青嵐雲遊顛末記4「鵠翊翩翩 青雲流連。」
巍国万世拾遺譚 目次へ

「……。」
無言のまま、深紅は二人に向き直った。勿論利き手は剣の柄をしっかり握ったままだ。
「どうやら間一髪だったみたいだな…。」
同じように、帯びた剣に油断なく手を添える少女の隣で、少年が呟いた。白大翼と白翠蘭である。
どちらも肩を怒らせ穏便とは程遠い形相をしている。
「ああ…。そこな者! ここはお国の機関である太学の敷地内ぞ!! 狼藉は許さん!」
買出しに行く前には無かった『壁』の存在に驚いたものの、それでもすぐに納得し順応してしまったのは、白翡蓮という存在をよく知っている二人だからこそであろう。
その壁の向こうから飛んできた桃香の声(何故かよく通るのだ)に、深紅は「この者たちも賊の仲間なのだ」と確信する。
 「あ、翠蘭と大翼だわ。何やってたのよ遅ーい!」
張り詰めた空気の中に飛び込んできた大姉の声にも、大翼は視線を深紅から外そうとしなかった。いや、外せないと言ったほうがいいかもしれない。
相手に一切の隙が無いことを、武をたしなむ二人は肌で感じ取っていた。
「桃香姉さん! この人誰さ!?」
でも返事はする。あとが怖いから。
「……えーと。誰だっけ?」
「きーさんを狙う悪人よー。」
思わず言葉に詰まった桃香の隣で、やっぱり翡蓮が緊張感皆無な口調で返す。
それを聞いて、彼女と双子の片割れである翠蘭の眉尻がさらに吊り上った。
「…ならなおのこと、このまま帰すわけには、いかん!! 行くぞ大翼!!」
「さすがに事情を知っちゃったら、そうせざるをえないよな。」
翠蘭に続き、大翼まで抜剣…しようとして、さすがにまずいかな、という表情をした。
入学したその日に太学の敷地内で、いくら「賊」相手とはいえ、ちゃんちゃんばらばらやるのはやっぱりまずいのではなかろうか?
素早く周囲に視線を走らせると、大翼は地面に転がっていた五尺(約一・五メートル)ほどの棒――「壁」建設の際に余った建材の一部だ――をぽんと蹴り上げた。
どういう回転が加えられていたのか、棒は中空で身を起こし、大翼の掌に自分から飛び込んでいった(ように見えた)。
太さもちょうど良く、握り心地もまあまあだ。小さく旋回させると、大翼は棒の先端をびしりと深紅に向け、構えを取った。
「ここで荒事を起こすというのがどういうことなのか、解っているのか?」
ずしり、とした声が深紅の口から漏れる。だが翠蘭のほうは、既に聞く耳を持っていないようだった。
「その言葉、そっくりそのまま返してやろう。私と大翼を同時に相手して勝機があると思うな!!」
 先に動いたのはどちらだったか。
 まず激突したのは、深紅と翠蘭が手にした剣の「鞘」だった。やはり抜き身を振り回すのは場所的にまずいと考えたのだろう。
甲高い音を立てて、第一撃目は互角に終わった。
それでもやはり体格の差というものがある。利き手に軽い痺れを覚えたことに、翠蘭はわずかに眉根を寄せた。
(こやつ、できる…!)
瞬時にそう悟る。ならば手加減の必要は無いということか。
しかも、体重は翠蘭のほうがはるかに軽い。重量はそのまま破壊力に上乗せされるものだから、その分翠蘭は後方に押し戻される形となった。
(くっ…!)
だが、それでも翠蘭にはまだ余裕があった。何故なら。
 半呼吸ほど置いて迫る気配に、深紅は反射的に翠蘭を追う足を止めた。そのまま、考えるより早く得物を左に振る。
がつん、という鈍い音がして、今度は大翼の長柄が弾き返された。
けれど姉とは異なり大翼のほうはほとんど動揺らしいものを浮かべなかった。
それどころか弾かれた長柄の先端は、そのまま次の円を描いている。まるで、深紅に弾き返されるのを想定していたかのような動きだ。
姉よりも早く、立ち居振る舞いから深紅の実力の一端を見抜いていたのか。
勿論、その間も翠蘭も攻撃の手を休めることはなかった。
軽やかな足運びで素早く得物を舞わせる姉の隙間を塗って、大翼がちまちまとちょっかいを出している、そんな感じだった。
どちらにしろ深紅にとってはやや煩わしい展開である。
 かんっ、かんっ、がつっ。空き地に得物同士がぶつかる音が響く。他には地を蹴る音と、三人の気合の声と。なかなかに迫力のある光景である。
 真剣勝負を演じるそんな三人の背後では。
 桃香以下「奇怪建造物」組が観戦に興じていた。
なかでも桃香ときーさんは、壁から身を乗り出して拳を振り回し歓声を上げている。
すっかり「まったり観戦もーど」だ。あれば煎り豆か月餅あたりをつまんでいそうな風情である。
 そんな中。
「ああっ、翠蘭さんに大翼さんまで……!」
一人明らかに青ざめているのは、伯明だった。
武人の存在は認めるが、それでも暴力ごとはできれば極力避けるべきだ、と信じている人間である。
その彼の目の前で、幼馴染みにも等しい姉弟が「戦って」いるのだ。気が気ではない。
やめさせなければ、と飛び出していきかけた彼の袖を、しかし桃香と英台が慌てて引っ張ったものだから、危うく伯明は転びかけた。
「いけませんわ伯明様! 危険すぎますわよ!!」
「そーよ、伯明君が行ったって、返り討ちにされるだけよ!」
桃香の台詞に、その場にいた全員が大きくうなずく。
「だってあの人、翠蘭ちゃんと大翼を同時に相手して、それで互角に戦っているのよ? あたしたちがかなう相手じゃないってば!!」
「そーねー。」
「ですが…っ!」
顔に縦線を入れていやんいやんをしている伯明と、それにすがりつく女二人…というなんとも奇妙な光景が展開されている、そのすぐ隣では。
「いけっ、やれっ、そこだ!!」
騒ぎの元が自分であるということを自覚しているのかいないのか。
年長者たちの揉めっぷりなど歯牙にもかけず、それどころか伯明たちに負けないくらい(?)、きーさんが盛り上がっていた。
「壁」から身を乗り出し、拳を振り回し、無責任に野次を飛ばしている。
「何やってるんだお前ら! こんな面白い立ち回り、天覧試合でだって滅多に拝めんぞ!」
「そりゃそうよ! 翠蘭も大翼も、小さい頃から母様にみっっっっっちり仕込まれてきてるんだから!
翠蘭なんか、母様の後継者とかまで言われているんだからね。そんじょそこらの輩なら敵じゃないわ!」
伯明の腕をがっちり掴みつつ鼻高々に答える桃香。器用な娘だ。
「いや…んーまぁそれもそうなのかもしれんが。あっちの色黒もなかなかの使い手だぜ…。」
きーさんが答えるが、勿論桃香の注意は既に伯明に戻っていたので、聞いちゃいなかった。
きーさんのほうも視線の先は深紅対姉弟の方に向けられたままだったので、そのまま無視することにしたらしい。
 きーさんが言うとおり、三人の立ち回りは見事の一言だった。
 桃香も言っていたが、翠蘭と大翼は現役の武官である母に幼い頃からみっちりと武術を仕込まれている。
翠蘭は母と同じく剣術を得意とし、周囲からその母の後継と目されているほどの腕前である。大翼のほうは、どんな得物でも使いこなすという器用さだ。
しかもこの二人、普段からともに修練している間柄でもあるから、互いの呼吸もぴたりと合っている。
翠蘭の得物が深紅のそれに止められた次の瞬間にはもう、大翼の長柄が襲いかかってくる…という具合だ。それが間断無く続くのである。
 だがきーさんの指摘どおり、深紅も只者ではなかった。
