北騎迅雷(中編)
巍国万世拾遺譚 目次へ

 狛族や馬術の名手ともなると、鞍を着けない、いわゆる裸馬にまたがるのは造作も無いことだ。
中には、人を乗せることは知っていても、鞍を着けることを知らないまま一生を終える馬もいるくらいだ。
 しかし、軍馬や荷役用の馬となるとそういうわけにもいかない。特に華央に「売り込む」ためには、大抵の馬具に対して慣れさせておく必要があった。
巍国内に住む瀏族にとって馬は、大切な家族であり財産であり…そして「商品」でもあったのだ。
 普通の馬ならば、轡(くつわ)に慣れた頃に長手綱にしてまず静止と発進の合図を覚えさせ、それから初めて人を乗せることを覚えさせる。
馬場などは特に設けない。そんなものを用意しなくても逃がさない自信が瀏族たちにはあったし、何より平原地域では馬場を囲う柵を作る為の木材が非常に入手し難い。
ましてや相手があの“ぎざ耳”となっては、放した途端に柵を飛び越えて逃亡される危険が大いにあった。いや、間違いなくやってのけるはずである。
 そんなわけで。「結わい綱」を噛み千切られる覚悟を十二分に承知した上で、鴻は“ぎざ耳”と文字通り「一対一」の勝負をするしかなかった。
一応周囲には環坐や嶺斑も待機していてくれるが、勿論彼らにだって仕事はあるし、巻き込まれる危険があるので、基本的に“ぎざ耳”の射程圏内には踏み込まないことになっている。
 (痛いのは嫌いなんだけどなぁ…。)
綱が長くなりある程度の自由が回復した途端、大きく後脚立って早速環坐に一撃見舞おうとした“ぎざ耳”に、鴻は小さく嘆息した。
 寒地に住んでいるからというのもあるのだろうが、瀏族の伝統衣装は生地が厚く、皮膚が露出する部分も少ない。
華央・卵ーの一般的服装とは違い、下衣が袴(こ/ズボン)になっているために動き易く、馬に乗ることを前提としたつくりであることがよくわかる。
これならたとえ落馬しても、よほどこっぴどい落ち方でもしない限り――そして“ぎざ耳”が故意に踏み潰そうとでもしない限り――そう大きな怪我はしなくて済みそうだ。
 まずは“ぎざ耳”を捕まえなくては。轡を取らない限り、鴻は“ぎざ耳”を操縦することはできない。
“ぎざ耳”は、新しく打ち込まれた一本の杭に二十尺(約六メートル)の革製の綱一本でつながれていて、杭の周囲をぐるぐる回っているだけに過ぎないから、杭から綱を手繰り寄せていけば轡にたどり着く道理である。
しかし“ぎざ耳”がそんなことを簡単に許してくれるだろうとはこの場にいる誰もが思っていなかったし、何より“ぎざ耳”当馬にその気が全く無い。
 案の定。
「あっ!」
璃珠の悲鳴が小さく響いた。
 間一髪逃れたものの、“ぎざ耳”の蹄(ひづめ)は確かに鴻の上着の裾に触れていた。
そのまま全体重をかけて、悍馬(かんば)の体が少年に襲い掛かる!
だがこちらも「防御だけは一人前」との折り紙がついた少年である。
ひらりひらりと蹄と歯をかわしていく様は、武術の心得の無い者には舞いを舞っているようにも見えたのではなかろうか。
 だが当の鴻自身には勿論そんな余裕などあるわけもなく。
(ちぇっ、やっぱり人間相手にするのとはわけが違うや…。)
足の運び方、身のよじり方一つ間違えば、本当に命を落しかねない。これは人間相手に道場で行う稽古ではないのだ。
間違いなく“ぎざ耳”は、鴻を…下手すれば再起不能にする気なのである。当然鴻のほうには“ぎざ耳”を傷つける気など、これっぽっちも無いわけで。
(それでもって、こっちは素手だもんなぁ。不公平にもほどがあるよ…。)
 どちらにしても、このままでは埒が明かない。
 相手に攻撃をやめさせ無傷で捕らえるのには、幾つか方法がある。
一つ。四肢の自由を奪う、もしくは得物を取り上げ、攻撃の手段を失くしてしまう事。
一つ。体力の消耗を待ち、動きが緩慢になったところを取り押さえる事。
一つ。攻撃する意欲そのものを削いでしまう事。
 大抵はそれらを組み合わせて用いるものだが。何しろ相手は馬である。対人間用に練られた兵法などどこまで通用するのか、さっぱり見当もつかない。
 一方、“ぎざ耳”のほうはかなり機嫌が悪かった。
 今までは、ちょっと脅かしてやれば人間は素早く離れていって、しばらくは近寄るのを諦めた。こちらから突進していって、大慌てで逃げていく人間の後姿を楽しんだこともあった。
 ところが。今目の前にいるこの「へにょっ」としたのは、どうだ。
 確かに、脅してやれば身をかわしたり後ずさったりする。しかしだからといって逃げるわけでもない。いつまでもいつまでも、しつこく自分の目の前に居続ける。
 それが面白くない。大変面白くない。何がなんでも一撃お見舞いして、二度と自分にちょっかい出せないように叩きのめしてやらねばならない。
なのに何故、ちっとも蹄が当たらないのだ? 歯が届かないのだ? 「こいつ」は、おれ様の射程圏内から出ていないというのに!!
