大室寅之祐の問題の写真
[風船爆弾は雅(みやび)な兵器]
(Photographs in question of Toranosuke Ohmuro)

★この画面を閉じる時はブラウザ右上の[x]ボタンを押して下さい。
 (If you want to close this window, push upper-right [x]-button.)

 ■フルベッキ一派と長崎で撮った大室寅之祐の「問題の写真」
 下が「問題の写真」です(△1のp273)。1865(慶応元)年の春(=2月半ば~3月18日)に「勤皇の志士」たちが世界情勢に明るい長崎のフルベッキ博士(※1)の元に集結した折に撮ったもの(地元の写真家・上野彦馬氏が撮影)で、博士の息子も写って居る和気藹々とした雰囲気です。そして前列の少し引っ込んだ所に大室寅之祐(=後の明治天皇)が刀の柄(つか)を抱いて座って居ます。
 この写真は撮影した30年後の、創刊間も無い1895(明治28)年雑誌『太陽』(※2)に載ったもので、この時は政治的圧力が可なり掛かり一部で政治問題に成りましたが(←『太陽』は真相を偽り「佐賀藩の学生たち」として掲載に発禁処分を免れた)、例に因って問題が一般に広がる前に”有耶無耶”に処理されました。斯くて、今この写真が有る事自体が殆ど知られて居ません。


 この写真が「明治天皇=大室寅之祐説」の証拠の1つに成って居るのです。しかし、この写真は偽物だという意見も有ります。
 この写真を見て、どの様に判断するかは貴方(貴女)次第です!

 下が人物の氏名と上の写真との照合図です(△1のp273)。「勤皇の志士」の錚々たる顔ぶれが写って居ます。


 重要な名前をピックアップすると勝海舟/伊藤博文/大久保利通/西郷隆盛/五代友厚/陸奥宗光/中岡慎太郎/大隈重信/フルベッキ博士/高杉晋作/大村益次郎/桂小五郎/坂本竜馬(龍馬)etc、そして大室寅之祐(後の明治天皇)です。維新政府(=明治政府)誕生のキーマン(keyman)(※1-1)に成った勝海舟西郷隆盛が居ます、維新政府の首相に成った伊藤博文大隈重信も居れば五代友厚の様に実業家も居ます、かと思えば坂本竜馬中岡慎太郎の様に大政奉還の直後に暗殺された人物も居ます。そして中央に維新政府顧問フルベッキが写って居ます。そして本サブページのキーマン(keyman)である岩倉具視(※3、※3-1)は見えませんが、岩倉姓は4人居て何れも具視の縁者(←具慶(養父)、具定、具綱、具経は子)です。
 貴方(貴女)はこのメンバーをどう思いますか?
 このメンバーを見て、どの様に判断するかは貴方(貴女)次第です!


 ここに明治天皇(※4)の束帯姿の御真影(※5)が在ります(右の写真、△2の口絵より)。頭に被っている物を纓(えい)(※5-1)と言います。これは1872年4月に写真家・内田九一氏が撮ったものです。上の写真の7年後という事ですね。
 もうちょっと顔を大きくしてみましょう。左下が寅之祐(刀の柄が目印で未だ摩り替わる前13歳(→後出))、右下が明治天皇です(摩り替わった後、20歳)。
 どうです?、左の寅之祐の写真が7年早いので表情にあどけなさが残って居ます。
 右の明治天皇の写真は目がギョロッとこちらを睨んで居ます。明治天皇はこの写真が好きで無かった様で御真影(→後出)には使われませんでした、余りにも表情が”生(なま)”過ぎますね。
 そして上の左右の写真は何れも、口の周りと言うか、下唇が突き出て居ます。明治天皇は下唇が突き出て居るのが特徴です。
 この写真を見て、どの様に判断するかは貴方(貴女)次第です!!

 もうお解りですね、これは正規の歴史では有りません、裏の歴史、即ち明治天皇に纏わる裏面史(※4-1)です。しかし明治天皇に関しては噂が早い段階に存在して居た事も事実です。『噂の真相』という雑誌が在りましたが、その明治天皇に関する「噂の真相」を究明してみようというのが本サブページの狙いです。メインページでは無くサブページにしたのも裏面史を扱うからです、お解りですね、ムッフッフ!

 ■明治天皇と大室寅之祐
 (1)年表で明治天皇のデータを整理
 先ずデータを整理する為に年表を作ります。主に【参考文献】△3のp360~381を基に<明治天皇と大室寅之祐の簡易年表>に纏めました。

    <明治天皇と大室寅之祐の簡易年表>

  1852年の旧暦9月22日(新暦11月3日)
    孝明天皇の第2皇子(※6~※6-2)として京都で生まれる。
      (生母は権大納言中山忠能(※6-3)の娘・中山慶子)
    名を睦仁、称号を祐宮(さちのみや)。
      (後に11月3日を明治節、今の「文化の日」とした)
  1854年4月6日、孝明天皇が居る京都御所が炎上
             祐宮と共に下賀茂神社に、次いで聖護院宮に避難。
             桂宮を仮皇居とする(祐宮1歳)。
  1858年6月19日、日米修好通商条約(※7)調印。
             攘夷派且つ公武合体派(※6-1)の孝明天皇激怒
              → 安政の大獄(~1859年)
  1860年9月28日、祐宮は睦仁親王と成る(8歳)。
  1863年6月、   高杉晋作が奇兵隊を組織。
  1864年7月19日、禁門の変(=蛤御門の変)(※8)が起き、
              睦仁(11歳)、紫宸殿で卒倒
    //  <この頃、伊藤俊輔(後の博文)(※3-2)が
         力士隊の寅之祐に目を付ける(寅之祐12歳)>

    //  <12月、力士隊(寅之祐が所属)が奇兵隊と共に挙兵>
  <1865年春、大室寅之祐はフルベッキ博士らと「問題の写真」を撮る
           (寅之祐13歳。睦仁親王は12歳)>

  1866年(慶応2)7月20日、公武合体派の将軍家茂が死去。
             (毒殺説が当初より有る、家茂20歳)
    //       12月25日、公武合体派の孝明天皇
             天然痘で突然崩御(35歳)。
             (岩倉具視(※3)の毒殺説等が当初より有る)
              睦仁(14歳)、孝明天皇の亡霊で不眠症に
  1867年(慶応3)1月9日、睦仁親王践祚(皇位継承)(14歳)。
    //       4月14日、奇兵隊の高杉晋作死去(28歳)。
    //       6月27日、一条美子が初めて睦仁に対面。
                  翌日に決定(△2のp173)。
                   (美子は実は3歳年上(※4-2))
    //       <7月8日、寅之祐と睦仁親王の”摩り替え”説>
                  睦仁親王は毒殺
    //       7月19日の『中山忠能日記』に
             「奇兵隊の天皇」(=大室寅之祐)の記述が在る。
  ▼---以後は明治天皇を大室寅之祐と読み替える必要有り---▼
    //       10月14日、大政奉還徳川慶喜、将軍を退く
    //        (11月15日、坂本竜馬・中岡新太郎、暗殺)
    //       12月9日、王政復古の大号令。
京 1868年(慶応4)1月15日、天皇の元服の儀。
都   //       3月14日、五箇条の御誓文発布。
    //       7月17日、江戸を東京に改める。
↑   //       8月27日、京都御所紫宸殿で即位の大礼
│                  正式に明治天皇(実は寅之祐に(15歳)。
└─  //  (明治元)9月8日、明治と改元。一世一元の制。
    //       9月20日(天皇初めて東京に出発)
             ~10月13日(東京に到着)
┌─            (江戸城西丸を皇居に(東京遷都))
│   //       12月18日、大嘗祭(※9)を行う(16歳)。
↓   //       12月28日、天皇、京都御所で一条美子と婚儀
  1871年7月14日、廃藩置県を宣言。
東   //  11月12日、欧米使節団(大使岩倉具視)を派遣。
京 <1872年4月、束帯姿の御真影を撮る(寅之祐20歳)>
  1872年12月、新暦に移行。
  1876年4月4日、天皇は岩倉具視邸に行幸
  1879年6月4日、東京招魂社を靖国神社と改称。
    //  8月18日、天皇は岩倉具視邸に行幸
    //  8月31日、嘉仁親王(後の大正天皇)誕生。27歳。
               (生母は柳原愛子(なるこ))
  1883年7月20日、岩倉具視死去。25日、国葬
  1890年10月30日、教育勅語を発布。
  1911年、南北朝正閏問題(※10)、明治天皇は南朝が正統とした。
  1912年7月30日、崩御(満59歳)。8月27日に明治天皇と追号。
              (大葬の日(9月13日)に乃木希典夫妻殉死
             御陵は京都の伏見桃山陵
  1915年、明治神宮を創建。祭神は明治天皇と昭憲皇太后。

  *.この<簡易年表>では満年齢を採用。

 上の<簡易年表>で、1872年12月新暦に移行前の月日は旧暦、それ以降は新暦です。又、天皇の年齢は宝算(※11)で記す事が多いですが、<簡易年表>では満年齢を採用して居ます。以下の記述でもこれに従い、各人物の年齢は満年齢で記します。

 (2)明治天皇、睦仁親王、大室寅之祐のデータを比較
 大室寅之祐の方は色々な説が入り乱れている感が有り、それがインターネットで増幅されて居るので”ガセネタ”を掴まされる危険性が在るので注意が必要です。しかし寅之祐に関しては文献資料が極めて少ないので私もネットに頼らざるを得ません
 そこで、私は「侍従と女官が明かした明治天皇の日常生活」(△3のp106~122)を主に参考に、先ず明治天皇(即位後)とはどういう人間だったのかを抜き出します。それから祐宮・睦仁親王の特徴を主に△2から抜き出します。
 一方、大室寅之祐は1852年1月10日の生まれらしいです。つまり寅之祐の方が半年位早いですが二人は略同じ年齢なのです。私は良くも略同じ年齢の”替え玉”を用意出来たものだと感心して仕舞います(後出)。寅之祐の方は色々情報が飛び交って居ますが信用出来る物をネットからピックアップします。

    <明治天皇の特徴>

  写真を撮られるのが嫌い(△3の口絵)
  和歌が大好き         明治天皇10万首、昭憲3万首が宮内庁に保管
 △京都弁
  新しい靴は嫌い
 △体が大きい          21~22貫、5尺6寸より高い
                 (約80kg、約170cm)
  性格は男性的         剛毅(△2のp281)
  剃刀を晩年は使わない
  酒に強い(△2のp277、453)
                 顔が赤黒かった
  やや近眼
  少し俯き加減に歩く
  時計・香水・指輪が大好き
  毎朝コーヒーを飲んだ
  巻煙草を吸った
  自分のことを「ワシ」と言った
  医者嫌い(△2のp455)
  学級肌では無い(△2のp280)
  乗馬が好き・月6回の乗馬(△2の273、301)

    <祐宮・睦仁親王の特徴>

  性格は女性的(殆ど女官が相手、△2のp90)
  和歌(孝明天皇が手解きした、△2のp87)
  勉強嫌い(△2のp87)

    <大室寅之祐の特徴>

  幼年期に痘瘡(天然痘)に罹り、口の周りに「あばた」が在る
   → 写真を撮られるのが嫌い
     「あばた」を隠す為に髭(ひげ)を生やした
  力士隊・奇兵隊に居たので相撲は好き、男性的
 ?睦仁親王は右利きだったのに、寅之祐は左利きだった

 明治天皇、睦仁親王、大室寅之祐の特徴は上の様に成ります。これらのデータを基に私は客観的に実証的に検証して行きます。この中で特に説明を要するものについて述べましょう。
 先ず「明治天皇は、写真があまりお好きでなかったようである。」と在ります(△3の昭憲皇太后の口絵写真が載っているページ)が、摩り替えをしたので顔写真を無闇に撮られたく無いという負い目が有るのです。又「あばた」にも負い目が有りますね。そして、やはり下唇が突き出て居ます。
 キヨッソーネ(※12)に描かせた洋装の「肖像画」を丸木利陽に写真に撮らせて「御真影」(右の写真、△3の口絵より)としました。無数の民衆が有り難がって額を地面に擦り付けて礼拝したのがこの写真です。これは明治政府の欧化政策とも合致していたのです。
 次に「明治様の10万首、昭憲様の3万首が宮内庁に保存されております」と出て来る和歌(△3の106)ですが、私は昭憲皇太后(※4-2、※4-3)は兎も角、明治天皇の数字は信用してません。1年は365日しか無く、1日1首だと273年、1日10首だと27年掛かります。特に学級肌でも無く体を動かす方が好きだった天皇は精々千首~5千首だろうと思って居ます。後は歌に秀でた部下が天皇に代わって詠んだのです。それを証明するかの様に「10万首にも及ぶ明治天皇の御製は、政務の暇を見て奉書のような紙に天皇自ら宸筆で書かれたものを、あとから係が清書し、もとの宸筆は焼き捨てられたそうである。...<中略>...実際に見たことがある宮中廷臣の唯一の証言によれば、それは極めて判読しにくいものであったという。」という記述が注に在ります(△2のp97)。何故焼き捨てたのか??、最初から10万首も無かったのです!
 その学級肌でもない天皇が「詩経」「孟子」「十八史略」「日本書紀」などの講義を受けて猛勉強して居ますが、やはり乗馬の方が好きだった様です(△2の301)。
 ”摩り替え”に不利な条件に成るのは、何と言っても体が大きい(約80kg、約170cm)ことです(△3の109)。今はこの位の人はザラですが当時はこれで目立ったのです。しかし「問題の写真」で見ると寅之祐(13歳)は痩せていて特に体が大きい様には見えません。寅之祐は13歳以降に体格が立派に成ったと考えるしか有りません、...これがちょっと難点ですね。
 もう一つ、「やさしく云われる時は京都弁聞こえないような、そうかと思うと大きな声でウンなどとおっしゃる。」と在ります(△3の111)が、これも難問です。寅之祐は殆ど京都には居なかったからです。只、上に在る様に京都弁を使う時は「聞こえないような」小さな声で話したと在りますから、本当は京都弁で無かったかも知れませんね。
 寅之祐は左利きだったと言いますが、侍従や女官たちの話には出て来ないので左利き説は私は懐疑的です。侍従や女官たちの話にも左利きの話は出て来ません、もし左利きだったら侍従や女官たちが気が付く筈ですから。しかし上の「極めて判読しにくい」字は左利きを現しているのかも知れません。
 筆遣いは達筆とは言い難いですね(右の写真、△3の口絵より)、個性的では有りますが。”摩り替え”支持派の中に達筆と言っている人が多く、右の写真は1892(明治25)年3月11日に伊藤博文の枢密院議長辞表を思い留まる様に諭したものですが、明治天皇の宸筆は「睦仁」だけです。「朕卿カ...」は達筆な部下の筆です。
 この「睦仁」だったら左利きでも書けそうですね。