すばらしく息の合った姉弟の連携を、一つ一つ丁寧に裁いていくのである。空き地に響く鈍い音の連呼がその証拠だ。
何も知らない者が見たら、深紅がちょっと真剣になって少年少女たちに稽古をつけてやっている…というように見えなくもない。
それほど、深紅の武人としての腕は高かった。
 それなのになかなか決着しないのは、双方とも「全力を出す」ことをためらっているからでもあった。
目的は「相手の戦闘意欲を失くす」もしくは「捕獲する」ことであって、「殺すこと」ではない。
三人とも人体の急所を心得てはいるが、できれば相手に怪我を負わせたくは無いと考えているのだから、敢えてそれを外さざるをえないのである。
 息つく間も無く、入れ替わる三人の位置。
右側から足下を払いに来た長柄を飛び越えたところに左から迫る鞘を、深紅は一呼吸で弾き返していた。そのまま再び地を蹴り、膝が翠蘭の腹に迫る。
遠くから翡蓮の悲鳴が聞こえたような気がしたが、しかし翠蘭はすんでのところで後方に飛び、まともにくらうのだけは避けることができた。
けれど、それでも完全に防げたわけではない。
「うぐっ…。」
「姉さんっ!」
体勢を崩しくぐもったうめきを漏らす翠蘭に、大翼の注意が一瞬それる。そして勿論そこを逃すほど、深紅は甘くなかった。
「終いだ!」
風切る音とともに、深紅の剣が迫る。
とっさに大翼は長柄で弾いたが、同時に彼の得物は半分ほどの長さになってしまった。
再び迫る、深紅の剣。向けられているのは刃ではなく背のほうだが、それでもあんなものまともに食らったら、最低でも出血は免れないだろう。
考えるよりも早く、大翼の体は動いていた。
「おごっ!」
奇妙な悲鳴を上げたのは、深紅のほうだった。剣を構えた姿勢のまま、彼の動きが止まる。
彼の顔面に、細長い跡がくっきりとついていた。
得物を失ったと判断した瞬間、大翼は何の躊躇も無く手にしていたものを放り出したのである…深紅の顔面に向かって。勿論切断面が向かないようにくらいの配慮はしている。
 大翼にとってはせいぜい時間稼ぎ程度のつもりでしかなかったのだが、結果は思った以上の効果をもたらしたようだ。
深紅が痛みと目から飛び出した星(本人にはそれが見えた)から立ち直ったときには既に、翠蘭が復活していた。
「この…!」
地色の赤銅色と大翼に投げつけられて赤くなった部分とで、顔面が縞々になった深紅のこめかみに、みるみる青筋が浮かび上がった。
勿論大翼に「してやられた」というのもあるが、それ以上に。
 「きゃーすごーい!!」
「あら、やりますわね。」
「ああああっ、大翼さんなんてことを!!!」
「素敵よ翠蘭ちゃぁぁん!!」
「こぉら黒いほう! その程度でひるんでんじゃねぇっ!! つまんねーぞっ!!」
「ちょっときーさん! あんたどっちの味方なのよっ!!?」
…………。
 「ええいっ、ぴーちくぴーちく騒ぎ立ておって。…ひな鳥じゃあるまいし……。」
むっつりとした表情のまま深紅が呟いたのは、勿論自分たちの立場をすっかり棚上げしている後方の面々のことだったのだが。
 そのときだった。
隣から感じる戦気の質にわずかな変化を感じ、翠蘭は視界の隅で弟を捉えた。
「……ヒヨコちゃんゆーなあぁぁぁ……。」
なんだかどす黒い炎…が弟の背後に見えたような気が、翠蘭はした。先ほどまでとは明らかに、纏っている空気が違う。
薄ら笑いを浮かべているが、その目は全く笑っていない…。あの、姉弟一温厚な性格をしている大翼が、である。
なんだか冷たーいものが、翠蘭の背筋を駆け下っていった。
(私しーらないっ、と…。)
白の姉弟の間で、翡蓮がことあるごとに大翼のことを「ヒヨコちゃん」と言ってからかっていることを、知らない者はいない。
そして大翼がそれをとても嫌がっているということも。
傍目には、何度抗議しても一向に改める気配の無い翡蓮に対しては既に諦めているように見えていたが。
その分「翡蓮以外」の者の言には過度に反応してしまうようになったのだろうか、ともかく今の大翼の頭からは「きーさんを守る」とか「賊を退治する」とかいった大義名分めいたものはすっぱりきれいに消え去っているようだった。
『自分をヒヨコ呼ばわりする奴は、成敗する(除く翡蓮)』。彼の全身から発せられている「気」が、そう言っていた。
つまり深紅は、知らずに彼の逆鱗を見事に逆なでしてしまったのである。
「姉さん…。」
「?」
「ひとつ貸して…。」
姉のほうを見もせずに手を差し出す大翼。
普段なら「自分の得物は自分で用意なさい」とかなんとか言う翠蘭であったが、さすがに気圧されて無言のまま自分の得物を片方手渡す。
受け取ると大翼、見栄を切ることも無くそのまま深紅に突っ込んでいった。翠蘭が止める間も無い。
「誰がヒヨコちゃんだあぁぁっっ!!」
「!? ????」
まるで別人だ。嵐のように繰り出される打突をさばきながら、深紅は目を見張った。
それまで大翼はどちらかというと翠蘭の補佐的な動きをしていたから、深紅のほうも途中からそれに気づいていたので、専ら姉の方に注意を向け、弟のほうはせいぜい露払い役くらいにしか思っていなかったのだ。
しかしそれはどうも誤りであったらしい。
確かに姉ほど技の切れは無いが、それでもそのあたりの無頼者程度なら叩きのめせるほどの腕は確実にある。
しかも半分涙目になっていることから判るように、感情が爆発して突っ込んできているはずなのに、得物を振るう「型」はいっこうに乱れていないのである。徹底的に体で覚えている証であった。
(達人の器ではないが反面、頭に血が上っても大崩れしない。厄介な部類だ。)
しかも、それまで攻撃の要になっていた姉の方はというと、やっぱり弟の迫力に遠慮しているのか、かかってくるどころか得物を持つ手をだらりと下げてしまっている。
これは「武人李深紅」に対する屈辱とも取れる。即ち「自分が手を出さなくても勝てる」という。
 「あら姉様、珍しいものが見られるわよー。」
「…ほんと。大翼が「本気」で戦っているとこなんて、多分あたし初めて見るわ。」
「大翼さん大翼さん大翼さん! いけませんっ、力で解決してはいけませんっ!!」
「伯明様! 壁から出てはいけませんわ! 巻き込まれますわよ!?」
「右右右! ああ違うそっちじゃなく! 違うっつってるだろそこから下を抜けてだなぁ!」
 …しかも、相変わらず「奇怪建造物」のほうでは無責任な野次が続いていたりする。
深紅はそれほど周囲の評価を気にするほうではないが、それでも延々これではさすがに調子もおかしくなる。鬱陶しいことこの上ない。
(ええいっ、もう面倒だ!)
…そもそも。どうして自分はこんなことをしているんだろう?
いい加減うんざりしてきたこともあって、深紅はやり方を変えることにした。隙が無いのなら、こちらから誘ってやればいいのだ。
 わざと大振りをしたところに、すっかり全力攻撃態勢全開になって突っ込んできた大翼は切り替えが遅れ、見事に引っかかってくれた。
予定通り、攻撃の為にがら空きになった大翼の腹に靴底をお見舞いしてやろうとした、そのときだった。
 突然、絹を裂くような女の悲鳴が空き地に響いた。怯えというよりも驚愕の色合いが濃い悲鳴である。
深紅と大翼の一騎打ち(?)に釘付けになっていた一同は、漏れなくぎょっとして声がしたほうを見た。
「あなたたちいぃっ!! 自分が何をしているのか、解っているのおぉっ!!??」


