北騎迅雷(後編)
巍国万世拾遺譚 目次へ

 応急手当は、意識を失っている間に施してもらえた、らしい。
鏃(やじり/矢の先端部分に取り付ける部品。用途に合わせてさまざまな形状がある)には傷口を広げるための「返し」が付いていたので、抜き取るには少し切開する必要があったから、そうしてもらえたのはありがたかった。
 「…結局。何しに来たんだろう、俺は……。」
あてがわれていた天幕の寝台に横たわったまま、鴻はひとりごちた。
g玉にはほとんど言いがかりとしか思えないことで憎まれるし、“ぎざ耳”には結局見下されっぱなしだし。
挙句には、璃珠どころか自身の身すら守れず、結局は百戦錬磨の武将である母に助けられることになり。
(…てんで良いとこ無しじゃないか……。)
さらに、右腕は“ぎざ耳”にやられて、左腕は青幡党の矢に肩を射抜かれて、今は両方とも使えないときている。
これで「元気はつらつ」でいられる奴がいたらその面を拝んでみたいものだ、と心中で毒づかずにはいられない気分だった。
 天幕の中にはもう一つ、急ごしらえの寝台が用意されていた。そこには彼のはとこが横たわっている。
 卵ー、それも上流階級ともなると、七歳になると例え姉弟であっても生活の場を男女で分ける風習がある。
それは女性の社会的地位が高い巍の時代になっても同じであった。(白家はかなり特殊な例といえよう。)
怪我人同士とはいえg玉が自分の天幕に運び込まれたと知ったとき、鴻は激しく驚きそして動揺した。
多感な思春期の少年である。そうでなくてもg玉は自分を殺そうとしていた相手だ。同じ天幕の中で二人きり(…)になるのに抵抗を覚えないわけがない。
しかし瀏族にはそんなしきたりは無い。遊牧民は家族全員が一つの空間を共にして寝起きするものである。
それでも未婚の男女を同じ天幕に入れるというのはやはり珍しいことだ。鴻にそれだけの甲斐性があると思われていないのか。
あるいは単に、天幕の予備がないからそうせざるをえなかっただけなのかもしれないが。
 幸いg玉のほうも命に別状は無い、というのがわざわざ北威から引っ張ってこられた医者の見立てだった。
右肩から落ちたらしく肩を脱臼していたが、そのため頭が護られたらしい。
“ぎざ耳”のひづめが直接当たった左の上腕はきっちり骨が折れていたとかで、添え木をしてがっちり固定されている。
いや、あれだけの目に遭ってその程度で済んだのだから、こちらもまた奇跡といえよう。
昏々と眠り続けているのはむしろ、…肉体面と精神面、双方からくる疲労によるものらしい。
 ぼんやり天井を見つめたまま嘆息していると、誰かが入ってくる気配がした。
「小雛様、食事を持ってきました。」
璃珠だった。
舞陽の話だと、青幡党の面々が追い払われたあと、気を失った鴻にすがり付いて泣いていたそうだ。
安堵して涙腺が緩んだのか、それとも死んだとでも早とちりされたのかは、恥ずかしがって当人は答えてくれないが。
いずれにせよ、その話を聞いたときの嶺斑はひどく複雑な表情をしていた、らしい。…どうしてそこで嶺斑の反応の話が出てくるのか、鴻にはとんと理解できないのだが。
 「ありがとう。」
ようやっと身を起こすと、鴻は寝台の傍らに置いてある小卓を示した。
何しろ両腕が使えないのだから、足で反動をつけるか横に寝返りを打たないと起き上がれないのである。
「そこに置いておいて。」
「駄目です。」
羊肉の煮込みが美味そうな香りと湯気を立てている器を手に、しかし璃珠は少しむっとした表情をした。
「手が使えないのにどうやって一人で食べるつもりなんですか?」
言われて鴻は返す言葉に詰まってしまった。手が使えないから、物を食べるには器に直接顔を突っ込むしかない。
あまりにみっともないので誰にも見られたくないから、一人で食べたかったのだが。
実は昨日初めてその食べ方に挑戦したとき、上手くいかずに器をひっくり返し、服から床から汚してしまったのである。
「お洗濯するの誰だと思ってるんですか!」
どうやら根にもたれてしまったらしい。旅から旅の生活を送る遊牧民にとって、水は貴重品である。衣服は水場に行ったときにまとめて洗うのだ。それを…。
「大丈夫だよ、どうやればいいのかわかってきたから。」
それでも璃珠はふるふると頭を横に振った。ではいったいどうしろというのか。
困っている鴻のすぐ隣に、璃珠はすとんと腰を下ろした。
「…どうやるんですか?」
「…それはその……。」
やっぱり器に顔を突っ込むつもりだった、とも言えず。口の中でもごもごと濁すしかない。
予想通りの反応に、璃珠は少し考え込んだあと、こんなことを言い出した。
「ねぇ、小雛様…やっぱり食べさせてあげましょうか?」
「…………ええええっっ!!??」
思わず頓狂な悲鳴を上げてしまったのには理由がある。
華央の農耕民族と草原地帯の遊牧民族とでは、食文化にかなりの違いがあることは先にも述べた。
卵ーは食事の際、箸という道具を用いる。
しかしながら遊牧民族はそんな道具など使わない。手掴みこそが食事の作法なのである。
(そのあたりもまた、狛族が卵ーから誤解・蔑視される理由の一つだったりするのだが。)
だから、璃珠が「食べさせてくれる」ということは即ち……。
 完全に狼狽している鴻に気づいているのかいないのか。璃珠は器の中から肉片を一つつまみあげた。
「だって。昨日も今朝も、少し残っていたじゃないですか。」
両手が使えないのだから、どうしても器にこびりついた分までこそぎとるというわけにはいかない。
育ち盛りでもあるから食欲は充分にあるのだが、鴻にだってどうしようもないのだ。
「ちゃんと食べないと、お怪我だってなかなか治りませんよ。」
「いや、うん解ってるよだからちゃんと食べるよ一人で食べられるったら…!」
半ば悲鳴に近い叫びを上げたかけたときだった。
 気配に気づき鴻が振り返ると。
「…お邪魔だったかな?」
「か、かかかかかかかか母さんっ!? いいいったいいつの間に…!!!」
「…なんだ、その酷いしゃがれ声は。」
反射的に寝台の端にまで逃げた鴻とは対照的に、少しばかり眉根を寄せたもののひどく落ち着いた風情で、白舞陽は天幕の入り口にかけられていた布を軽く持ち上げた。
「あ、舞陽様。お食事はもう済まされたんですか?」
「ああ。お前の母上は料理が上手いな。」
「はい。」
褒められて、素直に喜ぶのが璃珠の美点でもある。
「…この前からどうにもいがらっぽくって…じゃなく! 入ってくるのなら一声かけてくれぇ!!」
「騒ぐな。落ち着きの無い男は、女の目には減点対象だぞ。なぁ璃珠?」
「そうなんですか?」
きょとんとした表情で問い返す璃珠。その隣で鴻はなんともいえない複雑な表情を浮かべた。
少なくとも鴻の記憶にある「母の連れ合いだった男」は、それなりに賑やかな人だったような気がするのだが。
 「…。そんなことより、何か用事があったんじゃないの?」
「おお、そうだった。小雛、食事が済んだら裏手まで来なさい。話がある。」


 結局璃珠の申し出を丁重に断り自力で食事を済ませると、鴻は言われたとおり天幕の裏手へとやってきた。
 裏手といっても、そこは瀏族の感覚である。
