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       本当の夢

 

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「今までのあなたの記憶は、全部夢です」

 目の前の医師は私にそう言った。半年前のことだ。

 今の私はそれを知っている。

 私は半年前に、現実に関する記憶をすべて失った。生まれた場所、仕事、自分の名前。私の記憶は2035年現在の現実とは相容れない、架空の騎士の冒険の話にすり替えられてしまっていたのだ。

 

 私は騎士をしていた。していたはずだった。

 名前はシャドラック・ヘイズ。セイグルV世の治める緑多き王国、ニットリアの零落した名門の騎士の子だ。

 ニットリアは最大の災厄に見回れていた。伝説に語られていた邪悪なドラゴン、グロームが魔女の封印を破り、美しい王女、キリル姫を誘拐したのだ。

 ヘイズ家再興と、名声、富を求め、私は王の募る討伐隊に志願した。

 戦いは熾烈をきわめた。竜の邪悪な罠の前に、仲間は次々と倒れていった。しかし私は、自らの信念と、神の与えてくれた幸運の元、グロームの心臓に剣を突き立てたのだ。その時の歓喜を私は覚えている。そして、囚われの地より救い出したときの、キリル姫が私に向けた感謝の笑顔。雪のように白く繊細な王女の手の甲の感触を私の唇は忘れない。姫の疲れ、汚れていても尚も美しい頬に恥じらいの紅を浮かべさせたのは私だ。彼女の唇から愛の言葉を導きだしたのも私だ。

 私は全ての幸福と、成功を手に入れた。国民の上げる歓喜の叫びの中で、王の前、私と王女は婚礼の誓いの口付けを交わすその瞬間‥‥‥‥私は目覚めたのだ。個室感応機の一室で。

 

 感応機、西暦2035年現在、最も進んだ娯楽機械の一つだ。感応機とは、機械を使って人間に疑似体験をさせる最先端の娯楽だ。 人間は夢を見るという能力を持っている。感応機は人間の夢を見るという能力を任意に制御が出来るようになっているのだ。人間の夢を発生させる働きの能力を外部から制御し、被験者の望んだストーリーを体験させる。アメリカのクメン社が開発したというこの技術は、日本の娯楽産業の大手GMY社によって実用化され、瞬く間に日本の主要都市の大型店舗に配備された。

 被験者は歯医者の椅子を思わせるシートに寝そべるように腰掛け、コードの接続されたヘルメットを被る。夢の中での疑似体験は体を少しも動かさない。

 感応機は望んだ夢を見させる機械だ。その体験は驚くほどリアルで、幻想を確かな形あるものとして被験者に経験させることが出来る。被験者がともすれば感応機の生む幻想の世界、感応世界と現実との境を認識せず、現実と同一視してしまうであろうことは、開発当初から懸念されていた事態だった。事故に対しては最新の防護策がとられ、被験者はわずかながら同調を外され、感応世界のリアルさのグレードを低くすることになっていた。つまり被験者は夢をみながら、これが夢であることを常に認識していることを強要されているのである。それを差し引いても、リアルな望みの夢というのは強烈な体験で、人気を博していた。

 

 ところがそれに事故が起きたのだ。

 

 私は半年前、感応世界から出たときに、現実を見失ってしまったのだ。私にとっての現実は感応世界の、姫とドラゴンのいる王国だったのである。私は、感応機に入る前の私の本当の人生の記憶を全て失ってしまったのである。

 今は、騎士の体験が感応機の夢にすぎないことを私は認識している。騎士の話は、感応機を使用する人には人気のあったストーリーだった。正常だった私がそれを注文したのだ。あの混乱と焦燥は、今でも私を包んでいる。私の記憶は、たしかに姫をこの手に抱き、口付けを交わそうとした瞬間に、こちらの世界に無理矢理連れてこられてしまったのだと告げている。私は、感応機に入る前の記憶というものを一切失ってしまったのだ。 

 感応機の上で目覚めた私は、まさに事件の渦中に放りこまれてしまった。

『新テクノロジーの事故! 安全神話の崩壊?』

『問われるGMY社の責任!』

 そんな見出しが日夜メディアの間に溢れ、私の顔写真がのった。西暦2034年9月12日午後2時、私は規定の料金を払い騎士の話を注文、感応機の個室に入ったのだ。2時間後、係員が混乱の極みにいる私を発見、私は精神科の医者に担ぎこまれた。

 私は感応機のなかの記憶以外、自分に関する記憶を全て失っていた。その後、何日も、医師、報道関係者、GMY社クメン社の担当者から同じ質問を何度も、何回も浴びせられた。私は発狂寸前の混乱の中で、正直に答えるしかなかった。