 ……そんな、“ぎざ耳”の心理が、何故か鴻には手に取るように解った。
…これだけ感情をむき出しにしてくる馬も珍しいから、解り易かったというのもあるのだろうが。
(頭は良いけど、気は短そうだな。もっとも、怒っていてくれたほうが動きを読みやすいんだけど。)
疲れて足を止め、冷静さを取り戻されたら、鴻には本当に打つ手が無くなる。
今日一日で決着させる気は無く、むしろ何日もかけてじわじわと慣らしていくつもりだったのだが。
「そいつぁ駄目です。」
朝食後、環坐にそのことを話したらあっさり否定されてしまった。
「“ぎざ耳”は気位が高い。だから先に折れてしまったら最後、あいつは永久に小雛様を見下し、絶対に服従などしないでしょう。…それで失敗したんですから、わしらは。」
自分たちが二人の勝負に手を出さない(出せない)のも、それが理由なのだ、と環坐は付け加えた。
調教などこれからいくらでもつけられる、だが主従関係だけは今日中に明確にしておかなければならない、やり直しはきかないのだ、とも。
(言うのは簡単だけどさぁ…。)
いい加減、鴻も息が上がってきた。
そもそも馬の成獣と、人間の子供とでは、最初から基礎体力そのものに大きな開きがある。
「流れ」を変える何かを模索しながらも、それが一体何なのか見出せずにいた鴻だが。
 状況が変わったのは、その一瞬後だった。
「!」
先に疲れたのは“ぎざ耳”ではなく鴻のほうだったか。蹄をかわした姿勢のまま、ずるり、と小石に足を取られたのだ。
ぐらりと大きく傾いた視界とともに、遠く璃珠の悲鳴が耳に届いた。
(あっ…。)
と思う間も無く。強い衝撃が右の腕に走った。
 「小雛様っ!」
上ずった声と共に環坐が腰を上げる。地に倒れた鴻の右袖には、蹄の跡がくっきりと付いていた。
 正直言って。一瞬何が起こったのか、鴻にはわからなかった。
が、やがて遅れて襲ってきた痛みに、ぼんやりと悟る。ああ、“ぎざ耳”の一撃をくらってしまったんだな、と。
「…大丈夫!」
くぐもってはいたが、しかしきっぱりと鴻は叫んでいた。ずきんずきんと激しい痛みが、間断無く脳へ警鐘を鳴らしにくる。
だがそれでも、鴻はゆっくりとではあるが身を起こした。
「大丈夫…って…。言ったでしょう、間違いなく怪我をすることになるからおやめなさいと。」
「この程度で諦めたって知れたら…何言われるかわかりませんから。」
誰に、とは言わなかったが。…さて、誰を意識しての台詞だったのか。
 確かに蹴飛ばしたはずなのに、それでも起き上がって逆上することなく静かに向き合った少年に、“ぎざ耳”は少なからず衝撃を受けた。
…こんなやつは初めてだ! 五年間無敵を誇ったこのおれ様に、屈しない奴がいる!
その事実に、“ぎざ耳”は初めて動揺を覚えた。鴻を初めて、得体が知れない不気味なやつ、と認識した。
こいつは一体…何なんだ!? 耳が後ろに寝る。無意識に半歩後ずさった。
 ずいっ、と鴻が一歩前に出ると、さらに一歩下がる。
(…小雛様……。)
はらはらしながら、それでも目をそらすことができずにいる璃珠の掌(てのひら)は、いつの間にかじっとりと湿っていた。
 それは、突然のことだった。
 鴻が吼えた。文字通り、吼えた。腹の底から、口をいっぱいに開けて、言葉にならない――だが明確な意思のある――叫びを、あげた。
 最初嶺斑は、痛みと、蹴られたことによる衝撃(なんだかんだ言っても、鴻は都会育ちの「お坊ちゃま」には違いない)のあまり、鴻の気がふれたのだと思った。
思わず半歩踏み出しかけ、しかしすぐさま思いとどまる。何故なら…。
 鴻の顔つきは確かに変わっていた。正面からまっすぐに“ぎざ耳”を見つめるのは変わらない。
しかしその眼差しが今までとは違う。
今までとは比較にならない強い意思の光がその瞳に宿っているのが、嶺斑の目にもはっきりと判った。
 轟く咆哮に、さすがの“ぎざ耳”が気圧される。
何なんだこいつは。気味が悪い! 初めて、怯えの色が“ぎざ耳”の目に浮かんだ。
一体何がどうなったのかはわからないが、少年の中で「何か」が切り替わったのは確かのようだ。
この咆哮は…間違いなく、鴻から“ぎざ耳”に向けられた『挑戦状』であったのだ。純粋な意志と意思との勝負の前には、種族の違いも言葉も関係無いのだ。
 次の瞬間。鴻は一気に“ぎざ耳”との距離を詰めた。負傷したのは腕であって、足はまだ満足に動く。
気圧されてしまっていた“ぎざ耳”はとっさに反応が遅れ、少年の接近をすんなり許してしまうこととなった。当然、嶺斑たちが止める間など無かった。
 気が付いたとき、鴻は“ぎざ耳”の太い首に組み付いていた。いや、抱きついているといったほうがいいかもしれない。両の腕を回して左側から、“ぎざ耳”の首を抱え込んだ。
 “ぎざ耳”はすっかり平常心を失っていた。
何から何まで、この人間には通じない!? しかも、よりにもよって体に触れられるなど!!
混乱が混乱を呼び、“ぎざ耳”は高くいななくと、大きく後脚立った。鴻の体が宙に浮く。
 「小雛様ああぁぁっっ!!」
璃珠の悲鳴が響く。
 なんとかして鴻を振りほどこうと、“ぎざ耳”はめちゃくちゃに暴れた。
二十尺の革紐で杭につながれているから逃走はかなわないが、逆に革紐のほうも“ぎざ耳”の動きに合わせて激しく暴れることになるので、環坐も嶺斑も、近寄りたくても近寄れない。
鴻が放り出されるか、“ぎざ耳”が疲れて暴れるのをやめるか、二つに一つしかない。
「嶺斑、弓だ! 弓を持ってこいっ!」
「駄目だ親父、そんなことをしたら小雛様に当たってしまう!!」
いくら騎射(きしゃ/馬上から弓を射ること)の得意な瀏族といえども、暴れ狂う馬だけならともかく、それにしがみついている人間をよけて命中させるなどという神技にも等しい芸当など、そうそうできようはずもない。
「畜生、どうすれば…!」
歯噛みする環坐。このまま手をこまねいて見ているしかないのか。
ああやはり、どんなに頼まれようとも“ぎざ耳”を譲るなどと承諾しなければよかった。
だが今さら後悔してみても、もはやどうにもならない。
 実際は短い間だったのだろうが、その場に居た者たちには揃って、恐ろしく長い時間が流れたような気がした。
 それまで激しく暴れていた“ぎざ耳”が、急におとなしくなったのだ。まるで…それまで泣きじゃくっていた子供が、突然すとんと眠ってしまうかのように。
「……?」
おとなしくなった“ぎざ耳”の首から、鴻の体がずるりと外れる。そのまま濡れ雑巾のように地に崩折れた。
“ぎざ耳”は、もう踏み潰そうとはしなかった。鼻を大きく広げ、しきりに乱れた呼吸を整えている。
 「小雛様!」
動かない鴻に、嶺斑の脳裏に嫌な考えが浮かぶ。近づこうとして“ぎざ耳”に睨まれたが、もはや構ってなどいられなかった。
刺激しないよう注意しながら鴻を回収すると、素早く“ぎざ耳”の射程圏から離脱した。
 こうして。鴻と“ぎざ耳”の対決は一応、終了したのである。

          ◆   ◆   ◆

 「お前は、自分が世界で一番強くて大きくて賢いと思っているのかもしれないけど。
でも、世の中にはもっともっと強くて大きくて賢い奴は大勢いる。
…俺と一緒に、世界を見に行かないか? 世界は広いぜ? …そう言ったんです。」
夕刻、意識を取り戻した鴻に何があったのかと尋ねたら、そんな返答が返ってきた。
嶺斑は…言葉が出てこなかった。感服したのではない、呆れたのだ。
 瀏族の者は、馬と共に暮らし馬に対して特別な感情を抱いているから、話しかけることは珍しくもない。むしろ日常的にやっていることだ。
だが鴻がやったことは単に話しかけたのではない、“ぎざ耳”を「説得」したのである。無論、嶺斑も馬は賢い動物だと心得ているが…。
(“ぎざ耳”は本当に、小雛様の言葉を理解して、それで暴れるのをやめたんだろうか?)