 同じ声が、今度は怒色を伴って再び響いた。剣幕もそうだが、台詞にやたら迫力がある一声だ。
 ぎょっとしたのは交戦中の二人も同じである。それが引き金にでもなったのか、弾かれたように大翼の目に冷静さが戻った。
それは深紅の目にも瞬間的に捉えられていた。だがもう遅い。既に勢いが付いている攻撃の手を止めるのは容易なことではない。
既に重心を移動させてしまっているので、止めるのは無理だ。無理やり体をひねって足のほうは何とか的を外したのだが。

あっと思ったときには、深紅の得物の柄が大翼の脳天に見事に決まっていた。ぱこぉん!とやたらにいい音がして、大翼はそのまま……地面に伸びてしまったのである。
 ところが、彼の元に駆け寄るものは誰一人としていなかった。何故なら、その場に居た全員の注意は、その声の主に向けられていたからだ。
彼のすぐ傍に居た翠蘭ですら、そのときは大翼のことはすっぱり頭から消え去ってしまっていた。
 「白婦人!?」と、李深紅。彼に「人探し」を依頼したのは彼女である。
 「天華叔母さまっ!?」とは、白桃香。彼女にとって母の妹に当たる人物が彼女であった。
 「げっ、白天華!!」と呟いたのは、きーさんである。
その場にいた全員が「何故彼女を知っている?」という意味の視線を交わしたなかで、唯一彼だけが悪戯がばれた子供のような顔をして踵を返した。
そして、脱兎。
「ちょっときーさん、どこに行くのよ?」
「白天華が居ないところだ!」
そう言い残し、すたこらさっさと「壁」から逃げ出すきーさん。その逃げ足の速さときたら、今度はさすがの桃香も止める暇が無かった。だが。
「もう逃がしませんっ!! 皆! お願いだからその方を捕まえて頂戴っ!!」
絶叫に近い天華の半命令に、深紅と白姉妹は同時に動いていた。目的は同じである。
「ちょっと、きーさんどういうことよ! どうして叔母さまから逃げるわけ!?」
「他にも賊の仲間が居るかもしれん、戻られよ!」
「お待ちあれっ!」
「ああんっ、翠蘭ちゃん待ってえぇぇ〜。」
 太学の片隅の小さな広場で、新たな追いかけっこが始まった。勿論二つある路地の入り口には、白天華と彼女の仲間と思しき男たちがきっちり封鎖をしている。
妙な追いかけっこを眺めながら、天華は深々と疲れに満ちた嘆息をした。
「ああ…また後始末が大変になりそう……。」
そして、「壁」の中では。
「何? 結局何がどうしてどうなったんですの……???」
すっかり展開に取り残された上に事態を全く把握することができないでいる皇甫英台と盧伯明の二人が、呆然と追いかけっこの様子を眺めていたのだった。

