草原に放牧されている羊の群れを数えるのと同じく、人口密度が高い上に誰一人ひとつところに留まっているわけがないので、何度も同じ人間に出会う始末だ。
 この中から人一人を探し出そうというのである。
寡黙な性格である深紅は、よほど必要に迫られなければ自分から人に声をかけることも無かった。
 そんな具合で四半刻(約三十分)ほどもうろついた頃だったか。
 反射的に深紅は足を止めた。
彼の右手、建物と建物の間に、細い路地が延びている。その路地の奥から…なにやら物音がするのだ。
ごっつんがっつん、どかんどさん、がりがりがり…。少なくとも学び舎という環境下にはかなり似つかわしくない音である。
(……?)
不審に思い、路地を覗き込む。
たまたま途切れたのか周囲には他に人影は無い。
不審者騒ぎのことを思い出していた矢先だったこともあり、「万が一の事態」が深紅の脳裏によぎった。迷わず路地に足を踏み入れる。
すると、幾つかの声が耳に届いた。
 「駄目よきーさん、それはそっちじゃなくてこっちよ。」
「ああん? どっちでもいいだろ、形も似たよーなもんだし。」
「そっちのほうが短いわよ。ほら届かない。」
「そんなもんは、こうだ。」
めぎょ。
「壊れちゃったじゃないのーっ!!」
「ええい、軟弱な木だな!」
みぎみぎみぎっ。
「…さらに壊してどうなさるおつもり?」
「栄えある新作栄養剤の第一号被検体は、きーさんに決定で賛成な人ー。」
はーい。はーい。はいですわ。…はい。上がった手は四つ。うち一つはちょっと遠慮がちに。
「何だかよくわからんが、受けてたつぞ。」
「…私、今ちょっと本気できーさんのこと尊敬しちゃった…。」
「はっはっは、苦しゅうない。存分に尊敬しろ。」
「…そこは決して胸を張られるようなところではないと思いますわよ…。」
「そーねー。」
 ……学内があれほどざわついているというのに。路地を抜けた先にあった広場では、なんだか別空間にでも迷い込んだかのように違う空気が流れている。
何よりも目を引いたのは、広場の真ん中にどどーんと積み上げられた、なんとも形容し難い形状の山だった。
使われているのは、どうやら建材とか資材とかいったきちんとしたもののようだが…いかんせん工法も何もあったものじゃない。
文字通り積み上げられている(ようにしか深紅には見えない)だけである。
山のあちこちからなにやら長いものが幾本か、文字通り針山に刺さった針のごとく飛び出しているのが、さらに奇妙度を格段に増加させている。
(な、何だこれは!?)
深紅でなくても、おおよそまともな感性を持つ者なら、大抵はこんな感想を抱くに違いない。そういう意味では、深紅は非常に常識的な人物であるといえよう。
そうでなくても今は異常事態の最中である。警戒するなというほうが無理な話だ。
(もしかして…この者たちが件の賊なのか…?)
物陰に身を滑り込ませ、さらに観察を試みる。大型猫科を連想させるしなやかな身のこなしであった。
(もしそうなのだとしたら…。)
いい加減うんざりしていたところだ。さっさと都へ戻れるのなら、警備の手助けをしてやるのもやぶさかではない。
注意を広場に向けたまま、深紅は帯びている愛剣の位置を手で探った。
 「ところで翡蓮さん。」
「なーに? 伯明さん。」
「あの壁から伸びている細長いものは、何なのですか?」
「うふ、知りたい?」
「はい。」
「んー…ひ・み・つ☆」
「秘密なんですか?」
「そーねー、じゃあできたら伯明さんに最初に使わせてあげるわね。」
「はあ、ありがとうございます。」
「えー俺じゃないのかよ!?」
「きーさんは翡蓮ちゃんの実験台一番手にしてあげるって、さっき言ったじゃない。」
「うるさい、お前には訊いとらん。」
「あっ、何よ。それが年上の女性に向かって言う台詞!?」
 賊(「人は見かけで判断してはいけない」というくらいの人生経験はある)のやりとりを観察していた深紅であったが。
きーさんと呼ばれた少年の面(おもて/顔)を見た途端に注意が釘付けになった。その人相に心当たりがあったからである。
(もしや…あの女性が探していた人物とは、この者なのでは…?)