どうもそのあたり、よく解からない。というより信じろというほうが無理だろう。
現に“ぎざ耳”はあの後、やっぱり誰の接近も許さなかったのだから。全身から噴出した汗をぬぐってやろうにも、手を出せない。
結局、二十尺の革綱はそのままに、馬の行動範囲内に水桶を置いてくるのがせいぜいだった。
だから余計に、鴻の台詞と“ぎざ耳”が攻撃の手を突然やめてしまったことに対する因果関係を信じることができなかったのである。
まるで真昼に星を見たような、そんな気分だった。
 鴻の怪我は、思ったよりも軽度だった。回避に徹していたことも幸いしたのだろう、急所から外れていた。
それでもやはり“ぎざ耳”の力は侮れず、骨こそ折れてはいなかったものの、少年の右の腕は派手に腫れ上がっていた。
これでは当分日常生活に支障きたすことになるだろう。当然手綱を握るのも無理だ。
 「小雛様が怪我をなさったことは、“ぎざ耳”だって気づいているはずです。
あれの調教はきちんと怪我を治されてからのほうがよろしいでしょう。」
手当てが終わると、環坐は重々しくそう言った。
彼のことだ、当然次代の頭領が負傷したことを元寿たちにも知らせていることだろう。
ところが、二日経っても舞陽たちが駆けつけてくる気配は無かった。
どうしたのだろう、と璃珠たちは首を捻っているが、鴻は静かに苦笑しているだけだった。母がどういう人物なのか、実の息子である彼が最もよく解っている。
…尤も、こういうときくらい、普段は厳しい母親に甘えてみたいような気がちょっぴりしなかったわけでもないが。
十二歳という微妙な年頃の少年が、そんなこと口にできるわけ…ない。
 ともかくそんな具合で、少なくとも腫れが引くまでの数日間、鴻は非常に手持ち無沙汰な時間を過ごすことになってしまったのである。
 当然のことながら。環坐一家には彼ら自身の生活と仕事がある。
彼らは元寿の個人的な知り合いであって、白の領民ですらないのだ。いつまでも鴻一人に構っているわけにもいかない。
 瀏族の伝統的な天幕式住居の前で、鴻は一人ぼんやりと座っていた。
その彼の目の前――といっても半径分くらいの余裕があるのだが――には太くて頑丈な杭が地面に打ち据えられており、二十尺の革綱の先には、伸び放題でくしゃくしゃになったたてがみをした悍馬が一頭、こちらもぽつんと佇んでいた。
(あれ…?)
“ぎざ耳”はこちらを向いていなかった。
散々暴れまわったのだろう、まんべんなく草に覆われているはずの平原地域なのに、“ぎざ耳”が自由に動き回れる範囲の地面だけは緑ではなく地面がむき出しになっていた。
革綱にも、いくつも噛み跡がついている。
鴻がじっと動かないので存在に気づいていないのかもしれないが、尾をこちらに向けたまま、じっと彼方を見つめている。その視線の先を鴻は追ってみた。
 “ぎざ耳”の視線の先にあったもの。それは……自由民環坐が所有する馬群であった。
三百頭の馬たちが草を食み、挨拶を交わし、仔馬同士ふざけあっている。
その周囲には嶺斑と彼の叔父がいて、群れから離れる馬がいないかどうか、時々見回りにやってくる。
環坐は羊の群れのほうを見に行っており近くには居ないが、それでも何かあればすぐに馬を飛ばして戻ってこられる距離に居ることは確かだった。
 そんな「日常」の中に、“ぎざ耳”はいたのだ。つい先日――鴻が訪ねてくるまでは。
今“ぎざ耳”は、群れの中にはいない。目と鼻の距離ではあるが、それでもつながれてしまっては、戻りたくても戻れない。
無論、そのための「あがき」が革綱につけられた無数の歯形なのだろうが。
けれど、群れに帰る為に“ぎざ耳”がそんな努力をしているというのに。
 馬群のほうはというと、特に“ぎざ耳”の不在を意識している感は無かった。
いや、普段の彼らを鴻が知らないだけで、本当は何らかの違いがあるのかもしれないが。
それでも群れの中でかなりの高位にいたはずの“ぎざ耳”に対して、何らかの未練を示してもよさそうなものである。
少なくとも鴻の知っている馬という生き物は、そんな薄情な動物ではなかった。
 不意に、“ぎざ耳”が鳴いた。…それは、人間に対してあれほどの憎悪をむき出しにしていた暴れ馬が発したものとは到底思えないほど弱々しく、哀しげなものだった。
 その鳴き声に対し、馬たちのほうにも反応があった。
ざっと鴻の目に映っただけでも十頭前後が、草を食んでいた首を上げ、“ぎざ耳”の方に注意を向けた。うち一頭の仔馬が、ふらふらと近寄ってこようとした、そのとき。
 突然、群れの中から飛び出してきた黒い影があった。“ぎざ耳”に負けないくらい大きくてたくましい牡馬である。
黒馬は鳴き声に反応した仲間たちを追い払うと、最後に“ぎざ耳”のほうを一瞥して、群れの中へと戻っていった。
(…………。)
 “ぎざ耳”はもう鳴かなかった。しかし、いつまでもいつまでも、仲間たちのほうを見つめていた。
その後姿になんだか言いようのない寂しさを覚え。鴻は静かに左の拳を握り締めたのであった。
 ……考えてみれば。
 自由民ではあるが、環坐もやはり巍の民である。必要が生じたり乞われたりすれば家畜を売りに出すこともある。
現に鴻自身も環坐の元へ「馬を買いに」来たのだし、はとこのg玉も環坐の元で育った馬を所有しているという。
 だから馬たちにしてみれば、時折仲間の誰かが人間に捕まり調教をつけられ、いつの間にかいなくなる…というのは、さして珍しいことではないのかもしれない。
増してや“ぎざ耳”は、群れの中でも高位の雄だった。高位の雄が群れから抜ければ、どうなるか。
他の雄からしてみれば、競争相手が一頭減ることにより、それだけ多くの雌を獲得することができる、というわけだ。
 (…俺が、“ぎざ耳”の帰る場所を無くしちゃったのか…。)
嶺斑や璃珠や、それから母の舞陽あたりがその台詞を聞いたなら「そんなことは無い」とあっさり否定したかもしれないが。
少なくとも鴻は今更ながらに、自分の中途半端な決断が他者に想定外の影響を与えることがあるのだ、と自覚したのだった。
そして…これから先白家の家督を継いだなら、そういう場面にもっともっと直面することになるであろう、とも。
 「“ぎざ耳”。」
ぴくり、と悍馬の耳が動いた。素早く向き直ったその目にはもう、昨日と同じ敵意に満ち満ちた光が強く灯っている。
「こうなったのも全てお前のせいだ」と言われているような気がするのは…やっぱり気のせいなのだろうか?