 第二世代感応機が実用化されて3年、利用者のべ一億人中、初めての症状だった。

 奇妙なことは、私が身分を示すものを一切持っていなかっただけでなく、私の過去を知る者がいないという事だ。私がマスコミに取り上げられたのはおよそ二週間あまりだったが、私を知っているという何人かの名乗りを上げた者が、全て人違いと証明され、私の過去は、名前に至まで何も分からない。

 私は幸運だったのかもしれない。記憶喪失という私の不安定な状態は、GMY社の保護のもと、安定した治療を受けることが出来たのだから。

 企業としての責任として、もちろん看板として使われたことは否定できないが、私は最先端の医学をうけ、自分の症状を理解し、快方に向かうことが出来たのは、やはり幸運という他ない。

 私の記憶喪失はかなり特殊なケースだった。金銭、感応機、テレビ、磁電車、信号、映話、コンピューター、ファーストフード、新聞、その他現代人が認識しているものを私は日を待たずに思い出していた。私は日本語を流暢に話すことが出来、平均程度に外来語を理解していたため、おそらく日本人だろうということになっている。しかし、それらの知識は記憶に結びつかないのだ。私の肉体年齢は22〜25歳の間だと推測されている。およそ二十数年間で得た知識はあるのだが、どこでそれを得たかは全く思い出せないのだ。 私は記憶と居場所を失った異邦人だった。それでも二週間後には、なんとか現状を認識できる余裕も出来るようになった。GMY社の保護の元、毎日の生活は保障されていたが、私は社会にかえることを望んだ。私の記憶は少しも戻らなかったが、私の社会復帰は可能だと医師は保証をしてくれた。GMY社は私の仮の身元引受人になってくれた。

 私はGMY社の寮の一室と、仕事を与えられ、普通の人々と一緒にGMY社で働くようになった。

 私は時の有名人だったから、最初は奇異の目で見られていたが、一ヵ月、二ヵ月とたつにつれ、人々の関心は薄れていった。私は記憶を失ったが、未来はあった。仕事を与えられ、こなすのは楽しかったし、何よりも私を知っている人が増えていくのはうれしかった。今の私の名は、平野耕作。病院で、自分で選んで、自分に付けた名だ。今では名を呼ばれればすぐにふりかえることが出来る。

 記憶を失ってから半年、今では私は安定した人生のレールに戻ることが出来た。もちろん不安もあるが、平凡ながらも安楽な人生が待っている予感がある。 

 いや、あったのだ。あの電話が鳴り、あの女の声を聞くまでは。

 

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 いつもの道を通って家に帰る。

 私はまわりを見回し、軽く笑みを浮かべる。四ヵ月間、通い慣れた、見慣れた道。街路樹、信号、アスファルト、街灯。夕闇に浮かぶそれらが私には全て愛しく見える。

 私の知っている、私の記憶。現実を証明してくれるものだ。私はここにいる。見慣れた景色は私に居場所を与えてくれるのだ。

 すれ違った中年の婦人が、私の顔を見ているのに気付いて、私は咳払いをする。夕暮に道を歩きながらにやにやしている男はさぞかし変に思えるだろう。私は他人に注目されるのはもう沢山だった。

 しかしうれしさは押さえきれない。自分でも毎日よく飽きないと感心をする。しかしそれだけ以前の私は不安定なところにいたということなのだ。

 記憶にある風景が確かにあるということは、私に大きな安心を与えてくれる。道を曲がると、GMY社が借りているマンションが見える。地上六階、二十四部屋の内五部屋が独身寮になっている。私の部屋は一番上の階にある。暗証番号を押してドアを開け、エレベーターに乗って、廊下を歩き、自宅のドアを空ける。

 玄関でスイッチを入れる。明かりがつき、自分の部屋が見える。

 私の部屋だ。家具は備え付けの物だし、置いてあるものはまだ少ない、しかし私の空間だ。私は軽く息をはきながらいつものように部屋を見回す。ソファーに座って、ぶら下げていたカバンと、食料品の入った袋を床に置く。ポケットから煙草を取り出し、上着を脱いで、ネクタイを緩めてから、煙草に火を付ける。

 以前の私はどうかは知らないが、私は煙草を吸うようになった。会社の人々と同じように。小道具だが、コミニケーションの助けになってくれる場合があると、医師に勧められたのだ。あまり多くは吸わないが、部屋に帰ってからは必ず、一本吸い終わるまで、何となく部屋を眺めるのが私の日課だ。煙を肺まで吸い込み、ゆっくり吐き出す。心が休まる。煙が部屋を漂っている。煙は私の記憶と同じように、部屋にしみ込んで、積もっていく。そんな想像が、私を安心感で満たしてくれる。

 突然の電子音に、私は驚いて、煙草を取り落としてしまう。慌てて拾い上げ、灰皿に放りこむ。

 電話だ。電話が鳴っている。

 私は動揺する。私に、電話を?