背格好といい、身につけているものといい。女性から伝えられた特徴を確認すればするほど確信に近づいていく。間違いない。
ということは、いまあの少年と共に居る者たちは……。
(どうする? いまなら奪還も可能だろうが。)
腕が立ちそうな者は見当たらないが、他に仲間がいないとも限らない。
妙な建造物(?)がそびえ立っているが、それ以外には特に目に付くものも無く、周囲に何かしら小細工がなされている様子も見受けられない。
(小細工をするくらいなら、そもそもあんな目立つものなど作らないだろう。)
ならば、仲間を呼ばれる前に片をつけたほうがいい。
 「おや?」
と、それまでせっせと拳大の石で隙間を塞いでいた伯明が「壁」の向こう側に目をやった。
それに目ざとく気づいたのは、やはりというか桃香だった。
「どうしたの? 伯明君。」
「あそこに、」
指で示そうとし、さすがにそれはどうかと思い直して、掌で方向を示す。
「どなたかいらっしゃるようなのですが。」
「何?」
桃香が相槌を打つ前にきーさんがやってきた。伯明が示した方向を向き、眉間にしわを一つ刻む。
「知ってる人? もしかしてきーさんを捕まえようとしている奴とか?」
「いや、顔は知らん。初めて見る奴だ。だが、」
「物陰からこそこそとこちらをうかがうなど、やましいところが無い人間には、到底見えませんわね。」
さりげなく伯明の隣(桃香とは反対側)を陣取りながら、英台も眉根を寄せる。扇子は懐なので、代わりに袖で口元を隠した。
「ということは、あちこちで噂になってた『超絶極悪犯』とかいうやつなのかしら!?」
「その可能性はあるわねー。」
一人だけ黙々と作業を続けていた翡蓮が、手を休めずに相槌を打つ。
対象を見もせずにそんなことを言ってもいいのか、と突っ込める人間は残念ながらこの場にはいないらしい。
「学長様から『必ず複数で行動するように』との指示が出ているのに、一人でいるところがまず怪しいですわね。」
「どちらにしても、私たちに手を出そうとしたら、用意した仕掛けの生贄になってもらうだけねー。」
翡蓮の眼鏡が再び怪しくかがやいたのを見て、桃香はこちらをうかがっている人物に対し『命が惜しかったらこちらには来るな』という念波を送ろうかとまで思った。
「何だかよくわからんが、凄そうだな、おい。」
「ありがとー。ご褒美に、きーさんには二番目にやらせてあげるわねー。」
「なんだよ一番じゃないのかよ。」
「男の子は順番守らなきゃ駄目よー?」
「あっ。」
女ならいいのか?というきーさんの台詞をさえぎったのは伯明だった。
「こっちに来るわ! どうしよう?」
桃香の言うとおり、先ほどまでこちらをうかがうだけだったあの人影が、一転してこちらにまっすぐ向かってきたのである。
顔つきはおとなしめで、年のころも伯明と同じくらいだが、一挙手一投足から筋肉の付きかたなど彼の比ではないことは誰の目にも明らかだった。
帯びた剣には華美な装飾など見受けられず、翠蘭か大翼がこの場に居たならば一目で、きわめて実用的な逸品であることを見抜いただろう。
「どうしようって、桃香さん。まずはあちらの目的を知ることが先決ではございませんこと?」
「そ、そうよね…。」
緊張から桃香が息を呑んだときだった。
 「そこに居ることは判っている。」
凛とした太い声が広場に響いた。深紅である。決して語調は強くないが、それでも簡単に否とは言わせないだけの響きはあった。
「おとなしく少年を解放しろ。今なら手荒な真似はせずにおいてやる。」
広場の真ん中で足を止め、じっと返答を待つ。眼前の建造物の中で幾つかの気配がざわつくのが感じられた。