 ■陰謀の発端 - 公武合体派の相次ぐ死
 (1)攘夷派且つ公武合体派の孝明天皇は倒幕派の”目の上のたん瘤”
 1866(慶応2)年12月25日孝明天皇(明治天皇の父)の突然の死(未だ35歳)は当時から疑問視され、その大きな理由は痘瘡(=天然痘)という予期しない病名突然死です。そこで倒幕派(=薩長)が攘夷派且つ公武合体派(※6-1)の孝明天皇毒殺したという噂が流れました。1858年日米修好通商条約(※7) -これは不平等条約です- 調印に対し孝明天皇は激怒して居ますが、私はこれには一理、否、二理も三理も有ると思って居ます(→後出)。一番有名な犯人説は岩倉具視(※3)です。勿論、具視が直接手を下した訳では有りません。
 『明治天皇』の著者ドナルド・キーン氏孝明天皇の毒殺説には可なりのページを割いて居て(△2のp157~161)、恩師から聞いた話を注に載せて居ます。即ち「私(キーン)は、コロンビア大学の恩師である角田柳作先生から聞いた一挿話を思い出す。1910年頃、ホノルルのバーで隣合わせた男が、自分は孝明天皇の暗殺に関係したため日本に居られなくなった、と角田先生に語ったというのである。」と(△2のp163)。でも真面目なキーン氏はこの話に乗りませんでしたが、「陰謀が物凄く好き」な私はちょっと残念です。
 そう考えると1854(安政元)年孝明天皇の京都御所が炎上した事件(←<簡易年表>を参照)も臭いですね。孝明天皇は1歳の祐宮(さちのみや、後の睦仁親王)を連れて仮皇居を転々としますが、孝明天皇にして見れば祐宮は大事な世継ぎですから天皇は必死だったでしょう。これなど孝明天皇暗殺計画がその頃から在ったと考える事も出来るのです。
 兎に角、孝明天皇は早くから倒幕派の”目の上のたん瘤”だった事は確かです。孝明天皇は頑固一徹で自分の信念を通したという意味では立派な生き方です。しかし、そういう生き方は最早”古い”と思われたのです。

 (2)孝明天皇と徳川家茂は当初から毒殺説が在った
 それに加え、孝明天皇の死の約半年前の1866年(慶応2)7月20日には同じ公武合体派将軍徳川家茂が大坂城で20歳の若さで急逝しました。これも当初より毒殺説が噂されました。
 しかし、この2つの”謎の死”は何れも公武合体派の頂点の死という事で関連して居るのです。しかも僅か半年の内に将軍(=武)と天皇(=公)が”謎の死”を遂げるという「とんでも無い」事態なのです。従ってこの2つの事件は一緒に考えた方が良いのです。


 英国外交官のアーネスト・サトウ(※13)(右の写真、△4の上のp6より)は、この2つを関連させて面白い事を書いて居るので紹介しましょう。孝明天皇は1866(慶応2)年12月25日(西暦1867年1月30日)に崩御しましたが、その10日後位の西暦の1867年2月9日(=日本の旧暦では1867年1月4日)の事柄を次の様に書いて居ます。
 即ち「私はプリンセス・ロイヤル号の甲板で日本の貿易商人数名に会ったが、彼らは近迫した兵庫の開港に大いに関心をもち、外国人の居留地として適当な場所について大いに意見を吐いていた。また、彼らは、天皇(ミカド、訳注:孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると毒殺されたのだという。この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(訳注:家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった。天皇が、ようやく15、6歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないだろう。と(△4の上のp234)。
 この文は西暦の1867年2月9日の日記として書かれましたが、サトウはこれに手を加え加筆して居ます、<斜体にした部分>です。数年後と在りますから1872~74(明治5~7)年頃公武合体派の孝明天皇と徳川家茂の毒殺説をわざわざ入れて居る訳で、その点を注意して読んで下さい。何れにしても、これが今回の陰謀の発端です。この問題については「私の推理と考察」の章で再び扱います
 尚、家茂の毒殺説は2つ在り1つは倒幕派、そしてもう2つ目が一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍にしたい一橋派が在りましたが、サトウは一橋派が遣ったと記して居る訳です。家茂は若い将軍ですが英明で、勝海舟「将軍家、いまだ御若年といえども、真に英主の御風あり。且、御勇気盛んなるに恐服す。」と書いて在ります(△5のp527)。翻って睦仁にはこの様な表現は皆無なのです(←明治天皇(実は大室寅之祐)には在りますが)。

 このアーネスト・サトウという人は”ちょっと曲者”で、外交官という立場から色々情報を知って居る訳ですが、外交政策には中立を装い乍らその実英国が有利になる政策を日本が選択する様に”ちょっとヒント”を出すのです。すると日本はまんまとそれに乗っかる、というパターンがサトウの著書を読むと出て来ます。今回もそうで、孝明天皇や家茂の毒殺説を取るに足りない説だと思うなら、わざわざ日記に加筆する必要は無い訳です。わざわざ後から加筆してるという事は暗に毒殺説を匂わせ、陰謀を臭わせて居るのです。サトウの文はその辺を理解して読むと、同時代同国の外交官ミットフォード(→後出)よりも非常に面白いのです。
 ところで、ここで気に成るのは数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると毒殺されたのだという。と書かれて居るのは誰か?、という問題ですが私は次節に出て来る”喋りたがり屋”の小父さんではないか?、という気がしているのですが、どうでしょうか?!

 (3)大室寅之祐の素性
 人は面白いもので「明治天皇摩り替え説」の様な国家的機密を自分が知って居ると逆にこの機密を勿体付けて喋らないと居られない人が居りますが、次の田中光顕伯爵(1843~1939年、土佐藩出身)など、その”喋りたがり屋”の典型です。
 彼は『裏切られた三人の天皇』(鹿島曻著、新国民社) -この本は”摩り替え”説を主張する書物の中では最も有名です- に拠ると「現在此の事を知っている者は、私の外には西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました」と前置きし、次の様に語ったと言うのです。即ち、「実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州のに於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。」と。そして薩長連合に導いた根本の理由は桂小五郎(後の木戸孝允)から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。」と在ります。因みに「田中光顕さん(註:宮内大臣)も[明治天皇の]信任が厚かった。」と書かれて居ます(△3のp120)。この中で西郷南洲とは勿論、西郷隆盛です。この話は△1のp269~270にも出て来ます。
 ところで、上の内容から寅之祐は長州藩を頼って居たので高杉が奇兵隊を結成する。この奇兵隊に伊藤博文を隊長とする力士隊が参加する。力士隊は第二奇兵隊に所属し、屯所(とんしょ)を大室天皇家のあった麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山においた。これが大室寅吉の奇兵隊入隊の伏線となる。」と在り、又、「石城山は練兵場となっており、この頃、寅吉は、常時400人近い兵と共に銃陣訓練 を重ねていた。時には近くの皇座山で鹿狩りや、乗馬、剣術、角力をとって鍛えていた。鹿島曻氏が新国民社から公刊した『裏切られた三人の天皇』の中で、「明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説」を述べている。」と在ります(「れんだいこ」のサイト(2007年1月31日版)より)。大室寅吉とは寅之祐の幼名です。これを補完すると、高杉晋作(←彼は尊王攘夷論者)が奇兵隊を組織するのが1863年6月、そして1864(元治元)年12月伊藤俊輔(後の博文、※3-2)率いる力士隊が奇兵隊と共に功山寺で挙兵します(←寅吉(寅之祐)がこの乱に参加したかは不明です)。従って「この頃」とは1864年頃(寅之祐12歳)で、この頃から伊藤俊輔は寅之祐に目を付けていたと考えられます。

 (4)伊藤博文が寅之祐を”替え玉”に
 ここで重要な事は、睦仁は幼少の頃から体が弱く(△2のp51、60)、勉強嫌い(△2のp87)で、女官に囲まれて育ち化粧を施され(△2のp90)、そして特に1864(元治元)年7月19日禁門の変(=蛤御門の変)が起こった時には睦仁(11歳)が紫宸殿で卒倒した話(後出)などから、伊藤俊輔(長州藩)は睦仁ではこの難しい時期に天皇に成る器で無いと見極め、力士隊の中から寅之祐を”替え玉” -これを玉(ぎょく)と言います、文字通り”替え玉”の隠語- に仕立てた事です。キーン氏も玉(ぎょく)の事を書いてます(△2のp158)が、キーン氏のは維新が成功した後の話です。
 勿論、この陰謀を立案したのが誰かは判りませんが、伊藤だけでは無く桂小五郎や山県有朋など長州勢を中心に、それと岩倉具視(公家)が居た筈です、言わば共同謀議です。伊藤は力士隊を通じて寅之祐へのアタック要因に成った訳です。当時の奇兵隊や長州勢は遣りたい放題でしたから”替え玉”も勢いで立てた面も有ると思います。逆に慎重居士では出来ませんよ、天皇の”替え玉”を立てるなど!
 キーン氏「岩倉は幕府と結託して和宮(※6-2)降嫁を謀ったかどで文久2年(1862)8月蟄居を命じられ、10月以来、洛北岩倉村に退去させられていた。しかし、岩倉は生来の策士だった。」と書いて居ます(△2の153)ので、首謀者は策士の岩倉具視(※3)かも知れませんが真相は不明です。具視が公家で陰謀に加わって居ると考える根拠は策士の悪知恵が必要だったからです。
 私は力士隊の挙兵(1864年12月)と<1865年春、大室寅之祐はフルベッキ博士らと「問題の写真」を撮る>とは僅かしか離れて無いので、この陰謀には「問題の写真」の集まり(→後出)が関係して居るのでは、と考えて居ます。事実、寅之祐は13歳でこの集まりに参加し写真の中央に写って居るのです。更にこの陰謀にフルベッキが一枚噛んでいるのでは?、と思ったりして居ます(→フルベッキは「岩倉使節団」にも関係してます)。
 しかし、「私は良くも略同じ年齢の”替え玉”を用意出来たものだと感心して仕舞います。」と前に記しましたが、全くその通りです。
 そして伊藤博文が明治政府で重きを成した事は、皆さん良く御存知の通りです。明治天皇と「椅子に腰掛けて話したのは伊藤博文山県有朋だけ」と書いて在ります(△3のp119)。明治天皇(寅之祐)は”摩り替え”の功労者には恩を形で返して居て、それは「明治天皇(寅之祐天皇)登場!」の章の「寅之祐天皇の背後に見える岩倉具視の影」の節をお読み戴ければ解ります。

 (5)睦仁親王の毒殺は1867(慶応3)年7月8日に決行された!
 睦仁親王の父・孝明天皇(※6~※6-1)は1866(慶応2)年12月25日に痘瘡(=天然痘)で急死、その死に方が不自然な事から当時から倒幕派に因る毒殺が囁かれ、中でも岩倉具視に因る毒殺説は皆さんも小説等で読んだ事が在るかもしれませんね。又、日本で毒殺に良く使われる砒素について「重症型痘瘡の症状は、砒素中毒の症状に極めてよく似ている。」と在ります(△2の157)。
 本ページは「明治天皇摩り替え説」を明らかにするのが目的ですが、幕末~明治初期は様々な陰謀が入り乱れて発生しているのです。例えば上の<簡易年表>で言えば坂本竜馬(龍馬)暗殺もその一例です。1866年の1月には、その坂本竜馬の斡旋で薩長連合が結成され、7月には将軍家茂 -和宮(=孝明天皇の異母妹)(※6-2)の降嫁を受けた公武合体の象徴- が大坂城で急逝(20歳)、これも倒幕派の毒殺の噂が在りました。
 さて、私がこの問題に首を突っ込む元に成ったのは何の本(或いは雑誌)で読んだかは忘れましたが、睦仁親王は女々しく弱々しく暗愚であるのに対し明治天皇は体も大きく男らしく剛毅であるという、極端な”イメージギャップ”が有ったからです。これは寅之祐や”摩り替え”の話を全く知らなかった時です。その頃は仕事(=コンピュータ関連)を遣って居たので何時しかこの問題は忘れていたのですが、大阪の鵲森宮の宮司の研究会で『真実のともし火を消してはならない』(△1)という本を紹介され、大室寅之祐の「明治天皇摩り替え説」と「問題の写真」(△1のp273)が出て来た時に昔の”イメージギャップ”を思い出したのです。それから少しずつこの問題を考え遂には深入りして仕舞ったという訳です。