          ◆   ◆   ◆

 その翌日の午後。
 昼餉(ひるげ/昼食)時はとうに過ぎたけれども、夕飯にはいくらなんでも早すぎる…という時分である。
巍国の都恒陽の、上の下あたりの階級の人々が居を構えている地区で、白賢橿という少年が鼻歌交じりに自宅へと続く道を歩いていた。小脇には掌に載るほどの小さな壷を抱えている。
 まだ結髪(成人)前であるにもかかわらず歳のわりに博識・聡明で、そのくせ精神のほうは年相応でかなりそこそこに天邪鬼…な少年の、本日の気分は上々であった。
 「あ。伯明さん、こんにちは。」
辻に差し掛かったところで、賢橿は隣家の青年とばったり出くわした。
周囲には何かと生意気な態度を取りがちな彼であるが、どういうわけかこの青年に対してだけはびっくりするほど従順なのである。
「こんにちは、賢橿さん。」
自分の半分ほどの背丈しかない賢橿に対して――そもそも伯明自身が痩身長躯なわけだが――、伯明はにっこり笑って丁寧に挨拶を返した。
十二歳も年下の少年に対しても、きちんと礼を執るのである。知識だけは大人並みな賢橿は、子供扱いせずちゃんと一人前に扱ってくれるこの青年に、よく懐いていた。
「どちらかにおいででしたか。」
えへへ、と笑って賢橿は例の小壷を青年に見せた。
「袁の爺さんのところ。負けても負けても懲りないんだもんなぁ。」
「碁を打っていらしたのですか。」
「うん。」
 彼の頭の回転の良さに目をつけた(?)ご近所の老爺が、自分の相手をさせるために半ば冗談で碁を教えたのである。
子供の脳というのは海綿のように柔軟で、あれよという間に知識を吸い上げていくものだ。
あっという間に打ち方を覚えた賢橿は、ご近所では敵う者がいないと云われていたその老爺を、たった三ヶ月で負かしてしまったのである。
老爺のほうも「こんなはずでは」という意地もあり、今日も賢橿と一勝負したわけだが…。
「というわけで、戦利品。」
鼻高々、といった風情で賢橿は壷の封を解いた。中に入っているのはとろりとした液体である。水あめだ。
「お強いですねぇ、賢橿さん。」
「爺さんが弱いだけだよ。」
生意気なことを口走りつつ、賢橿は再び壷の口を閉じた。水あめは彼の好物だが、さすがに往来の真ん中で、しかもさじ無しで食べるのは無理がある。
そうでなくても甘味は高級品なのだ。家人に見つかったら何かしら理由をつけて取り上げられるか、たかられるかのいずれかだろう。
「姉兄には内緒だよ?」と賢橿が言うと、伯明は微苦笑しつつもうなずいてくれた。
 「伯明さん、ここを通るって事はうちに行くつもりだったんだろう? わざわざ表に回らなくたって、まっすぐ庭を突っ切ってこればいいのに。」
父が存命の頃――賢橿が生まれる前――には、伯明は表の路地からではなく自宅の庭から直接白家の敷地内にある書庫に通っていたという。
距離にして三分の一、時間にして五分の一に短縮できるというのに、何故わざわざ遠回りをするのか、賢橿には謎だった。
「さすがに、年頃のお嬢さんがいらっしゃるお宅を、庭から訪問するわけにはいきませんから。」
「えー、だって大姉(一番上の姉)は伯明さんの婚約者じゃないか。二姉も三姉も「お嬢さん」なんて柄じゃないし。
母さんも今更そんなけち臭いことは言わないと思うけどな。気にすることないって。」
「未来の義兄」に向かって遠慮無しどころか無礼もいいところだが、伯明のほうは特に嫌な顔をするでなく、そんな少年の様子を温かく見守っていた。
 「あれ?」
白家の表門の近くまでやってきたときである。賢橿が前方に何かを発見した。
おとなしい色に塗られているもののなかなか立派なつくりをした車が一台、門前に停められている。
箱のような形をしており、中の様子は見えない。つながれているのは、たてがみからひづめまで真っ黒な馬が二頭。
その脇で暇そうに待っているのはおそらく御者か従者なのだろうが、こちらも地味ではあるがきちんとした仕立てのものを身につけている。
「お客さんかな?」
「立派な車ですね。」
賢橿が家を出たのは昼餉を摂ってからだったし、来客があるという話も事前に聞かされていない。
宮仕えをしている母は仕事柄顔が広いらしいので、この車や御者の主もそちら方面なんだろうか?
そんなことを考えながら二人してほてほてと歩いて行くと、家の中から誰かが出てきた。
「あ。」
出てきた人物の顔を見て呟いたのは、伯明だった。見覚えがある。
しかし彼の心配を他所に、その人物は馬車の横をすり抜けると、そのまま背を向けてこちらへ歩き始めた。どうやら車の主ではなかったらしい。
 「こんにちは。」
不意に声をかけられて、男――李深紅は目を丸くして足を止めた。
「…こんにちは。」
「先日は失礼いたしました。その…なんとお詫びすればいいのか…。」
往来の真ん中で突然深々と頭を下げる伯明に、深紅はさらに慌てた。
「ああいやいや、何も貴公が謝られることは無い。全ては誤解の産物だったそうではありませんか。きちんと確認をしなかった私にも非はある。」
「ですが、あの場に居た者の中で最も年嵩であったのは私です。本来なら止めねばならないのに…。」
「貴公はきちんと制止されていたではありませんか。お願いですから面を上げてください。でないと…。」
「伯明さん、皆こっち見てるよ…。」
この通り、住宅街の中ではあるが、全く人通りが無いというわけでもない。
ちらりほらりと通り過ぎていく人々が、今にも地面に額をこすり付けそうな伯明とどう対処していいのか困っている深紅とをじろじろ眺めていく。
そもそも深紅はあまり愛想がいいほうではない――というより外見が辛気臭いとよく言われる――ので、余計に困惑していた。
そうでなくても故郷では要人警護を職としている深紅に対し、伯明のほうはというと、前述の通り絵に画いたような「もやし」である。
一見しただけでは深紅が伯明を苛めているようにしか見えない。
 「おじさん、母さんか誰か知り合い?」
怖いもの知らずの賢橿に、伯明、今度は慌てて少年の口を塞いだ。
「すっ、すみません。」
「…ああ…老けているとはよく言われるんだ……。」
「申し訳ありませんっ!!」
ちなみに深紅は二十歳、伯明は二十一歳。伯明のほうが年上なのである。
「今に始まったことではないから。気にはしていませんよ。」
とか言いつつ、心の中では「やはり都の人には私など田舎臭く見えるのだろうな…」と呟いた深紅だった。
「私…自身ではありません。」
二十五年ほど前の内乱の際、深紅の祖父が白という女将軍と戦場を共にしたことがあったらしい。筆まめな人だとかで、その後帝都に腰を落ち着けた、という連絡が来ていたのだそうだ。
「それで、都に上る際「代わりに挨拶をしてこい」と祖父に申し付けられてきたのです。」
その女将軍が、あの白天華の姉だったとは。あの後、同姓なのでもしや親族ではと思って尋ねてみたら、大当たりだったわけである。
そして今日、祖父の名代としてこうして訪ねてきたのだった。都も存外狭いものらしい。
「ええと…ではその…こちらのご姉弟とは既に…?」
「はい。」
…中でどんなやりとりが交わされたのだろう? 思わず伯明の視線が白家の邸内に向けられる。
お隣さんである。いろんな意味で「オトコマエ」なことで有名なここの女主人のことも、賢橿が生まれるよりも前から、それはもうよく知っていた。
 「それでは、私はこれで。」
そう言うと深紅は頭を下げ(伯明の腰の低さに合わせたらしい)、そして踵を返すとすたすたと歩き出した。
「あの、」
足を止め、深紅が振り返る。伯明は小さく微笑んだ。
「もしよろしければ、邂州のお話を聞かせてはいただけませんか? 残念ながら今日はこれから所要がございますので、明日の夕餉にでも…。」
「明日、ここを発つことになっていますので。」
そう答えた深紅の口調は、柔らかかった。
普段は口数の少ない深紅だが、あの騒ぎを共有したからなのか、この青年にはちょっとした親近感のようなものを覚えたらしい。
「都は物価が高くてかなわない。公の用事で参ったのですから、路銀にも日程にもあまり余裕がないのです。せっかくのお誘いに応じられず、申し訳ない。」
「いえ、こちらこそお呼び止めして申し訳ありませんでした。旅のご無事をお祈りしております。」
「ありがとうございます。…縁がありましたらまたお会いしましょう。では。」
そう言い置き、そして深紅は今度こそ本当に、去っていった。


 深紅は帰ってしまったが、白家の門前にはまだあの黒い車が停まっている。ということは、他にも客がいる、ということだ。
「珍しいなぁ。大姉たちがいるから、母さんも滅多に客なんか呼ばないのに。」
母方の叔母やその家族たちが訪ねてくることならあるが、それでもこんな立派な車を仕立ててくることは無い。第一、御者に見覚えが無いのだ。
首を傾げつつその横を通り抜け白の敷地内に入ろうとすると…。
「おい、何だお前たちは。」
その御者に二人は止められた。賢橿の眉が吊り上がった。
「…ここ、僕の家なんだけど。」
「お前は?」
「私は…先ほどこちらのお宅から使いの方がいらして、用があるからすぐに来るように、と呼ばれたのです。」
御者の眉が片方だけ器用に動いた。あからさまに胡散臭げな視線で二人をじろじろじろと眺め回す。それが賢橿の年不相応に高すぎる自尊心を逆撫でした。
「そういうあんたはなんなのさ。人の家の前にこんな邪魔臭い物停めているってだけでも充分怪しいのに。」
「け、賢橿さん…。」
おろおろと御者と賢橿の顔を交互に見る伯明。どちらの態度にも問題ありだが、さすがに門前で揉めるのはまずすぎる。
仲裁しなければ…と口を開きかけたときだった。
 「あ、伯明君!」
門の向こうから声がした。三人が一斉にそちらに視線を向けると、桃香が足早にやってくるのが見えた。
「桃香さん。」
「なにしているの?」
あからさまに不機嫌な表情をしている弟と、心底安堵した様子の許婚者と、不信全開な気を全身に纏っている御者とを交互に見ながら、桃香は至極まっとうな疑問を口にした。
「今母様に催促されて、迎えに行くところだったのよ。」
「ああ、それは申し訳ありません。」
「伯明さんが謝ることなんかないよ。だってこいつが、」
賢橿、わざわざ御者を指さした。
「邪魔していたんだから。」
「誰もあんたなんか迎えに来てないわよ。」
姉、弟には容赦無い。
「とにかく、早く入ってきて。待たせっぱなしだから、母様のほうがぴりぴりしちゃって…。」
言い終わらないうちに、桃香は伯明の手を取るとぐいと敷地内へ引っ張っりこんだ。伯明の頬がほんのり赤くなったのには、どうやら気づいていないらしい。
家人の証言(?)があったためか、さすがの御者も二人が敷地内へと消えていくのを、苦虫を噛み潰したような表情で黙認するしかなかった。
門が閉まる直前、箱馬車の横で苦々しげな顔をしている御者に向かって、賢橿が盛大に「あかんべえ」をしたのはいうまでもない。


