青嵐雲遊顛末記2「百花繚乱 天星遊行。」
巍国万世拾遺譚 目次へ

 うららかな春の日の昼下がり。
 多くの人々がそこここで談笑するその広場の隅を、ふらふらと歩いていく一人の少年の姿があった。
 年の頃は十代半ばといったところか。体格は中肉中背だが、肩幅は広いほうだ。上背も年齢に見合う平均的なもの。
身につけている衣服は行き来する人々のそれに比べて飾り気が無さ過ぎるくらいだが、見る者が見れば生地も仕立ても一級品だということが判るだろう。
顔立ちははっきりしており、とりわけ意志の強さを感じさせる目元と眉が目を引く。
が、その表情はなぜか消沈していた。それというのも……。
「うううう……。」
うめく前に彼の腹が、何か入れろと盛大に要求してきた。それを聞いてまた少年の表情が情けない方向にゆがむ。
「くそー……飯食ってからにすればよかった……。」
どこからともなく漂ってくる昼餉のよい匂いがまた、拷問にも等しくて。
少年は深々と嘆息すると、空きっ腹を抱えたまま、またふらふらと人混みの中へ消えていった。


 巍国の都、恒陽(こうよう)。百万単位の人々が暮らすこの古い都市の、その城壁のすぐ外に。まるで子供のように寄り添っている小さな城邑があった。
 勿論ただの城邑ではない。太学――それも政府によって運営される、公の学び舎である。
お国に仕える優秀な人材を育成するために全国から集められ、また集まってきた者たちが、ここの主な住人であった。
だが、その学び舎の周囲に壁が築かれ一つの都市の様相を呈しているのには、また意味があるのだが…。
 その、学び舎と外の世界との境界線にあたる城門前で。盧伯明(ろ・はくめい)は二の句がつなげないまま、目の前に現れた人物をただただ見つめていた。
 伯明は今年二十一歳になる。
上背はあるが胸板があるとはお世辞にも言えない。面差しは柔和で、腰が低い性格もあって、これといった敵を作ったことはまだ無い。
立派な官吏になることを夢見、独学で一度、都恒陽にある私塾に通って二度、官吏登用試験を受け、そしていずれも失敗したという経歴を持つ。
 官吏登用試験の難易度は想像を絶するもので、孫がいるような年齢になってもなお挑戦し続けている者も珍しくない。
だから、二度や三度の失敗など実はかなり些細なものだ。
そんな彼が国営の学び舎である太学の門戸を叩いたのは当然といえるだろう。
 太学に通う学生たちの学費は、一部を除いて経営母体である国が賄ってくれる。
太学で学んだからといって必ず仕官できるというものでもないが、それでも肩書きに箔がつくには違いない。
それだけ利があるのだから、当然希望者は莫大な数に上ることになる。
だが国庫にも限度というものがあるから、投資に値すると思われる者を選抜する必要があった。
 その、「官吏登用試験よりはまだましだけれどもそれでもやっぱり高倍率」な試験を去年ようやく突破し、伯明は見事太学の学生となることができた。
思う存分勉学に打ち込める環境に落ち着いた、そんな彼の前に今年現れたのは。
 「えへ、来ちゃった。」
三歳年下の許嫁(いいなづけ)だったのである。
「来ちゃったって……。入学試験を、突破…した…んですか……?」
ようようそれだけ口にする。目の前の少女はにっこり笑うと、力強くうなずいてみせたのだった。
 白桃香(はく・とうか)、というのが彼女の名だ。
その名のとおり熟れた桃のような柔らかい頬と唇をした、愛らしい娘である。
黒い髪を結い上げ小さな花をあしらった簪を挿し、春の木漏れ日のような笑顔を浮かべる彼女を、伯明は幼い頃からよく知っていた。
容姿とは裏腹に、存外(主に精神的に)たくましい人だということも。
 「そうよ。だって、あたし伯明君といっしょにいたかったから。だから頑張って勉強したの。」
その台詞を聞いた途端。伯明の心中には二つの感情が同時に湧き上っていた。
一つは「ああ、なんて可愛いことを言ってくれるのだろう」というのと。
そしてもう一つは…「私ですらあんなに苦労して入学したというのに、桃香さんはたった一年勉強しただけで試験を抜けてしまったというのですか…?」というのと。
少なくとも伯明の知っている白桃香という人間は、机にかじりついて勉強するどころか、かなり…「天然」の入った娘だった。
「これでまた、一緒にいられるわね。」
そんな伯明の心中を察しているのかいないのか。桃香は心底嬉しそうにそう言った。
その台詞に嫌味や誇張など全く無いと解っているからこそ…伯明は返答に困ってしまうのだが。
「そ、そうですね…。」
そう返すのがやっとだった。
 「と、ところで。大翼君や翠蘭さんはご一緒ではないのですか? お二人が武官部門を志望してみえるということはうかがっていたのですが…。」
気を取り直して、そう尋ねたときだった。
 「あら、伯明さん。こんなところにいらしたのですか?」
突然伯明の背後から声がして、二人は同時にそちらへ目を向けた。一人の女性がこちらに向かって歩いてくるのが映った。
 年のころは桃香と大差ないだろう。少なくとも二十歳を越えているようには見えなかった。
すらりとした肢体に厭味にならない程度に上品な衣服を身にまとっている。
挿している簪も意匠こそ簡素だが、ちらちらと見える牡丹を模した珊瑚細工の、描く曲線の妙といい配置の絶妙さといい、一級職人の仕事に違いない。
面差しのほうは目鼻立ちがくっきりとしており、所作もきびきびとしていて、切れ味のいい美女という風情だった。
「英台さん。」