二、三百歩は離れているし、周囲には何も無いから、二人が一緒にいることは判っても話の内容までは誰の耳にも届く心配が無い。
 「何? 話って。」
なんだか嫌ぁな予感を覚えつつ、鴻は母の顔色をうかがうように問いかけた。
恒陽の自宅に居るときでもそうだったのだが、舞陽がこうやって子供を個別に呼び出すときは大抵、叱るときなのである。自然、気分も重くなる。
(両腕とも使えなくなるようなへまをやらかしたからかな。それとも、まだ“ぎざ耳”を手なずけられないことか…。)
何しろ、「心当たり」はたくさんある。
そうでなくても相手は十代の頃から常に前線に立ってきたような人だ、何を言われるのかと気構えずにはいられない。
しかし舞陽の口から出てきたのは、全く予想していない言葉だった。
「……すまなかったな。」
「…え?」
「g玉のことだ。私がもう少しきちんと把握していたなら、もっと早く手も打てただろうに……。」
気ままに草を食む環坐家の羊の群れに目をやりながら、舞陽は静かにそう言った。目はそちらに向けているが、実際はもっと遠くを見ているような横顔だった。
「…知ってたの? その……青幡党のこととか。」
母はうなずいた。
「とはいっても、そのあたりの背景が判ったのは、ついこの前のことなのだがな。」
だから、出てくるのに手間取ったのだ、とも彼女は言った。
 白舞陽は、位階こそ高くないものの、帝都恒陽にて要職に就いている。現在は休暇を取って一時的に帰郷しているに過ぎない。
 巍にはたくさんの州があるが、その一つ一つに中央から任官された「牧」という、軍権付きの知事職が存在する。
そして「牧」という役職は、舞陽が就いている役職よりも高い地位に設定されていた。
 役人というのは得てして「縄張り意識」が強いものである。
 馮州には、州が管理する州軍の他に、中央が派遣し直に統括する、辺境の少数民族や国外の異民族に対応する為の辺境軍が設置されている。
そして、州軍を統括する州牧と、辺境軍を管理する四方将軍は、あまり仲良くないのが通例であった。
 そんな中で、いくら休暇中とはいえ、巍の宮廷に勤める舞陽が、白家の私兵を動かしたりすればどうなるか。
「一族の若い者に訓練を施す」という名目で、今日になってようやく二十騎だけを北威の城壁の外へ連れ出すことができたのである。
 「じゃあ…最初から青幡党と真面目に戦うつもりは無かったんだ。」
「当たり前だ。そんなことをしていたら…あっという間にこちら側全員が捕虜になっていただろうよ。」
息子の鋭い指摘に、舞陽は小さく「おや?」という表情をしながらも、そう答えた。
あの状況の中で、それでも両陣営の威勢はきちんと把握していたらしい。
息子の情勢分析能力に、白梅将軍の二つ名を持つ武将は、息子に見えないように満足げな笑みをほんの少しだけ浮かべた。
「g玉のこととは別に、青幡党のことは以前から知っていた。
結成してから日が浅く、結束の度合いも強固と言うには程遠いということは判っていたからな。多少の芝居をしてでも、丸め込んで追い返すつもりだった。」
一旦取り囲んだのは、それを悟られない為だったらしい。
とはいえ、一歩間違えば全面衝突にもなりかねない状況だったので、鴻は思わず背筋に寒気を覚えた。
幸い、“ぎざ耳”が大暴れしたために青幡党の面々はあの時点で既に浮き足立っていたから、大事には至らずに済んだのだが…。
叔母たちがよく母のことを「無茶しいだ」と評することがあるが。今日ほどそれを実感したことは無い。
 「母さん。…その、一つ訊いてもいいかな?」
「なんだ?」
「…………その…………。」
どういう訊き方をすればいいのだろう。やはりここは単刀直入に訊いたほうがいいのだろうか。
「…どうして母さんは、父さんと結婚する気になったのさ?」
白家は馮州に古くからある豪族だ。その本家筋の娘ともなれば、縁談だって豊富にあったに違いない。
舞陽が頭領に就任し中央に出て軍務に就くことになった経緯については、「次期頭領」として以前に聞かされてはいたが。
それでも縁談の数が減るということは無かっただろう。
一族の体面を保つ為なら、そして母の生真面目というか潔癖というか義理堅いというか、とにかくそんな性格からかんがみても、馮州とは言わなくてもいくらかは政略がらみの婚姻を結んでいても一向におかしくないはずなのだが。
 まん丸に見開いた目は、彼女にとって全く想定していない問いだった証だ。
が、次の瞬間には「皆まで言うな」というものに変わっていた。
「…そうだな。g玉が最も憎んでいる相手はお前ではなくて、わざわざ瀏の血を汚す選択をした私なのだな。そういえば呵眼も似たようなことを言っていた。」
「あ、えっと、そういう意味では…。」
大慌てで否定するが、まともに相手せず舞陽は腕を組み、空を仰いだ。
夏の馮州の空は、どこまでもどこまでも突き抜けるような青が、遊牧民の故郷である大地以上に広がっていた。
 「どうして、か。そうだな……『よく解らん』というのが正直なところか。」
「……………………は?」
「もしかしたら…魔が差したのかもしれん。」
「…………。」
結婚というのは、人間にとって一生に一度の大事件なのだ、と思っていた。少なくとも大姉桃香はそう言ってはばからない。だからそういうものだと思っていた。
それを『よく解らない』だの『魔が差した』だの…。これでは……。
 だが、そんな彼の内心を読んだのか、舞陽は右の人差し指を伸ばすと、息子の目の前に向けた。大姉のデコピンをくらって育った弟は、無意識のうちに目を閉じ身を引く。
「だがな、これだけは言える。」
けれど、触れた指は額を軽く突ついただけだった。
「私は、父様との結婚を後悔したことなど、ましてや後ろめたさを覚えたことなど、ただの一度も無い。」
凛とした母の言葉は、特に強くも無かったのに。この馮州の空のように、どこまでも透き通り、そして微塵の揺るぎもありはしなかった。
「それに…忌憚無いやりとりができる男から『君じゃなきゃ嫌だ』だなんて駄々をこねられては、無碍(むげ)にするわけにもいかんだろう。」
そのとき舞陽が浮かべた表情は。相変わらず空を見上げていたから、彼女も無意識だったのだろうが。
当時のことを思い出したのか嬉しそうに笑った母の横顔が、ほんの、ほんの瞬きの瞬間だけ、十代の娘のものに見えたのだ。
「…へぇ、そんなこと言ったんだ、父さん。」
「一言一句まで合っているかどうかはわからんが。ともかく、そんなようなことを言われたのは覚えている。」
小さく嘆息しながら。鴻は母の新たな一面を見たような気がした。
…少なくとも、自分からのろけ話をするような人ではない。それをさせてしまったのは…都会にいるときとは全く違う、この故郷の雄大な大地と空の存在…なのかもしれない。
 「…これではお前の欲しい回答にはなっていないかな?」
なっているような、いないような…。けれど、一つの確信は得ることができたような気がする。
「実を言うとさ。俺、父さんの顔ってよく覚えてないんだ……。」
「……そうか。」
柔らかい草原の風が、二人の髪を静かに揺らしていった。
「まぁ、お前はまだ小さかったから、無理無かろう。」