「俺は、お前が欲しい。お前を恒陽に連れて行きたい。」
恒陽で留守番をしている大姉桃香や二姉翡蓮あたりが聞いたら、「まるで女の子を口説いているみたいね」などとからかいそうな台詞である。
しかし鴻は大真面目だった。
「…でも、無理やり連れて行く気は、無い。お前がお前の意思で俺についてきてくれないと、意味なんか無いと思うから。第一…。」
そこで鴻は一度言葉を切った。
「無理やり連れて行ったところで、お前のことだ、さっさと逃げ出して一人で馮州に帰ってきそうだしな。」
土塊が飛んできたが、鴻の足下にまでは届かなかった。
 “ぎざ耳”の向こうでは馬群が移動を始めている。今日の放牧地へと移動するのだ。
何しろ数が多いから、いつまでも一つ所に留まっていては、群れ全体で根こそぎ草を食べてしまうことになる。
食べ尽くしてしまったら、そこからはもう来年の草は生えてこない。大地は死んでしまう。
野生の群れなら代々の長がその知恵を受け継ぎ群れを誘導していくのだろうが。
残念ながら家畜にはその知恵を継承していくだけの結束は無い。目の前に食べ物があったら、食べる。それだけだ。
だからそうさせないために、人間が誘導して毎日少しずつ家畜たちの居場所を変えてやらなければならない。
そして、放牧地がある程度離れたら、天幕を解体して人間のほうが家畜たちについていくのだ。それが瀏の遊牧民の暮らしだった。
だが…勿論つながれている“ぎざ耳”は仲間についていくことはできない。『置いていかれる』。“ぎざ耳”のいらつきが、鴻には手に取るように解った。
 「璃珠じゃないけど。俺、お前のこと嫌いじゃないよ。」
聞いていないんだろうな、と思いつつも。鴻は静かに言葉をつないでいた。
どちらかというと聞かせるのではなく、自分の気持ちを整理する為に「語りかける」という方法を取っていただけなのかもしれない。
「そりゃ…最初はお前みたいな気の強い奴よりは、もっとおとなしくて素直な奴がいいなぁと思っていたけれど。…でもさ。」
“ぎざ耳”の左の耳だけが、こちらを向いた。尻尾は相変わらずいらいらと激しく振られているが。
「この前言ったのは、本気だよ。
俺もこうやって馮州に来るまでは、瑞府(ずいふ)の外のことなんて何も知らなかった。
瀏がどういう民族なのか、頭では解っていたつもりだったけど、でも見ると聞くとじゃ全然違っていた。もっともっと奥が深かった。
いやそれだけじゃない、こうやって旅してきて実際に見て体験してみて、そして初めて解かったことだって、たくさんたくさんあった…。
俺だってそうだもの…。だから俺はお前に、馮州の外の世界を、見せてやりたいんだ…。」
 不意に名を呼ばれた気がして、鴻は言葉を止めた。“ぎざ耳”の耳がまた明後日を向く。ぱっと地を蹴ると、そのまま革綱が許す限り鴻から離れた。
「璃珠?」
「こちらにいらしたんですか。」
やってきた璃珠は馬上の人だった。確か、羊と山羊の群れの見回りに行っていたはずである。
「仕事はどうしたの?」
「父様が見てくれています。うちは羊も山羊も、少ないから…。」
大丈夫だ、と言いたいらしい。しかし鴻が覚えているかぎり、羊も山羊もかなりの数がいたはずだ。特に羊は食卓に上る頻度も高い。
改めて鴻は、遊牧民の規模の大きさに感嘆したのだった。
「それより、小雛様。お客様ですよ。」
「お客? 俺に??」
問われて璃珠はこくんとうなずいた。誰だろう、と首を捻る鴻。
馮州に個人的知り合いなどいないし、訪ねてくる心当たりなど白の親戚たちくらいしか思い当たらない。
とはいえ、郊外の遊牧民に居候中の少年をわざわざ訪ねてきてくれるほどにはまだ親しくなっていないし、唯一の心当たりである元寿と舞陽にいたっては……かなり望み薄である。
となると、一体誰なのだろう?