 「少年って、もしかしてきーさんのこと?」
「今この場にいらっしゃる殿方は、きーさんと伯明様だけですわ。」
「伯明さんは、どう見たって『少年』じゃないわよねー。」
「はあ、ありがとうございます。」
「伯明君、そこお礼言う場面じゃないってば。」
「でも、これではっきりしましたわね。」
再び壁の外に目を向け、英台が呟く。
「あの方の目的は、間違いなくきーさんですわ。」
「そおかぁ? 確かに俺は頭良いほうじゃないが、でも周りの者の顔くらいは…。」
「え? 何? 何か言った?」
「ああいや、なんでもない。」
慌てて首を振るきーさん。
「で。どうするの、姉様?」
妹に尋ねられて、桃香は腕を組んだ。そしてちらときーさんの顔を見やる。きーさんも桃香を見た。
見つめ合うことしばし。
「きーさんを渡すわけには、いかないわ。」
今までのどたばた振りとは打って変わり、静かな決意に満ちた表情で、桃香は言った。
「行き倒れて、食い逃げの真似までして、逃げようとしていた相手ですもの。それに、守ってあげるって約束したじゃない。」
「いやだから食い逃げじゃねえって。」
「そんなこと言って、諦めてくださる方のようには見えませんけど。諦めるくらいでしたら、最初から勧告などしてまいりませんわよ。」
英台の言うとおり、「嫌だ」といったところで「はいそうですか」と引き下がってくれるような相手には到底見えない。現に左の手は最初から剣の鞘に添えられたままだ。
「じゃあ、宣戦布告するしかないわねー。」
一人だけ緊張感皆無で「仕掛け」とやらの微調整を行っていた翡蓮がこともなげに言う。その言葉に最も強く反応したのは、伯明だった。
「せ、宣戦布告、ですか…。」
「だってあの様子だと、何言ってもこっちに来そうじゃない?」
相変わらず壁の向こう側の様子など一切見ていないのに、そう言い切る翡蓮。
「そ、それはそうですが…。でも争いはよくありません。話し合いで解決するのであればそうするべきです!」
「話し合いで解決するんだったら、ここまでこじれていないわよ伯明君…。」
「と、桃香さんまで…。」
眉尻を思いっきり下げた今にも泣きそうな表情で許婚者に見つめられて、さすがの桃香も心が痛んだ。
「大丈夫よ伯明君。何があったって、あたしが伯明君を守ってあげるから!」
「逆じゃないのか? 普通。」
「この二人の場合はこれが普通なのよー。」
当人たちに聞こえないようにこそこそとやりとりする、きーさんと翡蓮。そこにわざとらしく咳払いをしたのは、展開に取り残された約一名。
「その前に。きーさんをお守りするのが先決だったんじゃございませんこと?」
「ああそうだったわ。すっかり忘れてた。」
「おい…。」
さすがにあきれ果てた表情のきーさんと、「いけません桃香さん、それでも争いごとはいけないのです」と哀願する伯明を残し、桃香は一人「壁」のてっぺんに登った。
ご丁寧にも翡蓮は屋上(?)に至る階段までもきっちり設計していてくれたので、大して苦労せずに登ることができた。
 突然「奇怪建造物」の屋上に現れた人影に、深紅は一瞬あっけに取られて言葉を失ってしまった。
時は正午と夕刻のちょうど中間あたり。
午後の太陽を背負ったその姿は逆光でよくは判らなかったが、女物の衣装と思しきその輪郭は、腰に手を当て胸を思いっきりそらせていた。
「残念だけど、きーさんは渡せないわ!」
深紅の頭の上から降ってきたのは、反省という言葉には程遠い口調だった。
「今この場で引き返すのならよし、さもなくば…少し痛い目を見てもらうことになるけど。いいのかしら?」
