北騎迅雷(前編)
巍国万世拾遺譚 目次へ

 巍国の北部、とりわけ大河對江(たいこう)以北には、広大な草原地帯が広がっている。
 かつてこの草原は、遊牧を生業とする瀏(りゅう)族が支配する地域だった。
もともと華央とは異なり、畑作に向く土壌ではなかったこともある。
しかしながら、億を越える家畜が草を食んでもなおたっぷりとお釣りがくるほどの豊かな草があった。
 その草原地帯に、對江の南岸から農耕民族である浴iほう)族が移り住むようになったのは、一体いつの頃からだったろうか。
 勿論、文化・風習の異なる民族が接触すれば争いが起こるのは必定。例に漏れず、瀏・翌モたつの民族間でもまた、不幸な衝突は幾度となく繰り返された。
 だが、それでも。同時に、平和を模索する動きも必ず現れるものだ。
永い時間と複雑な過程を経て、この地には両民族の生活様式を巧みに融和する部族も現れるようになった。
 少なくとも、巍以前に華央を支配していた「榎(か)」が建国されたときには既に、草原地帯には多くの卵ーが根を下ろしていた…と正史にもある。
そして、華央の者と同じように定住し、封建社会に馴染んでいった瀏族も同じように存在した。
 伝統的な瀏族の生活様式を今も頑なに守り続けている者を『古瀏族』、定住し卵ーの社会に融合していった者たちを『華央型瀏族』と称する学者もいる。
 なお、巍の正式文書では、『古瀏族』を『狛(はく)族』と称する。
これは、いまだ巍にまつろわぬ彼らを、『華央型瀏族』と特に区別するため故意につけた蔑称である。しかしながら、呼称が異なっても両者の祖先が同一である事実は変わらない。
 そしてやはりというか、伝統を忘れ農耕民族の生活様式を取り入れていった同胞たちを、『誇りを失った堕落者』として古瀏族は蔑視していたのである。
いや同胞であるが故に、その憎しみはより深いのだろう。
 ――「榎」が滅亡し、その後戦乱の世を平らげて建国された「巍」の世が、三百の暦を迎える今日に至ってもなお。

          ◆   ◆   ◆

 右を向いても左を向いても、地平線。いや、はるか左手の地平にかすかに山並みが見えるから、その表現は正しくないか。
ぽこりぽこりと揺れる馬の背で、少年はこの日二十数度目になる溜息をついた。
 歳は今年十二になるが、加冠の儀(成人式)はまだ済ませていない。
髷(まげ)は結わず、後ろで軽く束ねただけの髪とそれがのっている肌は、華央の周辺では瀏族にしか出ない色をしている。
しかし顔立ちと身につけている衣装は、卵ーのそれだった。
對江の北岸、それこそ對州(たいしゅう)や寛州(かんしゅう)では特に珍しくもなんともない容姿であるが、それが帝国北部国境をなす馮州(ひょうしゅう)ともなると純血の瀏族のほうが圧倒的に多くなってくるから、やはり少し浮いてくることになるのだろう。
 (まぁ、それは別にいいんだけど…。)
もう一つ嘆息しながら、少年は心中でひとりごちた。
今朝寛州最北の村を発ってから、ほぼ一日。昼食を含め何度か休息を取りこそしたが、それ以外はずーーっと馬に揺られ続けている。
乗馬というのは存外体力を消耗するもので、若いというよりもまだ子供の域を出ていない少年にとって、この旅程はなかなかにきついものだった。
鞍にぶつかる尻は痛くて仕方が無いし、自身を支えるためにしっかりと馬体を挟まなくてはならない太腿などすっかりむくんでしまって感覚が無くなりかけている。
だがそんな彼の様子に気づいているのかいないのか、先行する栗毛にまたがった同行者は、いたって涼しい顔のまま手綱を握っていた。
 「母さん。」
とうとう耐えられなくなって、少年は連れの背に声をかけた。自分で思っていた以上に情けない声音になってしまい、またげんなりする。
「次の町まであとどれくらいあるの?」
腹が減った、柔らかい布団が恋しい、いやそれよりも今すぐ鞍から降りて強張った体を大地に投げ出したい! …そんな欲求ばかりがぐるぐると頭を駆け巡っている。
だが母の言葉を聞いた瞬間、少年は本当に卒倒しそうになった。
「よくて明日だな。だがこの調子のままだと明後日がせいぜいか。」
肩越しに振り返った母は、やはり涼しい顔をしていた。
こちらは身につけている衣装こそ卵ーのものだが、顔立ちも色素も彼女が純血の瀏族であることを示している。
「あ、明後日!? じゃあ今夜の宿は? 集落とはいかなくても人家くらいは…。」
「あるように見えるのか?」
…返す言葉が出てこない。たっぷり五十数える間、夏の日の魚のように口をぱくぱくさせていた少年だったが。
「今夜は野宿だ。」
とどめともいえるその一言に、とうとう馬上から墜落してしまった。


 少年は名を白鴻(はく・こう)といった。鴻とは『大きな水鳥』という意味なので、小字(幼少時の愛称)を小雛(しょうすう/「小さなひよこちゃん」という意味)という。
 鴻は、巍国の都が置かれている恒陽という大都市で生まれ育った。両親が共に恒陽で職に就いていたからである。
だが、その両親はいずれも恒陽の出身ではなかった。父は帝国東部にある甲州の出身だし、母は父の故郷から何千里も隔てられた馮州で生まれた。
偶然がいくつも重なって二人は出会い、一度はそれぞれの道を歩むことになったが、何年も経ってから恒陽で再会し、華燭の典(かしょくのてん/結婚式)を挙げたのである。
 その母の故郷に、二人は向かう途上であった。
 鴻の母である白潤(はく・じゅん)――字は舞陽(ぶよう)は、馮州に古くから連なる豪族白家の長――頭領でもある。
巍は建国当時から、能力さえあれば女性にも立身出世の道が多少なりとも開かれているという非常に画期的な国なのだが、それでも名実共に一族の頂点に女性が立つというのはやはり珍しい。
 結婚してからもその役目を担っていたのだが、めでたく男児に恵まれたため、頃合を見計らって家督を長男に譲ることになっていた。
その長男――鴻を一族の者に披露するのが、この旅行の主な目的だった。
 鴻自身はまだ加冠を済ませていないのだが、将来は国に仕えることを希望しているので、頭領就任前に馮州に住まう一族の元を訪ねる機会は、今を置いてなかったのである。


 帝国の北部国境をなす馮州の、さらに最北端に位置する城市、北威(ほくい)。そこが、白舞陽の故郷だった。
 城市といってもここ馮州では、農耕民族である卵ーたちが長く覇権を争ってきた華央のそれとは異なり、非常に簡素なつくりになっていた。
元々遊牧民である瀏族にとって、「土地」というのは「家畜」よりも関心の薄いものであったかららしい。
それでも集落の周囲に盛り土をし壁を築き門を設えるようになったのは、「狛族」が華央化した同胞を許していなかったからというのと、巍という国が国境を設け「狛族」を非自国民として暗に認めたところにもよるのだろう。