鞍から降りた璃珠の表情が心なしか強張っているのに気づき、鴻はなんだかいやな予感を覚えた。
「…誰?」
答えた璃珠の口から出てきたのは、鴻にとって意外すぎる名だった。


 遊牧生活をしている一家の元に来客があるというのは珍しいことだ。 彼らは常に移動しているから、彼らの移動経路を知っている者でなければ、なかなか意図的に訪ねるのは難しいからである。
「真夏に雪が降りそうだ。」
目の前に現れた十数騎の騎馬群に、嶺斑は苦虫を噛み潰したような表情で、そうひとりごちた。
元寿が連れてきた鴻はともかく、こんな短期間にこれだけの数の客人など、天変地異の前触れとも思える。…いや、むしろ天変地異のほうがまだましかもしれない。
 嶺斑たちの前に現れた騎馬軍は、いずれも武装していた。
金属ではなく軽くて丈夫ななめし革を用いた鎧を着用し、いずれも剣や矛などといった得物を携え、全ての鞍には短弓がくくりつけられている。
…絵に書いたような「瀏族の騎兵隊」の装備であった。うち三騎が真っ青に染め抜かれた旗を、それぞれ掲げている。
 武装した騎馬群が、民間人を取り囲んでいる。これで心和む会話が成立するとは、到底思えない。
 そして、嶺斑の感想はほぼ的中していた。
「久し振りだな、嶺斑。」
ずいと一歩進み出て、馬上から横柄に声をかけたのは、歳の頃二十前後の若者だった。
顔つきも体格も、美丈夫という呼称がとてもしっくりくる容姿をしている。彼がこの騎馬群の頭目であることは明らかだった。
「…青幡党のお頭様が、手下を大勢連れてわざわざこんな僻地にまでご来駕なさるとは。一体どういう風の吹き回しだ?」
「嶺斑! 口の利き方に気をつけろ! 呵眼(かがん)様とお呼びしろ!」
横合いから唾を飛ばしながら叫んだ者がいたが、頭目の人睨みで口をつぐんだ。
「…青幡党は瀏族のために戦う軍団なんだろう?
瀏の家を訪ねるのにも、頭数そろえて、それもわざわざ武装してくるとは、知らなかったな。」
「勿論、俺たちは瀏の為に戦う軍団だ。瀏に向ける刃は持っていない。それは天地に誓ってもいい。」
「なら、さっさと手下どもを引き上げさせてくれ。馬たちが怯える。」
「嶺斑。」
まだら馬の馬首を返そうとした若者を、しかし頭目呵眼は呼び止めた。顔だけ向けた嶺斑の目は、冷ややかだった。
「…お前のところに客が来ているそうだな。子供だと聞いているが。」
「…うちの親父は社交的なんでね、あちこちに顔が利くのさ。俺の知らない知り合いもたくさんいるらしい。」
「しらばくれても無駄だ。さっきお前の妹が大急ぎで天幕に向かったのを、俺が知らないとでも思っているのか?
…時間稼ぎをしている間に混血を逃がそうっていう腹は、見え見えなんだよ。」
そう言って、呵眼はにやりと笑ってみせた。そして、後ろに向かって声をかける。
呼ばれて前に出てきた小柄な手下がまたがる馬を見て、嶺斑は口の中であっ、と呟いた。
「お祖父様の知り合いだと思って下手に出ていれば、付け上がって。
翌フ血を引く奴に白の家督なんか継がせてたまるか!
本家の血を汚した罪は、あがなわせなければならない。………どんな手段を使ってでも!」


 「小雛様、この子に乗ってください!」
立ち上がった鴻の無事なほうの腕を、璃珠は引いた。 瀏族は、それも遊牧民ともなれば、自分の馬に他人がまたがることを、例えそれが家族であったとしても決して許さないという。
しかし璃珠は愛馬の手綱を鴻に握らせようとする。おとなしい彼女にしてはかなり強引な振る舞いだ。
そこになんだか言い知れぬ不安を覚えて、かえって鴻は抵抗した。
「どこへ行けって?」
「わかりません! でも、青幡党の人たちはきっとすぐにやってきます。ここに居たら…!」
「待ってってば。だから、どうして俺が逃げなくちゃならないんだよ…。何も悪いことなんかしていないのに。」
璃珠のいいたいことも解る。けれど。
「でも! あの人たちが訪ねてきたのは、小雛様をどうにかするためなんですよ! 人殺しだって平気でする人たちだもの!! だからお願い…!」
半泣きになって叫ぶ璃珠の肩を、鴻は無事なほうの手で掴んだ。
「だから、落ち着いて! 気持ちは嬉しいけど、今の俺には満足に馬を操ることは、できないんだよ…?」
歩いたり走ったりするとき、馬の体は上下に大きく揺れる。
鐙(あぶみ)に足を掛け膝でその上下動を吸収することによって初めて人は快適に騎乗することができるのであるが、それにだって限度というものがある。
今の鴻にとってはその衝撃すら、ずきんずきんと腕に響くのだ。まともに走らせることすらできないのに、そんな状態で追っ手がかかったりしたら…。
「それに。今ここで逃げたとしても、身を隠す場所の無い平原を単騎で駆けていく者がいたら、それこそ俺ですって言っているようなものじゃないか。」
そんなことをすれば、鴻を「かくまった」環坐一家がどんな目に遭うかわからない。むしろそちらのほうが怖かった。
「じゃあ、どうすれば!?」
その問いに、鴻は答えられなかった。逃げられないのであれば、隠れるしかない。
しかし、このだだっ広い平原の真ん中で隠れられる場所など…。
「とにかく、今兄様が青幡党の人たちと話をしています。その間に小雛様を逃がせって。」
「ふぅん、やっぱりそうだったんだ。」
不意に別の声がして、二人は同時に振り返った。いつの間に来たのか、一騎の騎馬がすぐそこまで迫っていた。
「やっぱり環坐も嶺斑も、私たちを裏切るつもりだったんだ…!」
天幕まで速度を緩めることなく突進してきた騎馬を、鴻と璃珠は慌ててよけた。
天幕にぶつかる寸前、巧みな手綱さばきで方向を変え、相手は再び向かってくる。
左手に手綱を握り、右手には…細身の槍が握られていた。陽光を映して刃がきらめく。
「裏切り者には死あるのみ!」
悲鳴を上げて硬直してしまった璃珠の腕を引き、鴻は騎馬との間に立ちふさがった。
相手は左上腕に青く染めた布を巻いていた。言動といい、青幡党の一人に違いない。
「用があるのは俺だろう!? この子は関係ない!」
「だから手を出すなって? 卵ーらしい偽善だな。」
「…なんだよ、二言目には瀏族だの卵ーだのって。」
…こういうのを「売り言葉に買い言葉」というのだろうか。それと意識する前に、鴻は思わずそう叫んでいた。
言ってしまってから、己が吐いた台詞の意味を反芻してぎょっとなる。案の定、火に油を注いでしまったらしい。激昂するのが気配で判った。
「俺だってなぁ! 好きでこんな家庭に生まれてきたんじゃ…!!」
言ってしまってから。ずきんと胸がうずいた。言ってはいけないことを口にしてしまったような気がするが、一度口から飛び出した言葉を取り消すことは、できない。
ぎりり、と相手が歯軋りする音が、鴻の耳にも届いた。
「生まれながらの頭領がそんなことを言うかあぁっ!