父が亡くなったとき。鴻はまだ五歳になったばかりだった。
何が起きたのか当時はよく解らなかったのだけれども。
周りの人間の様子や家の中の空気が急に変わったのと、そして父親がある日を境に突然姿を消したことだけは感じ取っていた。
変な居心地の悪さは覚えたが、それが一体何を意味するのか、その本当の意味を理解できたのは、何年も経ってからのことだった。
「でもさ、声は覚えてるんだ。何故だかわからないけど。普通逆だよなぁ。」
顔は覚えていないけれど。鴻の脳裏には父の声と共に焼きついている記憶があった。
 恐らく、恒陽の城門を出たところなのだ、と思う。
道がずっとまっすぐ伸びていて、そこを行きかう人々や荷車の姿が幾つかある。
遠くには森の影も見える。視界は妙に高くて目の前に父親のものと思われる後ろ頭があるから、肩車でもされていたんだろう。
その、道のずっと遠くを示して『その人』はこう言った。
『このずうっとずうっと向こうに、父様の生まれた町があるんだよ。』
そして、視界は大きく左へ振られる。そこにも同じように道と大地と森と行き交う人々と、遠くには山並みも見える。
『でな、この道をずっとずっとたどっていくと、こっちには母様の生まれた郷があるんだ。小雛は、その二つをつなぐことができるんだよ。すごいね。』
…本当のことをいうと。実はこの記憶すら、今の今まで忘れていたのだ。
母とこんな話をしなければ、そしてg玉からこの問題を突きつけなければ、恐らくきっと、思い出すことも無かっただろう。
 「父さんには判っていたってことなんだろうな、俺がこういう目に遭うだろうって。でなかったらこんなこと言わないだろう?」
…ということは。父はこうなることがわかっていて母に求婚したのだろうか?? 再び考え込んでしまった息子に、舞陽は一つ嘆息した。
 「小雛、そこに座りなさい。」
「え?」
「いいから、座りなさい。」
座れと言われても、屋外、それも草原のど真ん中である。しかし舞陽は有無を言わせず息子を地面の上に正座させた。
両腕が使えないから衣の裾をさばくこともできず、行儀はかなり悪くなったが、他に誰か居るわけでもないので無視する。
「この話は、お前の姉さんたちにもしていない。」
そう前置きして、舞陽は口を開いた。
 鴻の父李明槐は、婿入りという形で馮州白家の長白舞陽と結婚した。
だが彼が馮州の地を踏むことは一度たりとも無かった。本人はいずれ馮州への移住を希望していたが、それを押し留めた者がいたのだ。
「…互いに仕事が忙しかったのでな、式は恒陽で簡単に済ませたのだが。
そのときに馮州からの代表として一人列席してくれた元寿叔父が、しばらく馮州には来てくれるな、と父様に釘を刺していったのだ。」
「…元寿さんが!?」
少なくとも鴻は、元寿に対して良い印象しか持っていない。ずっと親切にしてくれたし、嫌な顔一つされたこともない。
その元寿が父に、母の実家には来るなと言った…。
それは、両親の結婚に心から賛成していたわけではない、ということなのだろうか。
あまりの衝撃に言葉を失っていると。
「慌てるな、まだ続きがある。」
当時の巍はまだ内乱が終息しようかという頃で、馮州では蒼播団がまだまだ強い支持を得ていた時期だった。
過半数を占める瀏族の間ではそれに煽られるように卵ーに対する反感情が高まっていた。
そんな中で、よりにもよって馮州の豪族の頭領が卵ーの者と婚姻し、本家に連れてくるとなったらどうなるか。
『あなたの命を守る為に、今しばらく待って欲しい。ほとぼりが冷めれば、瀏の民は翌ニの友愛を思い出すだろうから』。そう言って元寿は明槐に頭を下げた。
地方情勢に詳しかった彼は、何も言わず微笑して静かに一つうなずいたという。無理を押し通して新たな騒ぎの火種を作ることもない、と思ったのだろう。
「いずれ引退したら行こう、などと笑っていたんだが。
そのうちに、桃香が生まれて、翡蓮と翠蘭が生まれて、お前が生まれて。とてもそれどころではなくなってしまった。」
そして、子育てが一段落ついたと思ったときには……。
「だから、父様は結局、この馮州に来ることは、できなかった。」
素振りには出さないが。元寿はそのことを、今でもとても気に病んでいるらしい。鴻のことを可愛がるのも、もしかしたらその負い目があってのことなのかもしれない。
 「お前は馮州白家の跡取りだから、これから先もとかく『瀏』としての振る舞いを求められることが多くなると思う。そのために最低限必要なことも教えてきたつもりだ。」
一日中馬の背で過ごすことも、客を歓待するときには馬乳酒と羊の脳を振舞われることも、挨拶の仕方も瀏族特有の言い回しも、その他瀏族が先祖から受け継いできたさまざまな物事のごく基本的なことを。
「だがな。だからと言ってお前の中に流れる卵ーの血を、恥ずかしく思ったり、辱めたりしては絶対にならない。
何故ならそれは…お前の父様を否定することになるからだ。」
「…………。」
言われて。鴻は確かに自分の胸がわずかでもうずいたことを自覚した。
頭ではそう思っていなくても、どこかで、心の奥底のどこかでほんのほんのわずかでも、無意識に両親を恨まなかったかと問われれば、……否定しきれない自分がいるということに、気づいてしまった…。
母も父も好きだし好きだったし、尊敬こそすれ憎んだことなどただの一度も無かったというのに…。
(馮州に来てから。どうしちゃったんだろう俺……。)
そんな迷いと苦渋がわずかでも表に出てしまったのか。舞陽は少し語調を緩めた。
「…迷ってもいいと思う。
けれど、これから先瀏族として生きていくことになろうとも、口にしなくてもいいから、それだけは忘れないで欲しい。
…きっと父様もそう思っていたから、お前にそんなことを言ったのだと、思う…。」
「うん……。」
……自分ですらこれだけの騒ぎになったのだ。母だって随分悩んだのだろう。
まだ十二歳の鴻にはそこにどれだけの山や谷があったのかなど、推し量ることすらできないのだろうが。
それでも迷いを一切感じさせない母の、その堂々とした威風に、なんだか励まされたような気がした。
――俺は、ここに居ていいんだ。家とか血筋とかそういう道具めいたものではなく、一人の人間として、望まれて生まれてきたんだ。
そんな安心感が、じんわりと心の底辺に広がっていくのを感じた。
 草原を渡る風が、母子の髪を同じように撫でていく。
 「ところで。私からも一つ訊いていいか?」
しばらくの沈黙の後、感傷にふけっていた鴻を現実に引き戻したのも、母の声だった。
「なに?」
「『なに?』じゃない。“ぎざ耳”のほうはどうなった?」
問われて、鴻は思わず「あ、」と小さく呟いていた。
青幡党の一件とこの怪我とですっかり忘れていたが、そもそも自分が環坐一家の世話になることになったのも、“ぎざ耳”を慣らして連れ帰るためだったのだ。
怪我が癒えても肝心の“ぎざ耳”との勝負が着かない限り、母と共に北威の町に戻ることはできないのだ。
「……よく…わからない……。」
あれは、勝ったのか負けたのか。
いや、勝ったということはないだろう。良くてせいぜい引き分けかな。少なくとも“ぎざ耳”のほうは自分に負けたなんて微塵も思っていないだろうし。