 桃香に続いて屋敷の中に入ると。
「…何だこの静けさは。」
先ほどのやりとりがまだ後を引いているのか、賢橿の眉が片方だけ器用に吊り上がった。
この屋敷には桃香を筆頭に賑やかな住人がたくさん居るわけだが、まるで空き家にでも迷い込んでしまったかのように静まり返っているのである。使用人の気配すら感じられない。
「当たり前でしょ、お客さんが来ているんだから。」
「客って…あいつのゴシュジンサマなんだろ?」
「…あんたねー、誰も彼も敵に回すその性格、直しといたほうがいいわよ。伯明君の爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだわ。」
「いけません桃香さん、そんなことをしたら賢橿さんはお腹を壊してしまいますよ。」
…などというやり取りをしながら、三人は母屋ではなく庭園のほうへと向かった。
そこそこ裕福な階級になってくると客をもてなす為の庭園をわざわざ造成するのが、巍国の流行である。
多分に漏れず白家の邸内にもそれっぽいものはあるのだが、なにぶん屋敷の主が早くに亡くなってしまったのと、遺された婦人が遊牧民の流れを汲む瀏族の出身の為庭園というものにあまり執着しなかったのとで、いまだ完成というには程遠い状態である。
それでも(蓮池と小島と造りかけのまま放置されている築山一つという小規模さではあるが)体裁だけはかろうじて成しており、人工の池の中にわざわざ造られた小島の上にはちょっとした建物――庁堂(ちょうどう)と呼ばれる応接室が建てられていた。
「あれ?」
まっすぐ庁堂へと向かう桃香の後に続きながら、伯明は首をかしげた。
幼い頃――まだ桃香と婚約するずっと以前から白家にはたびたび遊びに来ているが、子供だったということもありいつも母屋の方に通されていた。
それは今でも同じで、子供の頃遊びの最中に迷い込んだことは度々あったが、正式に庭園に通されたのは実は初めてなのだ。
「母様がね、こっちに連れてきなさいって言ったのよ。…伯明君をお客さんに会わせたいらしいわ。」
「え。それなら僕書庫に行く。」
くるりと身を翻した賢橿の、襟首を桃香が素早く掴んでいた。さすが長女、末弟の行動は予測済みだったらしい。
「駄目よ。あんたも関係あることなんだから。」
「やだよ。あいつのゴシュジンサマの顔なんか、見たくもない!」
しかし桃香は、不満を隠そうともしない弟をそのままずるずるずるずる引きずっていく。
「文句があるなら直接母様に言えば?」
「うへぇ。」
その様子を、伯明は苦笑して見守るしかなかった。この場合、どちらを支持するかは考えるまでも無い。
 庁堂へ行くには架けられた橋を渡っていく。波ひとつ無い春の水面には、橋を渡る三人の姿がきれいに映っていた。
そこまで来るとようやく人の気配が感じられるようになった。どうも中に居るのは一人二人ではないらしい。
「…母様、伯明君が来たわよ。ついでに賢橿も拾ってきたわ。」
声をかけると、ややあって応じる声があった。
 庁堂には桃香の母である白舞陽(はく・ぶよう)の他に、翡蓮・翠蘭・大翼たちも居た。
部屋の中央には大きくそして客間らしく装飾の施された立派な卓があり、その向こう側に二人の人物の姿があった。
椅子の数は充分にあるというのに、室内に居た者たちは皆何故か床の上に座っており、客の一人だけが椅子に座るという、妙な構図である。
ちなみに屋敷の現主人である舞陽も、床に膝をついていた。そして、唯一椅子に就いている人物というのが。
「きーさんじゃありませんか。」
目を丸くして伯明が呟いた。間違いなく、昨日白天華から逃げ回っていた(ということは昨日遅くになってからようやく説明された)、あの少年だった。
その証拠に、あちらも伯明の顔を見ると「よぉ」と手を挙げた。
浅く腰掛けたまま背もたれに身を預けているのだから姿勢も悪い。とても他人の家を訪ねてきている客人の態度ではない。
 けれど、彼が身につけている衣装は、昨日の簡素なものとは一転していた。
華美さは無いが、それでもきちんとした訪問衣を身につけていて、腰には立派な佩玉(はいぎょく/玉という貴石を加工して作った飾り物)まで下げている。
ぼさぼさだった髪はきれいに櫛を入れてきちんと結い上げてあり、その上にちょこんと載っている冠もやはり、簡素ながらよく見ると丁寧な作りと細工が施されている。
しかも…なんだか似合っていたりするのだ。
いや「似合っている」というよりも…「着慣れている」といったほうがいいのか。なんだか奇妙な光景である。
ちなみにもう一人の客というのは、舞陽の妹である白天華であった。こちらは床には座らず、きーさんの背後に控えるようにして立っている。
 「白将軍とは、お知り合いなのですか?」
不思議に思いつつ伯明がそんな質問をしたときだった。
「伯明! 陛下の御前ぞ!!」
有無を言わせぬ重々しい声で一喝したのは、白舞陽であった。同時に殺気というか怒気というか、そんな感じのものが、全身からぶわっと放出される。
戦場慣れしている彼女の威圧をまともに浴びて、伯明はびくりと肩を震わせた。そして…彼女の台詞を脳内で反芻する。
「……………………え?」
「あー、気にするな。」
気にするなと言われても。とにかく伯明、一瞬頭の中が真っ白になった。
「別に大したことじゃないから。」
妙に緊迫した空気など意にも介さず、へらへらと笑いながらへらへらと手を振る、きーさん。
その斜め後ろで今にも泣きそうな顔をしている天華が、隠そうともせず嘆息した。そして、ものすごく申し訳無さそうに漏れ出た一言。
「…こちらにおわしますは、我が国の天子、楊紀騨(よう・きだん)様にあらせられます……。」
それを聞いたきーさんの表情が、非常につまらなさそうなものに一転する。同時に、その頃になってようやく、伯明の顔から血の気が引いていった。
「そ……それはつまり…その……ええと…………皇帝陛下……???」
厳しい顔のまま舞陽がうなずく。さすがにそこまで聞かされていなかったのか、桃香もまた弟妹たちと顔を見合わせた。
「ええっ!?」
 巍国は専制君主国家である。
何はさておき国の頂点に立つのは皇帝その人であり、(例え形式上であったとしても)臣民は皇帝を敬い奉らねばならないのだ。
伯明もまた、巍国民の礼儀そして常識として、物心付く前からそのように教育されてきたし、疑問を抱いたことも無い。
なので、もう反射的にその場に平伏した。世間的に見てもそれは至極正しい行動である。
「ああっ、知らなかった事とはいえ無礼の数々…申し訳ございません。」
伯明、目の焦点が合っていない。それでも何とかろれつが回っているのは、さすが官吏を目指す者の端くれだからか。
「…伯明さん、本当に気づかなかったの?」
「え? もしかして翡蓮は知っていたの?」
驚いて桃香が面を上げる。いつもの微笑を浮かべながら翡蓮は「まーねー」と答えた。
「立ち居振る舞いとか着物とか見て、なんとなくねー。
良い家の人なんだろうなーとは思っていたけど、「天覧試合でも滅多に見られない」とか何とか言っていたから。