 この本から睦仁親王に関わる部分を抽出すると、1864(元治元)年7月19日禁門の変(=蛤御門の変)(※8)が起こった時の様子が『明治天皇紀』に「随従の宮女恐怖して為(な)す所を知らず、声を放ちて号泣する者あり、親王亦驚かせられ、俄かに病を発して紫宸殿下に倒れたまふと書かれて居ると在ります(△1のp266)。これは睦仁親王が12歳の時で、この様にイザという時に卒倒して仕舞う頼りない姿が書かれて居ます。
 ここで1866(慶応2)年12月25日に孝明天皇(※6)が天然痘で突然崩御します(35歳)が、これには岩倉具視の毒殺説が在った事は既にお伝えした通りです。

 そして1867(慶応3)年1月9日に睦仁は践祚(=皇位の継承、※9-1)して居ますが、その3日後睦仁の生母・中山慶子(よしこ、1835~1907、右が慶子の写真(△3の口絵より))は父の中山忠能(※6-3)に次の様な手紙を書いて居ます。
 即ち「何分にも世は末に及び、御所中悪魔えいまんにて恐れ入り候。当今様おん事(睦仁天皇)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず...<中略>...かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。ただただ神慮にかなわせられ、ご強運強く、神明のご加護にて早々内外の悪魔を遠ざけられ候よう、祈り入り祈り入り上げ候。なかなか紙上に尽くしがたき事ども日々御座候いて、浅間しきごようす、嘆き入り、嘆き入り参らせ候。」という内容です(△1のp270、これは重要な文なのでネットで補強)。この時睦仁は14歳で践祚の儀を終えた3日後に生母が「悲嘆のほかこれなく候」と嘆いて居て、更に「内外とても治まり申さず」天皇の資質に否定的な見解を示して居る事は注目に値します。
 更に今度は父親の中山忠能は同年7月8日の日記(=『中山忠能日記』)に「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」と在ります(△1のp270)。満14歳にも成って女官と遊戯をしたという記事を見て、皆さん、どう思いますか?
 同日記には更に「このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせたことなどの、不審な記述が載っている。」と在ります(△1のp271)。
 つまり、

  1867(慶応3)年7月8日睦仁親王毒殺
    侍医に口止めをし、睦仁親王の遺体を布で全身を巻いた後、
      「仏像の包み」でカムフラージュして中山家に届けさせた

という事です。こうして遺体を闇から闇へと葬ることに成功しました。

 慶子は睦仁に対しても厳しかったですが、後年の明治天皇(=寅之祐)にも対しても -慶子は寅之祐を我が子と思う様に務めたに違い有りません- 厳しく「女官の内でも柳原さんは別格でございましたが、お上をお諌め申し上げていたと云うことは私は存じません。お諌め申し上げたりしたのは中山一位局(註:中山慶子、御生母、一位局)と藤浪さん(註:言忠氏、侍従、御幼少以来お仕えした)ぐらいかと思います。」と女官の山川三千子さんが語って居ます(△3のp119)。
 私から付言すれば「柳原さんは別格」と仰って居るのは柳原愛子は大正天皇の生母です。又、藤波(藤浪)言忠氏が侍従に成ったのは1879年なので既に明治天皇(大室寅之祐)は27歳の時ですから”摩り替え”の事実は知りません。そもそもこの雑誌は明治天皇生誕150年を記念して平成14(2002)年に出版されたもの(△3のp382)で「明治は遠く成りにけり」です。この中で”摩り替え”の事実を知って居るのは中山慶子のみで、慶子は最後迄毅然として居たという事です。

 ■私の推理と考察
 (1)私の推理
 そこで私の推理を述べましょう。先ず「陰謀の発端」の所に有った様に公武合体派(※6-1)の将軍家茂と孝明天皇の死は倒幕派(=薩長)の毒殺だと考えます(←前出のサトウは一橋派として居る)。孝明天皇が毒殺としたら家茂も毒殺と考える方が自然でしょう、家茂と孝明天皇は和宮を介して義兄弟だからです。
 そう考えた上で、上述の経過に重要な事件を加えると次の様に成ります。睦仁親王の生母・中山慶子 -慶子は側室、皇后は九条夙子(あさこ)(=英照皇太后)- は1864年頃から睦仁親王の幼稚さ・暗愚さを問題視し始め、<1865年春、大室寅之祐はフルベッキ博士らと「問題の写真」を撮る(寅之祐13歳)>1866年(慶応2)7月20日に公武合体(=和宮の夫)の将軍家茂が大坂城で毒殺され、同年12月25日に同じく公武合体派且つ睦仁の父にして慶子の夫・孝明天皇を毒殺され唯一人の親権者に成った慶子は、遂に1867(慶応3)年7月8日「睦仁ではこの難しい時期に天皇は無理である」と決断を下した事が窺え、正に生母の断腸の決断だったと言えます。睦仁毒殺に使った毒は十中八九砒素です。
 この決断の裏には、”替え玉”を準備して居た首謀者や慶子の父の中山忠能(※6-3) -睦仁の外祖父- の説得が在ったものと思われます。幾ら無能とは言え実の我が子を殺す慶子の思いは察するに余り有ります。忠能は初めは公武合体に尽力しますが将軍家茂と孝明天皇の相次ぐ毒殺で公武合体が頓挫すると、倒幕派(=尊王派)に転向して居ます(←因みに、天誅組の反乱で死んだ攘夷派の中山忠光(1845~1864)は忠能の息子、慶子の同母弟です(△2のp120~123))。
 こう見て来ると、幕末の闘争は

  公武合体派を尊王派が駆逐した

という事がまざまざと浮かび上がって来るのです。

 (2)陰謀の中核 - 明治天皇の”摩り替え”
 1864(文久4~元治元)年頃から1867(慶応3)年7月8日”摩り替え”決行の日に掛けて長州勢は内密に明治天皇の”摩り替え”を真剣に考えました。既に玉(ぎょく) -明治天皇の”替え玉”- は押さえて在るのです。徳川慶喜など小さい小さい。諸外国は疾っくの昔に慶喜なんか見限って居ます。彼等が一番知りたいのは「尊王(勤皇)派が天皇を中心にどの様な政治体制を作るのか?」という事です。言い換えれば「天皇に成る人物を知りたいのです。その利害が尊王派明治天皇の”摩り替え”派(←長州勢が中心)とで一致し、”摩り替え”は尊王派の暗黙の了解事項に成ったと考えます。
 私はこれには外国の勢力(特にイギリス)が一枚絡んで居ると見て居ます。日本人は甘い所が在り、はっきり言って日本人だけでは無理です。日本人は幕末のロマンとか、坂本竜馬のロマンとか、考え方が甘い。
 そこで考えられるのが、

  <1865年春、大室寅之祐はフルベッキ博士らと「問題の写真」を撮る>

の集まりなのです。一体これだけの錚々たるメンバーが何をしに長崎迄来たのか?、幕末から明治の主要メンバーが超党派的に集まって居るのは何故か?、この会合で明治天皇摩り替えを話し合ったのではないのか?、そして寅之祐は”摩り替え”を遣る事をこの時点で知って居るのか居ないのか?、フルベッキ博士(※1)はどの様な立場でコミットして居たのか?
 私は「尊王+開国派」 -明治の維新政府が断行したのは尊王開国です、しかし日本史の教科書にはこの言葉が無い!!- がこの集まりで形成され、後の明治維新が「外人によりコントロールされた革命」として機能したと見て居ます。既に1854年のペリーとの日米和親条約に端を発し、孝明天皇が激怒した1858年日米修好通商条約の調印をして仕舞った訳ですから、今更尊王攘夷とか佐幕攘夷などは焦点が呆けて居るのです。世の中は明らかに開国(※14) -それ迄は鎖国でした- に向かって動いていて、諸外国とは攘夷では無く融和が求められて居たのです。しかし日本人だけでは出来ません、尊王開国という言葉が無い事からも明らかです。
 私はフルベッキ博士がその事を説いたと思って居ます、この私の推理が概ね正しい事は「岩倉使節団」の所でフルベッキが再び登場する事(→後出)で解ります。それは言い換えると、極めてフリーメーソン的な勢力が<「問題の写真」を撮る集まり>で形成されたのです。実際それ迄殆ど日本には居なかったフリーメーソンは明治初期に著しく浸透しました。
 この議論は「明治天皇(寅之祐天皇)と岩倉具視の総括」の章(→後出)でもう一度、更に詳しく論じます。

 ところで睦仁毒殺から10日程経った1867(慶応3)年7月19日の『中山忠能日記』には「寄兵隊(=奇兵隊)の天皇」→後出)との記述が在ります。この「奇兵隊の天皇」こそ大室寅之祐に他ならないのです。更に『明治天皇紀』には「7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり」と在ります。「宿下がり」とは中山家の用事で暇を取って居るのです。この記述は中々意味深長です、中山家の用事?、一体何の?
 又1868(慶応4)年1月15日には明治天皇の元服の儀が執り行われましたが、『明治天皇紀』には奇兵隊の天皇、来(きた)る正月上中旬内に御元服」と在るそうです。
 つまり、それ迄準備して居た玉(ぎょく)即ち”替え玉”の寅之祐が、1867(慶応3)年7月8日の”摩り替え”決行の日から明治天皇を名乗り公衆の面前に登場して来るのです。これが今回の陰謀の中核です。しかし、この事実(=明治天皇摩り替え)が表に出る事は有りません、これは飽く迄も裏面史(=裏の歴史)なのです。

 (3)「明治天皇摩り替え」の本当の意味
 明治天皇は相撲が好きでしたが、寅之祐が力士隊に所属していたという事ですんなりと説明が付きます。つまり、

  大室寅之祐は長州藩を頼る: 力士隊  → 奇兵隊   → 明治天皇
    (勤皇の運動)    (相撲/角力)(奇兵隊の天皇)  (明治維新)
                  ↓
                  南朝
           (南北朝正閏問題で南朝を正統とした)

という事です。
 そして重要な事は、桂小五郎が語ったという南朝の御正系という言葉と、明治維新が勤皇運動の一環だったのは寅之祐が幼少の頃に長州藩(=毛利氏)を頼った事で既に方向付けが為されて居たのです!!
 これで一気に話は進み、1911年の南北朝正閏問題(※10、※10-1)で明治天皇(=寅之祐)が南朝を正統とした理由が初めて説明出来るのです。一般的な歴史では北朝が正統だからです。私はこの問題は単に桂小五郎や西郷隆盛という問題以上に、既に説明した様に<1865年春に「問題の写真」を撮る集まり>に於いて「明治天皇摩り替え」が確認されていた、と考えます。それは来たるべき新時代に向けて、もっと大きなもっと超党派的な目的を持った動き(=フリーメーソン的な勢力の形成)で在り、尊王派(=勤皇派=天皇中心派)は南朝を中心とする体制 -南北朝以後~江戸時代は武家中心の北朝体制であった- で在る事を裏に秘めた動きだったのです。

 ■昭憲皇太后という謚(おくりな)について
 もう一度論点を整理すると、1867(慶応3)年7月8日睦仁親王が毒殺され、その約10日後の1867(慶応3)年7月19日「寄兵隊(=奇兵隊)の天皇」、即ち”摩り替え”られた明治天皇(=寅之祐)が公衆の面前に姿を現すのです。私たちも資料を見る際に上記の事を確り頭に入れて見る必要が有ります

 (1)何故、昭憲皇后では無く昭憲皇太后なのか?
 そこで明治天皇の正室(=一条美子)の謚(おくりな)の検討に入りましょう。天皇や正室の謚は死後に追号(※15)されるのです。即ち明治天皇も含めると、

    <明治天皇と昭憲皇太后の追号>

  1912(明治45)年7月30日、今上天皇崩御
    → 同日、皇太子践祚し大正と改元
    → 同(大正元)年8月27日、先帝に明治天皇と追号
      (これで初めて明治天皇に成る)
  1914(大正3)年、明治天皇の正室が崩御
    → 同(大正3)年5月9日、先代の英照皇太后に倣って昭憲皇太后と追号

と成る訳です(△3のp380~381)。
 私は今回このサブページにこの問題を書く以前は余り気にしなかったのですが、ここ迄纏めて来ると皇太后とは変だと思い始めました。皇太后(※4-3)とは先帝の皇后を指すのです。世間には寅之祐のことは公表してませんから明治天皇の先帝とは孝明天皇を指します。時の宮内大臣は追号を皇后に改めない儘、昭憲皇太后として大正天皇に上奏し御裁可と成ったのです。
 事実明治神宮も私と同じ考えを抱いたらしく、1963年12月10日「明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり、宮内庁へ再度「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」」を提出して居ます。又、1967年12月26日には「明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」」を提出して居ます。しかし宮内庁の回答は「譬えミスが在ったとしても天皇が一度御裁定を下したものは改めないというものでした。
 実は皇太后(※4-3)の称号は孝明天皇の妃もそうで、九条夙子(あさこ、英照皇太后)と2代続いて居ます。只、孝明天皇の正室の場合は公武合体の幕府側の反対が有り、生前から正室は皇后の称号が得られなかったのです。それで苦肉の策で謚を皇太后としたのです。
 ネットで検索すると、「昭憲皇太后とは変だ」と思って居るのは”摩り替え”支持派の中にも可なり居ます。しかし私は善く善く考えると昭憲皇太后で良いのだ、と思える様に成りました。次にその理由を明らかにしましょう。

 (2)昭憲皇太后は正しい
 昭憲皇太后という謚について疑問を持った人たちも「天皇が一度御裁定を下したものは改めない」とする宮内庁の見解に結局は諦めて居ます。
 ここで又、問題点を整理する為に<簡易年表>から天皇と一条美子(はるこ)(後の昭憲皇太后)の結婚に関する部分を▼下▼に抜き出します。