「お友達?」
伯明の陰からひょこりと顔を出した桃香の存在に気づき、英台と呼ばれた美女は露骨に眉根を寄せてみせた。
「…こちらは?」
「白桃香さんとおっしゃいます。私の許嫁です。」
さらりと紹介されて、英台はさらに妙な表情をした。伯明と桃香の顔を交互に見やる。
「許嫁? 貴方許嫁なんていらしたの?」
「はい。桃香さん、こちらは皇甫英台(こうほ・えいだい)さん。ここの学生で、俊才でいらっしゃいます。」
「まぁ、お上手だこと。」
口元を隠し英台はほほと笑ったが、その目は決して笑っていなかった。
対照的に、桃香のほうは深々と頭を下げた。
「白春(はく・しゅん)といいます。桃香と呼んでください。今日からこちらで学ぶことになりました。よろしくおねがいします。」
「皇甫瑜(こうほ・ゆ)ですわ。」
 「ところで英台さん。私に何か用事がおありだったのではありませんか?」
ふと、伯明が尋ねた。英台のほうもそれで思い出したらしい。改めて伯明に向き直った。
「本日は恐れ多くも皇帝陛下が、お忍びの視察ということでこちらにおいでになっているとのこと。
その警備の意味も含めて、一人では行動せず必ず複数でいるようにとの旨が先ほど伝わってまいりましたの。」
「皇帝陛下が?」
「私(わたくし)、先ほどあちらで鸞車(らんしゃ/天子が乗る車)を拝見致しましたから。
ともかく、近衛の方に誰何されるというのもなかなかに面倒なものですし。
どうせですから伯明様と御一緒いたしたく思いまして。」
そう言って、英台は嫣然と微笑んでみせた。その視線に桃香の姿が入っていないことに、果たして当人たちが気づいているのかどうか。
「そうなのですか。それでは桃香さん、英台さんと御一緒にこちらを案内いたしましょう。」
柔らかく微笑むと、伯明はそのまま先にたって歩き出した。桃香もそれがごく当然であるかのようにすぐに伯明に追いつき、その左隣につく。
慌てたのは英台だった。
「わ、私が、ですか?」
先ほどまでの優美な立ち居振る舞いはどこへやら。思わずこぼれた間の抜けた台詞に気づき慌てて口を塞ぐが、もう遅い。
伯明たちのほうはというと、その反応の理由が皆目見当つかないのか、揃ってきょとんとしたまなざしを向けた。
「今日一日は、複数の者が連れ立って行動せねばならないのでしょう? それに桃香さんは今日初めてこちらにおいでになったのですから。
他にご案内できる方もおりませんし。」
「伯明君のお友達なら、あたしも貴女のことをもっと知りたいわ。それに、人数が多いほうがきっと楽しいと思うの。」
ね? と無邪気に小首を傾げられ。英台は返す言葉を失ってしまった。
その彼女の目の前で、伯明と桃香は目線を交わす。
「では、どこからご案内しましょうか?」
「んー…伯明君の好きなとこからでいいわ。」
「そうですか。では……。」
「ああああ伯明様…。もう、わかりました。参りますわよぉっ!」
半ば自棄気味にそう呟くと英台は、「二人の世界」を作りつつある伯明と桃香の後を追ったのだった。

          ◆   ◆   ◆

 恒陽の街のすぐ近くに太学が建設されたのは、実はそれほど昔のことではない。
 四半世紀ほど前――つまり伯明たちが生まれるほんの少し以前――巍の国内は大規模な騒乱の中にあった。
 理由はさまざまにあるが……中央での一部の者への権力の集中が政治の腐敗を招き、地方が以前より抱えていた不満の種に油を注いだ上に自ら火を放ったのが最も大きかったろう。
 そこに皇位継承争いに伴う騒ぎまでもが加わって、国全体が大混乱…というひどい状態だったのだ。
 幸いにも、現状を憂い国の未来を真剣に考え国に忠誠を誓う多くの者の尽力と、また皇位継承問題もそれに伴って決着をみた為、巍国はその命脈を永らえることができた。
 「…太学の建設計画が持ち上がったのは、そんなときだったそうです。
勿論それ以前からも官吏を登用する制度があるにはありましたが。それでも地方や、中央でも高官になってくると、血縁による世襲が主流でしたから。
そして時代を下るにつれてその世襲制の悪い面ばかりが目立つようになったため、結果として巍国は荒れることになったのです…。」
ぽつぽつと建物の間を案内しながら、伯明はそう桃香に説明した。
それを聞きながら桃香は、まるで初めて知ったとでもいうように目を輝かせている。桃香だってそのあたりのことは、わずかなりとはいえ他人事ではないというのに。
英台が桃香を見る目は、ますますもって胡乱になっていく。
 「誠心誠意、民草の、国のために働ける者を育成し、将来再び歪みが起きることがあっても直ちに自浄できるような国に成長させよう。それが、設立者たちの願いでした。
しかし、恒陽は古い都です。
もともと巍国で最も大きな都市ではありましたが、都を囲んでいる城壁は、貴都から遷都された三百年前当時のままなのです。
そこに、戦から逃れて地方から大勢の人々が流れ込んできたのですが…その一部がそのまま故郷に戻ることなく、都に居ついてしまったのです。」
つまるところ…もはや土地の余裕などほぼ無いに等しかった。結果、太学は恒陽の城壁の外に建てられることとなったのである。
 経営母体が国であるから、設備もそれなりに整っている。
見込みのありそうな若者を全国から広く集めたので、彼らが寝泊りするための施設も必要となる。
当然彼らを賄うための施設も必要になる。学生たちの生活を支援する者が必要となる。仕事もできる。