そんなような事を渋々告げると、舞陽は心底呆れた眼差しで息子を見た。
「お前は……変なところで父様似なんだな。」
「…それは褒めてるの? けなしているの?」
たった今、父を誇りに思えと言ったのは誰だ? 顔にそう書いて鴻が見上げると、舞陽は無言で天幕のほうに顔を向けた。釣られて鴻もそちらを見る。
 天幕の傍にぽつんと一頭、右耳のちぎれた馬がつながれている。頭をこちらに向けて、じっと耳をそばだてている。
 風は、二人のいる方角から天幕の方に向かって吹いていた。
 風は、音を乗せる。臭いを乗せる。
 人馬の対決がどういったものであったのか、あらましは環坐たちからおおよそ聞いてもいる。
 怪我をして寝込んでいた間も、こうして親子二人で話している間も。“ぎざ耳”は常に、鴻の存在を気にかけていたことを。
“ぎざ耳”にとって鴻はもはや、「無視できない相手」になっているということを。
 既に勝負は着いている。舞陽の目は、そう言っていた。


 鴻が母に呼び出され、璃珠が食事の器を持って自分の天幕に戻ってしまうと、g玉はゆっくりと寝台から身を起こした。
 外れた肩は、戦場での応急処置に慣れている舞陽が、これも失神している間に戻してくれたらしい。
回してみたが、右の肩にはこれといった違和感は無い。悔しいがこれに関しては認めてやらざるをえないだろう。
“ぎざ耳”のひづめを直接受けた左の腕は、さすがに小さな痛みが延々と続いているが、がっちり固定されているためか少し動かしたくらいではそれ以上の痛みは感じなかった。
 「……呵眼……。」
何が起きたのか記憶を反芻し。g玉は顔を歪ませてうつむいた。頬を涙が一筋、伝っていく。
「どうして。どうして私を見捨てたの……!?」
確かに、白の本家に翌フ血を入れた現頭領も、そして混血のはとこが家督を継ぐことも、憎かったし許せなかった。
 でも命を取りたいとまでは、思わなかった。
 けれどその話をしたとき、大好きな呵眼はこう言った。
『瀏族は瀏族であるから美しいし尊いんだ。混血を認めたら、いずれ瀏族は卵ーに飲み込まれ、吸収され、滅ぼされてしまう。
だから今からでも遅くはない、止めなくてはならないんだ』。
 その言葉を、g玉は信じた。呵眼の言葉は正しいんだと、信じて疑わなかった。
だから、はとこの居場所を、環坐一家が今居る位置を調べ、告げた。
はとこが生きようが死のうが、自分はちっとも悲しくも辛くもない。
何故なら会ったばかりで親近感などまるで無く、むしろ憎しみの念が強いだけに、その辺りにいる他人以下にしか思えなかったから。
 けれど、例え「他人」であったとしても。
人を殺めるというのは、口で言うのと実際に手を下すというのは、全く違う。
……それが、好きでたまらない呵眼の「命令」であっても。g玉の「良心」が躊躇してしまったのだ。
(だから呵眼は私を見捨てたんだ。呵眼の命令を実行できなかったから…!)
呵眼が喜んでくれることなら何でもやろうと思っていたし、決めていた。呵眼の意に副うことがg玉の悦びだったのに。それなのに!
 呵眼は、私を、見捨てた。
 これからどうなるのか。どうすればいいのか。
仲間の元へ戻るか。いや、今更どの面下げて呵眼の前に出ることができよう。
呵眼からどんな言葉をかけられるのか。
もしかしたら声すらかけてもらえないかも。無視されるかもしれない!
一番聞きたくない言葉が呵眼の口から出てくるのを想像してしまい、思わずg玉は激しく首を振った。
「いや、いや! いや!! どうすればいいの…………!」
思わず出た言葉が「叫び」になりかけたとき。
 気配に気づき、g玉は弾かれたように面を上げた。
 天幕の入り口に居たのは、璃珠だった。先ほどとは違う器を手にしている。
「g玉様…。」
「なによ。」
ぎろり、と睨むと璃珠はびくりと半歩退いた。だがそれでも天幕を出て行こうとはしない。
しばし迷っていたが、それでも意を決するとそろそろと近寄り、g玉の座っている寝台の脇にある小卓に器を置いた。
器には白濁した液体が入っており、芳醇な香りを漂わせている。馬乳酒だった。
「…どういうつもり?」
戸惑いつつも、g玉は相変わらず鋭い口調で問うた。他人の天幕で馬乳酒を振舞われるということは即ち、歓迎されていることを意味する。
「あなた、私が怖くないの? あの混血と一緒に串刺しにしていたかもしれないのに。殺していたかもしれないのに。
そんな相手に、どうしてこんなことができるのよ。さっさと役人にでも何でも突き出せばいいわ。」
一息に言い切って、ぷいと横を向く。それでも璃珠は立ち去ろうとしなかった。
「…怖い、です。いえ、怖かった…です。」
もじもじと両の手を重ね、うつむき加減のまま。璃珠はか細い声でそう言った。
「じゃあどうして、こんなことするのよ!?」
「…三年前、」
相変わらずもじもじしながら、璃珠は思い切ったように口を開いた。
「g玉様はうちにいらっしゃいましたよね。確か、元寿様とご一緒に。うちの馬を買ってくださいました。」
「……そんなこともあったわね。」
壁――といっても天幕だから布製だが――を見つめたままぶっきらぼうに返すg玉。
「あの時。初めてg玉様とお会いしたとき。…g玉様は私のことなんか覚えていらっしゃらないかもしれないけれど。
なんて素敵なお姉さんなんだろうって、思いました。」
孫娘の為に馬を買い付けに来た元寿。その祖父にくっついてきた、三年前のg玉。
もともと家族以外の者との接触する機会が少ない遊牧民、それに性格もあって、当時の璃珠は今以上に人見知りが激しかった。
だからそのときも兄嶺斑の陰に隠れるようにしていたのだが。
その璃珠の目に映ったg玉という娘は。
日の光を浴び、祖父の愛情を受け、きらきらと輝くような笑顔をする、素敵な女の子だったのだ。…小さな璃珠が憧れを覚えるほどに。
「いつかあのお姉さんみたいな女の子になりたいな、そう思いました。それからずっと、g玉様は私の目標だったんです。」
馬を買い付け北威の町に帰ってしまうと、それきりg玉が訪ねてくることは無かったけれど。
時折「気晴らし」に訪ねてくる元寿は、必ず孫娘の自慢話を環坐に聞かせたものだった。
他家に嫁いだ娘の子とはいえ、やっぱり自分の血を引く孫は可愛いのだ。そんな元寿の自慢話は璃珠の耳にも勿論入る。
「あのお姉さんみたいにきらきらした女の子になりたい」、その憧れが今の璃珠を育んだといってもいいかもしれない。
だから、初めて逢った鴻ともすんなり友達になることができたのだ。
「でも、今は違うわ。」
相変わらず顔をそむけたまま、g玉はとげ付きの言葉を投げ捨てた。
「好きな人のためなら人殺しもしてしまう。…あなたの知っている無知な女の子は、もう居ないのよ。どこにも。」
「でも、小雛様も私も、ちゃんと生きています。」
「それは! あの馬が邪魔をしたから…!」
しかし璃珠は、静かに頭を振った。
「…“ぎざ耳”は、あの子はとても頭がいいから。きっとg玉様を覚えていたんじゃないかしら。だから、」
g玉に鴻を殺させたくなくて止めに入ったのではないか、と璃珠は言った。
「冗談もいい加減にしてよね。止めに入った、ですって?