 それでも瀏族はやはり瀏族、ということらしい。北威へと向かう道すがら、北へ向かえば向かうほど、鴻は家畜の群れを追う瀏族の自由民たちの姿を何度も見かけた。
 北威の街にたどり着くと、事前に連絡がいっていたらしく(筆まめな舞陽のことだから、恒陽を出立する前に信書の一つ二つも送っていたのだろう)、城門をくぐるとすぐに、どこからもなく白家の遣いだという者が現れた。
舞陽とも顔見知りらしく、再会の挨拶を交わすとあっさり手綱を渡してしまったので、鴻も素直に彼に従った。
 (なんだ、普通の町じゃないか…。)
瀏族である白家の、頭領の地位に就くことが約束されている身である。
舞陽は決して強要などしなかったが、それでも鴻はそれとなく、普段から瀏族というものについて調べていた。
本来の瀏族は定住などしないと聞いていたので、町もさぞや質素もしくは簡素なものなのだろうなぁと高をくくっていたのだが。
 確かに、帝都恒陽とは比較にもならない。だが、道中で立ち寄ってきたいくつかの都市とも決して見劣りしないどころか、なかなかの賑わいをみせていた。
表面上は対立している二つの瀏族も、時代が下るにつれて互いの生活様式に憧れや関心を抱く者も現れるようになっている。
その境目に当たる北威の町は、彼らが交わる数少ない場所なのだろう。
 荷を積んで通りを行く牛馬の数も多いし、特産品である毛織物を商う店も軒を連ねている。
その毛織物を買い付けに来た帝国中南部の商人と思われる卵ーの姿もよく見かけたし、そんな彼ら目当てと思われる宿屋も決して少なくなかった。
歓楽街だけでなく普通の食堂やちょっとした屋台でも馬乳酒――文字通り、馬の乳を発酵させて作った濁り酒――を用意しているので、どこに行っても独特の香りが漂っていて、それだけはさすがに鴻も閉口した。
多少は酒もたしなむし、馬乳酒自体それほど強い酒ではないらしいが、これほど「町に染み付いている」と臭いだけで酔ってしまいそうである。
それに気づいた舞陽は「すぐに慣れる」と言って笑った。なんでも自身、似たように「その土地の臭い」に悩まされたことがあったらしい。
若い頃は仕事で全国を飛び回っていたそうだから、他にもそんなところがあったのだろう。
 白の屋敷は、そんな北威の中でも大きな家が集まっている一角にあった。
一角と言ってもそこは瀏族の土地、柵などといった無粋な境界線は無い。いや実際はあるのかもしれないが、あまり意味をなさないということなのだろう。
敷地(と思われる)の一角に大きな建物が数棟集まっており、母子はそこへと誘われた。
 「頭領殿のお帰りだ!」
出迎えてくれたのは白い髪と髭(ひげ)の老人だった。
老人といっても腰がしっかり伸びていて動きもかくしゃくとしたものである。
本家の留守を預かる舞陽の叔父――鴻にとっては大叔父にあたる――、封(ほう)だ。字(あざな/本名以外の呼び名)を元寿(げんじゅ)という。
 「ご無沙汰しておりました。長く留守をお任せしてしまい申し訳ありません。」
「おお、そなたも健勝そうで何より。そちらはご子息かな?」
そう言って、白元寿は少年に目を向けた。老齢であるにもかかわらず大柄な元寿は、女性としては長身である舞陽よりもさらに拳一つ分ほども背が高い。
どちらにしろ成長期に入ったばかりの鴻にとって、物理的にも精神的にも二人はまだまだ見上げる高さの人だった。
「はい、鴻と申します。よしなに。」
予め教えられていた瀏族式の挨拶をしたのも良い方向に働いたらしい。元寿は目を細めた。
「そうかそうか。いや、そう畏まられずともよい、次期頭領殿。なるほど、確かに亡き父君の面影がある。両親から良いところを受け継がれたようだ。」
複雑な事情が背景にあることと、多忙だったこともあり、鴻の父である李明槐は結局馮州を訪ねることなく亡くなった。
故に一族の者たちは舞陽の夫の顔を知らない。
ただ元寿だけは十数年前、両親が結婚した際に馮州白一族の代表として恒陽に上り列席したため、面識があった。
「恐れ入ります。」
 と、普通ならここで屋内に招かれるわけだが。
「他人行儀などせずともよいと申し上げている。それ、まずはこれを。」
奥から現れた使用人から何かを受け取り、元寿はにっこり笑った。そして受け取ったものを母子に差し出す。それは……。
「さぁさ遠慮なさるな。これが瀏族伝統の、客人を迎える作法。ぐいっといかれよ。」
渡されたのは、両手で持つような大杯。そこになみなみと注がれていたのは、白濁した酒だった。
乳が醗酵した独特の匂いが鴻の鼻腔を直撃する。躊躇が面(おもて)に出なかったかと一瞬ひやりとしながら、隣に立つ母の顔を見上げると。
既に彼女に渡された杯は空になっており、軽く満足げな吐息を漏らしていた。
「? どうした?」
「え、いやその……。」
しどろもどろになっていると。
「馬乳酒は、初めてかね?」
笑いながら――だが嫌味など微塵も含まれていない――元寿老人は鴻を見やった。観念して素直にうなずくと、「正直なことだ、結構結構」と元寿は好々爺の顔になった。
「母君は洟(はな)垂れの頃から酒豪であったからな。基準にするのがそもそも間違いだて。」
「叔父上。久し振りに帰った姪に会うなり、洟垂れとはなんですか。」
「まあ冗談はさておき。」
胸まで伸びた白いあごひげをしごくと元寿老人は表情を改め、そっと鴻に耳打ちした。
「初めてならなおのこと。今のうちに慣れておかれるがいい。…将来瀏の者を束ねるのであるのなら、なおさらな。」
後で聞かされたのだが。
瀏族は客人に対してまず馬乳酒を振舞うのを礼儀としている。客人のほうも振舞われた馬乳酒を断るのは礼儀に反する。
その「礼儀」を押さえることができなくては、瀏族を本当の意味で束ねることなど、到底できないのであった。
 改めて鴻は手にした大杯を覗き込んだ。濁り酒からは発酵乳独特の甘ったるい香りがほのかに漂っている。
しばしの逡巡の後意を決すると、鴻は一息に北の酒を流し込んだのだった。


 その夜。白の本家では近在に住まう一族の者を集めて、盛大な酒宴が催された。勿論主役は久し振りに帰還した現頭領と、次期頭領である。
 白一族の鴻に対する反応は、概ね好意的なものであった。
懸念材料であった「卵ーとの混血」も、少なくとも表面上はすんなりと受け入れられた。
何しろ瀏の民が卵ーと深く関わるようになってから流れた年月は、百年二百年ではない。
帝国最北端の町北威といえども、仕事や日常生活の中で卵ーの者と関わる機会は少なくないし、一族でも末端になればかなり翌フ血が入ってきている。
今更取りざたすまでもない、ということなのだろうか。
しかし宴の最中ふと目をやったとき、ほんのわずかな間だが、母の横顔に寂しげな陰が通り抜けていったのが、鴻には判った。
 元寿老人の予言どおり、鴻は主賓ということもあって次から次へと雨のように馬乳酒を勧められた。
それを一つ一つ捌いていったものだから、またしても参加者を喜ばせることになり。
