青嵐雲遊顛末記1「桃花過日 清泉約契。」
巍国万世拾遺譚 目次へ

 ……そのときのことは、今でもはっきりと覚えている。
 その日。あたしは母様に言われて、書庫まで伯明君を呼びに行った。
 伯明君はお隣の家の子なんだけど、小さな頃から本を読むのが好きで、よくあたしの父様の書庫に来ていた。
父様も伯明君のことを邪険にするようなことはなくて、まるで自分の子供みたいに接していたし、あたしにとってもそれが当たり前だった。
 伯明君は父様から直々に「いつでも好きなだけ読んでいっていいよ」と書庫の鍵を渡されていたから、その日もやっぱりいつもと同じように書庫の前にある藤棚の下で、一生懸命本を読んでいた。
伯明君は去年成人式をやって、結った髪を布にくるむという大人の髪型に変えた。
藤の花はまだつぼみのままで咲くまでにはまだ間があったけど、陽だまりの下で静かに本を読んでいるそんな伯明君の姿はなんだかちょっと絵になっていて、あたしはしばらく声をかけるのも忘れて、ぼんやりと彼を見ていた。
 「こんにちは、桃香さん。」
間の抜けた顔でもしていたのか、先に声をかけてくれたのは伯明君のほうだった。読みかけの本をぱたんと閉じて、あたしのほうを見てにっこり笑った。
「お言葉に甘えて、また来てしまいました。」
「こんにちは、伯明君。父様がいいって言ってるんだから、遠慮しなくてもいいのよ。」
実際、あたしにとって伯明君は幼なじみでもありお兄さんみたいなものでもあったから、成人式をやってから急にそんなことを言うようになった伯明君が不思議だったけれど。
でもそれ以外は全然変わらなかったから、それが「大人としての礼節」なんだ、と思っていた。
「本当に、ここの蔵書はすごいですね。私の父上にちらとその話をしたら、目を丸くしていましたから。」
「そうなの? あたし、他所の書庫に行ったことないから、よくわかんない。」
「少なくとも、数は自慢してもいいみたいです。あなたのお父上は本当に本がお好きなんですね。」
そして、伯明君はまた笑った。伯明君はおとなしい子だったけど――下手するとあたしのほうが腕白だったかも…――笑顔がとっても素敵で。
あたしの父様もよく笑う人だったから、そんな父様と同じ笑顔をする伯明君が、あたしは大好きだった。
 「…ところで。」
ふと、伯明君の笑顔が消えた。空を流れる雲が日の光をさえぎったのか、陽だまりがほんの少し薄くなった。
「お父上の具合は、いかがですか?」
あたしの心も、少し曇った。
「……一緒よ。昨日も、今日も、ずっと寝所。」
「そうですか…。」
 ここ最近――といってももう二回も朔(新月)の日があったけど――父様は体の調子を崩していた。
春節の頃にお仕事を辞めてからは寝所に居ることがほとんどだ。
この書庫にだって、以前はお休みの度に足を運んでいたのに、最近はそれもない。時々母様や伯明君が呼ばれて、言われた本を取りに行くくらい。
その用事もここ数日はなかったみたいなので、伯明君は心配していたんだろう。
 「あ、そうだ。伯明君。」
「はい、なんでしょう?」
「母様がね。伯明君と一緒に父様の寝所に来るように、って。」
「桃香さんと一緒に、ですか?」
伯明君は首をかしげた。
母様はあんまり書庫のことは詳しくないから、伯明君が来ているときは本を取ってくるのはいつのまにか彼の仕事みたいになっていた。
でも、それならあたしも一緒に行く必要なんか無いし。
「あたしもよくわかんないんだけど。」
「…とにかく、行ってみましょうか。本を戻してきますから、少し待っていてくださいね。」