じゃあこの怪我は何? 誰が私にこんな酷い怪我をさせたのよ。さあ言ってごらん!!」
「g玉様……。」
「あの馬は私を殺そうとしたのよ! でなけりゃあんな蹴り方はしないわ!!」
馬に嫌われた、瀏族の娘。皮肉なものね、とg玉は自嘲した。
所詮はそう、私だけの空回り。誰も私のことなんか必要としていないんだ。
呵眼にとって自分はただの「その他大勢」、どうでもいい存在なんだ。
そう思ったら…意思とは裏腹に涙がこぼれ出た。
 と、そのとき。
「殺そうとは、していないと思いますよ。」
天幕の外で声がした。驚いたg玉と璃珠が同時にそちらを向く。
「……入ってもいいですか?」
「駄目!」
間髪を入れずに拒絶したのはg玉。相手が誰なのかすぐに察したからだ。
天幕の外でさすがにたじろぐ気配がしたが、それでも声の主は立ち去ろうとはしなかった。
「……じゃあ、ここでいいや。」
それどころか、その場に座り込む音。g玉の面に憎悪の相が浮かぶ。
「嘲笑いに来たの、混血!」
「……いい加減、名前を覚えて欲しいんですけど…。「混血」なら俺の他にもたくさんたくさん居ますし。」
璃珠はというと、g玉と、そして天幕の入り口のほうと、両方を気にしている。出て行くべきなのかどうか迷っているらしい。
「あの、小雛様……。」
「ごめん、璃珠。できたら居てくれないかな。二人だけだと…多分俺の話なんて聞いてもらえないだろうから。」
心底困ったような表情をしていたが、結局璃珠は無言のままうなずいた。
 「g玉さん、“ぎざ耳”は本当に、あなたを殺そうとはしていなかったと思いますよ。」
「…どうしてそんなことが言えるのよ。」
「どうしてって…口で説明するのは難しいなぁ…。」
どちらかの腕が使えたなら、鼻の頭でも掻いていそうな口ぶりだった。
「そう思うんです。何となく。」
「何となくですって! そんないい加減な理由であの馬をかばうの?」
「かばいますよ。だって、俺の半分は瀏なんだから。」
思いもかけない言葉に、g玉は一瞬どう返すか窮した。
「皆“ぎざ耳”のことを暴れ馬だのなんだの言いますけど。
…そりゃ確かに性格は荒いし、俺もこのとおり、派手に蹴られましたし。警戒心もものすごく強い。でも。」
そこで鴻は一旦言葉を切った。
「あいつとやりあって、怪我して、眺めていることしかできなくなって。ぼーっとあいつを観察していたら。
ああ“ぎざ耳”ってただ乱暴な奴じゃないんだなって、そう思えるようになりました。」
『背中で語る男』という表現がある。鴻の脳裏には、あのときの後姿が何故か焼きついている。
――“ぎざ耳”はまさしくその『背中で語る』男だった。
いくつもの感情を「荒っぽさ」の中に封じ込めている、ただの駄々っ子のように見えてきた。
その矢先に、青幡党の連中がやってきたのだった。
「第一。“ぎざ耳”の実力だったら、もっと確実にg玉さんを…殺せていたと思いますよ。実際にあいつと勝負した俺が言うんだから、きっとそうです。」
鴻の口調は。つい先日――もしかしたら今も――命を狙われた相手に向けているとは思えないほど、明るく穏やかだった。あっけらかんとしていると言ってもいい。
「そのおめでたい考え方、いかにも卵ーだわ。」
「実際、そうらしいですね。」
鴻は逆らわなかった。
 馮州にある本家の家督を継ぐことが決まっていたから、一族を治めるために瀏族というものについてそれとなく調べてきた。
だがそれと同時に、卵ーというものについても独自で学んできた。
 瀏族と卵ー。何が同じで、何が違うのか。自分のどの部分が瀏族で、どの部分が卵ーなのか。
 まずそれがわからなければ、二つの血を引く「自分」というものを知らなければ、表面だけ瀏族の真似事をしたって、本当の「瀏族」になることはできないのではないか。
 それが、鴻が自分で出した結論だった。それが正しいのかどうかはわからないけれど…。
 「卵ーというのは、昔から畑を作って作物を育てて生活してきたでしょう? だから、どちらかというと気が長いんだそうですよ。」
ちなみにこれは、恒陽の隣家に住む官吏志望の若者に教えてもらった知識だ。
「まあ俺は、姉弟の中でも特に気が長いってよく言われますけどね。」
「卵ーの血を引く奴に、馮馬のことなんか、わかるもんですか!」
「…その馮馬は、瀏族の大切な『相棒』なんでしょう?」
「うるさい、似非(えせ)瀏のくせに偉そうなことを言うな!」
怒鳴って腕を払った拍子に、卓に置かれていた器が落ちた。しかれていた羊毛織の敷物の上に、馬乳酒がこぼれ散った。
「…そうです。俺は完全な瀏じゃない。これはどんなに逆立ちしたって、覆せない事実です。」
そこで鴻は一拍間を置いた。先ほどの母の言葉を脳裏に呼び起こし、大きく深呼吸をする。
「でも俺は、混血であることを、半分瀏族で半分卵ーであることを、恥だなんて、これっぽっちも思っていません!
…それだけはどうしても、あなたに伝えておきたかった。…それだけです。」
長々と失礼しました、と告げ。天幕の外にあった少年の気配は、そのまま遠ざかっていってしまった。
 「g玉様…。」
床に落ちた器を拾おうと、璃珠がおずおずと手を伸ばす。しかしそんな少女すら、g玉はぎらりと睨みつけた。
「うるさい! あなたももう用は無いんでしょうっ!? さっさと行っちゃいなさいっ!!」
あまりの剣幕に璃珠はびくりと手を引っ込め。
しばし迷った後、ぺこりと頭を下げると、そのまま鴻の後を追うように天幕を出て行ってしまった。
 残されたのは、g玉一人。
 「……生意気なのよ、混血のくせに……!」
力無く振り下ろした拳は、毛布を軽く叩いただけだった。

          ◆   ◆   ◆

 「若いから」というので何でも片づくとは思えないが。
それでも“ぎざ耳”にやられた右腕の腫れのほうは、三日後にはすっかり引いていた。
左肩の傷のほうはさすがに完治までには程遠かったが、それでも日常生活には支障が出ないほどに回復していた。こちらも数日のうちには傷口が塞がるだろう。
…もっとも、傷跡は残りそうだが。
 となると、次に考えることは。
「あとは…どうやって“ぎざ耳”を説得するかだよなぁ…。」
青い空にぽっかり浮かんでいる白い雲を見上げて、鴻は小さく嘆息した。
この場合の「説得」というのは勿論「実力行使」という意味も含まれているのだが。
しかしこの期に及んで鴻はやっぱり、“ぎざ耳”とは平和的に友好関係を結びたいなぁと思っていた。
せっかく治したばかりだというのにまたしても怪我などしたくないし、何より、誰だって好き好んで痛い目になど遭いたくないというものだ。
とはいえ、当の“ぎざ耳”のほうはというと。
「…視線が痛い……。」
刺すような視線は相変わらずのまま。
しかも、“ぎざ耳”の視界の及ぶ範囲――平原における障害物なんて、天幕と大地の隆起とぽつりぽつりと存在する樹木と、あとは数え切れないほどの家畜たちくらいだ――にいる間中ずっと、殺気というか怒気というか、そういうものを伴った目で睨み続けているのである。
「…疲れないのかなぁ?」
「何がですか?」
たまたま通りかかった璃珠が不思議そうな顔をする。
抱えた桶には搾りたての牛乳が入っていた。まだ温かい。加工して駱酥(らくそ/乳製品の一種)を作るのだという。
「“ぎざ耳”だよ。怒ってばっかりっていうのも、結構疲れると思うんだけど…。」
「…ああ、そう言われればそうですね。」
そう言って璃珠は小首をかしげた。
「でも、“ぎざ耳”ってば最近は…。」
言いかけたとき、馬蹄の音が三組、近付いてくるのが聞こえた。反射的にそちらを見る二人。
「あれ? 母さん??」
「兄様の後ろに居るのは、元寿様みたいですよ。」
先日長話をした後さっさと北威に戻ってしまった舞陽が、それも元寿と共にまた訪ねてくるとは。
自分が居ない間に本家でいろいろと事務的なことを片付けておくという話だったが、もう終わったのだろうか?