もともと馬乳酒は薄い酒であり、放牧等で何日も旅をするときなど瀏族は水代わりに飲んでいるほど軽いのだが。
それでも、いくら軽くても量を飲めばやはり利いてくる。
甘酸っぱい独特の口当たりと、慣れない食事(羊の脳みそや眼球の料理など初めて食べた!)に、とうとう鴻は隙をみて宴席からそっと抜け出した。
 ふらりと屋外に出ると、夜が早いのか、それとも恒陽が賑わいすぎなのか、周囲は既に真っ暗であった。屋内からは賑やかな談笑がここまで漏れ聞こえてくる。
それを遠くに聞きながら、鴻は壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
静かに見上げるとそこには満天の星空があり、銀漢(天の川)をなす星の一つ一つがくっきりと映った。
 (あ、北斗星だ…。)
北の空の高い位置にかかる七つの柄杓星は、南の南斗六星(射手座)と並んで、人の生死を司る星とされている。今日はそのいずれもがよく見えた。
 頭がぽわぽわする。さすがに飲みすぎたか。すっかり水っぽくなった体をようよう持ち上げて、物陰へ向かおうとしたときだった。
 気配を感じ、鴻は足を止めた。それも、どちらかというとやや棘のある気配である…。
「おい。」
肩越しに振り返ったのと、声をかけられたのは同時だった。
 そこにあったのは、鴻と同じくらいの背格好をした人物だった。薄い三日月が出ているので輪郭は判るが、さすがに顔までは判らない。
「白梅将軍」の二つ名を持つ母に幼い頃から稽古をつけられてきただけあって、酔いが回り始めているにもかかわらず、鴻は無意識に身構えていた。
「誰だ。」
「お前か、都会から来たという横取り野郎は。」
台詞後半の意味を飲み込むより早く。何かが鴻の顔の横をかすめていった。それが刃ではなく拳だと気づき少しばかり安堵を覚えたときには、第二撃が迫っていた。
「何をする!?」
「それはこっちの台詞だ! 今頃になってのこのこと現れて。そして大きな顔して次期頭領だと!? ふざけるな! 面の皮が厚いにもほどがある!!」
どうやら、鴻が次期頭領に内定していることを快く思っていない者のようだ。ということは、白の一族の者か。
「とっとと馮州から出て行け! そして二度と戻ってくるな!!」
その間にも拳の嵐が続く。その一つ一つを、鴻は丁寧にかわしていった。
齢十四にして早くも「小舞陽」との呼び声が高い姉翠蘭に、「守備だけは一人前」と言わしめた少年である。
防御に徹しているうちに、回るどころかいつの間にか酔いは醒めていった。
 「黙って聞いてりゃ言いたい放題…。」
頭は覚醒してきたものの、はっきり言って気分は良くない。闇討ちをかけられるのを歓迎する者はいないだろう。
刃物を所持していないところを見ると、さすがに命を取る気は無いようだ。
襲撃者の言わんとしていることは概ね把握できたが、しかし鴻にだって言い分はある。それを聴きもせずに一方的に攻撃してきたのだから、鴻にだって反撃の権利は…あるはずだ。
 何度目かの拳をかわすと、伸びたその腕を鴻はいきなり両の手で掴んだ。ぎょっとした相手の動きが一瞬止まる。
そのまま相手の体を引き寄せ足を軽く払ってやると、襲撃者の体は面白いほど簡単に地面に転がった。
「きゃっ!」
倒れた衝撃で低くうめいた襲撃者を、しかし鴻は取り押さえたりはしなかった。わずかに乱れた呼吸を整えながら、静かに見下ろしている。
相手が一族の者だと察しがついてしまったから、事を荒立てないほうがいいという意識が働き、ではどうすればいいのか咄嗟に思いつかなかったというのもあった。
……そもそも「きゃっ!」とはどういうことだ???
 「何事だ!?」
しかし鴻の思惑とは裏腹に、駆けつけてくる数人の足音が耳に届いた。やはり騒ぎが届いてしまったらしい。
誰かが持ってきたらしい明かりがさっと、鴻と襲撃者を照らし出した。
「g玉(きぎょく)!?」
駆けつけてきた男たちの一人が呟いた。
「こんなところで何をしている?」
しかしg玉と呼ばれた少女――女の子だったのだ!――は満面に浮かべた苦渋を隠すかのように顔をそむけると、隙をみて跳ね起き、あっという間に夜闇の中に消えてしまった。
 「怪我は無いかね?」
遅れてやってきた元寿老人が未来の頭領に尋ねる。鴻は静かにうなずいた。
「はい。よけるのは得意ですから。」
そして、g玉が去っていった方に目をやる。集まってきた大人たちはなにやら目配せをし合っていたが、誰一人として少女を追おうという者はいなかった。
「彼女も白家の人なんですか? 宴の席では見かけなかったように思いますが…。」
言ってしまってから、誘っても出席しなかっただろうな、と気づく。何しろこの宴の主賓はまさしく自分だったのだから。
あの様子だと、同じ部屋にいることさえ苦痛に感じるのだろう。
「あの子は…白姓ではないからな。」
誰かがぽつんと呟く。元寿の表情が微妙にゆがんだのを察したのか、それ以上は誰も何も言わない。
思わぬ形で宴を妨げられることになり、誰もが気分を害しているのは鴻の目にも良く判ったから、それ以上のことを尋ねることはできなかった。
 一人、また一人と母屋へと引き上げていき、最後に残ったのは…。
「じゃじゃ馬だとは聞いていたが、相当のものだなあれは。」
g玉が去った夜闇に視線を投げながら呟いた『元祖じゃじゃ馬』に、鴻は妙な表情をした。
「母さん、今の子知っているの?」
「知っているも何も。元寿殿の孫娘…お前のはとこだよ、彼女は。」
「はとこ?」
…確かに、ここは白の本家で親戚ばかりうじゃうじゃ居るところだから、いとこだのはとこだのが居てもなんら不思議は無い。だが。
「初対面でいきなり殴りかかられるとは、思わなかったな。」
初対面どころか、彼女の存在自体、つい先ほどまで知らなかった。
「劉家に嫁いだ元寿殿の娘…つまり私の従姉妹だな、それの子だ。」
「じゃあ、別に文句を言われる筋合いは無いわけだ。」
「? 何か言われたのか?」
しばし迷ったが、鴻は「大したことじゃないよ」と答えておいた。……少なくともそのときは本当に、大したことではないと、思っていた。

          ◆   ◆   ◆

 翌日。鴻は舞陽と共に、元寿の案内で北威の郊外へとやってきた。
 馮州は毛織物やなめし皮を用いた革製品などの生産が盛んで広く巍国内でも流通しているが、同時に国内有数の馬産地でもあった。
特に北威で産する馬は馮馬(ひょうめ)と称され、東海の貴州で産する邯馬(かんば)と称される馬よりも一回り大きな体格とがっしりした体つきが特徴である。
丈夫で粗食にも耐えるため軍馬として古くから重用されており、また建国帝が愛用していたということもあり、今でも毎年皇室に献上されている。
献上された馬は皇帝から家臣に下賜され、馮馬を所有するのは中央高官の間でも一種の証や象徴のようなものになっていた。