ああそうだ、貴様には白の家督を継ぐ資格など無い!! 瀏の血を汚した、貴様の母親共々ねっ!」
「やめて、g玉様やめてくださいっ!!」
璃珠の言葉に、鴻はようやく相手が誰であるのかを思い出した。
やりとりからどうやら、民族云々以前に個人的恨みを買っていそうだなと感づいてはいたのだが、あの時顔を見ることができたのは炎に照らされた一瞬だけだったので、よく覚えていなかったのである。
 改めて、鴻はg玉の顔を見た。
 薄い眉に切れ長の目は、叔母の一人である芳月に似ている印象を覚える。
「美人」ではあるが「かわいい」という感想が出てこないのはやはり、きつすぎる目つきと言動と、全身から発している殺気のためだろう。…殺気?
 「…ずっと訊きたいと思っていたんだ。君は俺のはとこらしいけど、でも白姓じゃなくて劉姓なんだろ? どうしてそこまで白家にこだわるんだ?
白の頭領に誰がなろうと、君には関係ないはずだろう!?」
返答の代わりに槍の穂先が迫る。それを鴻は難なくかわした。
拳で殴りかかられた先日ならともかく、今g玉は馬上から槍で攻撃してくる。前進、後退、槍を振るうといった動作の一つ一つがどうしても大きくなる。
だから動きを読むこと自体はさほど難しくなかった。
だがやはり、右腕が使い物にならない上に璃珠をかばいながらであるから、十二分な間合いを維持し続けるのは至難だった。
「せめて理由を言え!」
先日、夜討ちを受けたとき。g玉は得物(武器)の類は持たず、素手で殴りかかってきた。
「出て行け」とは言ったが「殺してやる」とは言わなかった。
だが、今目の前にいるg玉は間違いなく、自分の命を取る気でいる。それも本気で。
「三十年前、」
穂先が鴻の耳元をかすめていった。ひやりとしたものが胸中に触れる。
「貴様の母親は白の家督を継いだ。にもかかわらず、お勤めだの何だのと言って馮州を飛び出し、お祖父様に留守居を押し付けた。」
鋭い「突き」の嵐。
「白の家の者もお祖父様も、それは数年のことだと思っていた。だから引き受けた。
でも、頭領は何年経っても戻らなかった。いやそれどころか、帝国中を転々とさせられていたというじゃないか!」
その話は鴻も知っている。その旅の途中で、若かりし日の母と父が出会ったのだということも。
「頭領の座に就いていながら! 一族の統括という、最も大事で最も基本的なことを放置した者を、どうして「頭領」と持ち上げねばならない!?
実質一族を統括していたのはお祖父様なのに、どうして一番苦労なさったお祖父様が頭領ではないの!?
私のことなど関係ない! 何年も何年も、自分より年下の女の言うことに黙って従っていたお祖父様が、あれではあんまり惨めだわ!!」
饒舌になると共に、槍の勢いもまた増してくる。
「嫡子でなかったから? 嫡子という理由だけで怠け者を持ち上げねばならないの!?
そんな、そんな理不尽な法は、翌ェ持ち込んだものじゃないか!! 瀏にはそんなものなど無い!!
だから、私は青幡党に入ったのよ!! 翌焉A瀏の誇りを失った飼い犬たちも、滅んでしまえばいいのよっ!!」
台詞の後半は絶叫に近いものになっていた。大きく振りかぶった槍が、鴻の胸に一直線に迫る!
がたがた震える璃珠の足は恐怖ですっかりすくんでしまい、もはや悲鳴すら上げることができなくなっていた。
 だが。
 「……っ!?」
g玉は我が目を疑った。  確かに、自分の槍は鴻の胸めがけてまっすぐに伸びている。
だが、少女をかばいなおかつ右腕が使い物にならないはずの鴻の、左手が、渾身の一撃を繰り出したg玉の槍の槍纓(そうえい/穂先と柄をつなぎ合せてある部分)をがっちりと掴んでいた。
(うそっ!?)
動体視力もそうだが、自分に向かって勢いよく繰り出された槍の柄を素手で、それも左手一本だけで掴むなど、かなりの握力である。g玉が一瞬呆然となったのも仕方あるまい。
「悪いけど…今のだけはちょっと聞き捨てならないなぁ…。」
それでも大きく肩で息をしながら、鴻は馬上のg玉を睨み上げた。
「『怠け者』ってのは……誰のことさ…?」
そのまま引き寄せると、槍は意外なほどあっけなくg玉の手から滑り落ちた。柄は軽くて丈夫な木材を削り出したものだったので、地面に落ちると乾いた音を立てた。
 自分が産まれる前のことはさすがにわからない。
でも、結婚してからも子供が生まれてからも、舞陽は常に現場にいることを望んでいた。
父が亡くなってからは、文字通り女手一つで五人の子供を育ててきた。男性と肩を並べて、常に第一線で働いてきた。
「元寿さんがどんなに苦労をしてきたのかは、実際に目の当たりにしていない俺にはきっと理解できないんだろう。
でも、それは君も同じじゃないか。母さんがどんなに北威のことを気にかけていたのか、君には永久にわからないんだ、きっと。
なにより。」
ずいっ、と大きく一歩騎馬との間合いを詰める。
「…自分の親を侮辱されて黙っていられるほどにまでは、お人好しじゃないんでね……。」
「ひっ…!」
形成は完全に逆転していた。いや、g玉はまだ馬上という高い位置を維持しているから有利には違いないのだが。
それでも渾身の槍を受け止められてしまったのと、鴻の迫力に、すっかり気圧されてしまっている。
そして騎手の動揺を、馬という生き物は敏感に察知する。耳をぴたりと真後ろに倒し、一歩後ずさったときだった。
 どこからともなく飛来した一本の矢が、鴻の左の肩に突き立っていた。


 璃珠の悲鳴が響く。それが、鴻の耳にはまるで他人事のように届いた。視線だけを左の肩に向けると、そこには矢羽を青く塗った矢があった。
(あっ…。)
自分でも意外なくらい、鴻は冷静だった。痛みがまだ脳に達していないからなのかもしれないが。
 驚いたのはg玉も同じだった。
g玉は鴻に一撃入れてやろうとしつこく狙っていたから、二人の距離はほぼ無いに等しい。そこに飛来した矢だ、自分が受けていた可能性も十二分にある。