そう思っている間に、三騎は二人のすぐ傍までやってきた。
 「怪我の具合はどうだ。」
馬から下りるなり、舞陽は挨拶もそこそこに息子に尋ねた。久し振りに会った元寿に挨拶をしていた鴻は、慌てて振り返る。
「全快というわけじゃないけど。でも右手はこのとおり。」
ぐるぐると肩から回してみせる。「そうか」と母はうなずいた。
「では、“ぎざ耳”のほうは?」
「……相変わらず。」
とはいえ、多少の進展はあった。
暇があれば“ぎざ耳”の元に行き、しきりに話しかけていたのが功を奏したのか。“ぎざ耳”の行動圏内に入っても、問答無用で襲い掛かられるということは無くなった。
とはいえ、環坐一家に対しては相手が例え璃珠であろうともすぐに向かっていくし、鴻にしても“ぎざ耳”自身に近づこうとすれば激しく威嚇される。
暗中模索なのは以前同様であった。
「そうか。…では、今日中になんとかしなさい。」
間。
「…………ええっ!?」
さらりと無茶を言いつける母に、鴻はさすがに開いた口がふさがらなくなってしまった。
「それとも…もう二・三年、環坐の世話になるか?」
「ち、ちょっと待って。全然話が見えないんだけど……。」
ようようそれだけ口にする。その様子を横で見ていた元寿が小さく嘆息して事情を説明してくれた。
 なにやら都のほうで面倒が発生したらしく、舞陽は急に発たねばならなくなったらしい。
“ぎざ耳”を馴らせていないこともあり、一時は鴻を残して単身で戻ることも考えたのだが、これには元寿が反対した。
一つには、例え“ぎざ耳”の調教が完了したとしても、帝国北部の地理に精通していない、それもまだ半人前でしかない鴻を、後日単身で恒陽に戻すのは無理だということ。
もう一つには…環坐一家の都合というものがあった。
「数日中には、冬季の放牧地へ移動を始めることになりますから。」
そう言ったのは、嶺斑だった。
今環坐一家が居る場所は、いわゆる「夏の放牧地」である。
北国の夏は短い。今はまだ汗ばむほどの陽気をもたらす太陽も、あと十日もするとその日差しは秋のものに変わってしまうという。
そして、秋から冬になるのは文字どおりあっという間。
大地が凍り草が冬の眠りにつき、一千を越える家畜たちを餓えさせる前に、一家は秋冬の放牧地へ移らねばならなかった。
そしてその冬季の放牧地というは、巍国の外、つまり狛族の領域にあるのだという。
 「…私も、次はいつ馮州に戻ってこられるのかわからないのでな……。」
いずれはここ馮州の本家を継ぐ身であったとしても。いやだからなおのこと今は、できれば息子を置いていきたくない、というのが舞陽の本音だろう。
そうでなければわざわざ訪ねてきたり、あんな無茶な注文をつけたりなどしない。
 一通り話が済むと、元寿は彼らの元を離れ、天幕へと向かった。天幕の中にはg玉が居る。
天幕の中へと消えた大叔父の背を、鴻は複雑な気分で見送っていた。
 もしかしたらいずれは風の噂で届くかもしれないが、今回の一件は、少なくとも白家からは劉家に一切伝えていないらしい。
…北威の劉家は、数代前に巍に下った比較的狛族に近い瀏族である。
その劉家の娘が、馮州でも有力な豪族である白家の跡取りを襲撃したということが表沙汰になったら、何かと面倒なことになりかねない。
勿論襲われた側である白家からしてみれば、劉家に抗議する権利は充分にあるのだが。
しかし元寿や、その娘で仲の良い従姉妹であるg玉の母のことを思うと、舞陽もまた内々に処理してしまいたかったのである。


 「というわけだから、どうしても今日中に返事をもらいたいんだ。」
翌日。鴻はそう言って、小さく嘆息した。さすがに半日では準備も何もどうしようもない、ということで一日猶予をもらったのだ。
その真正面では“ぎざ耳”が、あいも変わらず錐どころか斧のような眼差しでこちらを見ている。先日と同じく長い綱に繋がれたままという状況だが。
(…やりにくいなぁ…。)
鴻は“ぎざ耳”よりもむしろ、背後のほうが気になって仕方が無かった。というのも。
(これじゃあまるで、見世物じゃないか…。)
背後の天幕前に、環坐一家だけではなく元寿と舞陽までもが見学と称してこれから起こることを見守ってくれているからである。先日より観戦者が増えたわけだ。
これが他の面子ならそれでもここまでやりにくさは感じないのであろうが、やはり母親に見守られて何かをする…というのは、子供とはいえ男子にとってはすこぶるやりにくい。
しかもその母親は、この歳になってなお並みの男どもよりも強いときているからなおさらだ。
 (…おっと、そんな場合じゃない。今は“ぎざ耳”に集中しないと…。)
注意散漫は怪我の元だ。せっかく治ったばかりなのにまた怪我をするのは、鴻だってごめんである。
さすがに今回は環坐から丈夫な綱を渡されているが、やはりできれば使いたくない。
 “ぎざ耳”のほうはというと、これまた鴻の都合など知るよしも無いから、相変わらず返り討ちにする気満々だったりする。手加減など絶対にしてくれないだろう。
 そんな具合で、鴻と“ぎざ耳”はずっと睨み合ったままでいるのだった。
だがそんな緊張状態を長く維持しているのは、人間にとっても馬にとっても辛いことだ。
 結局、先に痺れを切らしたのは“ぎざ耳”のほうだった。
自分の行動圏内から鴻を追い出しにかかる。綱の範囲の外に人間がたくさん待機しているのも、彼が気に食わない理由の一つだった。
 文字通り土を蹴立てて、一直線に“ぎざ耳”が突進してくる。
首筋に嫌な感触を覚えつつも、鴻はしっかり間合いを見計らって身をかわした。
ところがそれを追うように“ぎざ耳”の蹄もまた向きを変えた。二歩、三歩。引く者と追うもの。
(なるほど、休戦中も相手を観察していたのは俺だけじゃなかったってことか。)
“ぎざ耳”の頭のよさは、鴻も承知している。小手先のかく乱は通用しないだろう。
係留綱と馬体とに囲まれてしまわないように気をつけながら、鴻は右に左にと“ぎざ耳”の突進をかわしていく。
体格差の分、鴻のほうが小回りも利く。勿論それは“ぎざ耳”のほうも承知しているから、追撃の手を緩めない。
 「小雛様…。」
前回と同じく、璃珠がはらはらしながらしぼり出すように呟く。
何しろ前回鴻がこてんぱんにやられた現場を目撃しているわけだから、不安もその分割り増しされているのだ。
 その隣では舞陽が、腕を組み唇を引き結んだままじっと人馬の戦いを見つめていた。