 またそれとは別に、瀏族は馬をとても大切にする民族であった。
これは彼らの先祖が草原を家畜と共に移動しながら生活していた頃の名残でもある。華央化した今でも、瀏の子供たちは物心ついた頃から馬の背で過ごすのが常である。
彼らにとって馬を操るのは、人と出会ったら挨拶をするのと同じくらい日常的な、且つ当たり前のことであった。
 だから、舞陽が長男に相応しい駿馬を求めたのも、また元寿が知人にすばらしい生産者がいるから頼んで選りすぐりの一頭を進呈しようと申し出てくれたのも、当然の流れであった。
 北威の城門を出ると、そこはもう草原である。
巍の国が興る前から多くの人馬が行き来したという「道」を一刻(約二時間)ほど騎馬でたどっていくと、やがて大地に起伏がみられるようになる。
平原といっても「まっ平ら」というわけではないのだ。
 半日ほど馬を進めてたどり着いた丘陵の頂上から、臨む下方にちょっとした湖――池というにはいささか広すぎる――があり、その周辺に大小さまざまな「点々」が、集まるでなく散るでなく展開しているのが三人の目に入った。
その「点々」の一つ一つが、馬であり羊であり山羊(やぎ)であり牛であり駱駝(らくだ)であると気づいたのは、そのうちの二つが風を切ってこちらに近づいて来るのが鴻の目に入った頃だった。
 「こんにちは、元寿様。」
先に声をかけてきたのは、白茶まだら模様の馬に乗った若者だった。
程よく日に焼けた肌に真っ白い歯が映える好青年である。伝統的な瀏族の衣装を身につけ、頭には布を巻いていた。
近くまで馬を寄せると、若者とその連れは鞍から降りた。
「こんにちは、嶺斑(れいはん)。環坐(かんざ)はどこかね?」
「あいにくと、父は昨日から出掛けていて留守をしております。戻るのは明日になるかと。母でしたら天幕の方に居りますが。」
嶺斑と呼ばれた若者はそう言って、ちらりと背後の群れに目をやった。湖のほとりに天幕が二つあるのが、ここからでもよく見えた。
「そうか…。実は彼に、」
元寿に目配せされて、嶺斑は初めて鴻と舞陽に目を向けた。
「駿馬(しゅんめ/すぐれた馬)を贈ることになってな。選びに来たのだが…。」
そして元寿は、鴻とその母が白の本家筋の者であると説明した。
「馬を見せてくれるかね?」
「元寿様を追い返したとあっては、後々父に叱られます。どうぞゆっくりご覧になっていってください。今年もいい仔馬がたくさん生まれましたよ…。」
そうして再び馬上の人となると、嶺斑は鮮やかに馬首を返した。
見栄えこそ悪いが、彼のまたがるまだら馬が近隣ではちょっと名の知れた名馬であると鴻が知ったのは、二日後のことである。
だが、今目を引かれたのはそのまだら馬でも嶺斑の見事な手綱さばきでもなく、彼の後ろにひっそりと従っている少女だった。
嶺斑と同じように馬首を返す手並みは決して引けをとらない。ちらりと肩越しに振り返って鴻と目が合うと、さっと頬を染めて正面を向いてしまった。
歳は鴻より少し下、少なくとも十歳にはなっていないように思われた。
おさげに編んだ髪の先に小さな白い花が一輪挿してあり、それが馬の歩調に合わせて軽やかに揺れるのを、鴻はまるで吸い寄せられるように見つめていた。
 「あの娘は?」
息子の視線の先に気づき、舞陽がそっと叔父に尋ねる。
「嶺斑の妹で、名は確か愛といったか。周囲の者は別の名で呼んでいるようだが。」
「なかなかの乗り手のようですね。」
「ふむ、さすがは白の頭領。早速見抜いたか。」
「馬を操るのは、何も瀏族だけの特権ではありませんよ。
名騎手と呼ばれる乗り手を帝国全土で何人も見てきたが。あの歳であれだけの手綱さばき、将来が楽しみだ。」
 嶺斑とその家族は、北威の近郊で遊牧を行う自由民なのだそうだ。
夏場はこの湖周辺に留まり、最初の秋風が吹くまで毎年ここでたらふく夏草を家畜に食わせるのだという。
瀏族の古い習慣と生活様式を今も守っているが、かといってさらに北方に住まう古瀏族の面々とは異なり、華央――對江南岸から帝国中東部にかけて広がる大平原地帯で、有史以前からの卵ーの縄張り――の生活様式も一部取り入れている。
現に、嶺斑が腰に提げている短刀に刻まれた文様は、帝国南部に住まう沽(こ)族に伝わるものだ。
馬・羊・牛・山羊・駱駝を瀏族は特に「五畜」と称するのだが、本来瀏族はこの五畜以外の肉は決して口にしないのだという。
だが「俺は鳥や鹿の肉も食ったことがあるぞ」と嶺斑は笑った。鹿は森や山に棲む動物だから、草原に住む彼らにとってはかなりの珍味だっただろう。
 毛織物と狩った獣の毛皮を半年に一度町で売り、その代価で茶や米や麦や薬や…時に珍しい道具や書物などを得る。それが、北威周辺で営みを続けてきた瀏族の一般的な生活形式だった。
中でも、異民族を撃退したり乱を鎮圧したりなどして住民の信頼を得、土地の豪族となったのが「北威十二旗」と呼ばれる者たちで、白一族もその一角に連なる。
家格が高い者の中には、学問を積み武を修め、中央へ仕官する者も珍しくなくなっていた。舞陽や彼女の末妹である白天華あたりがその代表格であろう。
 嶺斑とその妹に誘われて、鴻たちは湖の際に集まっている馬群へと近寄っていった。
嶺斑の父環坐は、この辺りでも所有する家畜の数が多いことで名の知れた人物らしい。ざっと見ただけでも、馬だけで裕に三百頭はいそうだ。
見慣れぬ人間の接近に、馬たちの間に小さな緊張が走る。仲間たちの間を掻き分けて一頭の牡馬が彼らの前に現れたのは、そんなときだった。
 「出てきたな、“ぎざ耳”。」
自身がまたがるまだら馬よりも一回り大きい鹿毛(かげ/馬の毛色の一種)の牡馬を前にして、嶺斑はやや苦味交じりの不敵な笑みを浮かべた。
その呼び名の通り、牡馬の右の耳が半分食い千切られたかのように破れている。首も足も太く、がっしりとした体つきをしており、胸板も厚い。
伸び放題のたてがみの間から覗く鋭い眼光が、まっすぐに嶺斑と…鴻を睨みつけていた。
「群れの長か?」
舞陽の問いに、嶺斑は牡馬と対峙したまま頷き返した。
「…申し訳ありませんが。もしこいつを気に入られたのでしたら、諦めてください。
…惜しいわけじゃありません。“ぎざ耳”は誰にも懐かないんです。うちの持ち馬ですが、こいつに触れた人間は、今まで誰一人としていないんですよ。
その証拠に生まれてこの方、誰にもたてがみの手入れをさせていない。
今こうして出てきたのも、俺たちが馬を物色しに来たと解っているからで、妨害するのが目的なんですから。」
「ほう…。」
なんということの無い呟きだったが。思わず鴻と元寿は互いの顔を見た。残念ながらこの二人とも、現白家頭領の性癖を熟知している人間であった。
「…舞陽。おぬしも環坐の腕前は知っておろう? その環坐にも嶺斑にも手に負えぬ馬を…。」
「承知しておりますよ、叔父上。ですが。」