「…あくまで逆らう、と。」
「当然でしょ。」
声はまだ若い女のもののようだが、堂々と啖呵を切るところなど、かなり肝が据わっている。
というより、どこからどう見ても『悪の女幹部』にしか見えない。少なくとも深紅の視点では。
これはますます捨て置くわけにはいかないようだ、と深紅は意を決した。
面倒事に首を突っ込むのは正直言って気が進まないのだが、遭遇した悪者を見過ごしたとあっては、邂州で待つ主人や婚約者に合わせる顔が無い。
「その言葉、あとで後悔するな。」
短く宣言すると、深紅は前言どおり大またに歩き出した。
妙なものの中に立てこもってはいるが、所詮は突貫物件である。必ずどこかに設計の甘い場所があるはず。中に入ってしまいさえすれば、少年を奪還するのも容易だろう。
 「来ましたわよっ。」
隙間から外の様子を見ていた英台が小さく叫んだ。いつもは自信に満ち溢れた才女も、さすがに表情が強張っている。荒事は彼女が得意とする分野ではない。
それは勿論伯明にとっても同じなのだが、どちらかというとこちらは。
「まだ間に合います。話し合えばきっと解り合えるはずです! 暴力はいけません、絶対に!」
「あ、剣を抜いた。本気だぜありゃ。」
「ええっ!?」
「うーん、逆効果だったみたいね…。」
屋上から急いで戻ってきた桃香が乾いた笑みを浮かべて呟く。伯明は失神寸前だ。
「みたいね、じゃありませんわ! どう責任を取るおつもりですの桃香さん!」
「翡蓮ちゃん、大翼たちは?」
「んー、まだ戻ってこないみたいねー。」
深紅がやってきたのとは別の路地に目をやって、翡蓮は相変わらずのほほんとした口調で答えた。
「もう! あの子たちどこまで買い物に行ったのよ…。」
「おいどうするんだ? こっちには剣を持っている奴なんかいないんだぜ?」
翡蓮よりは緊張気味、しかし桃香よりはのんびりとした様子で、きーさんが問う。…一番の当事者であるくせに、なんだか他人事っぽい反応である。
しかしそのとき、またしても翡蓮の眼鏡が輝いた。
「大丈夫よー。こんなこともあろうかと、ちゃあんと秘密兵器を用意しておいたから。」
鼻歌でもはじめそうな様子で、おもむろに左手にあった扉(いつの間に用意したのだろう?)を開く。中から現れたのは。
「ちょっとこれ、もしかして弩(ど)じゃないの!?」
「そーよー。」
さすがに全員が顔色を変える中、やっぱり翡蓮だけはのほほんと微笑みつつ、いとおしげに弩をなでていたりする。
ちなみに弩というのはからくり仕掛けの弓のことで、箭(せん/矢)を装てんした弦を仕掛けに引っ掛けておくことで、持久力が無い者でも任意の時機で容易に射ることができるという代物である。
西国ではクロスボウとか呼ばれているらしいよ――若干九歳にして本の虫であり西国の博物誌にも通じている白家の末っ子がこの場に居たらそんな講釈をたれていただろうが、この場にいない人間は発言できない。
ともかくその弩が、「壁」内に設置されていたのだ。
「このくぼみにぴったりはまるようにしてあるから。ここに載せて固定すれば、非力な伯明さんや私でも狙いをつけるのに集中できるわ。」
翡蓮は嬉しそうにそう説明した。箭の装てん自体は残念ながら人力でやるわけだが。
「命中精度のほうも、ちょっといろいろ改造してみたから、巍の軍隊で使っているやつよりもずっと性能は上よ。」
「おおっ、そりゃすげー!」
「でしょでしょ。」
きーさんの賞賛を浴び、翡蓮ちゃんご満悦。
「もし本当に上なら、叔母ちゃんに掛け合って導入してやろう。」
「で、ですが…さすがに学内でこのようなものを使うのはいかがなものかと…。」