…まるで、亡き夫の代わりにこれを見届けるのが自分の役目なのだとでも言わんばかりに。
「どうした! 逃げてばかりでは何も進展しないぞ!!」
「外野は黙っててくれ!!」
…すかさず返事をするだけの余裕があるということか。舞陽の顔にほんの少し苦笑が浮かんだ。この妙な余裕の出所、いったい誰に似たのやら。
 “ぎざ耳”の動きが、突然ぴたりと止まった。
舞い上がった土煙が風に流されていく。
鼻を大きく広げ呼吸を整える“ぎざ耳”と、肩で息をつく鴻。どちらも目線を外さない。互いに隙と隙を探りあう。
衆目たちですら、時が止まってしまったかのような錯覚を覚えることしばし。
 動いたのは、鴻のほうだった。それも、誰もが予想していなかった行動をとったのである。
 地を蹴った次の瞬間、鴻の体は“ぎざ耳”の背にあった。両の手はしっかりとたてがみをつかんでいる。
 咆哮と表してもいいいななきが、大地に轟いた。
 “ぎざ耳”の体が大きく跳ね上がる。後足立ち、体を大きく左へねじる。
誰しもが倒れると思った瞬間、絶妙な身のこなしで平衡を保ち前足を着地させたかと思うと、今度は天を衝かんばかりに後足で蹴り上げた。
蹄が空を切る音が、璃珠の耳にも届く。
 璃珠の顔は真っ青だ。対照的にやはり舞陽は軽く眉を動かしただけである。
とはいえお腹を痛めて産んだ我が子だ、今にも飛び出していきたい衝動と戦っている証拠に、強く握り締められた拳の内側はじっとりと汗ばんでいる。
それでも踏み止まっていられるのは、強い信念があるからに他ならない。
 それでも、鴻は“ぎざ耳”にしがみ付いていた。
つかまっていられる場所など無い裸馬である。たてがみを放したら最後、振り落とされて今度こそ踏み潰されるだろう。
“ぎざ耳”はなおも縦横無尽に跳ね、ひねり、揺さぶり、駆け、鴻を振り落とそうとする。
唇をめくり歯を剥き出し、ぎろりと剥いた目は背中の「異物」に向けられている。
 (“ぎざ耳”は、試しているんだ。)
鴻が自分を欲しているのだということは、“ぎざ耳”だって解っているはずだ。
勿論“ぎざ耳”の自尊心もあるだろう。人間などに乗りこなされてたまるか、という意地もあるのかもしれない。
では何故、先日青幡党に襲われたとき、鴻を助けてくれたのか。
…思いすごしかもしれない、錯覚なのかもしれない。気まぐれだったのかもしれない、いやあれが気まぐれだったのだとしても。
(俺を認めて、機会をくれた。)
“ぎざ耳”は、鴻の挑戦を真正面から受けてくれた。かかってこいと言ってきた。そうでなければこうも簡単に「背中」を取らせてなどくれなかったはずだ。
(だから……!)
 視界はめまぐるしく上下が入れ替わり、脳ごと揺さぶられ続けているため平衡感覚もだんだんと薄れてくる。どちらが天でどちらが地なのか、わからなくなりつつある。
それでも、鴻は必死の形相で“ぎざ耳”にしがみ付いていた。
 上下左右に揺さぶられる中ではつかまっているのが精一杯…誰もがそう思っていた。
けれど次の瞬間鴻は、さらにとんでもない行動にでていた。
(勝負だ!!)
 先述のとおり、“ぎざ耳”は頭絡をつけられ、綱でつながれている。
“ぎざ耳”が暴れると、その長い綱も唸りを上げてたわむのだが、鴻は“ぎざ耳”にしがみ付いていた手を片方離すと、その綱を取ろうと伸ばしたのだ。
勿論その分、体を固定する箇所が減ることになる。
頭絡に近い部分をつかまれ“ぎざ耳”の頭がぐいと横を向かされたのと、鴻の体が大きく横に滑ったのは、ほぼ同時だった。
璃珠の悲鳴が響き、さすがの舞陽も半歩踏み出しかける。
 馬の眼は顔の側面にある。綱を引かれ頭を横に向けられた“ぎざ耳”の目と、ずり落ちながらも面を上げた鴻の目とが、合った。
“ぎざ耳”の目に映った鴻は……不敵な笑みを浮かべていた。
(まだまだ!)
口を開けば舌を噛みそうなので言葉にはしないが。
群れで行動する動物は、他の個体の心理状況を読み取る能力が高いといわれている。その瞬間“ぎざ耳”の目の周りの筋肉がわずかに動いたのを、鴻は捉えていた。
相手の目には鴻の姿が映っている。
さらに力を込めて綱を引く。その分“ぎざ耳”の首もねじられる。“ぎざ耳”の喉から怒りの音が上がった。太く力強い脚が大地を蹴る。
そのとき、跳ね上げられた土くれの欠片のひとつが、鴻の顔面に直撃した。
「!」
どうやら少し目に入ってしまったらしい。痛くて目を開けられない……!
予想外のことに一瞬注意が逸れたのが致命的となった。
今までに無く高く立ち上がった“ぎざ耳”に鴻は体の平衡を崩し、馬の背から滑り落ちてしまったのである。
それでも綱を離さなかったのはさすがだが、そのために彼は新たな危険を呼ぶことになってしまった。
頭に近い位置で綱をつかんでいる鴻は、“ぎざ耳”にとっては歯も前脚のひづめも確実に届く、絶好の位置に居ることになる。
 「いかん!」
青くなった環坐が短く叫んだ。
嶺斑が水の入った桶を手に取ったときにはもう、舞陽が三歩駆け出していた。
璃珠は恐怖のあまりがくがくと震え、涙を拭くのも忘れている。
誰しもが、“ぎざ耳”の全体重が乗ったひづめが少年の体を激しく打ち据えるさまを想像した、まさにそのときだった。
 鴻が咆哮した。
 先ほどの“ぎざ耳”の怒りの声を打ち消し、さらには凌駕する、雄叫び。綱をつかんで“ぎざ耳”の頭を押さえつけたまま、鴻は真っ向から『意思』をぶつけた。
 空気が、止まった。
 鴻も、“ぎざ耳”も。先ほどとは一転し、まるで凍り付いてしまったかのように微動だにしない。
目はまだ痛くて開けられない。しかし両者の間には他者の介入を許さない、静かな戦いがまだ続いていた。
先ほどまでもうもうと立ち上っていた土煙が、ゆっくりと草原を渡る風に流されていく。
 力で従える気は無い。むしろ回避したいと思っていた。
けれど、“ぎざ耳”のほうはそうは思っていない。
真の駿馬は自ら主を選ぶというではないか。“ぎざ耳”は鴻を試しているのだ。――自分の主たるに相応しい器量を持ち合わせた相手なのかを。
先ほどまでは鴻自身が己を奮い立たせるために心中で繰り返していただけなのだが、けれどそれは今、確信に変わった。
(お前が望む方法で、それでも駄目なら諦める。)
視覚に頼れなくても、びりびりと感じる、“ぎざ耳”の『威』思。
(でも、だからこそ、負けられない!)