そこで舞陽は、ちらりと息子の方に視線を向けた。そこに浮かんでいる表情を見て、鴻の脳裏をいやぁな予感がかすめた。
「…戦場というのは、何が起きるか全く予断を許さない場所です。そんなところで、はたして凡馬に命を預けられるものでしょうか。
多少癇が強くても、頭が良く力があり、何より強い精神力をもった馬こそ、最上の軍馬であると私は考えます。そして私は…。」
「何か」あったときには主人を守って戦場を自力で脱出するだけの力と賢さを備えた馬を、武人を志す息子に与えたい。そんな言外の言葉を、元寿は確かに聞いた。
「ふむ…長年戦場を渡り歩いてきたおぬしの意見だ、尤も至極。
しかし乗るのは小雛であって、おぬしではないのだぞ? 当の小雛に乗りこなせなければ、いかに名馬といえども…。」
叔父の言葉に舞陽は答えず。ただ無言のまま、息子に顔を向けた。それを見て、改めて嶺斑は色をなした。
「舞陽様! 次代の御大将に怪我をさせるわけには、いきません! 冗談抜きで、あばらの一本や二本じゃ済まされませんよ!?」
鴻に何かあった場合、嶺斑や環坐の責任になりかねないのだ。
彼らは自由民であり白家の家臣ではないが。それでも地元の有力豪族を向こうに回すようなことはしたくないに決まっている。しかし。
「決めるのは、私ではない。」
促されて、嶺斑は少年を見た。
 周囲のやりとりに、鴻は一切参加していなかった。いや…そんなやりとりが交わされていることにすら、気づいていなかった。
彼の注意はただ一点、今、彼の目の前にいる悍馬(かんば/荒っぽい性質の馬)に向けられていた。
(……こいつ、俺のことを量っている…。俺が乗りこなせないということが判っているから、嘲笑っているんだ…。)
それもまた、仕方の無いことだと思う。
彼は母とは違いおっとりした性格の持ち主だから、自ら進んで悍馬に挑戦しようなどとは思わない。多少能力は劣っても、素直な性格の馬のほうがいいなぁと思っていた。だが。
 “ぎざ耳”の注意は、初めから舞陽にではなく自分に向けられている。それはつまり…“ぎざ耳”が自分に関心を持っていることもまた同時に示していた。
「やれるものならやってみろ」。そんな挑戦状を馬のほうから叩きつけられたような気がした。
そして…半分とはいえ、鴻もまた瀏の血を引く男に相違無かった。
 「いいよ、やってみる。」
意外なほどあっさりと、そんな言葉が鴻の口からこぼれた。
一つには、昨夜のg玉とのやりとりを思い出したから、というのもある。
もしここで引き下がったりして、そしてそのことが彼女の耳にでも入ろうものなら、彼女を勢いづかせるのは明白であった。
「やってみて、それでも駄目だったら、また別の馬を探せばいいだけだもの。そうだよね、母さん?」
そう言いながらも、鴻の目はずっと“ぎざ耳”の目を捉えていた。まるで、先に目を離したほうが即敗北、とでもいうように。
 「…だそうだ。」
舞陽に促され。嶺斑は静かに、だが深々と嘆息した。こうなった以上、この母子は言を撤回するようなことはしないだろう。少なくとも彼はそう感じた。
「……解りました。父が戻ったらこいつをお譲りするよう、説得してみます。けど、調教までは面倒見ませんからね?」
馬主の息子の言葉に、舞陽は満足げな笑みを、元寿は少し困ったような苦笑を浮かべたのだった。

          ◆   ◆   ◆

 翌日。嶺斑の父環坐の帰還と承諾を待って、“ぎざ耳”の捕獲作戦が開始された。
 何しろ「たてがみの手入れ」すらさせない馬である。
鞍(くら/馬の背に乗せる、人が乗るための座席のようなもの)はもとより轡(くつわ/馬の口周りにつける馬具。これにつないだ手綱を使って馬を操縦する)や頭絡(とうらく/馬の頭部につける馬具。「はみ(馬の口に入れ、手綱をつなぐ馬具)」が付いていないものを特に「無口頭絡(むくちとうらく)」と呼ぶ)すら付けたことがないのだ。
だから「捕まえる」だけでも一苦労である。
棒の先に革製の紐をつけ、紐を輪にする。それを馬の首に引っ掛けて捕まえるわけだが――。
 環坐と嶺斑、近在に放牧に訪れている環坐の友人知人たち、さらには舞陽まで加わって、それぞれに馬を駆って“ぎざ耳”を、まずは群れから離しにかかる。
だがそれを嘲笑うかのように、“ぎざ耳”は人を乗せた馬たちの間を右に左に、時には自ら突進したりして、ことごとくかわしてしまう。
人間たちが操るのは、いずれもよく調教され騎手の命令に従順な馬ばかりなのだが、そんな馬たちの足を“ぎざ耳”は全身から発する「闘気」とでもいうようなものだけですくませてしまうのも、一度や二度ではなかった。
 後で嶺斑の妹から聞いた話なのだが、“ぎざ耳”はまだ五歳らしい。
馬の五歳は人間に換算すると二十代半ばといったところなので、まだまだ気力体力とも充実どころか上り調子の真っ只中だ。当然持久力もある。
普通の馬なら革紐を引っ掛けて捕獲するのに四半刻(約三十分)かかるかどうかなのだが、結局“ぎざ耳”を捕まえることができたのは、八人がかりで翌日の夕刻、さすがの“ぎざ耳”も疲れ果てて脚が鈍るのを待ってのことだった。
 とりあえず無口頭絡だけは付けてしまわないと繋いでおくこともできないのだが……やはり八人がかりで押さえつけてようやく作業を終えたものの、その作業の間に、馬の扱いに練達しているはずの彼らですら内五人が噛まれたり蹴られたりして、手当てを受けることになってしまった。
憤怒の形相で“ぎざ耳”は人間たちを睨みつけていたが、こうなった以上もうどうしようもない。
 「…楽しそうじゃの。」
あちこち擦り傷だらけになりながらも、娘時代のような生き生きとした表情で汗を拭いながら戻ってきた姪に、元寿はやや呆れたように声をかけた。
「…もう二十年近くも前になりますか。貴州の知人から馬を一頭譲り受けたのですよ。」
嶺斑の妹から清涼飲料水扱いの馬乳酒が入った革袋を受け取り、口に含む。
「牝馬のくせに気性が荒く、しかも葦毛(あしげ/馬の毛色の一種)。その知人には「悪いことは言わぬから、やめておけ」とさんざん言われましたが。
結局私はその葦毛と、いくつもの戦場を、帝国のありとあらゆる州を、ともに駆け巡ってきました。」
葦毛は毛色が白っぽい分、周囲の景色から浮き上がって見える。故に戦場では的にされやすい。
知人が反対したのもそれが理由なのだが、舞陽は「大丈夫だから」と結局説き伏せてしまった。
むしろ自身が目立つことによって「囮(おとり)」になることを望んだのである。
そして、葦毛はそんな主人の期待に十二分に応えてくれたのだった。
 その葦毛も、数年前に老衰で往生した。体力的に劣る牝馬の身で激務をこなした上でその歳まで生きたのだから、かなりの器だったことになる。
「“ぎざ耳”はその葦毛を彷彿とさせるのですよ」と舞陽は笑った。
「“ぎざ耳”を小雛の乗騎にと強く推したのも、それが理由か?」
「そういうわけではありませんが…。