    <一条美子(後の昭憲皇太后)の結婚の年表>

  1867年(慶応3)1月9日、睦仁親王践祚(皇位継承)
    //       6月27日、一条美子が初めて睦仁に対面。
    //       6月28日、  //  がに決定。
             (美子は実は3歳年上
    //       <7月8日、寅之祐と睦仁親王の”摩り替え”説>
                  睦仁親王は毒殺
    //       7月19日の『中山忠能日記』に
             「奇兵隊の天皇」(=大室寅之祐)の記述が在る。
  ▼---以後は明治天皇を大室寅之祐と読み替える必要有り---▼
  1868年(慶応4)8月27日、京都御所紫宸殿で即位の大礼
                   正式に明治天皇に(15歳)
    //  (明治元)9月8日、明治と改元。一世一元の制。
    //       9月20日~10月13日(天皇、京都~東京に移動)
              (江戸城西丸を皇居に(東京遷都))
    //       12月28日、天皇、京都御所で一条美子と婚儀
                    (天皇16歳、美子19歳)

 一条美子が初めて睦仁に対面した日の事及び翌日の妃に決定した様子が伝記的作に慶応3年6月27日、権大納言左近衛大将一条実良の妹美子は、御学問所で初めて天皇の謁を賜った。この度の参内の目的は、美子の容姿風采態度を天皇に披露することだった。もし気に入らなければ、天皇はこの花嫁候補を自由に断ることが出来た。...<中略>...美子は目立った病気に罹ったこともなく、8歳の時、すでに種痘も済ませていた。...<中略>...しかし美子の場合、3歳年長にあたり、俗に「四つ目」と言って、避けるべき不吉な年回りとされた。摂政は、美子の生年を嘉永2年改め嘉永3年とすることで、この問題を解決した。...<中略>...翌28日、武家伝奏権大納言日野資宗が勅使として一条実良の屋敷に赴き、妹美子が天皇の女御に決定したことを告げた。このめでたい報せはたちどころに知れ渡り、縁故の諸家を始めとして祝いの客が一条家の屋敷に列をなした。」と書かれて居ます(△2のp172~173)。
 そして翌年の12月28日に二人は結婚の儀を挙げるのですが、この時は寅之祐天皇(←もう睦仁は居ない)に摩り替わって居たのです。以後、摩り替わった後の明治天皇を寅之祐天皇と呼ぶことにします。
                (*_@)

 私が何故昭憲皇太后で良いのだと思う様に成ったかと言うと、二人の結婚式は確かに1868年12月28日ですが、美子は1867年6月27日に睦仁親王に初めて会い天皇側のテストに合格し、翌28日にその報せを受け一条家でもそれを歓迎したのです。言わば我々平民が言う所の”婚約”が1867年6月28日に成立したと考える事が出来、皇室は庶民と違い儀式を重んじますから”婚約”を重視すると考えられ、従って美子は睦仁と一旦は結婚したと考える事が出来ます。そう考えると美子は寅之祐天皇の先帝・睦仁親王の妃と言う事が出来、昭憲皇太后で良いという事になります。まぁ、これは飽く迄も儀式中心の皇室だから言える事ですが。<寅之祐天皇の真実>(→後出)を参照して下さい。
 只、寅之祐天皇の事は秘匿されて居ますので、国民一般が明治神宮の様な疑問を抱くのは寧ろ当然と言えます。
 実は宮内庁(当時は宮内省)が言うミスとは、英照皇太后と同じく昭憲皇太后として仕舞った、と言うのです。宮内省は複数の人間で作業して居るのでそういうミスは有り得ませんその理由は後で説明)。でも寅之祐の事を公表する訳には行きませんから担当者のミスの所為にする以外無いのです。

 (3)一条美子に”摩り替わり”を何時話したか?
 <一条美子(後の昭憲皇太后)の結婚>には”婚約”から約1年半後に結婚の儀迄を含んで居ますが、結婚の儀に現れたのは21~22貫、5尺6寸位(約80kg、約170cm)という大柄(←当時はこれで大柄だったのです)な大室寅之祐が摩り替わった明治天皇でした。既に話では”摩り替わり”について聞かされて居ましたが、私が感じた様に睦仁親王と寅之祐には大きな”イメージギャップ”が在るのです。このイメージギャップを克服するのは並大抵の努力では無かった筈です。場合に依ってはノイローゼに成って仕舞います。天皇は夫ですからねえ、このデカイ男とセックスもせにゃならん訳ですから...。この話は又後で
 まぁ、この話は置いといて、美子はどの時点で”摩り替わり”について聞かされたのか?
 <美子の結婚の年表>を見て思うには、1868年(慶応4)8月27日、京都御所紫宸殿で行われた即位の大礼の直前に言われたのではと思います、結婚の儀の約4ヶ月前です。因みに、即位の礼の前日に「天皇の誕生日(=旧暦の9月22日=新暦の11月3日)を国民の祝日とし、「天長節」と定めた。」と在ります(△2のp255)。天長節は今日の天皇誕生日11月3日は嘗ての明治節、今日の「文化の日」です。
 これは私の推測ですが以下も私の推測です。教育係りが睦仁親王は病気で死んだ事(←美子には毒殺の事は伏せて居ますから)、しかし”婚約”はもう済んでいるので事を大っぴらには出来ない事、新帝は大変立派な男である事、ここは一つお前が折れて新帝を受け入れて欲しい事、天皇というのは公事が私事に優先する事、お前さえ黙って居れば後は我々が上手く遣る事、などを丁寧に説得したものと思われます。実際にこの時期に話すのが一番良いと思われます、と言うのは9月20日からは東京遷都の行幸に出ますから天皇の世話をする女官たちに知られるのが一番少なくて済むからです。
 或いは美子には一切報せずにイメージギャップも惚け通して睦仁で押し通すという手も有りますが、私はこの説は採りません。惚け通すにはイメージギャップが大き過ぎますし、結婚式当日に美子がどういう反応を見せるかが全く予想が付かないからです。しかし女官たちには惚け通したと思います。侍従や女官たちは寅之祐天皇の顔を「見上げるのが畏れ多い」こと(△3のp110)で、意外と真面に顔を見てないからです。体が大きく「おやっ?」と思ったかも知れませんが。
 その後、美子がイメージギャップをどの様に克服したかは私は判りませんが上手く遣りおおせたのです。昭憲皇太后に成る迄、美子の生き方は立派な申し分の無いものです。和歌も良く詠まれ「昭憲様の3万首」と書かれて居ます(△3のp106)。
 右はキヨッソーネ(※12)が描いた洋装の美子(後の昭憲皇太后)の肖像画(△3の口絵より)です。明治政府の欧化政策に沿って美子も殆ど洋装でした。美子は鼻筋が通って居たので寅之祐天皇から「天狗さん」と呼ばれたそうです。
 

 ■睦仁親王の哀れな生涯
 ところで、先程の<一条美子(後の昭憲皇太后)の結婚>を見ると、睦仁親王は厳密には天皇に成って居ない事が読み取れます。1867年(慶応3)1月9日に践祚(※9-1)して皇位の継承は済ませましたが即位の礼 -桓武天皇以降は践祚即位が別れました(※9-1)- を未だ行って居ないのです。そして即位の礼を行なう前に毒殺され代わりに即位したのが寅之祐でした。従って睦仁親王の在位期間は僅か約半年という事が一応出来ますが、厳密には天皇に成って無いのです。
 上で述べた事を図で表すと▼下▼の様に成ります。

    <寅之祐天皇の真実>

          中山慶子───121 孝明天皇
               │
               │
               │
    一条美子===122 睦仁親王     厳密には明治天皇に成って無い
   (昭憲皇太后)    毒殺       (践祚して皇位は継承したが
     ↑       在位は約半年     即位の礼をする前に毒殺された)
     │
  ▼……│…………………………………………………………▼ 以下は国民に秘匿
     │
     \___
         \__ 先帝の妃:昭憲皇太后は正しい
            \__
               \
    一条美子===(122) 明治天皇    この事実を秘匿しているので
    (昭憲皇太后) <実は大室寅之祐>   天皇の代数番号は新しく取れない

  *.上図で === は正室、――― は側室

 以前、1864(元治元)年7月19日に禁門の変(=蛤御門の変)が起きた時に睦仁親王が紫宸殿で卒倒した事を述べました(睦仁11歳)が、孝明天皇崩御(1866年(慶応2)12月25日、実は毒殺)の時も「睦仁の張りつめた神経は眠りを妨げ、夜な夜な悪夢を招きよせることになったかもしれない。廷臣たちの書簡や日記は、睦仁の不眠症にそれとなく触れている。」著者(=キーン氏)の気持ちを書き(△2のp165)、書簡や日記を紹介して居ます。
 例えば中川宮朝彦親王は明くる年の1月5日の日記で「扨(さて)此度御異例、此義ハ大行天皇(=孝明天皇)御側之人々、何分異形物御咄(はなし)有之候事由也、被現(あらわれ)候由、俗ニ鍾馗(※16)ノカタチノヨウニ、ウワサ有之候、釼(つるぎ)モチテ候、...<中略>...其後朝ヨリ御ホトヲリ(※17)被為有候由也」と書いて居ます(△2のp166)。この数日後の1867年(慶応3)1月9日睦仁は践祚して居ますから、鍾馗が現れたなどと噂され発熱したとは異常です。又、践祚後にも未だ続き1月12日の日記には「践祚ヨリ御三間ヘ被為成候後、益先帝昼夜共ニ新帝ニ計(ばかり)御見上之由、扨々困候事之由、伝承候也」(=孝明天皇の亡霊が睦仁に取り憑いて困る)と書いて居ます(△2のp166)。更に千種有文が具視に宛てた同年の1月17日の書簡では「新帝には毎夜々々御枕へ何か来たり、御責め申し候につき、御悩みと申すことにて、昨日申し上げ候とおり、御祈祷仰せ付けられ候とか、実説の由に候」(=枕元に何か現れ祈祷をして悪魔祓いをした方が良いのでは)と心配して居ます(△2のp165)。もう可なりノイローゼ気味で、これが14歳の睦仁なのです。

 ところがキーン氏は天皇が1868年秋に東京遷都の行幸で東京に行った時に「東京滞在中、天皇はとりわけ個人的に大切な人々に会った。今は親子(ちかこ)内親王として知られる和宮(※6-2)に謁を賜った天皇は、恐らく和宮の兄である故孝明天皇の思い出を語り合ったに違いない。」と書いて居ます(△2のp262)が、僅か2年前に孝明天皇の亡霊に取り憑かれた人が、その亡霊の思い出話など出来るでしょうか?、私は非常に疑問です!!
 私は2年前の睦仁とは違い、東京遷都の時の天皇は寅之祐天皇ですから何の違和感も無いですが、キーン氏は”摩り替え”説など知りませんから違和感、つまりイメージギャップを感じてた筈です。特に「才媛 美子皇后」の章の「新しい治世の始まりは、...」(△2の168)を境に明治天皇を書く側の筆致が可なり極端に変わります。即ち睦仁を書く時には女々しいので上から見下し、逆にそれ以後の剛毅な天皇を書く時は見上げて居るのです。これが『明治天皇』(△2)の最大の欠点です。書く側がそういう自己矛盾を感じたら書くのを止めるべきです。この自己矛盾には本人も気が付いて居るらしく序章で触れて居ますが(△2のp17)、弁解に過ぎません。やはり睦仁親王と明治天皇を一貫した視点から書こうと思ったら”摩り替え”説を導入しないと無理なのです、それ程二人のイメージ及び人格のズレは乖離して居るのです!!