 ――どれほどの時間が経ったのだろうか。
永遠とも刹那とも思われる時間が流れたころ、ふと、手綱にみなぎっていた緊張感が突然消えた。
ほぼ同時であったが。ほんの、ほんの少しだけ、“ぎざ耳”のほうが早かった。
 そして、その瞬間。『全て』が決まった。
 かくん、と鴻の膝が折れた。すとん、と体が落ちていく。
あっ、と思う間も無く無意識に伸ばした手が、“ぎざ耳”の首につかまっていた。
 “ぎざ耳”は、逃げなかった。ただ静かに、少年を見下ろしていた。
その眼差しは、いままでのものとは少しばかり異なっているように、璃珠には見えた。


 馮州の草原の真ん中で。白鴻は、命を預けられる相棒を、手に入れたのだった。

          ◆   ◆   ◆

 短い夏が終わろうとしている馮州の草原を、南に向かう人馬の姿がある。
 「次に来られるのは、いつなんだろうな。」
ぽくりぽくりと歩を進める馬の鞍上で、鴻はぽつりと呟き空を仰いだ。どこまでもどこまでも高い馮州の空は、今日もその青さで地上の人々を見守っていた。
「お前さえその気になれば、いつでも戻ってきていいんだぞ。」
独り言だったのだが、風向きが悪かったのか聞こえてしまったらしい。先を行く母が、やはり馬上から振り返りもせずにそんな言葉を返してくれた。
「…そりゃ、『いつかは』また来なくちゃいけないんだけどさ。」
正直言って。瑞府で生まれて瑞府で育った鴻にとっては、馮州は『帰る』ところではなく『行く』という感覚でしかない。いまは、まだ。
別れ際の元寿の眼差しや、白家の跡取りとしての立場や、g玉相手に派手に啖呵きったことを思い出すと、後ろめたいものを覚えなくもないが。
「第一。相談もせず勝手にそんなこと決めたりしたら、桃香姉さんが黙っているとは思えない。」
あの人なら例え馮州だろうがわざわざ乗り込んできて、デコピンをお見舞いしてくれそうである。そんなことをぼやくと、母が背中で笑った。
「いつまで桃香の言いなりになっているつもりだ、お前は。」
「姉さんがお嫁に行くまでは逆らえないよ、きっと。」
父が亡くなり母が宮殿で要職に就いている以上、結果的に家庭内を取り仕切っているのは長子の桃香である。
もう七年もそんな状態が続いているので、すっかり条件反射になってしまっていた。
「それに…そのときは……。」
肩越しに振り返ると、察したのか乗馬が足を止めた。北威の街はもうずいぶん前に、地平の彼方に消えてしまった。
 彼がまたがっている馬の、鞍から綱が伸びている。少し長めに取られたその綱のもう一方の端には、右耳が半分千切れた牡馬が一頭、つながれていた。
覚悟を決めたとでもいうような表情でここまでおとなしくついてきていた彼も同じように、一歩一歩遠くなりつつある故郷を振り返っていた。
 「璃珠には、ちゃんと挨拶をしてきたのか?」
「え? ああ、うん…。」
半分上の空で返事をしてから、鴻は草原の真ん中で一緒に暮らした家族の一人の顔を思い出していた。
草原の真ん中に風に揺られてぽつりとひとつ、けれどもしっかりと上を向いてけなげに咲く、小さな小さな白い花。
それに似たあの少女の笑顔が、くっきりと脳裏に焼きついていた。…泣かせるような目にも遭わせることになってしまったのが心苦しいが…。
「急な帰り支度でばたばたしていたから、あんまり話せなかったけど。」
環坐や嶺斑にはきちんと礼を言えたのだが、彼女は父にg玉の世話を言いつけられてしまったため、別れの挨拶をするのが精一杯だった。
最も親しく接してくれた相手だったから、是非お礼が言いたかったのに…。
本当の妹のように感じ始めていたくらいだったので、名残惜しさもひとしおだ。
(…別に、もう二度と会えなくなるわけじゃないんだし。)
未練を断ち切るように頭を大きく振ると、鴻は乗馬に脚を入れた。少々嫌がったが、“ぎざ耳”もおとなしくとことことついてきた。
先日までの暴れ馬と同一とは思えないほどの従順振りである。――それが彼なりのけじめのつけ方なのではないか、と鴻は解釈している。
…もしかしたら反撃の機会を耽々とうかがっているだけなのかもしれないけれど…。
 「…そういえば、g玉さんはどうなるの?」
「お前の知ったことじゃない。」
返ってきた返事は非常にそっけないものだった。
「というか、私にもわからん。どうかなるのだとしたら、それは劉家が決めることだ。
もっとも、あの娘はここ一年ほど実家に帰っていなかったようだが。」
彼女は怪我が治るまでの間環坐一家が預かり、その後元寿が迎えに来るということで話がついているらしい。
「それとも、お前はg玉をどうにかしたいのか? …お前は、北威ではそれだけの発言力があるんだぞ。」
そんなことを言われて、鴻は一瞬面食らった。
何しろ北威の街に滞在していた期間よりも、草原の真ん中で“ぎざ耳”のことに頭を悩ませている時間のほうがずっと長かったし、濃かったのだ。
母が言おうとしていることの意味は解るのだが、いまいち実感が湧かない、というのが正直なところであった。
「そりゃ、あの人に言われたこととかされた事とか…腹は立ったし、今でもやっぱりすっきりしないけどさ。」
そういえば結局、彼女が怒った顔しか見られなかったな。
「でも、」
「でも?」
「……ううん、なんでもない。」
g玉に敵意を向けられなければ。あれだけの意識の差を直接にぶつけられなければ。
果たして己の中の『民族』というものについて、ここまで深く考える機会があったかどうか。
たまたまg玉だっただけで、他の人――呵眼に直接狙われていたかもしれないし、あるいは草原ではなく街中での騒ぎになっていたかもしれない。
「…なんだかいろいろありすぎて、疲れちゃって、迅雷(じんらい)のことで精一杯で、怒る元気まで使いきっちゃったんだろうな、きっと。」
「……それならば、私も何もいうことは無い。」
g玉の敵意は、そう簡単に消えはしないだろう。消えるくらいなら、あそこまでこじれたりしなかっただろうから。そして、これからも。けれど。
(いきなり本番で揉めるよりは、良かった…んだろうなぁ。)
近い将来、白家の頭領として再びこの地に帰ってきたとき。『そういう感情』もあるのだ、ということが予め判っているのなら、きっと。
(…あ、でも…やっぱり何もしてないのに睨まれたり恨まれたり…ってのは、嬉しくないよな、うん……。)
 「…ところで、なんだその迅雷というのは?」
考え事をしていたら、再び母の声が飛んできた。
慌てて面を上げると……“ぎざ耳”が彼の馬の前を歩いていた。馬腹を蹴り歩調を少し上げ、“ぎざ耳”の前に出る。
“ぎざ耳”はつまらなさそうに鴻を一瞥したが、綱を引っ張ったり急に方向を変えたりというようなことはしなかった。
「あれ? 話してなかったっけ?」
母の問いに、鴻はなんだか意味ありげな笑みを浮かべて、ちぎれ耳の馬の方に視線だけを向けた。
滅多に見せない得意気な表情は、少し父親のそれに似ているように舞陽の目に映った。
「…こいつの新しい名前だよ。都に行くんだから、いつまでも『ぎざ耳』なんて通り名のままっていうのも、どうかと思ってさ。」
気性といい、あの暴れぶりといい。これ以上ぴったりな名前は無いだろう?と問うと、母はしげしげと人馬を見比べた挙句。
「…確かにぴったりだが、……今以上に手に負えなくなくなるかもしれんぞ?」
主と認めさせたはいいが、まだようやく引かれることを覚えただけである。
馬具をつけられることも、ましてや人を乗せて走ることも、これから覚えさせねばならないのだ。本当の戦いはこれからなのである。
「う…まぁ、なんとかするさ。」
ちょっと困ったように――しかし悲嘆しているようには見えない――笑った鴻の左後ろで、“ぎざ耳”改め迅雷が、誇らしげに尾を大きく一振りしたのだった。

[終劇]


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