仕事があれば学生以外の人も集まる。人が集まれば、物資や金も自然と集まってくる…。
相手は腕に覚えのない学生ばかりだから、賊の格好の襲撃対象になる。
人が多い分警備に割かねばならない人員も増えることになるので、学び舎を守るために、国は思い切って周囲に盛り土をし壁を造ることにした。
また平行して武官候補生の育成施設を併設し、太学が自衛できるよう措置した。
 「こうして、太学は今の姿になったのです。
ですから、翠蘭さんや大翼君が学ぶことになる武官部門は、半ば実戦を兼ねるためにここに移されてきたようなものなのですよ。」
「ふぅん。でもそれなら、最初の頃は随分揉めたんでしょうね。
『俺たちは官吏にすらなっていない奴らの盾になるためにいるんじゃないぞ!』とか言って。」
「さあ、そのあたりは私も存じませんが。」
他人事のようにそんなことを言い放つ桃香に、伯明は苦笑した。
「でも、実際に武官部門の方が賊を捕らえたり、襲撃に応戦したりといったことはあったようですよ。英台さんの…、」
そこで伯明は足を止めた。少し遅れてついてきていた英台の顔を見る。
「お父上もこちらのご出身なのだそうですが。やはり在学中に賊が侵入したことがあったそうで。
その際、英台さんのお父上は賊を二人も捕らえられたのだそうですよ。」
「父は、武官部門を首席で卒業いたしましたの。」
伯明が桃香の相手ばかりするのでご機嫌斜めの英台だったが。
話題が自分の方面に向かったと知るや、普段の鷹揚さが瞬く間に舞い戻っていた。
どこからともなく取り出した絹張りの扇で口元を隠しているが、目だけは満足げな色をたたえている。
「そして。私も父の名に恥じぬ成績を修める所存ですわ。」
「ええ、英台さんは本当にすごい方ですよ。」
「学び舎に身を置く者であれば当然のことですわ。学問を修め、お国に、聖上(皇帝の美称)に尽くす。それが巍国臣民の本分でございましょう。
少なくとも私、不純な動機で学問を志したわけではございません。」
さらりと言い、そして最後に英台は初めて桃香にちらと視線を向けた。
「他事にうつつを抜かしていられるほど、この学び舎は甘くはございませんのよ? その覚悟はなさっておいたほうがよろしいかと。」
「そうみたいね。」
下唇に人差し指を当て、桃香は軽く嘆息した風情を見せた。だが。
「そのときは、伯明君に勉強を教えてもらおうかしら。」
「と、桃香さん…。」
気圧されるどころかけろりとしている。さらには。
「私などたかが知れています。同じ学ぶのであれば、英台さんに教授したほうがずっとよいと思いますよ。
…勿論、英台さんがよろしければの話ですが。」
伯明までそんなことを言い出す。
それまで得意げだった英台の舌が、ぴたりと止まってしまった。足を止め、桃香を冷ややかな目でねめつける。
「…貴女。先ほどから聞いていればなんですか。事あるごとに伯明君伯明君と。
まぁ、首席での卒業を目指す私についてこられるのであればそれも結構。
ですが、勉学とは本来、己を磨き高めるためのものであるはず。それを一から十まで人の力に頼るなど、恥ずかしいとは思いませんの!?」
「人を頼るのは、いけないことなんですか?」
さすがに少しばかりむっとした口調で、桃香は問い返した。
「いけない、とは申しておりませんわ。ただ、その前にご自身の努力が充分であったかどうかを……。」
二人の雰囲気が何となくおかしな方向になりつつあることに、鈍い伯明もようやく気づいたようだ。慌てて間に入ろうと振り向いたときである。
 何かにつまずいて、伯明は盛大に転んだ。
 「伯明君っ!」
「伯明さんっ!?」
女性人二人が同時に声を上げる。
 何しろ後ろ向きに倒れたのだから、受身の取りようがない。
しかもつまずいたものがこれまた結構な大きさのもので、それの上に倒れこんだ伯明はすぐには立ち上がれず、無様な格好でもがく破目になってしまった。
 そんな伯明を助け起こそうと手を伸ばし…桃香と英台の二人は視界に入った互いの手に、思わず互いの顔を見た。どちらも「その手は何だ」と目が言っている。
「あいたたたた……。」
知らぬは伯明ばかりなり。
「伯明君、大丈夫? どこも怪我してないよね?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます。」
「それはよろしゅうございましたわ。それにしても…こんなところに一体何が…。」
建物の角とはいえ、れっきとした往来である。その真ん中に物を放置するとは何事だ。
だから伯明様は転んでしまわれたのです、衛士を呼んで即刻撤去させなければ…そう言いかけて、英台は次の言葉を失ってしまった。
というのも、そこに転がっていたのは「物」ではなかったのである。
「人?」
「あっ、あっ、申し訳ありません!」
桃香に指摘されて、伯明は大慌てで身を起こす。
その下から現れたのは、その場にいる誰よりも明らかに年下と思われる、一人の少年だった。ぐったりとうつ伏せに倒れたまま、動かない。
「ち、ちょっと。大丈夫? ねぇ?」
さすがにこちらのほうが大事だと直感したらしい。桃香がそっと少年の頬に触れる。
「うう…」と反応があったところをみると、取り敢えず死んではいないようだ。
「どこか痛いの? 怪我してるの? ねぇ。」
「と、桃香さん、揺すらないほうがいいのでは…。」
そんな桃香の隣で伯明がおろおろと口添えしたときだった。
 ぐぐぐぐぐ〜〜……。
 「わっ、私ではありませんわよ!」