 思えば睦仁も哀れな運命です。今の様に”ふやけた時代”ならバ●でもチ●ンでも(←あわわ、不適切な表現なので伏せ字にします!)何とか成りそうですが、生母の中山慶子かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。」と嘆いた様に、明治の国外国内の難局面を乗り切る器では無かったですね。睦仁親王に合掌!!
                (-_-)
                _A_

 ■明治天皇(寅之祐天皇)登場!
 (1)大久保利通の大坂遷都案を覆し、東京遷都した意味
 新しい政治体制の首都 -候補地は京・江戸・大坂- を何処にするかの議論も起こり、早くも1868(慶応4)年1月23日大久保利通は大坂遷都を建言しています(△2のp210)。大久保は京都に在っては公家や旧体制の綻びに引き戻されるので、兎に角京都を出て「公家の為の天皇では無く人民の為の天皇」を誰の目にも明らかな形にしなければ為らないと訴え、大坂城を新皇居とする案を提示しました。これは大坂の商人階級の意向を反映して居ますが、明治天皇の外祖父に成った中山忠能を始めとする公家の反発は物凄く、公家に逆に薩長の陰謀であると決め付けられて議論は頓挫、代わりに同年3月21日からの大坂行幸(→後出)に替えられて仕舞いました。
 一方、前島密の江戸遷都論が煮詰められ、結局これが採用され同年7月17日に江戸を東京に改め、同年(但し元号は明治に変更)の9月に東京遷都を果たしました。大久保も東京遷都に同調しました。サトウ1868年8月23日(=旧暦の慶応4年7月6日)の日記に「この年の初め京都から大坂への遷都を提案した薩摩の政治家大久保利通に会うためであった。結局江戸を政治の中心とし、その名を東京、すなわち東の都と改称することに決定したのだが、それには大久保の影響力が大きかったことを私は疑わない。大久保はすこぶる無口な性質だった。」と書いて居ます(△4の下の212)。つまり大久保利通は最初”摩り替え”を知らなかったので大坂遷都を奉りましたが、その後”摩り替え”派(長州勢が中心)に説得されて東京遷都に同調したと考えられます。

 ところで”摩り替え”派(長州勢が中心)から見ると東京遷都というのは前にも述べましたが大きなファクターだと思います。これに依って女官の口を封じる事が出来たのです。女はお喋りですから、おっとっと、シーッ!
 と言うのは東京遷都の場合にはそれ迄の京都の女官を全員解雇し新たに東京で雇えば良い訳ですから”摩り替え”の事実を知られずに済みますが、大坂遷都だと全部解雇する訳には行かないでしょう、却って怪しまれます。遷都せずに京都に留まる案 -何も知らない公家たちの意見- は以ての外です。そう考えると、東京遷都というのは絶対条件なのです。それを証明する様に「天皇は事実、明治10年(1871)まで約8年間、九州巡幸の際の数日間の滞在を除いて京都には戻らなかった。その間、東京遷都ということが正式に発表されたわけではなかった。にも拘らず、明治天皇が京都に戻った時、それはすでに「還幸」(御所に帰る)ではなく、「行幸」(御所から外出する)と言葉が変わっていた。」と在ります(△2のp300)。明治天皇は摩り替わって居ますから京都には中々戻れなかったのです。

 (2)外交官アーネスト・サトウや日本人の日記に書かれた寅之祐天皇
 1868年(慶応4)3月14日に五箇条の御誓文(←条文は部下が作った(△2のp223~224))を発布した寅之祐天皇は、3月21日から大坂行幸の旅に出ます。その中で3月26日には大坂天保山で海軍の軍艦を親閲し、そして閏4月1日(イギリスでは22日)英国公使ハリー・パークスを京都東本願寺別院にて引見しますが、その時の様子がアーネスト・サトウ(※13)に依り次の様に書かれて居ます。この文章は大変面白いので可なり長いですが引用します(△4の下のp198~200)。
 「イギリス公使官の一行は、長官、アダムズ、新任二等書記官のミットフォード、それに私であった。...<中略>...。
 玉座の前の左右に、小さい木製の獅子の彫刻がすえてあった。これはすこぶる時代を経たもので、日本国民に大いに尊ばれているものだ。玉座のうしろには、多数の廷臣が黒い紙の帽子をかぶり、色さまざまの華麗な錦の礼服をきて、二列に並んでいた。天皇(ミカド)が起立されると、その目のあたりからお顔の上方まで隠れて見えなくなったが、しかし動かれるたびに私にはお顔がよく見えた。多分化粧しておられたのだろうが、色が白かった。口の格好はよくなく、医者のいう突顎(プラグナサス)(※18)であったが、大体から見て顔の輪郭はととのっていた。眉毛はそられて、その1インチ上の方に描き眉がしてあった。衣装は、うしろへたれた長い黒色のゆるやかな肩衣(ケープ)に、マントのような白い長袍、それに紫色のゆるやかな長袴であった。
 式は、次のような順序で行われた。...<中略>...ハリー卿が進み出て、イギリス女王の書翰を天皇に捧げた。天皇は恥ずかしがって、おずおずしているように見えた。そこで山階宮の手をわずらわさなければならなかったのだが、この宮の役目は実は天皇からその書翰を受取るにあったのである。また、陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いて、どうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤は、前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読みあげた。
 それから、ハリー卿は順番に私たちを天皇に紹介し、つぎに提督を紹介、さらに提督は仕官たちに謁見を行なわせた。」

 この中で天皇の「衣装は、うしろへたれた長い黒色のゆるやかな肩衣(ケープ)に、マントのような白い長袍、それに紫色のゆるやかな長袴であった。」という衣装は束帯(※5) -朝廷の公事に着用- です、寅之祐天皇の束帯姿の写真を見て下さい。そして伊藤と在るのは伊藤博文(※3-2)で英国留学の経験が有るので、ここでは通訳をして居ます。流石の寅之祐も緊張していたものと思われます。しかし、この文で一番面白く且つ重要な箇所は、何と言っても突顎(プラグナサス、prognathous)(※18)です!!
 私は「明治天皇は下唇が突き出て居るのが特徴」と記しました、それを突顎と言う事は今回初めて知りました。この特徴は非常に重要な意味を持ち、それは後で解るでしょう(→後出)

 同日の謁見の模様は、やはり英国二等書記官のA.B.ミットフォードも次の様に書いて居ます(△4-1のp158)。「私は予期される試練に対して年若な天皇に同情を禁じ得なかった。まず天皇が勅語を暗誦して、その通りに繰り返すと、その写しを山階宮に渡し、山階宮はそれを読み上げてから、伊藤へ翻訳するように手渡すことが取り決められた。その勅語は最終的にはパークス公使の手元に届き、彼が天皇に対して直接挨拶の言葉を返すことになっていた。私については、山階宮が、天皇に紹介する手はずになっていた。」と、サトウと同じことが書かれて居ます。山階宮とは「天皇の従兄弟の子」です(△4-1のp156)。

 サトウの記述に戻ると、翌日では「その際日本の貴人が大勢ロドニー号に来艦して、提督と軽食を共にした。...<中略>...来賓の大部分は知識のある人々なので、態度もよかったが、長州侯は大きい赤ん坊のようにふるまって、私を隣席へすわらせようとしてきかず、またシャンパン酒をからだに悪いほど痛飲した。ところで、日本の諸侯はばかだが、わざわざ馬鹿になるように教育されてきたのだから、責めるのは無理だという気がした。天皇の母方の叔父の子息は、ヨーロッパの猫を見たいとせがみ、また一人の大官は黒奴(ニグロ)を見たいと言い出したので、私たちはこれらの希望をかなえてやるのに苦労した。」と在ります(△4の下のp200~201)。サトウは「日本の諸侯はばかだが、わざわざ馬鹿になるように教育されてきた」と本音を吐露して居ますが、サトウの文は前にも話した様に主観(実は本音)が少し顔を覗かせますのでミットフォードより面白いのです。シャンパンを痛飲した長州侯とは「そうせい公」と言われた毛利敬親です(△5のp537)。「天皇の母方の叔父の子息」とは中山忠頼の息子です。
 更に翌々日の記述で「初めて顔を見知った大隈八太郎(訳注:参与兼外国事務局判事大隈八太郎=重信)という肥前の若侍が、自分は聖書や「草原本(プレーアリ・ブック)」(訳注:祈祷本(プレヤー・ブック)を誤って発音したのを皮肉ったもの)を読んでいるから、この問題は充分心得ていると、われわれの面前で見えを切ったのは、多分この時だったと思う。大隈は長崎のアメリカ人宣教師ヴァーベック(訳注:フルベッキ)博士(※1)の弟子らしかった。」と在ります(△4の下のp197)が、サトウもフルベッキをマークして居る様ですね。大隈重信はフルベッキ博士の弟子だと言ってますが、大隈重信フルベッキの関係は又後で出て来ます

 寅之祐天皇は1868年(慶応4)3月21日~5月の大坂行幸の際の行在所(=京都東本願寺)での謁見の様子として、日本人の日記や書簡に登場します。4月9日大久保利通の日記「余一身の仕合(しあわせ)、感涙の外(ほか)これなく候。...<中略>...藩士にては始めての事にて、実は未曾有の事と恐懼奉り候。二字(二時)ごろより...<中略>...大飲に及び相祝し候と書き、4月17日木戸孝允(=桂小五郎)の日記には「只管今日、中興之御大事業実行の不伸を浩歎す。午後、角力(すもう)を簾内より叡覧あり」と在り、又、5月24日に家人に宛てた横井小楠の手紙には「御容貌は長が御かほ、御色はあさ黒くあらせられ、御声はおきく(筆者注:おおきく)御せ(背)もすらりとあらせられ候、御気量を申しあげ候へば、十人並にもあらせらるべきか、唯々、並々ならぬ御英相にて、誠に非常の御方、恐悦無限の至に存じ奉り候」と在ります(△2のp233)。大久保は寅之祐天皇と大酒を飲んで祝し、木戸は天皇が角力を見た事を書き、横井は天皇の顔があさ黒く、声はデカく、背はすらりと高く、気力は十人並と言って居ます。何れも睦仁ならば有り得ない話です。

 (3)寅之祐天皇の側室たち
 それでは、このデカイ男とセックスもせにゃならん訳ですから...、の続きを考えることにしましょう。
 寅之祐天皇の皇后は一条美子(後の昭憲皇太后)ですが子供は居ません。一般には「美子は子供が出来ない体である」という説が罷り通って居て、私も最初はそう思って居ましたが、この文章をここ迄書いて来て私は「それは違う」と思う様に成りました。今からそれを説明しましょう。
 『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「明治天皇」に拠ると、明治天皇(=寅之祐天皇)には、判って居るだけで5人の側室(典侍/権典侍)(※19) -「権(ごん)」は副の意- が居ました。子供は判って居るだけで男子5人、女子10人居ましたが成人した男子は大正天皇唯1人です。▼下▼に寅之祐天皇の側室と皇子/皇女たちを纏めて記します。

    <明治天皇(寅之祐天皇)の側室と皇子/皇女たち>

  ・権典侍:葉室光子(1853-1873)
     第 1皇子:稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこ、1873)、死産
  ・典侍:橋本夏子(1858-1873)
     第 1皇女:稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと、1873)、死産
  ・権典侍:柳原愛子(1855-1943)
     第 2皇女:梅宮薫子内親王(うめのみやしげこ、1875-1876)、夭折
     第 2皇子:建宮敬仁親王(たけのみやゆきひと、1877-1878)、夭折
     第 3皇子:明宮嘉仁親王(はるのみやよしひと、1879-1926)
             第123代大正天皇
  ・権典侍:千種任子(1855-?)
     第 3皇女:滋宮韶子内親王(しげのみやあきこ、1881-1883)、夭折
     第 4皇女:増宮章子内親王(ますのみやふみこ、1883)、夭折
  ・典侍:園祥子(1867-1947)
     第 5皇女:久宮静子内親王(ひさのみやしずこ、1886-1887)、夭折
     第 4皇子:昭宮猷仁親王(あきのみやみちひと、1887-1888)、夭折
     第 6皇女:常宮昌子内親王(つねのみやまさこ、1888-1940)
             竹田宮恒久王妃
     第 7皇女:周宮房子内親王(かねのみやふさこ、1890-1974)
             北白川宮成久王妃
     第 8皇女:富美宮允子内親王(ふみのみやのぶこ、1891-1933)
             朝香宮鳩彦王妃
     第 5皇子:満宮輝仁親王(みつのみやてるひと、1893-1894)、夭折
     第 9皇女:泰宮聡子内親王(やすのみやとしこ、1896-1978)
             東久邇宮稔彦王妃
     第10皇女:貞宮多喜子内親王(さだのみやたきこ、1897-1899)、夭折

 上の一覧で1873年に第1皇子(生母:葉室光子)を生んでますから”仕込んだ”のは1872年です。美子と結婚したのが1868年(慶応4)12月28日ですから仕込むのは1869年からという事に成ります。従って3年間位は美子で子を生そうとしたという計算に成ります。
 ここで皆さん<寅之祐天皇の真実>の図を見て下さい。美子は先帝(=睦仁親王)に嫁いだ事に成って居ますから、寅之祐天皇としたら我々下衆の言葉を使うと美子とは”余り遣る気が起こらない”と思います。そこで寅之祐天皇は側室と致したというのが私の考えです。尚、寅之祐天皇は若い園祥子を最も寵愛したという話で15人中8人の子を生して居ます。
 しかし、上の一覧を見ると子供を作るのは中々難しい作業の様で、15人中10人は真面に育って居ません。そして皇位を継承出来る男子は嘉仁親王(後の大正天皇)しか居なかったのですね、いやはや!
 尚、明治天皇には隠し子の話や側室はもっと居たとか、色々な話が伝わって居ますが全ては闇の中ではっきりした事は判りません。

 (4)正倉院の蘭奢待を切り取る
 メインページの「風船爆弾は雅(みやび)な兵器」でも触れましたが、寅之祐天皇は正倉院の蘭奢待を切り取って居ます。1877(明治10)年2月9日「後刻、明治天皇は正倉院に保存されている御物を天覧した。正倉院はふだんは勅封され、入ることが出来なかった。しかしこの日、勅命によって勅封を開き、御物が四聖坊内に陳列された。天皇は御物の中で、古代の名香「蘭奢待」に興味を示した。...<中略>...奈良の行在所に戻った後、天皇は蘭奢待の一片を所望した。博物局長町田久成は長さ二寸(筆者注:約6cm)を切り取り、天皇に進呈した。天皇はこれを二片に割き、一片を自ら焚いた。「燻烟芳芬として行宮に満つ」と記録にある。残りの一片は、のちに東京に持ち帰った。」と在ります(△2のp432~433)。過去に足利義政織田信長が蘭奢待を切り取りましたが寅之祐天皇も大いに満足であったでしょう。寅之祐天皇が、もし孝明天皇の皇子だったなら蘭奢待を切り取ることはしなかった筈です。尚、義政・信長・明治天皇は切り取った事が付箋に記されて居ます。

 (5)寅之祐天皇の背後に見える岩倉具視の影
 幕末・明治の年表を見て行くと -<明治天皇と大室寅之祐の簡易年表>岩倉具視を茶色で示した- 寅之祐天皇と岩倉具視深い関係が解ります。そして機を見るに敏な具視は”摩り替え”を行なう時には「尊王+開国派」に変貌して居ました。
 1871(明治4)年11月12日に寅之祐天皇(19歳)は欧米使節団(大使岩倉具視) -これは別名:岩倉使節団と呼ばれる- を構成し、幕府が幕末に結んだ日米修好通商条約などの不平等条約改正の予備交渉の意味も有り、具視の下に伊藤博文・木戸孝允・大久保利通らを従えて欧米の視察に出掛けました。これなど普通に考えたら伊藤博文が大使と思うでしょう。これは具視に対する天皇の論功行賞だと私は考えます。では何の論功かと言えば孝明天皇の毒殺が真っ先に浮かんで来るのです。

 この岩倉使節団「問題の写真」のフルベッキ(※1)が関係して居るのです。即ち1871年10月26日、岩倉はフルベッキに来訪を求めた。岩倉の最初の質問は、こうだった。「あなたは意見書を書いて、それをあなたの高官の一人に渡しませんでしたか」。岩倉が言っているのは、フルベッキが数年前に大隈に送った欧米使節派遣を勧める意見書のことだった。岩倉は3日前までその意見書のことを知らなかったが、目下翻訳させている最中だと言った。「最後に彼(岩倉)は、こう言った。それは、まさに我々がやるべき唯一のことであり、あなたの企画はその通りに実行されるべきだ、と。外交使節団は、私(筆者注:フルベッキ)の意見書に従って組織されることになった。使節団は、私の意見書が岩倉と天皇の目にとまってから2ヶ月内に船出した」。」と在ります(△2のp328)。大隈というのは勿論、大隈重信の事です。
 △2の注に依ると、意見書は1869(明治2)年6月11日に大隈に送付されて居り、岩倉使節団はフルベッキの意見書が基に成って居るのでした。フルベッキは明治の維新政府の顧問の様な仕事をしましたが、<1865年春の「問題の写真」の様にそれ以前からキーマン(keyman)(※1-1)としての役割を担って居た事が判ります。その一番弟子が大隈で、二番弟子が岩倉(←具視は「問題の写真」には参加して居ませんが養父や子など4名が参加して居ます)です。フーム、そうだったのか!