 電話は鳴り続けている。四ヵ月、鳴ったことのない電話が、鳴っている。

 四ヵ月間の会社生活で、知り合いも出来た。友人と呼べる親しい人達もいる。しかし、電話を掛けてくるような人は、今までいなかったのだ。私は自分の家に電話があることすら、意識していなかった。

 電話のベルが私を呼び続けている。私は息を吸い込み、受話器をとる。

 ああ、あの時何故、私は電話をとってしまったんだろう!

「はい、平野です」

 とる前のためらいを振り切るように、電話に出る。待っていても受話器の向こうの相手は無言だ。

「もしもし?」私は問い掛け、相手の反応を誘う。

「ようやく見つけたわ」

「え?」

「私の声が聞こえますか? 平野さん?」

「だれです? あなた? いたずら電話なら、切りますよ」

「待って、待ってください。ようやくあなたとコンタクトがとれたのだから‥‥‥‥。切るといいましたね? その前は『もしもし』、と。ということは、電話という形で私はあなたと話をしているんですね?」

 私は思わず手のなかの受話器を見つめてしまう。この女は何を言っているんだ? 記憶を失った当初の不安が頭を持ち上げてくる。電話の相手が何か良くないことをもたらす使者に思えてくる。

「平野さん! 聞こえますか?」

 私は意を決する。いたずらかもしれないが、ひょっとしたら記憶を取り戻すきっかけがやってきたかもしれない。つきあってやろうじゃないか。

「聞こえます。あなたは誰ですか?話をするなら、名乗ってからにしてください」

「そうですね、失礼しました。いいですか、平野さん。落ち着いて、私の話を聞いてください。私はGMY感応機技術部一課に所属している、高木というものです。私は、感応機専門の精神科医をしています。」

「ああ、会社のかたですか」

 私は胸を撫で下ろす。

「違います。私はそちらの世界の者ではないんです。平野さん、落ち着いてよく聞いてください。‥‥‥‥あなたが今いるのは夢のなかの世界なんです」

 私は受話器を電話に叩きつける。心臓の鼓動が高まって息が出来ない。激しい怒りがヒステリーのあまり、呼吸器を圧迫している。荒い息をつきながら私は床にへたりこむ。

 やり場のない怒りのまま電話を蹴る。

 なんて残酷ないたずら電話だ。私は悔しさのあまり涙を流している。私は騎士の夢から醒めて、何も知らないこの世界に放り出された。たしかに悪夢のような状況だった。しかし、それでも私は自分の居場所を見つける努力をしている。しかし今でも思うのだ。この状況こそ悪夢であって、私は王女とともに城の寝室で目覚めることがあるのではないか。これこそ私のかなわぬ夢だ。私は騎士の世界が現実であることを証明しようと抗った事もあった。しかし、医師は首を振ってこう言った。『お気の毒ですが、あなたが話した細部にいたる全ては感応機の中で追体験できることです。あなたの話は全て感応ソフトの通りだ。いいですか?似ているんではなく、同じなんです。お気の毒ですが、そんな世界は、存在しない。あなたの記憶は、夢のなかの偽りの記憶なのです』そうだ、夢は醒めたのだ。私が今いる状況こそ、紛れもない現実なのだ!

 私は電話線を抜き、ベッドに逃げ込んだ。浅い眠りは悪夢によってたびたび遮られた、悪夢の内容を思い出せない苛立ちのなか、夜は過ぎていった。

 

        3

 

 あの電話がいたずら電話でなく、真実を告げているのを知ったのは次の日の、昼のことだった。

 私が勤めているGMY社の支社には社員食堂がある。外に食べにいくところもあるのだが、私は出来るだけここで食べるようにしている。社内の多くの人の顔を知っておきたいのだ。知っている人の顔が増えるのはいいことだ。直接所属している課の人以外にも知り合いが出来た。社員食堂にいつも通いつめているのは年配の人が多いのだが、それでも私の名を覚え、私の席を取ってくれるている人がいるのはうれしいことだ。