英台が思わず頬を朱に染め否定する。が、幸いなことに誰もその言に耳を貸していなかった。というのも、すぐに音の主が判明したからである。
 「……は……はらへった…………。」
今にも消え入りそうなか細い声で。うつぶせに倒れたままの少年がようやく口を利いたのと、彼の腹が再び自己主張したのは、ほぼ同時だった。


 「やぁ、食った食った! こんなに美味いものを食ったのは何年ぶりだ?」
食堂中に響き渡るような声でそんなことを言いながら、少年はすっかりくちくなった腹を撫でた。とてもつい先ほどまで道端に行き倒れていたのと同一人物とは思えない。
あっけに取られている伯明と桃香の隣で、英台だけが明らかに胡散臭そうなものを見る目を少年に向けていた。
 少年が行き倒れていた理由が単に「空腹だから」ということが判り。伯明は彼を太学の学生食堂に連れてきたのである。
よく判らなかったので適当に料理を注文したのだが。
 これがまた、食べる食べる。
 配膳された料理を次から次へと平らげ、終いには「これと同じものをもう二人前」とか給仕に注文する始末。
あっという間に卓の上は空の皿だらけになってしまったのだった。
食べ盛りの年頃であることを差し引いても、いくらなんでも食べすぎだろう。三人の目が明らかにそう言っている。それどころか。
 「…そんなに大騒ぎするほどのものでもあるまいし……。」
少年の行儀の悪さに、思わず英台は口元を絹の扇で隠して眉根を寄せた。
彼女は幼い頃から食事の作法についてもみっちり仕込まれていたし、何より「学食の料理は人間の食べるものではない」と思っている。
だからここまで意地汚く(というのは少々誇張表現かもしれないが)腹に詰め込む少年の感性がまず信じられないのだ。
「いや、本当に美味いぜ? お前も食ってみろよ。何より温かいのが気に入った!」
「い、いえ、辞退申し上げますわ…。」
「温かい…って。いつもはどんなもの食べているのよ?」
英台に代わって興味をそそられた桃香がずいと身を乗り出す。
「と、桃香さん、失礼ですよ…。」
「うーんそうだなぁ…。」
一向に気にしていないのか、少年は胸の前で腕を組むと天井に視線を向けた。
口角がさまざまな方向に向き表情がくるくる変わる。どうやらそれが考え事をするときの癖らしい。
「とにかく、飯ができてから俺の口に入るまでに、やたらと時間がかかるんだ。俺より先に食う奴だっているしな。
他にもなんだかんだあって、結局食えるのは冷えたまずーーーーい飯ばかりだ。味も何もありゃしない。」
「ふうん…あんた、結構苦労してるのね…。」
「お前…解ってくれるか。そうか、嬉しいぞ俺は。」
袖口で涙を拭う真似をすると、少年は桃香の手をがっしと掴んだ。思わず桃香もその手を握り返す。傍目には固い友情が結ばれたようにも見える光景だった。
 「さて。」
一心地つくと、少年はおもむろに立ち上がった。伯明に向かって鷹揚にうなずいてみせる。
「馳走になったな。礼を言うぞ。」
「え? あ、はい…?」
何のことか解らず、でも取り敢えず返答してしまう伯明。が、さすがに女性陣はその言葉の意図することを察したようで。
「ちょっと待った。」
そのまま踵を返そうとした少年の腕を、桃香の手ががっちりと捕らえていた。同時に英台の目がぎらんと輝く。
「なんだ。」
捕まれたことがよほど意外だったらしい、少年の顔が驚きにわずかにゆがんでいる。
「…あなた。最初から伯明様に食事をたかるおつもりで、あそこに倒れていたわけではありませんでしょうね?」
「もしかして、お金持ってないんじゃないの?」
「はっはっは。持っていたら行き倒れる前に店に入っている!」
悪びれるどころか胸を張って返したのだから、いっそすがすがしい。「それもそうか」と思わず桃香が手を離してしまったほどだ。
「桃香さん!?」
「あ。」
英台に突っ込まれて、思わず桃香は己の手を見た。が、幸いにというか、少年はだからといってさっさと逃げ出したりはしなかった。
 「あんたねぇ…『食べ物とお金が絡んだ揉め事くらい厄介なものはない』って、亡くなった父様が言っていたわ。
今払えないのなら、ここはあたしたちが『立て替える』ってことにしてあげてもいいけど。でもちゃんと返さなきゃだめよ?」
「そういえば…まだ貴方のお名前をうかがっておりませんでしたわね。」
英台の眼差しがさらに冷ややかになっている。対照的に桃香の目は真摯な熱っぽさを帯びていた。
だがいずれにしても、このまま少年を解放したりはしない、といった意思がありありとうかがえる。
「いくらなんでも、お名前を存じ上げない方にお金を貸してさしあげることなど、できませんもの。そうは思いませんこと伯明様?」
「…名前?」
「…そうですね…。」
女性陣の迫力に圧倒されてそれまで黙っていた伯明だったが。ようやっと己を取り戻して、少年に向き直った。
「学生食堂の場所もご存知ありませんでしたし…どうやら貴方は新入生のようですね。
ここには大勢の人が学んでいますが、知り合いは多いに越したことがないと、思いますよ。
こうして私たちと出逢えたのも、何かの縁かもしれませんし。」
「…人に名を尋ねるときは、まず己から名乗るのが礼儀だと思うが?」
少年の目が初めて、薄い刃のような光を帯びた。だが伯明のほうはそれに気づいていないのか、にっこり笑った。
「姓を盧、名を亮、字を伯明と申します。生まれ育ちは恒陽ですが、父は對州の出で一族もそちらに住んでおります。」
…巍国の中心となる華央とその周辺では古来より、長幼の礼を重んじる傾向が根強く残っている。