…あの子は、思慮深いといえば聞こえが良いが、何事に対しても腰を上げるのが遅いところがありましてね。」
ふい、と舞陽は視線を、いまだ抵抗を諦めない牡馬と、その真正面に静かに立っている息子とに向けた。
「ただ……あの男なら、同じ『焚きつける』にしても、もっと上手くやったことでしょう…。」
「…明槐殿のことかね?」
舞陽は答えなかったが、代わりに静かな微笑を浮かべていた。


 そんな大叔父と母のやりとりなど一向に気づかず。鴻はただ静かに“ぎざ耳”を見つめていた。
勿論、わずかでも隙を見せようものなら噛み付いたり蹴飛ばしたりしてくれようと眈々と機会をうかがっている“ぎざ耳”の、射程距離には入らないように気をつけてはいる。
けれど、だからといって挑発したりなどしない。ただ、ひたすらじっと、“ぎざ耳”が落ち着くのを、待っていた。
「…小雛様…。」
そんな彼にそっと声をかけたのは、鴻のすぐ後ろに隠れるように寄り添っていた嶺斑の妹だった。
周りが大人ばかりなので、昨日今日と、歳の近い二人は自然と近くに居ることが多かった。
名を愛というが、周囲からは璃珠(りしゅ)と呼ばれているらしい。
「その…本当に、“ぎざ耳”に乗るおつもりなんですか…?」
璃珠は自由民環坐の娘だ。彼女も兄の嶺斑も、この世に生れ落ちたそのときから、周囲には常に馬が居た。
だから、決して“ぎざ耳”を恐れているわけではない。あの見事な手綱さばきとは対照的に控えめな言動は、単に彼女の性格によるものだ。
「…璃珠は反対なの?」
小さく、璃珠は首を振った。
「父様も兄様も、ずっと前から“ぎざ耳”はすばらしい駿馬だって、言っていました。
上手く調教したらきっと帝国、ううん、世界中に轟くような名馬になるだろうって。私もそう思います。
でも…“ぎざ耳”は人間が嫌いだから…。」
「嫌い? 何かあったの?」
尋ねる鴻に、しかし璃珠は首を捻った。
「仔馬のときに、何かとても嫌な目に遭ったみたいなんです。『ぎざ耳』になったのもそのときみたいです。
でも、私は小さかったから、よく知らないんです…。」
「ふうん…。」
“ぎざ耳”は五歳だというから、五年前の話なのだろう。
璃珠はまだ九歳だというから、五年前に“ぎざ耳”の身に何が起きたのかなど、知らなくても仕方あるまい。
「でも…。」
「でも?」
「私…“ぎざ耳”のこと、嫌いじゃないんです。」
 そんなやりとりを交わしている間に、いつの間にか“ぎざ耳”は大人しくなっていた。
あんなに暴れていたのに、引き綱を引きちぎろうとも、杭を引きずり抜こうとも、自分をじっと見つめている少年少女に土塊を飛ばすことも、やめてしまった。
うつむいて、乱れた呼吸を整えている。
さすがに疲れたのだろう、と鴻は思ったのだが、近寄ろうとした彼の袖を、しかし璃珠は強く引いた。
「どうしたの?」
「待っているんです。」
「え?」
「小雛様が、届くところまで近づいてくるのを、待っているんです。
耳も目も、小雛様のほうを向いているから。暴れるふりをしながらずっと、小雛様の動きを見ていたんです。」
ここで普通の人間なら「なんて性格の悪い馬だ」と感じるところである。
しかし鴻は。
「…頭が良いんだね。」
「はい。」
鴻の言葉に、璃珠はにっこりと笑った。
髪に挿したそれと同じように、とてもとても地味でひっそりと、だけどけなげに短い夏を迎えて一生懸命に咲く、草原の小さな小さな白い花のような笑みだった。
「“ぎざ耳”は、人間は嫌いだけど、仲間の馬はとってもとっても大事にします。
群れに生まれた仔馬が間違って近づいてきても、邪魔にしないで、逆に面倒をみたりするんです。
お母さん馬も、“ぎざ耳”が子供に近寄っても怒らないんです。
だから、私は“ぎざ耳”が好きなんです。」
そういえば、嶺斑も言っていた。
初めて“ぎざ耳”と会ったとき、“ぎざ耳”が自分から人間と群れとの間に立ちふさがるように出てきたのは、仲間を守るためである、と。
決してただ癇(かん)が強いだけの馬ではないのだと、この家族は理解しているのだ。
「でも俺はその、君の好きな“ぎざ耳”を自分のものにして、都に連れて行こうとしているんだよ? 仲間から引き離そうとしているんだよ?」
「……“ぎざ耳”とさよならするのは…寂しい。」
「じゃあ、どうして俺の手伝いをしてくれるの?」
「それは……。」
璃珠自身にも、どう表現していいものかわからないらしい。しばし言いよどんだ後、ようやく適切な言葉を見つけた。
「私…見てみたいんです。“ぎざ耳”が誰かを乗せて走っているところを。
最初に“ぎざ耳”に乗るのはきっと兄様だと思っていたんだけど…でも小雛様でもいいかなぁって、そう思ったんです。」
「……環坐さんにも嶺斑さんにもできないことが、俺にできるのかなぁ…。」
ぎざ耳の、鋭すぎる眼光を受けながら、鴻は静かに嘆息した。
 正直言って。鴻は早くも後悔し始めていた。
あの時は思わずああ言ってしまったけれど。
でもいざ目の前に“ぎざ耳”をつれてこられると…鴻の心はどんどん重くなっていった。
本当に、自分はこの暴れ馬を調教して自分のものとすることができるのかどうか、どうしたら“ぎざ耳”は自分に心を開いてくれるのか。
考えれば考えるほど、途方に暮れてしまう。
そして…“ぎざ耳”は恐らくきっと、そんな鴻の心の中を見抜いているに違いない。そんな眼差しだった。


 最初から北威には一ヶ月前後滞在する予定だったので、幸いにも鴻は“ぎざ耳”とゆっくり向かい合うことができた。
しかし元寿と舞陽はそういうわけにもいかない。環坐に鴻を預けると、二人は北威の町へと帰っていった。
 翌日。環坐から与えられた小さな天幕を出て身支度を整えると、鴻は“ぎざ耳”の元へと向かった。
 生まれも育ちも都会である鴻も、さすがに三日目ともなると天幕の生活にも慣れてきた。
固い寝台も肉食中心の食事も、馮州へといたる道中で母が少しずつ慣らしてくれたからだろう、それほど抵抗は無かった。
将来仕官していずこかへと派遣されるようなことがあればこんな生活も珍しくもなくなるのだろう。そう考えれば、少なくとも天幕生活を嫌だとは思わなかった。
 顔を洗う前に鴻がまっ先に向かったのは、やはり“ぎざ耳”のもとだった。
 “ぎざ耳”は、無口頭絡の左右に二本の手綱をつけられ、それぞれを二本の杭に結わえ付けられていた。
馬にいうことをきかせるのであれば「はみ」をかませるのが最も良いのだが、さすがにそこまでのことはできなかった。
“ぎざ耳”なら、本当に人間の指を噛み千切るくらい、わけない。
 ともかく、二本の杭の間で“ぎざ耳”は、ほとんど身動きが取れない状態にされていたのだ。
自尊心の強い“ぎざ耳”がそれでおとなしくなるとは、さすがに鴻も思っていない。
だが“ぎざ耳”が夜中に暴れていた形跡は無かったし、彼の周りの地面もそれから杭も、全く異常はみられなかった。
(力を温存しているのか…?)