その歳で天覧試合見られる人で、その上わざわざ偽名使う人って滅多にいないでしょ?」
そしていつものように「うふ☆」と締めくくる。これには昨日の騒ぎに加わっていた者たちの目が点になった。恐るべき洞察力である。
「なら、なんで教えてくれなかったのよう。」
「そうだよ翡蓮姉さん! それならそれでなんとでも対処のしようが…!」
「えー、だって。」
そこで翡蓮は一旦言葉を切った。
「…そんなつまんないことしないわよ、私。」
一瞬の間の後、派手な笑い声が室内に響いた。あっけにとられまたは放心している一同の中でただ一人、きーさん改め楊紀騨が大笑していた。
「なるほどなぁ!」
 「そんなことあるかい。」
突然、そんな言葉が室内に響いた。紀騨の笑い声がぴたりと止まる。
「皇帝っていったら、国で一番偉い人のことだろ? そんな人がわざわざこんなぼろ家に来るなんて、到底思えないね。それに…。」
半眼のまま、賢橿は口を尖らせた。どうやら「自分だけ話がさっぱり見えない」ことに腹を立てているらしい。
もしくは、先ほど門前で揉めた御者と車の主が紀騨だと知り、ここぞとばかりに文句を言ってやる気なのか。
ともかく衣装と態度が全くかみ合っていない紀騨に向かって、賢橿はこともあろうに人差し指を突きつけた。
「それ以前にどう見たって、そんな偉い人には見えないし。」
「賢橿ぉぉぉっっ!!」
一同は見た。一瞬にして賢橿の体が床に沈むのを。
ごすっ!という鈍い音まで付いてきた。その後頭部には母舞陽の手がのっている。どう見たって床に押し付けられているようにしか見えない。実際そうなのだが。
「痛ぇっ! 母さん! 僕の頭脳が馬鹿になったらどうするんだよ!」
「もう少し馬鹿になった方が、お前の将来の為だ。」
気が立っているとはいえ、あんまりな言われようである。
何しろ舞陽は周囲でも有名な「皇室崇拝者」なのだから。息子と「皇帝陛下」を天秤にかけたら、一分の迷いも無く皇帝に軍配が上がるというものだ。
末っ子の暴言に対してですらこの反応である。
昨日長女が、こともあろうに皇帝陛下を「食い逃げ」呼ばわりして追い掛け回した挙句、腕をねじりあげた…なんてことを知ったら、いったいどうなってしまうのだろう。そんな考えがちらと伯明の脳裏をよぎった。
 「度重なる非礼、まことお詫びのしようもございません。全て私の不徳と致しますところ……。」
「…だから。いいって言ってるだろう……。」
さらに深く深く頭を下げる舞陽に対してあからさまに不機嫌な表情をすると、巍国皇帝楊紀騨は、後方に控えている白天華をじろり、と睨みつけた。
「よくありません。」
「心底疲れました」という表情のまま力なくゆるゆると首を振り、しかし断固として妥協できないという悲壮な決意を込めて、天華はきっぱりとそう言い放った。
「そもそも、陛下が我々の目を盗んで脱走などされるから、あのような騒ぎになったのですよ?」
「よく言うぜ。太学の城門を全部閉めるよう学長の法馬簾(ほう・ばれん)に指示したのは、お前だろう?
おかげで根も葉も無い噂立ちまくりだったのを、俺は自分の耳で聞いたぜ?」
「宮殿の警護をかいくぐって頻繁に城外に脱走なさるようなお方ですから。
どこに行かれるか見当が付かない以上、それくらいの処置は当然させていただきますとも。」
「だ、脱走って…?」
伯明と桃香は顔を見合わせた。
白舞陽は宮廷警護の責任者の一人という要職に就いているから、当然そのことは知っていたはずだ(勿論口外できるような事柄ではないが)。
その横では、賢橿がまだ母に押さえつけられてじたばたしていた。
「ほらっ! 天華叔母さんのほうが偉そうじゃないかっ!」
「賢橿…お前、天華叔母さんの官職を知らないのか…?」
青い顔のまま末っ子の裾を引っ張ったのは、大翼である。
さすがに四番目とはいえ長男――白家の跡取りにして一族の次期頭領――ということもあって、舞陽の次くらいに事の重大さを認識しているようだった。
「母さんより偉いって事くらいは知ってるさ。」
じたじたばたばた。
「黄門侍郎…要するに聖上(皇帝)の傍仕え職の一つさ。」
「ああ、それで昨日陛下とご一緒に太学にいらしていたのですね。」
これで伯明にも合点がいった。質問した賢橿のほうは、それどころではないようだが。
甥っ子の説明に、天華はほんの少し表情を緩めた。
「ええ。突然「太学の視察に行く」などとおっしゃるものですから。」
何しろ「皇帝陛下」が直々に言い出したことである。重臣たちとの面会予定の変更等調整に随分苦労した、と天華は嘆息した。
「陛下は絶対何か企んでいるはずだ」というのが側近連の統一見解であり、思いつく限りの対策を施していたわけだが、結果は……。
「もう少しご自分の立場というものをわきまえていただかないと……聞いておられますか陛下?」
聞いちゃいなかった。至極つまらなさそうな表情のまま卓に肘をつき小指で耳をほじくり、出てきたものを確認して息を吹きかけて飛ばしていたりする。
「陛下っ!」
「…天華…お前…最近陸魚に似てきたな。」
後日知ったのだが、陸魚というのは太傅(たいふ/幼帝の養育係兼後見人)に就いている人物に、紀騨が勝手につけたあだ名らしい。
「…。
…陛下の御身は陛下御自身のみのものではないのですよ?
陛下にもしものことがあったら、国は揺れに揺れ、埋伏している良からぬ思想の輩が機を得たとばかりに蠢きだすは必至。
その自覚をお持ちくださいと、申し上げているのです。」
「知るかそんなの。」
天華の必死の説得を、紀騨は一言のもとに葬り去った。それがトドメになったらしい。
一度天を仰ぐと(屋根があるから当然見えはしないのだが)、白天華はそのまま両手で顔を覆い、静かに首を振った。
「万事が万事こんな具合なんです…。もうお姉様に相談するしか………。」
「ええいっ、泣くなうっとうしい…。」
せっかくきれいに結ってある髪をぐしゃぐしゃとかきむしり、紀騨は面倒くさそうに唸った。
逆に、紀騨自身は昨日のことを咎める気が無いと知り、胸を撫で下ろしたのは翠蘭と大翼だった。
「わざわざ陸魚を丸め込んでまで俺をこっそりここに連れてきたのは、説教やら泣き落としやらをするためか?」
「泣かせているのは誰だ」という視線が一斉に紀騨に注がれるが、勿論口にするものはいない。賢橿は母に押さえつけられたままなので、視線を向けることすらできなかった。
 「…なるほど、事情はよく解った。」
二人のやりとりをそれまで黙って見ていた舞陽が、やっと重々しく口を開いた。同時にようやく末っ子を押さえつけていた手を離す。
哀れ賢橿の顔面には床の跡がくっきりついていた。右半分が赤くなっている。
「先ほどの件、承ることにしよう。」
そしてそのまま、子供たちの方に向き直る。今度は何事か、と伯明を含め賢橿を除いた五人の背筋が反射的に伸びた。
 「本日只今より、白家は皇帝陛下をお預かりすることとなった。一同、くれぐれも非礼無きようしかと肝に銘じておくように。」
間。
間。
間。