明らかに一同の最年長である伯明がまっ先に名乗るというのは異例中の異例のことだ。
当然桃香と英台もそれに倣う。
 「皇甫? お前、皇甫の家の者か?」
英台の名を聞いた途端、少年がわずかに眉根を寄せた。当然それを見逃す英台ではない。
「そうですが、それが何か? いえそれよりも。年上の女子を捕まえて『お前』などとは。一体どういう教育を受けていらしてたのかしら。」
「皇甫って?」
事情が飲み込めない桃香が、そっと伯明に囁く。意外そうな顔をして、伯明は囁き返した。
「左将軍の皇甫斑良様をご存知ですか? 英台さんは斑良様のお孫さんでいらっしゃるのです。」
「ええっ、英台さんってそんなにすごい人だったの!?」
皇甫といえば、三百年以上栄えているここ巍国の初期も初期、まだ華央一帯を平定するより以前から帝室に仕えてきた名門中の名門の家系である。
桃香が驚嘆するのも無理はない。
「ううん、勿論左将軍が皇甫姓の人だってことは知ってるけど。でも、そんな雲の上の世界の人が目の前にいるなんて、思いもしなかったから…。」
「確かに私は皇甫家の者ですわ。
ですが、家柄など私にとっては何の意味も持たぬもの。勉学の世界に家柄など何の意味がございましょうや。
…私はあくまで、私自身の力で進む道を切り開きたいのです。」
つん、とすましながらも。英台はきっぱりとそう言い放ち、胸を張った。
それほどの名門の出自であればたとえ本人が望まなくても自然と取り巻きができるはずなのだが、桃香が彼女と出会って以来(といってもまだ半日と経過していないのだが)、それらしき者は見かけなかった。
皇甫姓と聞いてもすぐに左将軍のことを思い出さなかったのも、半分それが理由である。
だからこの言も、虚勢というわけでもなさそうだ。
「いや、まこと天晴れな心がけ。感動したぜ俺は。」
聞こえてきたのは拍手の音。心底感心したといった風情でそう言ったのはあの少年だった。
「その志、出世しても忘れるんじゃないぞ。」
「……話がいささか逸れましたわね。さぁ、私たちの自己紹介は済みましたわよ。」
そして少年の番となったわけだが…。
 「どういたしましたの?」
英台の目が鋭く輝いている。腕を組んでいるところまでは先ほどと同じなのだが、その顔には明らかに困惑と逡巡とが表れていた。
「……あまり俺と関わり合いにならないほうがいいと思うぜ?」
「どうして?」
桃香が尋ねる。少年と同じ年頃の弟がいるので、無意識のうちに彼の扱いもだんだん似たようなものになってくる。
「まさか名無しじゃあるまいし。それに、関わり合いになるなって、もうこれだけ関わっちゃってるじゃないの。何を今更。」
「…何かわけありのようですね。もしよろしければ、ご相談に乗りますよ?」
伯明までそんなことを言い出す。いらいらと少年は頭をかきむしった。
「ああああっ、いいから要らん気など回すなっ、頼むから! でないと……。」
そう言いかけたときだった。突然少年の表情がひしりと固まったのである。喉の奥から漏れたのは「うえぇ」とも「しまった」ともつかないうめきだった。
「どうしたの?」
ただならぬ様子に、桃香が眉根を寄せる。だがそんな彼女の器用な表情の変化に気づく前に、少年は踵を返していた。
「あっ!」
「逃げるおつもりっ!?」
桃香と英台が同時に叫ぶが、今度は少年も待ってはいなかった。文字通り脱兎の勢いで食堂の出入り口とは反対方向――つまり厨房の奥――へと駆けていく。
「さてはっ、本気で食い逃げするつもりねっ!?」
「ええい、何も知らないくせに人聞きの悪いことを好き勝手言いやがって…。」
歯軋りしそうな表情でそう呟きながら、それでも少年は後ろを向いて反論する間も惜しんで厨房に飛び込んだ。
その後を桃香と、何故か引っ込みがつかなくなった英台が追う。
厨房にはようやく繁盛期を過ぎて遅い昼食を摂っていた料理人たちがいて、三人はそこに飛び込む形となったわけだから、当然騒ぎになった。
「なっ、なんだなんだ!?」
「どけどけどけぇい! 邪魔するなぁっ!!」
「待ちなさいっ、この食い逃げっ!」
「誰が食い逃げだあっ!」
「食い逃げ以外のなんだっていうのよ!」
「だから食い逃げじゃないって言ってるだろうがっ! 続きはあとでいくらでも聞いてやるから、今は見逃せっ!!」
「そんな詭弁が通じるとでもお思い!? 今が駄目で後ならいいという道理はございませんわよ! 食い逃げでないのであれば、どうしてお逃げになるのですっ!?」
「あああっ、しつこいっ!! わからん奴らだなぁ、ほんとに!」
……といった会話(怒鳴りあい?)と、鍋やら桶やら皿やらが派手に散乱する音と、事態がさっぱり飲み込めていないと思われる料理人たちの悲鳴と罵声とが、程よく混ぜ合わされて客席まで聞こえてくるのを、…なんとなく参加しそびれてしまった伯明が呆然と聞いていた。「……皆さん、元気ですねぇ…」などと呟きながら。
 と。そこへ騒ぎとは反対の方向――今度は正規の出入り口のほう――から二人の男が入ってきた。
昼下がりでまばらとはいえ、それでも客席には伯明の他にも何人かの学生が少し遅い昼食を摂りに来ていた。
先述のとおり太学には年齢制限というものは無いし、同じ敷地の中に武官部門も併設されているので、壮年の男性やらいかつい体格の者が出入りしていてもなんら不思議はないのであるが。
それでも彼らがまとっている雰囲気にそのいずれとも微妙に異なった印象を、伯明は覚えたのだった。
(…………?)