そうとしか思えない。その証拠に。
「!」
鴻が視界に入った途端、“ぎざ耳”はぎろりと鋭い視線を飛ばしてきた。一歩でも自分の射程圏内に入ろうものなら即蹴り殺してやる、そんな目だった。
“ぎざ耳”の前には、そのあたりから刈り集めてきた草と水桶が置かれているが、草の山には全く手がつけられておらず、水桶にいたっては倒されて空になっていた。
地面が既に乾いているところを見ると、蹴倒されたのは昨夜のそれも早い段階で、以来“ぎざ耳”は一滴の水も飲んでいないことになる。
 「お前が、」
“ぎざ耳”の真正面に、昨日と同じように静かにたたずんだまま。鴻はゆっくりと口が開いた。ぴくり、と“ぎざ耳”の耳が動く。
「人間が嫌いだって話は、璃珠から聞いたよ。だから、お前は俺のことも嫌いなんだろうな。」
ぶふん、と“ぎざ耳”の鼻が鳴った。いらいらと地面をかきむしる。
「でもさ。俺を負かす為だけに飢えるのって、馬鹿馬鹿しいって、思わないか?」
ぶるん、と首を振る…が二本の手綱にがっちりとおさえつけられているため、かなわなかった。
こうでもしておかないと、“ぎざ耳”なら革製の手綱を噛み千切るくらい、やってのけかねないのだ。
「勝負は勝負。空腹でよろよろになったお前を負かしたって、面白くないからな。
お前が食べるまで、俺は何もしない。恒陽にも帰らない。
…気の長さにはちょっと自信があるんだ。」
“ぎざ耳”の目をまっすぐに見つめてそう言うと、鴻はふらりと一歩踏み出した。“ぎざ耳”の耳が真後ろを向く。
だがそれに気付いているのかいないのか、水桶をゆっくり拾い上げると、鴻はそのまま何もせず、牡馬の前から静かに立ち去った。
 “ぎざ耳”は。
 何もしなかった。
 睨み付けるような視線は相変わらずである。
だが、拾い上げた水桶を持って何をするでもなく行ってしまった鴻を、“ぎざ耳”はただ、見送ったのみであった。
 “ぎざ耳”がつながれている杭から離れて戻ってきたとき初めて、鴻は天幕の陰に青い顔をした璃珠がいたことに気づいた。どうやら始終を見ていたらしい。
「…小雛様…!」
「えーっと…心配かけちゃったのかなもしかして。」
「びっくりしました! いつ“ぎざ耳”に蹴られるかって、どきどきしちゃって、怖くて、でも声を出したら“ぎざ耳”が暴れだすだろうし…。」
言いながら、璃珠の目からは涙がぽろぽろとこぼれていった。本当に、心底心配してくれていたのだろう。
その涙に鴻は、正直言ってかなり慌てた。
少なくとも彼の知っている女性という生き物――三人の姉と母――は、こんな表情を見せたことなど無い。だから…どうしていいのか、とっさにわからなくなってしまったのだ。
年下ということ、そして弟しかいないということもあって、鴻は璃珠に対して「妹がいたらこんな感じかなぁ」といった感覚を抱いていた。
「どうしてあんな無茶をしたんですか!? 父様や兄様だって用心しているのに…!」
「……どうしてって…。」
問われて、鴻は返答に困ってしまった。何故なら…。
「……どうしてなんだろう???」
水桶が空になっていた。だから新しいのを汲んできてやろうと思った。それだけだ。
どうせ「勝負」が始まったら、一旦“ぎざ耳”をあの杭から外さなければならなくなる。嫌も応も無く傷だらけにさせられるに決まっている。
“ぎざ耳”にしてみれば、慌てなくても鴻をぼこぼこにする機会は充分に用意されているのだ。
だから“ぎざ耳”はそれまで怒りを蓄えておくだろう……などと、ぼんやりと考えていた。
確信などは全く無く、ただ漠然と甘い見解でいただけなのだが、幸か不幸か、“ぎざ耳”は本当に手出ししてこなかったのだった。
「もう! 絶対そんな無茶はしないでくださいねっ!」
安堵してかえって怒りでも湧いてきたのか。そう言うと璃珠はぷいっと横を向き、そのまま家族と共に住まう天幕へと帰っていってしまった。
環坐一家の天幕からは朝餉(あさげ/朝食)の支度をする煙が立ち昇っており、食欲をそそる匂いが風に乗ってゆっくりと漂ってきた。


 環坐の一家は四人だが、抱えている家畜の数が多いので、環坐の弟――嶺斑や璃珠からは叔父にあたる――の家族と共に暮らしていた。
ただし、家畜の面倒は共に見るが、家自体は別である。叔父一家は叔父一家で天幕をひとつ構えていた。
 食事は環坐一家と共に摂ることになっていた。
 先に出てきた「五畜」の乳を巧みに使い分け、瀏族の食卓にはさまざまな乳製品が並ぶ。肉も食する。
野菜は滅多に食べないが、時折毛皮や毛織物を売った代価で穀類や茶を購入する。
特に茶は、青菜を食する習慣の無い遊牧生活者にとって無くてはならないものだった。これもまた、瀏と翌フ生活様式が微妙に混ぜ合わさった形といえよう。
 「一度おうかがいしたかったのですが。」
食後の茶を楽しみながら、ふと話題を振ってきたのは嶺斑だった。
「なんでしょう?」
瀏族の天幕は、中央にかまどをしつらえ、その周囲に家族全員の居住空間が存在する。間仕切りは無く、寝食全て、家族は同じ空間で過ごす。
食事はその家の中心となるかまどを囲んで摂るため、鴻と嶺斑は隣りあわせで座っていた。
「小雛様は都からいらしたんですよね? 都って、どんなところなんですか?」
「都に、行きたいのか?」
鴻が答えるより早く、環坐が息子を睥睨した。言葉にも態度にも、息子が都に関心を持つことを快く思っていないということがありありと出ていた。
「そういうわけじゃない。」
父の意図を察し、嶺斑は慌てて否定した。
「ただ…馮の州牧(州の知事)様は馮馬を毎年皇帝陛下に献上しているだろう? うちからも去年一頭出したし。
…馬たちが送られる都ってどんなところなんだろうなって、思っただけさ。」