「ええええええええっっ!!??」

驚愕の音が屋敷中に響いた。壁がびりびりと震えたほどである。
「…お前たち、声が大きいぞ……。」
冷静なのは、天華と舞陽だけ。
「かかかか母様っ、それはどういう…。」
「そ、そうだよ。聖上は御所にあられる、それが有史以来の慣例だって…っ!」
「俺の意思は無視かっ!?」
「何でこんな奴の面倒をうちで見なくちゃならないんだよっ!?」
「……大翼、賢橿の口を塞いでおきなさい…。」
無言のまま、長男は母の命令に従った。つまみ出されなかっただけましだろう。
反応を見るに、この話は当の紀騨も聞かされていなかったらしい。目を白黒させている主を尻目に、天華は姉に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、お姉様。こんな無茶なことをお願いできるのはお姉様しかいませんもの……。」
「あのー…それはつまり、陛下の御身に危険が迫っているとか、そういうことなのでしょうか…?」
おずおずと尋ねたのは伯明だった。純粋培養という言葉があまりにも似合いすぎているこの青年ですら、その程度のことは連想したらしい。
しかし黄門侍郎と殿中将軍は、そろって首を横に振った。
「そういうわけではない。」
「そりゃ皇室なんてものは、お家騒動が付きものと相場が決まっているがな。
それだけ知恵が回る奴も度胸のある奴も、今のところ俺の周りには居やしねぇよ。残念ながらな。」
「陛下、『残念』などと冗談でもおっしゃらないでくださいっ!」
うんざりした表情で紀騨は両の耳に小指を突っ込んだ。
「先ほど天華も言っていた通り、陛下におかれてはしばしば宮城よりだ…身辺の者にも内密でお忍びの外出をされることが多々あられるのだ。」
ここでちょっとばかり舞陽は苦い表情を浮かべた。
宮廷警護の責任者の一人としては、不審者の侵入は防げても、肝心の皇帝が脱走するのを防げないというのはかなり…屈辱的なことなのだ。
「そこで、陛下が市中へお出ましになった際には必ずこちらにお立ち寄りいただくことにしていただこうと、そうお願い申し上げることにしました。」
これまで警備を強化したりさんざん説教したりしてきたにもかかわらず、紀騨の脱走癖は一向に直らないどころか巧妙さを増すばかりである。
それならいっそのこと勝手に一人で市中をふらふらされるよりは、予め居場所が判っていたほうが多少はましだ…ということになったらしい。
「その代わりと言ってはなんですが…昨日の一件は不問にいたしましょうと、諸葛俊敬様がおっしゃていました。
それでいかがでしょう陛下?」
「……その条件を飲んだら、お前も陸魚も何も言わなくなるんだな?」
疑惑の視線を天華に向ける紀騨。
「……少々のことでしたら、目を瞑ります。
ですが私どもとて隠蔽できる事柄に限度というものがございます。その点はくれぐれもご留意いただきたく存じます。」
それが精一杯の譲歩ということなのだろう。半分ずり落ちかかった冠を直そうともせず、紀騨はふうむと腕を組んだ。ついでに足も組んだ。
このあたりにくるとさすがの彼も「きーさん」ではなく「皇帝」としての顔になる。考え込むことしばし。
すっかり皆から忘れ去られた賢橿がこそこそと庁堂から『戦略的撤退』しかけて翠蘭に見つかり襟首をつかまれた頃、ようやく紀騨は一つ膝を叩いた。
 「俺のほうからも一つ条件を出していいか。」
「……なんでしょう?」
舞陽と天華は思わず身構えた。今までのやりとりからも判るようにこの皇帝陛下、なかなか一筋縄ではいかない御仁なのだ。
そして紀騨は、天華ではなく何故か舞陽と、彼女の子供たち及びその他一名のほうを向いた。
再び伯明の背筋が伸びる。どんな条件を出されるのか、と全員が固唾を飲んだ。
「この屋敷の敷地内では、一切俺を皇帝扱いするな。」
にやりと不敵な笑みを浮かべてそんなことを言うと、紀騨は頭から冠をむしり取って卓上に放り投げた。
相変わらず足を組んだままだから、もう既に充分皇帝らしからぬ振る舞いである。
「ちやほやされるのは宮城の中だけで充分だ。何のためにわざわざ抜け出してくるのかわかりゃしねえ。」
「し、しかし……。」
桃香の目にも、母がだらだらと脂汗を流しているのがはっきりと見て取れた。
そりゃそうだろう、「命を賭して皇室をお守りする」ことこそ己がこの世に生まれてきた意味である、と信じているような人物である。
その、最も崇め奉らねばならない対象に対して、身分不相応な扱いをするなど、どうしてできようか!
だが当然そのことは紀騨も十二分に承知していたらしい。だから先にその周囲を固めることにした。
「伯明、桃香、翡蓮、翠蘭、大翼、それから……そこのちび。」
「誰がちびだっ!」
勢いで立ち上がった賢橿を、慌てて大翼が取り押さえる。その様子を、紀騨はむしろ楽しそうに眺めていた。
「お前ら、もしここで俺のことを陛下だなんて呼んでみろ。そのときは……。」
まさか白舞陽を解任するとでも言い出すのではなかろうか。そんな考えが皆の脳裏に浮かび緊張の面持ちになる一同。
だが紀騨が口にしたのは、それよりはまだましであるが、けれど当事者にとっては迷惑極まりない内容だった。
「…お前たちの太学での成績を実際より五割減で扱うよう、学長に指示してやる。」
「うわ、最低!」
思わず口走ってしまった桃香が慌てて己の口を塞ぐが、もう遅い。舞陽の顔からは明らかに血の気が引いている。
さすがにまずかったかとおずおずと上目遣いに紀騨のほうを見ると…「最低」と言われた相手は、怒るどころか楽しそうにさらににやにや笑いを増していた。
「…否(いな)は無しだぜ?」
皇帝扱いするなと言いつつ皇帝の権力を行使する、このふてぶてしさ。
「ずるい!!」と叫びたくても叫べない一同であった。