 「…この辺りで見かけたという話なのだが…。」
そう呟いて先の一人がきょろきょろと周囲を見回す。するともう一人が厨房での騒ぎを聞きつけて眉根を寄せた。
「なんだ、何の騒ぎだ?」
「…食い逃げがどうとか言っているようだが…。」
「食い逃げ? …平和なもんだぜ。」
「どうやらここではないようだな。おい、行くぞ。つまらん騒ぎに巻き込まれて、事を大きくするわけにはいかんからな。」
 そのとき、厨房のほうから何かを派手にひっくり返す大音声が聞こえてきて。伯明は思わずそっちに視線を向けた。
騒ぎのほうはどうやらひと段落ついたようなのだが、かといって決着したという雰囲気でもなさそうだ。
桃香さんたち怪我をしていらっしゃらなければいいのですが…などとおろおろ気を揉んで、ふと出入り口のほうに視線を戻したときにはもう、男たちの姿はいつの間にか消えていたのであった。

          ◆   ◆   ◆

 李絳(り・こう)、字を深紅(しんこう)というその若者は、巍国の最南端・邂州(かいしゅう)の人である。
先祖代々邂州に住まい、土地の豪族に仕えてきた武人の家系に連なる。
その彼が遠路はるばる帝都・恒陽を訪れたのは、その仕えている主から遣いの任を命じられたからに他ならない。
 太学には全国各地から優秀な人材が集まってくる。
勿論中央での立身出世を目指して来る者も少なくないが、実は各州が州を上げて送り込んでくる「期待の星」のほうが圧倒的に多かった。
優秀な人材を欲しているのは地方だって同じなのである。
試験を通過できず国政に参加することができなくても、地方行政の一助には充分なりえることができる。
また、太学で学べば同じ目的で地方から出てきた者とも面識を得ることができる。中央を介さない独自の人脈というのは、決して無視できないものである。
そしてこの太学は、それが容易にできる場でもあったのだ。
 深紅はその、太学に今年合格した邂州の代表たちを護衛して共に都に上ってきたのだった。
勿論他にも「任務」を賜っているのだが、それは別に今すぐでなくてもいいものだし。
学生たちも無事に送り届けたことだし、もはやこの場に用事の無くなった深紅は、日が傾く前に恒陽の宿に戻るために城門へと足を向けた。
恒陽の街へは多少時間はかかっても歩いて行けないこともない距離なのだが、城門付近には恒陽の街との間を日に何度か往復する乗合馬車(有料)の乗降車場と、外来者の馬車や乗馬を預かる施設(有料)とがある。
そこに深紅の乗馬も預けてあるのだ。
 その彼を呼び止める者がいるとは、深紅自身思ってもみなかった。
「…何か?」
振り返った彼の目の前にいたのは、一人の女性だった。
年の頃は三十代前半と思われる。美人ではあるが、「美女」というよりは貴婦人然とした印象を受けた。
仕立ての良い着物をきちんと身につけたたずまいも楚々としているが、決して奥の間で縫い物をしながら丈夫(ここでは夫の意味)の帰りを待つ類の女でないことは、放つ雰囲気からもすぐに察することができた。
とはいえ、太学の学生というわけでも、ましてや講師というわけでもなさそうだ。
「お呼び止めして申し訳ありません。実は人を探しておりまして。どこかでお見掛けになりませんでしたでしょうか?」
そう言って、婦人は尋ね人の特徴を深紅に告げた。
が、深紅には一切心当たりは無かった。邂州から同道してきた者の中に似たような背格好の者がいるにはいたが、当然彼女の探し人ではなかった。
「そうですか。ありがとうございました。」
深々と頭を下げると、婦人はくるりと踵を返した。気品は保っているが、慌てているというのはその後姿にもしっかり表れていた。
「見かけたら、お教えしましょう。」
去り行く背中にそう告げると、婦人は半身振り返り再びぺこりと頭を下げ、そして駆け寄ってきた他の男と二言三言言葉を交わすと、そのまま連れ立って建物の向こうへと消えてしまった。

          ◆   ◆   ◆

 「つーかーまーえーたーわーよー。」
ぜぇはぁと肩で息をしながら。桃香はようやっと捕まえた少年の袖をむんずと引き寄せ、にんまりと笑みを浮かべてみせた。
年頃の娘であるにもかかわらず、どちらかというと少年っぽい表情である。それも、いたずらが成功したときに出てくる類のものだ。
そのはるか後方では、とうに戦線を中途離脱した英台がのびている。
「…いい加減しつこいぞ、お前……。」
こちらもへろへろになった少年が、それでも減らず口だけは一人前に返す。せっかくの仕立ての良い着物も、すっかり汗と埃まみれになっていた。
「そんなだと、嫁の貰い手が無くなるぞ。」
「余計なお世話よ。それに、あたしにはもうちゃーんと貰ってくれる人が決まってるんだから。」
「へぇ、世の中にはいるのかそんな物好きが。」
「言ったわね!」
言うが早いか、桃香は少年の腕をねじ上げた。
何しろ、腕白盛りの弟が二人もいるのである。加えて母はそれなりに地位のある現役の武官だ。桃香も護身術の一つや二つ、心得ている。
「いていていていて、いてえええぇぇぇぇぇっ!」
「あたしのならともかく、伯明君の悪口はっ、許さないんだからっ!!」
「わかった、わかったから、放せってば!」
終いには、強がりなんだか泣き声なんだか悲鳴なんだかとにかくそんな感じの情けない声を上げて、少年はようやくおとなしくなった。