 岩倉に話を戻すと、寅之祐天皇は岩倉具視邸に行幸(←<簡易年表>では1876年1879年の2度)をして居ます、他の人には有りません(△3のp360~381)。具視邸とは今は国の史跡に成っている京都岩倉(※3-1)の私邸です。天皇は具視が死ぬ時も医者を紹介したりして普通の関係とは思われません。右が岩倉具視の写真です。
 普通で無い関係、丸で具視に特別な”恩義”が有るみたい、天皇の背後に具視が居るみたいです。何の”恩義”かと言えば孝明天皇の毒殺以外に無い訳です。でも私には余り策士には見えません、寧ろ頭の禿げた”只の小父さん”みたいですが、策士に見えない所が「策士の策士たる所以」かも知れません。
 そして前にも述べましたが、寅之祐天皇は”摩り替え”の功労者には恩を形で返して居ます。その極め付けが、1883(明治16)年7月25日の岩倉具視の国葬でした。もうこれ以上言う事は有・り・ま・せ・ん!!

 岩倉と言えば、私が小学生の頃は五百円札の肖像に成って居ました。あの頃は私ら子供は五円、十円の世界でしたから五百円札は多分正月の「お年玉」だと思いますね。そんな訳で余り頻繁に目にする顔では無かったですが。岩倉具視だと言われても「フーン、誰それ?」という感じでしたね。今「五百円札」の話をしても知らない人の方が圧倒的に多いですね、「昭和は遠く成りにけり」です!!

 ■明治天皇(寅之祐天皇)と岩倉具視の総括
 「明治天皇(寅之祐天皇)と岩倉具視の総括」は確り遣る事が大切です。
 先ず言える事は、明治維新は「尊王+開国派」が勝利した革命です。幕末を彩った様々なイデオロギー(Ideologie[独])(※20)、即ち尊王攘夷派、佐幕派、公武合体派、鎖国攘夷派etcなどは何れも淘汰され途中で消滅しました。そして尊王開国だけが残り維新政府の中核思想に成りました。この路線を日本に勧めたのはフルベッキや英国公使の外人の力です。日本人だけでは「開国」という概念は出て来なかったのです。何故かと言うと、井伊直弼(なおすけ)が諸外国と独断で日米修好通商条約(←孝明天皇が激怒した)などを結び、それが悪名高き「安政の大獄」(1858~59年)へと連なった訳ですから幕末の各派にとって開国はタブーだったのです。それは尊王開国という言葉が日本史の教科書に無い事からも解ります。しかし世の中は明らかに開国へ向かって居たのです。そういう意味で明治維新は「外人によりコントロールされた革命」なのです。
 その重要な契機と成ったのが<1865年春に「問題の写真」を撮る集まり>なのです。私は極めてフリーメーソン的な勢力が形作られたと指摘して居ます。これら外人は明治時代を通じて”御雇い外国人”として影響力を行使しましたが、フランスは佐幕派を支援したので負け組に成り影響力を行使出来ませんでした。
 そして明治・大正・昭和・平成は概ね尊王開国の延長線上に在るという事が出来ます、大戦中は国粋主義超国家主義に陥りましたが。

 次に岩倉具視の評価ですが、これについては鹿島曻氏の意見即ち「徳川幕府が幕末に結んだ諸外国との不平等条約(筆者注:日米修好通商条約など)改正の予備交渉のため1871年、大規模かつ長期の「岩倉使節団」が欧米に向けて旅立つ。岩倉具視を団長に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら維新政府の主要メンバーが加わっている。留守を預かるのは西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、山県有朋らである。岩倉らが帰ってきたのは1873年、この長い旅行中に彼らは何を学んだのか。一言でいえば「イギリスのマネをして日本も帝国主義による植民地経営に乗り出そう」ということであった。島国のイギリスがインドを植民地化したように、日本も島国であるから朝鮮清国を植民地化しよう、ということである。」に私は概ね賛成です(△6のp40~41)。要するに、明治は欧化政策富国強兵 -日本の場合は富国強兵とは帝国主義の植民地経営- に走った訳です。鹿島氏は又、帝国主義に依る「侵略戦争はヤクザの縄張り争いと同じだ」とも書いて居ます(△6のp24)、上手い表現ですね。
 そして日本が帝国主義に走った思想的背景として幕末期の吉田松陰の『幽囚録』を挙げて居て(△6のp35)、これには全く同感です。『幽囚録』の一節には「今急に武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャツカ)隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸(ぜん)に進取の勢を示すべし。」と書かれて居るのです(△7のp54、△7-1のp199)。これは言わば”遅れて来た帝国主義者”の論理ですが、この「論理と思想」が明治の後半~昭和の前半迄の間、日本人を虜(とりこ)にしたのです。吉田松陰は処刑されて神格化し松陰神社が出来ましたが、これはキリストが磔にされ甦って復活したの全く同じプロセスです。そして先の大戦で『幽囚録』に書いて在る通りに成りました、最後は無条件降伏で全てを失いましたが!
 寅之祐天皇と岩倉具視は何時しか欧米追従主義に陥り、明治天皇の追随者は”遅れて来た帝国主義者”に堕しました。従って本章の総括はプラス面よりもマイナス面の方が多かったと言うのが私の結論です。今、日本が先進文明を築いているのは日本人の勤勉さの賜物であって、特に文化面では欧米追従が祟り全く没個性の”つまらない国”に成り下がりましたね。
                (-_*)

 今は明治の富国強兵は一応影を潜めて居ます(←2発の原爆を浴びた訳ですから)が何時再び戦争へ向かって行くか知れたものでは有りません。常に「ヤクザの縄張り争い」に誘い込む”甘い罠”が口を開けて待っている様に思えます。私は日本がこの儘平和(或いは太平)を保ってずっと行けるなどと”ふやけた幻想”は持って居ません。日本が戦前の超国家主義に帰るのは意外と簡単なのです。国民の多くが教育勅語 -これは明治政府が作りましたが、我々はその裏に潜むイデオロギー(※20)を「読む」必要が有ります- を容認し軍隊を海外に派遣出来る様に成ったら、どんどんと「済し崩し的」に進むでしょう。そういえばそっちの方向に引っ張って居る今の安倍総理は完全に長州閥でしたね...。
 日本人はその場の「感情」に左右され勝ちですが、私はもっと論理的・思想的に確りしないと行けないと思って居ますゾ!

 ■陰謀の総仕上げ
    - 孝明天皇の肖像画は明治時代に描き替えられていた!!

 (1)改作無しの肖像画 - 孝明天皇の公式の肖像画他
 実を言うと、私は40ページに及ぶ本サブページを書く予定は無かったのです。このサブページは「問題の写真」に写っていた寅之祐の拡大と束帯姿の明治天皇を比較する所迄、「明治天皇摩り替え説」はメインページで概要を述べて居ますので、もうそれで十分と思って居たのです。しかし、以下に記す孝明天皇の肖像画を見て考えが変わりました。「陰謀が物凄く好き」な私は、これは徹底的に書いて遣ろうという気持ちに変わったからです。どうして気持ちが変わったかは後で解ります。

 ドナルド・キーン氏「私の手元に孝明天皇(1832~66)の肖像画が2枚ある。」と言っている(△2のp22)のが次に紹介する2枚です、これは△2の口絵に掲載されて居ます。
 先ず孝明天皇の肖像画を紹介しましょう。右が京都泉涌寺(※21)に在る孝明天皇の御影です(泉涌寺蔵、△2の口絵より)。これが公式の肖像画で絵師は堤哲長(1827~1869)です。
 泉涌寺は皇室との結び付きが強く、特に江戸時代の全ての天皇(後水尾天皇~孝明天皇)・皇妃の御陵がここに造営されて居ます。泉涌寺中興の祖・俊芿(しゅんじょう)は1883(明治16)年には明治天皇(寅之祐天皇)から「月輪大師」の号が贈られて居ます。
 この絵は面長でのっぺらして没個性ですね、寅之祐天皇の下唇が突き出て居る特徴は無いですね、当たり前ですが、ムッフッフ!


 次は1912(明治45/大正元)年に雑誌『太陽』(※2)に載った孝明天皇の肖像画です(△2の口絵より、右は顔の拡大、下は口絵に付随して居た注釈)。右の顔の拡大は、顎鬚を生やし大変厳しい表情で毒殺された無念さが現れて居ます。しかし、寅之祐天皇の下唇が突き出て居る特徴は無い事に注意して下さい。
 写真の注釈には「現在どこにあるかは不明」と書かれて居て、作者も作成年も不明です。多分、宮内庁のどこかに秘匿されて居ると思います。
 私はキーン氏が睦仁の弱さを書いて居るのに明治天皇に成ってからは雄雄しく成って居る事に、自分でも違和感(=イメージギャップ)を感じて居た筈だと指摘しました。尤も、キーン氏は「明治天皇摩り替え説」は知りませんが。
 正直キーン氏の『明治天皇』は数有る明治天皇の”よいしょ本”の一冊に過ぎないのではないかと疑いましたが、キーン氏がこの肖像画を載せた事には大いに評価します(←キーン氏は几帳面なのです)。この肖像画には次節で述べる「下唇が突き出る改作」が為されて無いからです。

 私の知る限り、孝明天皇の「改作無しの肖像画」はもう1枚在ります(右の写真)。これは1878(明治11)年に五姓田義松(※22)が描いた御物孝明天皇御肖像です。顔は多分、泉涌寺蔵の絵を参考にしたと思われますが下唇が突き出て居る特徴は有りません。彼はこの様に光の明暗を捉える技術に秀でて居ました。そして皇室や宮内省関連の仕事をして地方巡幸にも同行して居ます。又、彼の父の初世・五姓田芳柳も明治天皇の軍服姿の肖像などを描いて居ます。
 もう一度言います、孝明天皇には明治天皇の下唇が突き出る特徴は無いのです!!

 (2)孝明天皇の肖像画は寅之祐天皇に似せて描き替えられていた!!
 皆さん、もう今迄述べた事は全て忘れて貰って結構です。唯これから示す孝明天皇の写真に注目して下さい!
 先ず寅之祐天皇の顔を最初に提示した束帯姿の写真からコピーして、ここに載せます。左の写真の様に、明治(寅之祐)天皇は下唇が突き出て居るのが特徴で正に遺伝的形質と言えます。アーネスト・サトウはこれを突顎(prognathous)(※18)と呼びました。
 次の写真は『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「孝明天皇」からコピーした孝明天皇の肖像画です。実はこの絵は1897(明治30)年に雑誌『太陽』に載ったものです。今の所、作者も作成年も不明です。顔に注目して下さい、下唇が突き出て居るのが判りますね、明らかに寅之祐天皇に似せて在ります。
 一方、左の写真は東京国立博物館のサイトからコピーしたもので、1902(明治35年)年に小山正太郎(※22-1)が描いた孝明天皇御宸影(東京国立博物館蔵、右が顔の拡大)です。
 小山正太郎は広辞苑に載る程の洋画家です。右の写真を見て顔に注目して下さい、下唇が突き出て居る遺伝的形質が更に強調されて居ます。そして額縁には「菊の紋」が入って居ます、元は宮内庁(当時は宮内省)が管理して居たのです。
 因みに今の宮内庁は、1869年(明治2)宮内省を設置し、1947年宮内府49年宮内庁と改称して居ます。

 これら「下唇が突き出る改作」 -孝明天皇の肖像画を後代の明治天皇(=寅之祐天皇)に似せて描くという前代未聞の破廉恥な行為!!- を画家に遣らせたのは宮内省(今の宮内庁)です!
 ここで、前に私が言った「実は宮内庁(当時は宮内省)が言うミスとは、英照皇太后と同じく昭憲皇太后として仕舞った、と言うのです。宮内省は複数の人間で作業して居るのでそういうミスは有り得ません。」という発言は、もう1度言うと、これだけ周到に肖像画の改作工作してる宮内省(今の宮内庁)が「ミスをした」など有り得ない話なのです。しかし”摩り替え”の事実を国民に秘匿しなければ為らないので「ミスの所為」にする以外無いのです。
 貴方(貴女)はこれを、どう思いますか?
 これらの写真を見て、どの様に判断するかは貴方(貴女)次第です!!