肩越しに振り替えると、彼女が思ったとおりのものが近づいてくるところだった。
「呵眼!」
背後で鴻が膝をつく音がした。それに複数のひづめの音が重なる。
「どうしたg玉、混血はまだ生きているじゃないか。自分の手で始末を着けると言ったのは、お前だろう。」
「そうよ、私が引導を渡すの。だから邪魔しないで。手助けは無用よ。私に当たっていたらどうするつもりだったのよ!」
呵眼の手に短弓があるのを見て、g玉はぷうっと頬を膨らませた。――鴻と璃珠に余裕があったなら、彼女が見せたその存外幼い表情に驚きを覚えたことだろう。
「なら、さっさとやれ。こんなちび一人にいつまでも手こずっているんじゃない。」
「わ、わかっているわよ……。」
呵眼に促され、g玉は再び鴻に向き直った。そこには呵眼に向けられていた甘えるような表情はすっかり消え去っており、襲撃者のそれに戻っていた。
「恨むのなら、あなたの親を恨みなさいよね! 瀏のくせに翌ニ交わった、愚かな親を!!」
仲間から代わりの槍を奪うようにして受け取り、再び構える。鴻は……左肩の激痛に、必死に耐えていた。
 鴻は幼い頃から、将来白家の家督を継ぐに相応しい人物となるべく、文武問わずきっちり仕込まれて育ってきた。
ひたすら防御に徹するのは彼の性格によるものだが、それをなさしめる優れた観察眼と動体視力そして反射神経、そのいずれも、幼い頃から施された厳しい修練によるものである。
 打たれ強さにはちょっとばかり自信があった。あると思っていた。
 けれど。やはり「稽古」と本物の「戦い」は違う。肩から脳へと突き抜ける痛みが、それを嫌というほど教えてくれた。
「小雛様、小雛様ぁ……。」
璃珠もおろおろとするばかりで、どうすればいいのかわからない。ぽろぽろと涙を流しながら、ただひたすらに痛みに耐える鴻の傍についていてやることしかできない。
 そんな鴻に頭上から槍を突き下ろすなど、g玉には造作もないこと。
ゆっくりと馬を進め、仲間たちが見守る中、槍を高々と掲げる。無意識に息を飲んだ、そのときだった。
 「!」
何の前触れも無く。真横からの強い衝撃を受けて、g玉の体は手にした槍ごと馬上から、文字通り吹っ飛んでいた。
激しく地面に体を打ちつけたために、起き上がるどころか悲鳴を上げることすらできなかった。槍の穂の上に落ちなかったのは奇跡といえよう。
「なっ!? き……。」
思わずうめいた呵眼の言葉を途中でかき消したのは、けたたましい馬のいななきだった。
反射的に振り返るとそこには……後肢立った屈強な牡馬のひづめが、既に目の前にまで迫っていた。
「ひっ…!」
ひづめが振り下ろされる前に、呵眼の乗馬が無意識によけようとして体をよじる。体の平衡を崩した呵眼もまた、落馬する羽目になった。
 g玉と呵眼を襲ったのは、片耳がちぎれた牡馬だった。目を血走らせ、鼻息荒く、がつがつとひづめで地を削る。
馬のほうにはかすり傷すら負わせず人間だけを蹴落としたのだから、明らかに「狙った」としか思えない。
“ぎざ耳”は依然二十尺の綱に繋がれたままなのだが、g玉たちのほうが鴻襲撃に気を取られるあまり、“ぎざ耳”の射程距離圏内に踏み込んでしまったのだった。
その上、勿論g玉たちは“ぎざ耳”がどういう馬なのか知らなかった。
 混乱は他の青幡党員たちにも広がっていた。
もともと馬は気の小さい生き物である。恐怖や動揺といったものはあっという間に伝染する。
慌てて立て直そうとする者もいたが、ほとんどの者は制御を失った馬の鞍にしがみついているのがせいぜいだった。むしろ落馬しなかったことを褒めてやるべきだろう。
 「なっ、なんなんだ!?」
顔を上げ周囲に起こっていることを目の当たりにして、呵眼は思わずうめいた。
暴れ馬が乱入してきたということは理解できるが、その暴れ馬が突然どこから現れたのか、とっさに理解できなかったのだ。
その間にも、彼の仲間たちは次々に暴れ馬に蹴散らされていく。
歯軋りすると、呵眼は逃げてしまった自身の馬の代わりに、騎手を振り落とした別の馬の手綱を取った。
恐慌状態に陥りかけている馬の背にひらりと飛び乗ったのはさすがである。手綱と膝だけで、何とか暴走を食い止めた。
 「…“ぎざ耳”……?」
左の袖を血の色に染め、激痛に耐えながら、鴻は屈強な牡馬に目をやった。
 “ぎざ耳”は、彼の目の前に居た。まるで……鴻と呵眼たちとの間に立ちはだかるように。
鴻には背を向けているが、その後姿は……彼の目にはとても頼もしく映った。
(…………。)
 「慌てるな! あの馬はつながれている! 近づかなきゃ大丈夫だ!!」
呵眼の声が周囲に響く。手下の半数は馬を失っていたが、半数は後方に居たため比較的影響が少なく乗馬を落ち着かせるのに成功していた。
「呵眼様、g玉が!」
手下の一人が牡馬のほうを示す。
“ぎざ耳”がつながれている杭のすぐ傍に、g玉は倒れていた。落馬したときのままぴくりとも動かない。馬のほうはとうに逃げてしまっていた。
「早く助けないと! あの暴れ馬に踏み潰されてしまいますぜ!!」
「むぅ…。」
しかし呵眼は、眉根を寄せただけだった。
助けに行きたくても、先ほどの不意打ちのおかげで乗馬のほうがすっかり怯えてしまっている。
馬から下りて徒歩で近づけば、圧倒的な体格差により暴れ馬のひづめは免れまい。
なら、遠くから矢を射掛けるか。瀏の民は騎射(きしゃ/馬上から矢を射ること)を得意とする。彼の手下にも弓を得意とするものは何人もいた。
あれだけ大きな的だ、しかもつながれている、命中させるのは造作もない。しかし。
 呵眼も馬を愛する瀏の民だ。すぐさま“ぎざ耳”がすばらしい能力を有した駿馬だと見抜いた。だから…傷つけることに躊躇してしまった。あれだけの馬、なかなかいやしないぞ!