年上とはいえ、女性に腕力で負けるというのもはなはだ恥ずかしい話ではあるが、事実なのだから仕方が無い。
 そこへ、ようやく伯明がやってきた。結局勘定のほうは彼が立て替えてくれたらしい。
「大丈夫ですか、英台さん、桃香さん。」
「は、伯明様…これはとんでもないところをお見せしてしまいましたわね…。」
大慌てで居住まいを正すと、英台は扇子の陰でこほんと小さく咳払いをした。
「お怪我はありませんか?」
「ええ、私は大丈夫ですわ。ですが…。」
ちらりと英台は桃香たちのほうへと視線を向けた。
「…早くお分けになったほうがよろしいかもしれませんわよ? 少なくとも…私には無理かと。」
ねじ上げていた手こそ放したものの、桃香はそれでも逃げられないようしっかり左の腕を抱き込んでいる。
傍から見ると公衆の面前でいちゃつく道徳のなっていない恋人同士に見えなくもないが、勿論当人たちにそんな色気めいた気は微塵もありはしなかった。
…少年のほうはすっかりうんざりした表情で、まるで活きのいい蛭のようにしつこく離れない桃香を横目で睨みつけていた。
 「桃香さん、放してあげていただけませんか。」
「ええ? また逃げられたらどうするの?」
「この方は『話はあとで聞く』とおっしゃいました。逃げたりなどされませんよ。ね?」
穏やかにそう言われてしまっては、少年も桃香もうなずかざるをえない。
「……伯明君がそう言うのなら…。」
そして本当に、桃香が手を放しても、少年はもう逃げようとはしなかった。…その代わり、かなり面白くなさそうな表情をしていたが。
「非礼はお詫び致します。ですが…せめて貴方をどうお呼びすればいいのかくらいは、教えていただけませんか?」
「………だぁっ、もうわかったよ! そんな目で俺を見るな…。」
椅子の上に器用にあぐらをかき、少年は左手でわしわしわしっと頭をかきむしった。
「…取り敢えず“きーさん”とでも呼んでおけ。」
「きーさん、ですね。」
もともと柔和な顔立ちで、争いごとを嫌う性質の青年である。にっこりと微笑んだその表情に、嫌味などというものは一切無かった。
むしろ「これでやっとお友達になれましたね」といった類の人の好さがにじみ出ていて。
少年のほうがかえって気恥ずかしさを覚え、視線を泳がせてしまったほどだ。
「…お名を明かせない理由でも、ございますの?」
扇子の影から英台が尋ねる。
「明かせないから偽名なんでしょ? ねぇ、お金以外に理由があるんだとしたら、どうして逃げたりなんかしたの?」
本当に「食い逃げ」をする気だったなら、袋小路になっている厨房ではなく、出入り口から表へと逃げていたはずだ。
だが少年は明らかに出口の方向を確かめた上で奥へと逃げ込んでいた。そのことを、桃香は今更ながらに思い出したのである。
伯明と入れ替わるようにずいと寄せてきた桃香の顔は、先ほどまでの暴れっぷり(?)とは打って変わり、歳相応の落ち着きのようなものが現れていた。
さすが弟妹を四人も抱えているだけのことはある。
その、思いもよらなかった至近距離に、「きーさん」は思わずほほを染めてそっぽを向いた。
たとえ桃香本人にその気が全く無かったのだとしても、少なくとも十代半ばの健全な青少年にはちょっとばかり刺激的だったかもしれない。
「それは…。」
 「大姉。」
そのとき。後ろから声をかけられ、桃香は反射的に振り返った。続いて他の三人もそちらを見る。
いつの間に現れたのか、三人の少年少女がすぐそばに来ていた。
少年が一人、少女が二人。いずれも歳の頃は十代半ばほどだが、少年と少女の一人は戦襖(せんおう)に身を包み、剣を佩(は)いていた。
「何を大騒ぎしているのさ。恥ずかしいったら…。」
眉根を寄せてまっ先にそう言ったのは少年。
面立ちから三人の中では最も年少のようだが、上背は少女たちより幾分勝っている。柔和な面立ちが彼の性格を表しているようだった。
「別に騒いでなんかないわよ。騒いでいたのは、その子。」
「だめですよ桃香さん。人を指差すなんて。」
やんわりと注意した伯明を除いた全員の視線が、「きーさん」と名乗った(元)行き倒れ少年に向けられる。
「…あの、桃香さん。そちらの方々は? お知り合いのようですけど、そちらも新入生の方々でいらっしゃるのかしら?」
さらに新顔が増えたことに英台が眉根を寄せている。
伯明は先ほど「桃香に連れがいない」と言っていた。だからここまで黙って同道していたわけであるが。立派に連れがいるとなれば話は別だ。
そんな彼女の心情を察しているのかいないのか、桃香は「ああ」と手を叩いた。
「あたしの弟妹たちよ。皆今年からここの学生になるの。よろしくね。」
「…皆? 姉弟おそろいで入学試験を突破なさったの?」
「ええ、そうよ。」
にっこり笑って答えられ。英台は改めてしげしげと少年少女たちを見やった。
…確かに、言われてみれば桃香と似ていないこともない。剣を佩いたほうの少女の面立ちがやや強めだというくらいか。
それに気づきまっ先ににこりと微笑み返したのは、もう一人の少女だった。こちらは鼻の上にちょこんと丸いものを乗せている。
それが西国渡来の「眼鏡」というものだと判ったのは、やはり英台が巍屈指の名家に連なる者であり、奇品珍品に対して目が肥えていたからなのだろう。