「俺はまだ仕官していないんで詳しいことは判りませんが。」
そう前置きすると、鴻は空になった湯呑みを置いた。
「…皇帝陛下から馮馬を下賜されるのは、巍の官吏にとって大変な名誉なのだと聞いています。馮馬を持っているというだけで、自慢できるんです。
…俺が馮州に行くことが決まったとき、姉は随分悔しがっていました。」
 すぐ上の姉翠蘭は、凱星という名の黒馬を所有している。
白家の厩(うまや)で生まれた馬なので、母は当初、次期頭領である鴻にその仔馬を与えるつもりであったのだが…翠蘭が熱心に世話をしたため彼女のいうことしか聞かなくなってしまったのである。
それで、「では挨拶に行ったついでに馮州で駿馬を見つけてこよう」ということになったのだった。
 「ここいらならともかく、華央の翌フ民に馮馬の本当の良さを引き出してやることができるとは思えんがな。」
「でも父様、小雛様のお父様は翌フ人だってうかがったのよ?」
「そうなんですか?」
娘の言葉に環坐、今度は目をしばたかせた。
「はい。父は甲州の出身で、純血の卵ーだと聞いています。」
「そいつぁ…ちとまずいかもしれませんなぁ……。」
眉間に縦じわを寄せた環坐に、鴻は嶺斑に問うような視線を向けてみたが、嶺斑も彼の母もまた同じように厳しい表情になっている。璃珠だけがきょとんと鴻を見返した。
「まずい?」
「小雛様、劉g玉(りゅう・きぎょく)様という方を御存知ですか? 元寿様のお孫さんなのですが…。」
知っているも何もなかなかに強烈な歓迎をされたと話すと、環坐の眉間のしわはさらに深くなった。
「そのg玉様が、青幡党(せいはんとう)の連中と一緒にいるところを見たことがある、という者が何人もいるんです。」
「なんです? その青幡党というのは。」
まぁ、とおびえた表情を浮かべた璃珠の隣で、鴻が不思議そうな顔をする。
「二十年前の内乱のとき、巍からの独立を謳い瀏族の国家を作ろうと動いていた蒼播(そうは)という一団があったのはご存知でしょう?
青幡党はその残党…というか、蒼播団を英雄視した若者たちが勝手に後継を名乗り、徒党を組んだものです。」
実際、独立運動を起こした蒼播団は、中央からはともかく北威を中心とした地域に住まう瀏族の間でそれなりに人気があったのは事実だ。
しかしそれは巍の治安が悪化し、中央を頼れないのであれば自分たちで平和な国を築いてやろう、という色が強いものだった。しかし。
「青幡党は、蒼播団の後継を謳ってはいるが、中身は全然違います。蒼播団が目指したのは、『瀏族のための国』でした。
しかし青幡党が目指しているのは…。」
「『民族回帰』と『血の浄化』。」
ぽつりと呟いたのは、環坐。
「民族…回帰?」
「『瀏族には瀏族の伝統と文化と誇りがある。それを守り子孫に伝えていくのに他民族は不要。瀏族の国に住んでいいのは純血の瀏族だけ』
ということですよ。」
嘆息交じりで嶺斑はそう説明した。淡々と語ってはいるが、嶺斑の表情はとても苦しげだ。
「それでも最初のうちは、『自分たちの文化と伝統を大切にしよう』といったところから始まったんです。
それが、いったいいつから『混血の根絶やし』なんてものを掲げるようになったのか…。」
「…………。」
鴻、言葉が出なくなってしまった。
 民族回帰と血の浄化を謳う、青幡党。
 青幡党の者とつながりがある(らしい)、元寿の孫、劉g玉。
 元寿は鴻の大叔父で、現頭領である母舞陽の代わりに北威の留守を預かってきた。
 白舞陽は卵ーの男と結婚し、五人の子を儲けている。
 そして北威の有力豪族である白家の、次期頭領に内定しているのが、その混血の子である、自分。
(なぁるほど、問答無用で殴りかかってくるわけだ…。)
今までぐちゃぐちゃに絡まっていた糸が、一気に解けたような感覚だった。解けたのだが…。
(あんまり現実的な考え方じゃないよなぁ。)
鴻自身が混血だからというのもあるが、それを除いても白一族の中にだってそれなりに卵ーの血が入ってきているのは前述の通りである。
北威の町にも馮州の他の都市にも、双方の血が流れている者は大勢暮らしている。
それらを『根絶やしにして理想国家を建設する』などというのは、現実に対してかなり逆行した考えであることは否めない。
 第一、『瀏族の古きよき伝統を今日も頑なに守り続けている』者は既にいる。巍の北方に住まう狛族――古瀏族――だ。
こちらは蒼播団が現れるよりもっと前、今から四十年も前に統一を成し遂げている。 だが、それが国家の樹立にまで至らなかったのは単純に、耕作地に代表される「不動産」を財政基盤とした『国家』という統治形態そのものが、家畜や貴金属といった「動産」が財産の中心となる狛族の文化とは相反するものだったからである。
 いずれにせよ、青幡党が巍国内の瀏族から支持を得るのは難しいだろう。
 「で、元寿様はその…g玉さんのことはご存知なんですか?」
ようようそう口にすると、環坐は無言でうなずいた。
「g玉様のことは幼い頃から私もよく存じ上げておりますよ。あの方の馬も、うちから買っていただいたものです。
あんなに素直でいいお嬢さんだったのに、一体どうして…。」
それまで黙っていた環坐の妻が、そっと袖で目元を拭う。
 「とにかく青幡党は、最近は悪い噂しか聞きません。小雛様もできれば関わり合いにならないほうがいいかと。」
「g玉さんが放置してくれるのなら、そうします。」
環坐たちに無用な心配をかけまいと、苦笑しながらそう言った鴻であったが。
先日の彼女の様子と、自分の置かれている立場を考えると、心の雲は随分と分厚く感じられたのだった。


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