 「呵眼様!!」
「…う……。」
g玉か、駿馬か。とっさに判断に迷う。
「呵眼様!!」
急かす手下の声に、別の手下の声が重なったのは、そのときだった。
「呵眼様! 騎馬隊がこちらに近づいてきます!」


 風を切って飛来した矢が、青幡党の印である青い旗の中央を捉えた。
旗は布でできているから包み込むようにして矢勢を全て吸収し、そのまま下へと落としてしまったが。それでも「人間」の気勢を削ぐには充分な効果があった。
「なんだ!? どこの軍勢だ!?」
副将格の男がきいきいと叫ぶと、最初に叫んだ男が平原を示した。
確かに、土煙を上げてこちらに近づいてくる一団がある。
だが「軍勢」と呼べるほどの規模ではない。せいぜい今呵眼が連れてきている人数の半分以下だ。北威近辺に駐屯している辺境軍とは思えない。
では、どこの誰だ!?
いやそれよりも、矢を射掛けられるほど距離を詰められるまで、何故気づかなかったのか。
舌打ちすると、呵眼は命令を下した。
「仕方ない、ここは一旦引くぞ!」
「えっ、g玉はどうなさるんで?」
「殺されやしないだろ、知り合いらしいからな!」
そう言い捨てると、呵眼は馬首を返した。決断してしまえば行動は早い。
そのまま脚を入れ環坐の天幕から離れ…ようとしたときには既に、謎の騎馬群は目の前にまで迫っていた。
それが左右に散開する。散った騎馬群は、そのままぐるりと環坐の天幕ごと、馬を失った仲間を回収したりして退却に手間取っていた青幡党の者たちを取り囲んだ。
呵眼が歯軋りする音が響く。だが、ずいと一歩前に出てきた騎馬群の代表者を見て、おや?という表情をした。
 「ただならぬ雰囲気の集団がこちらに向かったというので来てみれば……愚息が随分と世話になったようだな。」
栗毛色の馮馬の鞍上からよく通る声で、だが少しばかり皮肉のこもった口調で言葉を響かせたのは、壮年といってもいい年齢の女性だった。
しかしぴんと伸びた背筋といい巧みな手綱さばきといい、只者ではない雰囲気が漂っている。そして彼女の正体を最もよく知っていたのは……。
「母さん!? 何で……?」
怪我の痛みも忘れて、そんな台詞が鴻の口からこぼれ落ちる。
母が居るはずの北威は、馬を飛ばしても二刻以上かかる距離にある。
それに、彼女が連れている兵にも見覚えが無い。全員が二十歳に達しているのかどうかといった風情で、どうにも頼り無さげである。
一体何がどうなっているのか、理解できないのは鴻も同じだった。
「……なるほど、あんたが混血の親……瀏の魂を翌ノ売ったという白の女頭領か。」
「魂を売った、というのは聞き捨てならんが…。」
吐き捨てるように言った呵眼の言葉を、しかし舞陽はつるりと表面で受け流した。代わりに薄い笑みを浮かべる。
「いかにも、私が白の長だ。…青幡党の首魁、千呵眼。」
首魁、と言われて呵眼の眉間に縦じわが刻まれる。若く筋骨たくましい呵眼が、四十代後半の女性一人にすっかり気圧されてしまっている。
堂に入った舞陽の一挙手一投足に、自身が積み重ねてきた自信と貫禄が満ち満ちていた。
 「ええいっ、相手は婆ぁと若造ばかりだ! 蹴散らせっ!!」
呵眼が叫ぶと、ようやく青幡党の手下たちは我に返った。人数は上、しかも包囲網は薄い。
兵の一人一人はいずれも幼さが残る顔立ちで、訓練場の外で戦った経験など無さそうだ。
ならば一点に攻撃を絞れば簡単に破れる! 呵眼はそう判断したのだ。だが。
 青幡党の手下たちが頭目の声に応じるよりも早く。舞陽が右手を高々と掲げると、騎馬隊はさっと一ヶ所だけ包囲を解いたのである。
これには呵眼も、そして鴻も驚いた。
「我らは無益な殺生は好まぬゆえ、今日は見逃してやる。
だが二度と環坐一家の前に現れるな! そのときは白家の名において、貴様らを討つ!」
「…なんだと婆ぁ……。」
手下たちの中でも特に体の大きな者が、太い眉を吊り上げた。仲間たちの中でも、撤退命令に対してあからさまに嫌そうな顔をした男である。
「なら次とは言わず、今ここで決着してやらぁ!」
馬首を返し大振りの剣を抜き放ち、真正面から舞陽に向かって突っ込んで行く。
舞陽は無言のまま槍を構えた。女性の手にも馴染むよう、柄が一回り細く作られている。だがそれは同時に、通常の槍よりも耐久力が劣ることを示す。
「舞陽様…!」
若い兵の誰かが小さな悲鳴を上げた。
 彼我の距離が一瞬にして詰まる。大剣が舞陽に向かって振りかざされた。
 勝負は一瞬だった。
 いや、実際に何が起こったのか把握できたのは、鴻と呵眼と、そして当の舞陽くらいであったろう。
 舞陽が振るった槍の…穂先ではなく石突のほうが、男の大剣を握る腕を、正確に突いていた。筋肉でも骨でもなく、神経を狙った一撃。
なめし革で作られた籠手(こて)の上からでも充分な威力をもたらしたのは、無駄な動きの一切無い、的確な、かつ鋭い突きだったからこそなせた業だった。
思わず取り落とした大剣はくるくると激しく回転しながら宙を舞い、呵眼と“ぎざ耳”の、ちょうど中間の草の上に鈍い音を立てて着地した。
「……くっ…。」
「二度も言わせるな。さっさと立ち去れ!!」
凛とした舞陽の声には、今まで以上の重量が備わっており。
加えて、今目の前で彼女の武芸を見せ付けられたとあっては、もはや青幡党の者たちに戦意など残っていなかった。
 一人、二人…と馬首を返し、馬を失った仲間を回収し。
 (もう、大丈夫だ…。)
青い旗を掲げた過激論者たちが地平線の向こうへと去っていくのを認めた途端に、鴻は自身の意識が白濁していくのを自覚した……。



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