「はじめまして。白翡蓮(はく・ひれん)と申します。姉ともどもよろしくお願いいたしますわ。」
「同じく、白翠蘭(はく・すいらん)です。よしなに。」
対照的にきびきびとした礼を執ったのが、剣を佩いたほうの娘だった。
桃香が結い上げた黒髪に簪を挿し、翡蓮が緩やかに肩の位置で束ねているのに対し、こちらはきりりと結った髪を馬の尻尾よろしく背に流している。
最後に口を開いたのは、少年だった。
「白大翼(はく・たいよく)と申します。…姉がご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか?」
ちらりと桃香のほうを見て大翼がそう尋ねたのは、別に英台の気を引きたいからではなく、単純に「大姉がどういう人物なのか」熟知しているからであった。
視線を向けられたほうの桃香はというと、一言も二言も言いたそうな顔をしていたが、伯明の手前ぐっとこらえている。代わりに、別のことを口にした。
 「話を元に戻しましょうか。
…それで、『きーさん』はどうしてさっき逃げたりなんかしたの? 英台さんの言うとおり、さっきは駄目で今ならいいって、どういうことなのよ?」
その場にいた全員の目が『きーさん』に向けられる。
大翼たちも顔を見合わせたものの、おとなしく事の推移を見守ることにしたらしく、黙っていた。状況がいまだ把握できていないからでもあるのだが。
六対の視線を浴び、きーさんはわしわしっと頭を掻いた。どちらにしろ六人にぐるりを囲まれては、逃げようという気も起きない。
大仰に嘆息すると、表情を改めた。周囲に視線を走らせ、声をひそめる。
「実は…。」
「実は?」
「俺……悪い奴らに追われているんだ。」
「ええっ!?」
声を上げたのは桃香。伯明は目を丸くし、武人の卵二人が再び顔を見合わせる。英台は口元に扇子を寄せたが、翡蓮だけが眉一つ動かさずにこにこと笑っていた。
「またまた、冗談ばっかり。」
「冗談なんかじゃねぇよ。奴らのおかげで俺は…腹空かして逃げ回る破目になったんだからな。」
きーさんはいたって真面目だ。それどころか、唇を噛み締めて視線をそらした。
その様子にまっ先に反応したのは、伯明だった。
「そういえば。先ほどきーさんが厨房に逃げ込まれた直後、食堂に、明らかに学生ではなさそうな人たちがやってきました。
どなたかを探している風情でしたが…もしかして、彼らがそうなのですか?」
無言でうなずくきーさん。
「じゃあ、あの時逃げ出したのは、その『悪い奴ら』から逃げるため……?」
「私たちに名を明かせないのも?」
扇子の陰から英台。「ああ」ときーさんは答えた。
「俺の正体を知れば、お前たちを巻き込むことになるからな。だから、余計な気は回さなくていいと、言ったんだ。それを…。」
「それなら、衛士さんに保護してもらったらどうかしら?」
と、それまで黙っていた翡蓮が口を開いた。相変わらずにこにこ笑っている。
「悪い人たちから守ってもらうのなら、それが一番いいと思うのよ?」
「それは駄目だ!」
「どうして?」
間髪を入れず否定したきーさんに、桃香は首をかしげた。
「どうしても何も…………要するにあれだ、学校も裏で奴らと繋がっているらしいんでな。だから……。」
「そんな! ここはお国が直接運営する歴とした学び舎ですのよ!
それが裏で悪人と通じているなどとは、言いがかりもおよしなさいませ!」
「信じる信じないは、お前らの勝手だ。」
きーさんは相変わらず胸を張っている。
 「……わかりました、貴方を信じましょう。」
「伯明様!」
驚いて英台は伯明を見やった。伯明はきーさんの真正面にいるのだが、いつもと変わらぬ穏やかな彼の面には、真摯なまなざしがあった。
「…信じて、くれるのか…?」
「はい。」
一片の躊躇も無く返され、逆にきーさんのほうが面食らったほどだ。どうやら彼のほうも、この突拍子も無い話をすんなり信じてもらえるとは思っていなかったらしい。
「俺が嘘を言っているとは、思わないのか?」
「? 嘘なんですか?」
「いや…それは………。」
「あたしも信じるわ!」
と、横合いから首を突っ込んできたのは、桃香。
「だってきーさん、悪い人には見えないし。
それにもし嘘だったとしても、あたしだったらもう少しまともなのを考えるわ。」
「伯明さんの言うことは、大姉には絶対だものなぁ。」
ぎろり、と大姉に睨まれて、大翼は口をつぐんだ。こうなったらもう何があっても彼女を説得することは不可能。弟妹たちは昔からそれをいやというほど思い知らされてきた。
「それに。これだけ関わっちゃったんだもの。面倒なことになりそうだから放り出すなんて、薄情なことはできないわ。そうよね、大翼?」
「……御随意に。」
やれやれ、といった表情で大翼は嘆息した。人間諦めが肝心…と背中が言っている。よほど苦労してきたのだろうか。
「ありがとうございます、桃香さん、大翼さん。」
「もっ、勿論私も信じますわ。ええ、信じますとも!」
しっかと手を握り合った桃香と伯明との間に、急ぎ割り込む英台。
こちらもどうやら一波乱ありそうだなという予感を抱いて大翼と翠蘭はまたこっそりと嘆息し、そしてやっぱり翡蓮はにこにこ笑っていたのだった。

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