 しばらく前から私はいつも右の奥のほうで食事をしている。食事ののったトレイをもっていくと、先に着いている人たちが私に向かって軽く手を振る。

 きのうみたテレビの話、天気の話、女の話、とりとめのない会話と味気ない料理。私がみなと同じだということを感じさせてくれる瞬間だ。

 その時に、

『平野さん』

 私は突然自分の名を大きな声で呼ばれた。 私は驚いて、まわりを見回す。だれも私のほうを見ていない。たしかに遠くのほうから、女の人の声で呼び掛けられたのだ。

『平野さん』

 間違いない。私は席を立って辺りを見回す。しかし声の主らしき人は見当らない。

「平野くん、どうかしたのかね?」

 隣の席の人が怪訝な顔で私を見ている。返事をしようとして私のまわりテーブルの人たち全員が私の行動をいぶかっているのに気が付く。

 どういうことだ?私の名前が平野だということは、ここのみんなが知っている。あれだけ大きな声で呼び掛けられたのだ。ここの人たちに聞こえないはずがない。

『平野さん』

 まただ。私は声のほうをたどる。

『平野さん、私の声が聞こえますか?』

 テレビだ。社員食堂の大きなテレビが私に向かって話し掛けている。テレビではいつもの昼の番組がやっている。しかし、音声は、全く番組と独立して、私に呼び掛けているのだ。

 私の横の青年がテレビを見て笑い声をあげる。見回すと、何人かはテレビをみながら箸を動かしている。私以外には、テレビの異常は認識されていないのだ。

「平野くん、どうしたの?」

 立ち上がったままの私に同じ課の課長が問い掛けてくる。やはりテレビからの”声”は私だけに聞こえているようだ。私はあいまいにごまかして席に着く。箸を再び動かすが、すべての神経をテレビに向ける。

『平野さん‥‥聞こえますか? この方法では機械の負荷が大きすぎます。電話を‥‥‥‥取ってください』

 雑音混じりの言葉と同時に、社員食堂に備え付けの公衆電話のベルが鳴った。驚いている皆の視線を感じながら、私は急いで受話器を取った。社員食堂の電話は、映話、つまりテレビ電話だ。しかし映像モニターには何も移らない。

「平野さんですね」

「‥‥‥‥はい」こたえる声が震える。予想どおり、受話器を通して聞こえる声に、私の恐れは現実となった。

 電話の主は昨日の、すべての現実を否定した女の声だった。

「平野さん。私の質問にこたえてください。そこは今、どこですか? 最初の時からどのくらい時間が経ちましたか?」

「君はいったい何者だ?さっき、テレビが私に話し掛けてきた。どういうわけだ?」

 相手の質問を無視して私は受話器に質問をぶつける。人の目がある。声を小さくするのに自制心のすべてをかける。

「機械に負荷をかけてしまう危険な方法でしたが、あなたに納得してもらうためにはやるしかなかった方法です。ありえない現象を起こすことによって、あなたに現実への疑惑と、こちらの世界へ関心を向けさせる。そうするには多少でも危険を冒すしかなかった」

 そのたくらみは大成功だ。私は受話器からの女の声を聞いて思う。まさに悪夢のようだ。突然私にだけ聞こえる声で話し掛けてきたテレビ。そしてそれを起こしたと認める電話の女。記憶をなくした当初の恐怖が再び私の心を覆っていく。震えそうになる足を必死に押さえ付ける。私は受話器を握ったまま後をふりかえる。同僚たちがこっちを怪訝そうな顔で見ている。  

「平野さん、聞こえますか? そちらは最初のコンタクトからどのくらい時間がたっているのですか?」

 私は受話器に向き直る。

「どういうことだ? こちらとそちらでは時間の経過が違うのか?」

「それの確認が必要なのです」

「あんたの昨日の電話が昨日の十時で、今は次の日の‥‥‥‥十二時半だ。今、長電話をするのはまずい。とにかくあんたの話が聞きたい。こちらから連絡は取れないのか?」

「それは不可能です。夢の中から現実に連絡をとるのは感応機の機能にはありません。なるほど、現実と夢の時間の整合性が取れました。いいですか、あなたは感応機に入ってからもう‥‥‥‥」

「待ってくれ、今ここで話をするのはまずい。人目がある。‥‥‥‥今日の夜、八時くらいに自宅に連絡できるか?」

「こちらとの相対時間の計測も出来ました。可能です。では、そちらの時間で八時に」

 電話がきれる。

 そちらの時間? 現実と夢?分からない。私は軽いめまいを感じる。同僚たちがまだ怪訝な表情で私を見ている。うまい言い訳を考えることは出来そうもない。しかし一つだけいえることは、この事実はだれにも告げることは出来ないということだ。同僚たちを指差して、お前たちは夢のなかの住人だというのか?テレビが話し掛け、電話が現実は夢だと告げる。厳然としてあるはずの現実は、今、狂いはじめている。

 それとも狂っているのは私の頭だろうか?