          ◆   ◆   ◆

 嵐のような電撃訪問者が「本来あるべき場所」に帰ってしまうと、一同はようやく一息つくことができた。さすがの舞陽ですら、ぐったりと椅子に腰掛け黙ったままである。
元気なのは、半分くらいしか事情が解っていない賢橿と、そしてどこまでも「我が道」を行ける翡蓮くらいだ。
それ以外の面々は皆「明日からどうしよう…」といった心境だった。全く「とんでもない人」に気に入られたものである。
 「ごめんね、伯明君。なんだか変なことに巻き込んじゃったみたいで…。」
夕焼け色の空気へと変わり始めた通りへと続く門まで婚約者を見送りに来た桃香が、本当に申し訳無さそうに呟いた。
個性が強すぎる面々ばかりの為か、白家の中でなら意外と「何が起きても不思議じゃない」し「大抵のことには動じない」のだが。
剛胆さでは周囲から一目置かれている舞陽でさえあの様子である。
成り行きとはいえ、おっとりしている上に人を疑おうとすらしない性質の伯明が、「きーさん」の陰謀(?)という大それた秘密を抱えて、はたして耐えられるのかどうか。
事実、先ほどの面談の場では紀騨の勢いに完全に流されてしまっていたようだし。さぞや狼狽しているのではないか、と心配していたのだが。
「いいえ。…それを言うなら、私のほうが桃香さんたちを巻き込んでしまったのですよ。」
「え? そうだっけ?」
「昨日初めてへ…きーさんにお会いしたとき、」
さすがに誰が聞いているとも知れないところで「陛下」という呼称は使えない。
「あの方の言葉を信じましょう、と言ったのは私です。そして、桃香さんも英台さんも、大翼さんたちも、賛同してくださいました。
だから私が、皆さんを巻き込んでしまったのです。申し訳ありません…。」
本当に深々と頭を下げる伯明。桃香は慌てて袖をつかんだ。
「伯明君が謝ることなんか無いわ。だって……騒ぎを必要以上に拡大させちゃったのは…その……あたしたちなんだし。」
壁を作ろうと言い出した桃香。壁にいろいろと細工を施すどころか武装までさせてしまった翡蓮。そして、深紅とちゃんばら劇を演じてしまった翠蘭と大翼。
「だから、お願いだからそんなこと言わないで、ね?」
「桃香さん…。」
「それより……。」
そこで桃香は、珍しくふいと自分から視線をそらせた。
「その……英台さんのことなんだけど…。」
「ああ。彼女でしたら、きっと大丈夫ですよ。」
先ほど、帰る前に紀騨と天華から聞いたのだが。英台のほうにも今回の一件に対する「口止め工作」はきちんと行われたらしい。
紀騨の脱走癖に悩まされ天華たちと共に日々その対策に追われている者の中には彼女の従兄弟筋にあたる者もいて、丁度紀騨たちの訪問と時を同じくして直接交渉に行っている、とのことだった。
なお、こちらは皇甫の家を通すようなことはしないらしい。
そのあたりはいろいろと政治的な理由があるらしいのだが、天華はそのあたりのことは何も言わなかったし、桃香たちも何となく察しがついたのでそれ以上訊くこともしなかった。
「でもそんなことをしなくても、英台さんは昨日のことを口外したりはしないと思いますよ。」
伯明の言葉にはいつに無く自信が満ちていた。対照的に、桃香の眉間にうっすらとしわが刻まれる。
「どうして?」
「他人の弱みを嵩に着て、それで何かをしようなんて、そんなことを考える人ではありません。
目標を達するのであれば、あくまで彼女自身の実力をもって成す。英台さんはそういう人なのです。」
自信家ではあるが、それに見合うだけの努力を惜しまない人なのだ、と伯明はにっこり笑って言った。だから桃香が心配するようなことはこれっぽっちも無いのだと。けれど。
「…伯明君は、英台さんのことを心から信頼しているのね…。」
拳三つ分ほども上にある伯明の顔を、桃香は見上げることができなかった。きっと今の自分はとても醜い顔をしている。そんな自覚があったから。
「ええ。いつも、とてもお世話になっていますから。彼女の人となりはよく存じ上げています。」
「伯明君は…英台さんのことを……とてもよく知っているのね……。無条件で信用できるくらい。」
「……桃香…さん?」
「英台さんって綺麗な人よね。頭も良いし、仕草も上品だし。」
ここにきて伯明、ようやく桃香の様子がおかしいことに気づいた。躊躇しつつ…それでもそっと桃香の手を取…ろうとして、拒否された。
「あのね、あたしね、」
こんな顔、絶対伯明君には見せられない。見せちゃいけないんだ。
「…伯明君と一緒にいたいから。いつも一緒にいたいから、頑張って勉強したのよ。
母様も最初は呆れていたけど、頑張るって言ったら、好きにしなさいって言ってくれたの。だからあたし、あたし…!」
「桃香さん!」
逃げる手を、今度は伯明、しっかりと取った。
「でもあたしが一生懸命勉強している間に、伯明君と英台さんが一緒に居たことも、その間に何があったのかってことも、知らなかった…!
それに英台さんだってきっと伯明君のこと……!」
「何がって、何がです!?」
振りほどこうとする桃香。だが次の瞬間、何かがふわりとその肩を包んだ。それが何かを悟り、桃香の動きがぴたりと止まる。
「…聞いてください。」
時が止まったかのようだった。鼓動が、やけに大きく耳に届くのは何故だろう…?
「……私が世界で一番大切なのは……と…!」
 「いやー暑い暑い、まだ春だってのにここだけ真夏みたいだな。」
そこに、わざとらしく手を振って首元に風を送りながら二人の横を通り過ぎる人影ひとつ。
「やっ、だっ、ちょっ!」
反射的に離れる桃香と伯明。周囲公認の間柄といえども、やっぱり誰かに見られるのは恥ずかしいらしい。真っ赤になってそっぽを向いた桃香の目に映ったのは。
「……賢橿ぉぉぉぉっ!!!」
「隙だらけなんだよ大姉は。」
捨て台詞を残すと、デコピンをくらう前に少年はとっとと退散してしまった。相変わらず逃げ足の速さは逸品である。
「まったく! 口が減らないんだから…。」
ぶつぶつ言いつつ振り返ると、また伯明と目が合った。
 「桃香さん。」
にっこり微笑んだ伯明の頬は、夕日の色にほんのり染まっていた。
「…ご都合のよろしいときで結構ですが、その……うちの庭の桃が今見頃でして、よろしければ愛でながらご一緒にお茶でもできれば、と。」
ふわり、と夕刻の風が桃香の髪を撫でる。まん丸に目を見開き、しかし次の瞬間には、彼女もまたにっこりと微笑んでいた。
「よろこんで。明日にでもうかがうわ。」
蜜柑色の光に染まった手と手がそっと、触れ合った。

          ◆   ◆   ◆

 「……ところで。何か忘れているような気がするんだけど。……なんだったかしら?」
「思い出せないんですか?」
「んー…? …まぁいいわ。思い出せないってことは、大したことじゃないのよ。きっと。」

[終劇]



 鵠⇒白鳥。こうのとり。雁より大きく、羽毛は白く、非常に高い所を飛ぶ水鳥。
 翩翩(へんぺん)⇒鳥が身軽に飛ぶさま。/行き来するさま。/落ちつかないさま。/風流なさま。/宮殿のさかんなさま。/得意なさま。/筆の勢いの軽妙なさま。
 流連⇒遊楽にふけって家に帰るのを忘れること。居つづけ。  【漢語林 改訂版(大修館書店)】