 (3)「明治天皇摩り替え説」は100%真実!!
 この様に天皇の肖像画というのは死後に描かれる事が多いのですが、宮内省(今の宮内庁)が後代の天皇に似せて「下唇が突き出る改作」を有名な画家に遣らせて居たという事実、これが何より国家の陰謀の証拠であり、こうして陰謀の総仕上げをしたのです。それとも他に理由を見出せるでしょうか?、私は見出せません。従って、皆さん、
  「明治天皇摩り替え説」は100%真実
です。これ以上、多言は不要でしょう。因みに下唇が突き出て居る遺伝的形質は、大正天皇にも昭和天皇にも見られます。
 貴方(貴女)はこれを、どう思いますか?、この結論をどの様に判断するかは貴方(貴女)次第です!!

 ここで、もう少し詳しくデータを見て行きましょう。今迄の孝明天皇の肖像画(但し泉涌寺蔵の肖像画は除く)を年代順に整理すると▼下▼の一覧表の様に成ります。

  1912(明治45/大正元)年に雑誌『太陽』に載った肖像画(改作無し)
         作者:不明、 作成年:不明→1880年頃と推定
    (キーン著『明治天皇(上)』(△2)の口絵に掲載された)
  1878(明治11)年に五姓田義松が描いた肖像画(改作無し)
 ▲────────────── 改作無し ───────────────▲
        ↑
        │この間に改作工作1880~1897年頃
        ↓
 ▼────────────── 口部を改作 ──────────────▼
  1897(明治30)年に雑誌『太陽』に載った肖像画(口部を改作
         作者:不明、 作成年:不明→1896、7年頃と推定
    (『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「孝明天皇」で使用)
  1902(明治35年)年に小山正太郎が描いた肖像画(口部を改作
    (東京国立博物館蔵)

 作成年が不明なものですが、私はキーン氏の本に載った肖像画は「改作無し」という事から、同じく「改作無し」の五姓田義松が描いた肖像画に近い年代と思います。「口部を改作」して作成年が不明なものは1896年頃と推定しました。そうすると上の一覧表の様に成り、「改作無し」のものは大雑把に1880年頃、「口部を改作」してるものは1895年頃に作られて居ます。即ち宮内省の役人が「口部を改作」する”悪知恵”を思い立ったのは1880~97年頃というのがデータを実証的に検証した結論です。
 それで私は1880~97年頃宮内省の役人のトップを調べてみて驚きの声を上げそうに成りました、まぁ▼下▼を見て下さい(『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「宮内省」より)。尚、宮内省は1869年(明治2)に設置され1947年迄続きますが、1885(明治18)年からは内閣制度が出来てトップは宮内大臣(それ以前は宮内卿)に成ります。

    <1880~97年頃の宮内省の役人のトップ>

  宮内卿
    徳大寺実則:1871年11月29日~
   ●伊藤博文:1884年3月21日~   (伯爵・長州閥)
  宮内大臣(内閣制度に移行)
   ●伊藤博文:1885年12月22日~  (伯爵・長州閥・初代首相兼任)
    土方久元:1887年9月16日~   (子爵・土佐閥・農商務大臣)
 ▼────────────── 参考 ───────────────▼
   ○田中光顕:1898年2月9日~   (子爵・土佐閥・陸軍少将・警視総監)
     (”喋りたがり屋”の小父さん
   ○岩倉具定:1909年6月16日~1910年4月1日(公爵・学習院院長・枢密顧問官)
     (岩倉具視の二男)

  *.●は「摩り替えの首謀者」、○は「摩り替えシンパ」
    伊藤博文は1909年10月26日、ハルビン(哈爾浜)で安重根に暗殺される。

 上の図式を見れば答えは明らかです。改作工作の年代は更に狭められました。即ち、

  改作工作伊藤博文宮内卿/宮内大臣(1884~87年の時に、
    宮内省に遣らせる”悪知恵”を思い付いた

のであり、それ以降は改作された「孝明天皇の肖像画」が作られたのです。
 小山正太郎の様な有名な画家に「口部を改作」をさせる訳ですから相当の権力を握らないと出来ませんが伊藤博文なら誰も逆らえないのです。伊藤は尚も宮内省トップに「摩り替えシンパ」を座らせて”摩り替え”を完璧な芸術に仕上げました。フーム、伊藤博文殿、貴方の悪知恵には参りました!!
 伊藤はハルビン(哈爾浜)で朝鮮の安重根に暗殺されましたが仕方が無いという感じですね。この報せを聞いた寅之祐天皇は「「ああ、伊藤が殺されたか」と2回も3回もお上が仰せられました(註:明治42年10月26日、ハルビン駅頭にて遭難)。」と在ります(△3の121)。寅之祐にして見れば自分を”替え玉”に仕立てたのは伊藤博文ですから感慨も一入(ひとしお)と言うか、言葉が無かったに相違有りません。

 (4)雑誌『太陽』について
 ところで『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』は「下唇が突き出る改作」が施された事実を知らないのかも知れませんが、改作された画像は使わないで欲しいですね。百科事典の中立性が失われるからです。
 それから、今迄に3度出て来る雑誌『太陽』(※2)について一言。今それを発行年順に示すと、

  1895(明治28)年(創刊の年)にフルベッキ博士らと撮った「問題の写真」
  1897(明治30)年の孝明天皇の肖像画(口部を改作
    (『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』の「孝明天皇」で使用)
  1912(明治45/大正元)年の孝明天皇の肖像画(改作無し)
    (キーン著『明治天皇(上)』(△2)の口絵に掲載された)

と成ります。何れも雑誌『太陽』なので、ちょっと調べましたが思想的に偏向している訳では無いので、創刊の年(創刊号かどうかは不詳)に例の「問題の写真」を載せたので、その思い入れが有ったのかも知れません。それ以上は解りませんでした。
              ◇◆◇◆◇

 以上の様な訳で、私は孝明天皇の肖像画を後代の明治天皇(寅之祐天皇)に似せて「下唇が突き出る改作」を施した事実を知った時に、本ページを書く事を決意したのです。

 この「陰謀の総仕上げ」の章で本サブページの主要部分は終わりです。この様な裏面史は著者が恣意的に話を作り上げる場合が多いですが、私はデータを見て(=読んで)成る可く客観的に実証的に検証した積もりです。又、何度か悪知恵という言葉が出て来ましたが「陰謀とは所詮悪知恵比べに他為りません。しかし、これだけインターネットが普及した現代に於いて国家的な秘密を完璧に秘匿するのは非常に困難だという事です。
 裏面史(※4-1)を明らかにするとは「外部に現れない事情や内情」を陽光の下に引っ張り出す事ですが、それは「文化の地下水脈」に光を当てる事にも通じます。「文化の地下水脈」に光を当てる事は当サイトの重要なコンセプトの一つで、それは「当サイトのコンセプトについて」に謳って在ります。
 「陰謀が物凄く好き」な私は今回のテーマは非常に面白かったと言って置きましょう。裏面史の一つが明らかに成れば幸いです。

 ■皇室制度について一言
    - 天皇の最も大事な務めは世継ぎを作る事

 以上の事を▼下▼に纏めました。

    <明治天皇(寅之祐天皇)及び今上天皇を中心とした系図>
          (エルニーニョ深沢の説)

                       │
                       │
           正親町雅子===120 仁孝天皇───橋本経子
                 │        │
                 │     親子内親王(和宮)→将軍徳川家茂(毒殺
                 │    (孝明天皇の異母妹)  に降嫁
                 │
       九条夙子===121 孝明天皇───中山慶子
      (英照皇太后)    毒殺   │(摩り替えに同調)
                      │
                      │
           一条美子===122 明治天皇─────柳原愛子
          (昭憲皇太后) <実は大室寅之祐>
                   睦仁は毒殺    │
                            │
                  九条節子===123 大正天皇
                 (貞明皇后)│
                       │
                       │
           久邇宮良子===124 昭和天皇
           (香淳皇后) │
                 │
                 │
      正田美智子===125 今上天皇
            │
            │
            ├――――――┬――――――┐
            │      │      │
  小和田雅子===徳仁親王   文仁親王    黒田清子
        │ (皇太子)  (秋篠宮)   (旧・紀宮)
        │          │
        │          │
        │          ├――――――┬――――――┐
        │          │      │      │
      愛子内親王      眞子内親王  佳子内親王  悠仁親王
      (敬宮)

  *.上図で === は正室、――― は側室

 この系図を何かの機会に参考にして下さい。

 最後に天皇の最も大事な務めは何か?、という問いに答えましょう。
 これに対し公務という答えは”外向き”(=外交辞令)の答えであって本当の答えではありません。天皇の最も大事な務めはズバリ、世継ぎを作る事つまりセックスで頑張る事です。そして今の制度(皇室典範(※23)など)では男子を作る事です。そうしないと家系が絶えて仕舞うのです。ですから天皇は結婚したらオットセイの如く(※24)セックスをし先ず世継ぎを作る事を真っ先に遣るべきなのです。それが天皇の”仕事”なのです。更には、万が一の事を考えると”駄目押し”が必要です。
 寅之祐天皇でも世継ぎ候補は嘉仁親王(後の大正天皇)1人しか居なかったので危ない綱渡りでした。

 翻って今の皇太子を見ると、今上天皇から皇太子に皇位が継承されるのは良いとして、その次は世継ぎ(今の制度では男子)が居ないので、弟の秋篠宮の末子・悠仁親王が皇位を継ぐ事に成ります。しかし、もし悠仁親王がダメに成ると男子で交替要員が居なくなり内親王の内から皇室典範を改正し女帝を立てなければ為らないのです。以前悠仁親王が生まれる前に -親王は帝王切開で生まれましたが、これは彼を帝王にしたいからと言った事がありますが- 女帝擁立の為の皇室典範改正論議を政府がした事が有りますが、はっきり言って今の学者は些細な事に拘泥って頼りに成らないですな。
 あっ、そうそう、『マクベス』の予言的呪縛って御存知ですか?、帝王切開と関係が有るのですが...、まぁ知らなければ結構です、ムニャムニャ(←一応メインページの「エルニーニョの打っ棄り的相撲論議」の中で触れては居ますが、もし暇が有ったらシェークスピアの『マクベス』を読んで下さい)。

 斯様に天皇家にとって世継ぎは大事なのです。皇太子様はそこの所を”履き違えて”居りますね、もう遅いですが。何?、未だ遅くは無いですと?、50歳を少し超した位では未だ未だ行けるですと?、男は80歳代で子供を作った人が居るですと?、貴方には負けます。しかし精子はやはり”若くて勢いの有る”方が良いですゾ!!
 もし今迄の皇室制度を守りたいならば皇室には側室制度が必要だ、と言って置きましょう。
 まぁ、私は女帝でも良いと思ってます。21世紀は女の世紀かも知れないですね、世界的に女性が強くなり男は萎んで居ます。女性の政治的リーダーとかスポーツ選手が物凄く増えて居ます。日本は過去に推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町8人10代の女帝(その内2人は重祚)が政治を取り仕切って来ましたので、女帝が立つ事に私は何の違和感も在りませんし、草食系とか頼りない男よりも女帝の方が良いと思って居ますゾ。
 そう成ると男は何をしたらいいの?、という声が聞こえて来ます。しかし、もう男に勝ち目は無いですね。男に勝ち目が有るのは立ちションベンしか有・り・ま・せ・ん(←この話はメインページの「風船爆弾は雅(みやび)な兵器」の中でも宣って居ます)、ブワッハッハッハ!!
 しかし男は寂しいですな、...トホホ!
                (>_<);

 一つだけ心残りなのは山口県熊毛郡田布施町に行く機会を逃した事です、今更行っても時既に遅しの感は在りますが。ここは大室寅之祐の所縁の地で、私は行く予定にして地図もネットで調べて居ましたが2011年12月2日脳出血で予定が狂い、その後沖縄に永住しましたので、もう行く機会は無いでしょう。
 最後迄読んで戴き本当にお疲れ様でした、そして誠に有難う御座居ました!
                m(_~_)m

【脚注】
※1:フルベッキ/ヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)は、アメリカのオランダ改革派教会宣教師・教育家(1830~1898)。オランダ生れ。1859年(安政6)長崎に渡来。維新後政府の顧問を務め、ドイツ医学の採用などを建議。明治学院神学教授
※1-1:キーマン(keyman)とは、物事の運営・進行に大きな影響力を持つ人。

※2:雑誌「太陽」(ざっしたいよう)は、明治・大正時代の代表的な月刊総合雑誌1895年(明治28)1月創刊~1928年(昭和3)2月終刊。博文館発行。政治・経済・社会評論に始まり、文芸・商工業・農業など広い分野に亘る編集で知られた。高山樗牛のロマン主義的評論でも有名。後「改造」「中央公論」の進出に因り、その影響力を失った。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※3:岩倉具視(いわくらともみ)は、幕末・明治前期の公家・政治家(1825~1883)。元、堀河氏、後岩倉氏の養子。公武合体に努めるが、後討幕運動の宮廷に於ける中心。維新後、政府の中枢。1871~1873年、条約改正準備の為に使節団を率い米欧を回る。帰国後、征韓論に反対し自由民権運動などを弾圧し、明治政府の基礎を築いた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-1:岩倉(いわくら)は、この場合、元京都府愛宕(おたぎ)郡岩倉村。今、京都市左京区に属する。幕末岩倉具視が一時住んだ地。(歌枕)。
※3-2:伊藤博文(いとうひろぶみ/―はくぶん)は、明治の政治家(1841~1909)。初名は利助、のち俊輔。号、春畝。周防出身。松下村塾に学ぶ。討幕運動に参加。維新後、藩閥政権内で力を伸ばし、憲法制定の中心と成る。首相/枢密院議長/貴族院議長(何れも初代)に歴任、4度組閣し、日清戦争などに当たる。政友会を創設。1905年(明治38)韓国統監。ハルビンで朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された。元老。公爵。