あの英台が動揺を隠せずにいる。
勢いと未練とでここまで付いてきたものの、彼女は学問以外のことで他者と争うのは本意ではない。
相手を物理的に傷つけるなど全く想定していなかった。怪我をするのは嫌だが、他人に箭を射掛けるのはもっと嫌だ。
ましてや良家の子女ともなればそれ以前の問題である。
「でも、残念ながら箭を作っている時間は無かったのよねー。だから代わりに、」
翡蓮が差し出したのは、拳より一回り小さな石だった。それが三十個ほど用意してある。
「これを飛ばすのよ。」
「おう、箭じゃなくて弾なのか。それじゃあ弩じゃなくて弾弓か投石機ってとこだな。」
目をきらきらと輝かせながら、きーさん。やはり男児たるもの、多少の差こそあれ「力」というものに対して憧れを抱くものなのだろう。
(…彼らの目の前に「例外」が居たりするけれども。)
なお、この場にいない例の末っ子の代わりに再度説明すると、乱暴な言い方をすれば、弾弓とはいわゆる「パチンコ」のことである。
「これなら、よほど当たり所が悪くない限り、死んだりはしないと思うわー。」
「…充分に致命傷を与えられると思いますけれども……。」
そんなやりとりをしている間にも、深紅はどんどん近づいてくる。
「というわけで。伯明さんやらないのー?」
「とんでもありません! お願いです翡蓮さん、そのような物騒なものは使ってはいけません!!」
「ということは棄権するんだな。」
真っ青になっている伯明を悲鳴寸前の台詞ごと押し退けて、いそいそと『秘密兵器』に取り付いたのはきーさんだ。
右手で弦を掴むと、左手のほうは早くも弾となる石を選定し始めている。そして、さっさと装てん。
「止めるなよ!」
「止めないわよー。」
「いけませんっ! 絶対にいけませんっ!! 駄ー目ーでーすー!!」
「あっ、こら引っ張るんじゃ…!」
伯明がきーさんの袖を力いっぱい引いたのと、うなりを上げて弾石が発射されたのは、ほぼ同時だった。
英台に至っては目が点、開いたまま塞がらなくなった口を袖や扇子で隠すことすら忘れている始末。
 「!?」
何かが飛んできた。
そう思った瞬間、意識するより早く深紅の体は動いていた。これも日々積み重ねてきた鍛錬の賜物だろう。
それでも鈍い音を立てて地面にめり込んだそれは、深紅が数瞬前まで居たその場所にあった。
(…………っ!?)
さすがにこれには内心ひやりとしたものを覚えた。そして再び建造物の方に目を向ける。
軌道から「どこから飛んできたのか」はおおよそ見当が付いたが、いかんせん窓が小さくて発射した人物の姿は見えない。
しかし。
(これではっきりした。奴らは間違いなく賊だ。)
まさか自分が救出しようとしている相手に攻撃されたなど、露とも思わない。
たまたま自分だったからよかったようなものの、これが武術の心得などまるで無い学生だったら、一体どうなっていたことか。
そう思うと、普段は冷静な彼の胸中にふつふつと怒りのようなものまで湧いてきた。彼らは本気だ。ならば。
(手加減無用!)
いったんは戻した刀身が、再びしゃらんっ、と音を立てて現れる。
『奇怪建造物』はもう目の前だ。正面に入り口らしきものがある。中がばたばたと騒がしくなっているのを無視してそこに手をかけたときだった。
 「待てぇっ!」
「貴様、何者だ!?」
背後から飛んできた鋭い声に、深紅思わず振り返る。
先ほど彼が『奇怪建造物』内の様子をうかがっていたその場所に、いつの間にか少年と少女が一人ずつ、立っていた。

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