 二人で父様の部屋に行くと、父様は寝台から半分身を起こして待っていた。
父様はまだ四十前なんだけど、黒い髪のあちこちに白いものが目立つようになっていた。
そのすぐ隣、枕元に母様が、やっぱり椅子に腰掛けてこちらを見ていた。
部屋の中には、いつもはない椅子が二脚持ち込まれていて、母様はあたしたちに、そこに腰掛けるように言った。
 「…勉強のほうは、進んでいるかい?」
席に着くと、父様は穏やかに伯明君に尋ねた。ずっと病で臥せっていたからか以前みたいな力強さは無くなっていたけれど、それでもよく通るしっかりした声は顕在だった。
「はい。戒鱗さんや汪佩さんが時々みてくださいます。
それに、こちらの書庫に納められている本を拝見するだけでも新しい知識がどんどん入ってきて、それがとても楽しいです。」
「そう。」
父様は目を細めた。父様は伯明君と話をするとき、いつもこんな顔をする。
彼がいろんなことを学んでいくのを父様もまた喜んでいるのだということは、あたしにもよくわかった。
そこにまた別の意味があるのだということは、さすがにそのときはまだ気づかなかったんだけど…。
「将来は、連環太夫様のように立派な官吏になりたいと思っています。」
連環太夫というのは、父様のあだ名みたいなもの。あたしが生まれるずっと前に携わったお仕事から付いたものらしいんだけど、そのあたりのことはよく知らない。
「連環太夫」と言われて、父様と母様は顔を見合わせた。
父様の顔にはちょっと困ったような苦笑が浮かんでいた。というのも父様は「大げさすぎる」と言ってこのあだ名をあんまり好きではなかったからみたい。
でも、伯明君はこのあだ名の由来を知っているらしくて、尊敬の意味を込めて父様のことをそう呼んでいた。あたしも父様のことを褒められるのは嬉しかったし。
「目標を持つのはいいことだよ。でも…それなら君に書庫の鍵を渡したのは、失敗だったかな…?」
「え?」
この言葉に、伯明君はちょっとばかり衝撃を受けたみたいだった。彼があの鍵をとても大切にしていることはあたしも知っていた。
けれど父様はそんな伯明君の反応を見越していたみたいに、笑いながら静かに首を振った。
「いやいや、そういう意味ではなくて。…書物や学問の外にも、世界は広がっている。いやむしろ、そちらの世界のほうがはるかに広い。」
「巍が広大な領土を所有しているということは、私も知っています。」
それでもやっぱり伯明君は父様の言うことを理解できていないみたいだった。
それよりも、書庫の鍵を返せと言われるかもしれないと心配になっているのが、隣に座っていたあたしにはよく判った。
「そのうち解るときが来るよ。でも、解る解らないは別にして、覚えておいてくれたら嬉しいな。」
「はい。」
鍵を取り上げられるわけではないと判り、伯明君はほっとした表情でうなずいた。あたしも嬉しかった。
書庫の鍵がなくなってしまったら、伯明君がうちに来る回数はきっともって減ってしまっていただろうから。
 「…どうだろうね?」
そこで父様は、すぐ隣に腰掛けていた――何故かそれまで黙っていた――母様に声をかけた。なにやら目配せで話し合っているのがあたしの目にも判った。
「桃香の父親は貴方だよ。」
「それはそうだけど。でも一族の頭領は君じゃないか。」
「跡取りなら鴻がいる。…貴方がどうしたいか、だ。私の意見はそれから。」
ふむ、と呟いて父様は少し考え込んだ。と思ったらあたしたちのほうを見た。
「伯明君。」
「はい、なんでしょう?」
伯明君の背筋がぴんと伸びた。
父様たちが何の話をしているかさっぱり見当がつかないから、胸がどきどきしているのはあたしも同じ。
そんな様子を見て、父様は彼の緊張をほぐすかのように柔らかく笑った。
「…君は、桃香のことをどう思っているのかな?」
…正直言って。どうしてここにあたしの名が出てくるのか、判らなかった。
伯明君は小さく「えっ」と呟いたけれど、父様の言うことに察しがついたみたいだった。
「……かわいいと、思います。元気ですし、明るいし。桃香さんとお話ししていると、私も楽しい気分になります。」
「だそうだよ。」
そう言って父様はまた母様のほうを見て、笑った。今度は母様があたしのほうを見た。
「桃香は?」
「あたし? あたしは伯明君のこと、大好きよ。」
お世辞でもなんでもなく。あたしは本当に伯明君のことが大好きだったから、正直にそう答えた。
「…どうやら、心配するまでも無かったようだな。」
「なぁに?」
それでもやっぱりあたしは父様の言っている意味が解らなかった。
解らなかったのはあたしだけだったみたいで、父様は相変わらず穏やかな微笑を浮かべていた。
「実は、禄千殿…伯明君のお父上から、桃香をぜひ伯明君の伴侶にというお話を頂いていてね。」
「…はん…りょ…?」
「伯明の、お嫁さんにならないか、と。」
静かに補足した母様の顔もまた、そのときは父様と同じ柔らかさをたたえていた。
「お嫁さん? あたしが??」
「嫌か?」
「ううん、とっても素敵!」
 あたしはそのとき、自分の一生を決めることを口にしたのだとは露とも思っていなかった。
どちらかというと伯明君と婚約することよりも、お嫁さんという言葉のほうにどきどきを覚えた。
でも…事の重大さを理解していないあたしの代わりに、両親は随分長い間このことについて考えていたらしい。
というのも、伯明君のお父さんである盧禄千さんがこの縁談を持ち込んできたのは、その一年も前のことだったそうだ。
その話をあたしが知ったのは、何年も後のことだった。
 「それを聞いて安心した。俺としては…できる限りお前たち自身の意見を尊重したかったからね。」
満足そうに父様は笑った。けど、その笑顔が何だか優しすぎて。あたしは嬉しいながらもそれとは別に、違和感のようなものを覚えた。
「伯明君。」
「はい。」
「…娘を、桃香を頼んだよ。」
「…はい。」
短いけれど、でもはっきりと、伯明君は応えた。
 それで、あたしたちは放免となった。二人して父様の寝所を辞して、廊下に出る。
伯明君と並んで歩きだした後方で、少しだけ開いた扉の隙間から母様の心配げな声がかすかに聞こえた。
「……だから横になったままでいいと言ったのに。無理して起きるから疲れるんだ……。」


 その十一日後。
 書庫の横にある若い藤棚が初めての花を咲かせる、その前日に。
 父様は息を引き取った。
 伯明君が十一歳、あたしが八歳のときのことだった――。


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