※4:明治天皇(めいじてんのう)は、近代の天皇(在位1867~1912、1852~1912)。名は睦仁。幼名、祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第2皇子。生母は中山慶子。慶応3年(1867)1月9日践祚。同年12月天皇の名に依り王政復古の大号令を出す。翌年「五ヵ条の誓文」を宣布、明治と改元。江戸を東京と改めて遷都。その治政下に、廃藩置県/憲法発布/議会召集/教育勅語発布など万般の新制が定められ、近代化が進められた。又、台湾出兵日清戦争日露戦争韓国併合などの対外膨張も行われた。和歌を良くした。陵墓は伏見桃山陵
 補足すると、明治天皇には大室寅之祐に依る天皇摩り替え説が在る。
※4-1:裏面史(りめんし、inside history)は、外部に現れない事情や内情、裏話などを叙述した歴史。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4-2:昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、明治天皇の皇后(1849~1914)。名は美子(はるこ)。父は一条忠香。女子教育の振興などに尽力。和歌・書道に長じた。陵墓を伏見桃山東陵と言う。
 補足すると、生年は公式には1850年(←広辞苑でもこれを採用)とするが、これは明治天皇との結婚に際し1849年の3歳年上は良く無いとし1950年の2歳年上としたからで、実際は1849(嘉永2)年4月17日~1914(大正3)年4月9日である。
※4-3:皇太后(こうたいごう)とは、(古くは清音)三后の一。先帝の皇后。今上(きんじょう)の生母。大后(おおきさき)。

※5:束帯(そくたい)とは、[論語公冶長「赤也、束帯立於朝」][1].礼服を着、大帯を付けること。
 [2].平安時代以降の朝服の名。天皇以下文武百官が朝廷の公事に着用する正服。衣冠・直衣を宿直(とのい)装束と言うのに対して、昼(ひ)の装束と言う。冠・袍(ほう)(縫腋・闕腋(けつてき))・半臂(はんぴ)・忘緒(わすれお)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)(或いは引倍木(ひへぎ))・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口・石帯(せきたい)・魚袋(ぎょたい)・襪(しとうず)・靴(かのくつ)(又は浅沓・深沓・半靴(ほうか))・笏(しゃく)・帖紙(たとうがみ)・檜扇(ひおうぎ)などを具備し、武官及び勅許を得た文官は別に平緒に依って太刀を佩く。物具(もののぐ)
※5-1:纓(えい)とは、[1].冠の付属具。中世以降の纓は羅や紗の縁に芯を付け漆を塗って製し、冠の後に垂れる。立纓(りゅうえい)・垂纓・巻纓(けんえい)・細纓・縄纓などの種類が在る。元は巾子(こじ)の根を締めた紐の余りを、背後に垂れ下げた物の名残。
 [2].冠が脱げない様に顎の下で結ぶ紐。

※6:孝明天皇(こうめいてんのう)は、江戸末期の天皇(在位1846~1866、1831~1866)。仁孝天皇の第4皇子。名は統仁(おさひと)。熙宮(ひろのみや)。攘夷公武合体を支持し、皇妹和宮の降嫁を容認。慶応2年12月25日病死(天然痘)。倒幕派に因る毒殺説も在る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-1:公武合体(こうぶがったい)とは、(「公武」とは公家(朝廷)の「公」と武家(幕府)の「武」を合わせたもの)幕末、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線。桜田門外の変後、幕府内では安藤信正らの画策で和宮を降嫁させ、雄藩では薩摩藩など様々な勢力が主張した。後に尊皇攘夷運動に圧倒された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-2:和宮(かずのみや)は、仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹(1846~1877)。親子(ちかこ)内親王。将軍徳川家茂に降嫁。江戸開城その他に隠れた功が有る。家茂の没後、落飾して静寛院宮と号した。
※6-3:中山忠能(なかやまただやす)は、江戸末期から明治前期の公卿(1809~1888)。明治天皇の外祖父(=孝明天皇の側室慶子の父)。権大納言。初め公武合体に努め、和宮(=孝明天皇の妹)の14代将軍家茂への降嫁に尽力。後、倒幕に努力した。日記3巻は維新期の史料として貴重。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※7:日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Japan-U.S. amity trade agreement)は、1858年(安政5)神奈川で、アメリカ全権委員ハリスと大老井伊直弼の使者の下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震(ただなり)との間で締結調印された条約。公使・領事の交換、下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、貿易の自由、領事裁判権などを決めたが、一般外国人に治外法権を認める、関税自主権が無いなど、我が国に不利な点が多い不平等条約であった。続いて日本は略同じ内容の条約をイギリス/ロシア/オランダ/フランスと締結、一括して安政五箇国条約、勅許を得て無いので安政の仮条約とも通称される。調印の是非を巡り安政の大獄に発展。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※8:禁門の変(きんもんのへん)は、蛤御門の変の別称。
※8-1:蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とは、元治元年(1864)7月、長州藩が形勢挽回の為に京都に出兵、京都守護職松平容保の率いる諸藩の兵と宮門付近で戦って敗れた事件。禁門の変

※9:大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神及び天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)と言い、神に供える新穀は予め卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇は先ず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。
※9-1:践祚(せんそ)とは、(「践」は「ふむ」意、「祚」は「阼(きざはし)」で、主人が堂に登る東側の階段、延いて天子の位の意)皇嗣が天皇の位を承け継ぐこと。先帝の崩御、或いは譲位の直後に行われる。元は即位と同義であったが、桓武天皇の時より別の日に行う事が常例と成る。旧制では践祚の式、賢所(かしこどころ)の儀、皇霊殿・神殿奉告の儀、剣璽渡御の儀、朝見(ちょうけん)の儀が在った。現行の皇室典範では「即位」のみ規定。神祇令「―之日、…忌部上神璽之鏡剣」。保元物語「―御在位十六ケ年之間、海内静かにして天下穏やかなり」。→即位

※10:南北朝正閏問題(なんぼくちょうせいじゅんもんだい)とは、1911年(明治44)に起きた学問の自由への圧迫事件。国定教科書「尋常小学日本歴史」の南北朝並立の記述が南朝正統論 -明治天皇は「三種の神器」を保持して居た南朝が正統であると御裁定を下した- の立場から議会で非難され、教科書は使用中止・改訂、教科書編修官喜田貞吉は休職とされた。その後敗戦まで教科書では吉野時代と称した。
※10-1:喜田貞吉(きたさだきち)は、明治~昭和の歴史学者(1871~1939)。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会を起こし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。1911年、国定教科書に南北両朝並立論を掲載し問題とされ文部省を休職となった。後、京大教授。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※11:宝算(ほうさん)とは、天皇の年齢。聖寿。平家物語6「ただこの君千秋万歳の―をぞ祈り奉る」。

※12:キヨソーネ/キヨッソーネ(Edoardo Chiossone)は、イタリアの画家、銅版画家(1832~1898)。1875年大蔵省に招かれて来日し、紙幣・切手製作を担当。明治天皇や維新の元勲の肖像の銅版画を残した。美術教育にも尽くし、東京で没。遺作と東洋美術のコレクションは、出身地ジェノバのキヨソーネ東洋美術館に収蔵されて居る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※13:アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、イギリスの外交官(1843~1929)。1862年8月、横浜に到着し通訳官を経て日本語書記官に。倒幕勢力から情報を入手し駐日公使パークスの対日外交に寄与。83(明治16)年離日。95(明治28)年7月、駐日公使として3度目の来日、日英同盟の推進に尽力。1900年、駐清公使に転任。著書「一外交官の見た明治維新」。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※14:開国(かいこく、open the country to the world)とは、[1].初めて国を建てること。建国。
 [2].the opening of Japan (to the world)。外国と交通を始めること。通例、江戸末期の幕府に依る鎖国政策廃止を指す。1854年日米和親条約締結と下田・箱館の開港に始まり、1858年アメリカ/イギリス/オランダ/ロシア/フランスと修好通商条約(安政の仮条約)が結ばれた。←→鎖国
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※15:追号(ついごう)とは、人が死んだ後に生前の功績を称えて贈る称号。贈り名(おくりな)。保元物語「―ありて崇徳院とぞ申しける」。

※16:鍾馗(しょうき)とは、(唐の玄宗の夢の中に、終南山の人で、進士試験に落第して自殺した鍾馗が出て来て魔を祓い病を癒したという故事から)疫鬼を退け魔を除くという神。巨眼・多髯で、黒冠を付け、長靴を穿き、右手に剣を執り、小鬼を掴む。日本でも謡曲に作られ、その像を五月幟(のぼり)に描き、五月人形に作り、又、朱で描いた物は疱瘡除(ほうそうがみ)に成るとされる。鍾馗大臣。

※17:熱(ほとおり)とは、「ほとぼり」の古形。

※18:突顎(とつがく、prognathous, prognathism)とは、サルの様に上顎と下顎が顔面の前方に突出する状態の顎。

※19:典侍(てんじ)とは、[1].内侍司(ないしのつかさ)の次官。
 [2].明治以後、宮中の女官の最高級のもの。又、天皇の側室
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※20:イデオロギー(Ideologie[独])とは、[1].史的唯物論に於いて、上部構造を構成するもの全て。観念体系。意識形態。→イデオローグ(ideologue[仏])。
 [2].現存する社会秩序の存在を正当化する支配層の考え方
 [3].特定の政治的立場に立つ考え方
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※21:泉涌寺(せんにゅうじ/せんゆうじ)は、京都市東山区に在る真言宗泉涌寺派の大本山。9世紀に空海が創建。初め法輪寺、後に仙遊寺と称した。一時廃れて居たが、1218年(建保6)俊芿(しゅんじょう)が再興して改称、台・密・禅・律・浄の道場とした。四条天皇を始め歴代の天皇の陵が後山に在り、皇室の崇敬を受けて御寺(みてら)と呼ばれる。山号東山(現在は泉山)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※22:五姓田義松(ごせだよしまつ)は、明治の洋画家(1855~1915)。江戸生れ。初世芳柳の次子。ワーグマンに学び、工部美術学校入学。渡仏してレオン・ボナ(Leon J.F.Bonnat、1833~1922)に師事。パリのサロンに入選。明治美術会に参加。作「操り人形」など。
※22-1:小山正太郎(こやましょうたろう)は、明治の洋画家(1857~1916)。越後長岡生れ。フォンタネージに学び、1887年(明治20)不同舎を起し、89年明治美術会創設に参加。後、洋風美術教育の中心。

※23:皇室典範(こうしつてんぱん)は、皇位継承・皇族・摂政・皇室会議その他皇室に関係有る事項を規定する法律。1947年制定。1889年(明治22)制定の旧法は大日本帝国憲法と並んで日本の成文憲法たる性質を具えて居たが、現行の皇室典範は通常の法律で、内容も簡略化され、皇室経済法を別に制定。

※24:膃肭臍(おっとせい、fur seal)は、(膃肭(おっと)はアイヌ語オンネウの中国での音訳)、臍(せい)は、その陰茎を臍と称して薬用にしたことから、我が国で動物名とした)アシカ科の海生哺乳類。体長、雄は約2.5m、雌は約1.3m(雄が倍位大きい)。体は暗褐色を帯びる。四肢は短く鰭(ひれ)状で、水中の動作は機敏、魚類を捕らえて食う。北太平洋に棲み、繁殖地はプリビロフ島、コマンドル諸島とロベン島しか知られて居ない。乱獲され絶滅し掛かったが、厳重な保護の結果回復、国際条約で捕獲を規制。南極近くの海には近似種のミナミオットセイが居る。一雄多雌の繁殖群(ハーレム)を作る。
 補足すると、「オットセイの如く」/「オットセイの様に」とは、精力絶倫の譬えに良く使われます。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『真実のともし火を消してはならない』(中丸薫著、サンマーク出版)。著者は明治天皇の孫娘だそうですが、これに関しては賛否両論が在ります。

△2:『明治天皇(上)』(ドナルド・キーン著、角地幸男訳、新潮社)。

△3:『明治天皇とその時代(正論12月臨時増刊号)』(大島信三編、産経新聞社)。

△4:『一外交官の見た明治維新(上・下)』(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳、岩波文庫)。
△4-1:『英国外交官の見た幕末維新』(A.B.ミットフォード著、長岡祥三訳、講談社学術文庫)。

△5:『知ってるようで意外と知らない 日本史人物事典』(児玉幸多監修、講談社+α文庫)。

△6:『昭和天皇の謎』(鹿島曻著、新国民社)。

△7:『吉田松陰全集 第二巻』(山口県教育会編、大和書房)。原文「幽囚録」はp37~91。この中の特にp54に書かれて居る内容は、その後の日清戦争・日露戦争・太平洋戦争に於いて大日本帝国が期せずして取った作戦そのものである。
△7-1:『講孟余話ほか(吉田松陰)』(松本三之介・田中彰・松永昌三著、中央公論新社)。現代語訳「幽囚録」はp175~234。


★この画面を閉じる時はブラウザ右上の[x]ボタンを押して下さい。
 (If you want to close this window, push upper-right [x]-button.)