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    帰宅

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「それでどうなんだい? 新婚生活というやつは?」

 ワイングラスを上げて、古沢は相手を見る。赤い液体の向こうにいる河原のフォークを握る手が動揺で大きく動くのを見て古沢の唇に小さく笑みが浮かぶ。

「なるほどねぇ。相談したいというのはそういうことなのか。しかし銀座に名高い国見堂の、しかも地下の個室に招待してくれるとはね。僕では役者不足だよ。しばらくは一緒になろうなんて女もいないし、新聞記者なんてやくざな仕事じゃ結婚相手なんて見つかるはずもない」

 そう言いながら古沢は壁を軽くたたく。煉瓦の確かな質感。震災で上の建物を焼いてしまった国見堂は一階の大ホールははやりの軽さに変わってしまったが、地下の部屋は創立時からの重さを止めている。会員のみが食事の出来るこの部屋の赤い煉瓦と真っ白なテーブルクロスのコントラストが美しい。燭台に照らされる銀の飾りのついた白磁の食器の光、その上の冷たく冷やされた鮭とソースの具合も絶妙だ。今日の食事に河原はいったいいくら使ったんだろうか? おそらく30円は下るまい、この一食で自分の給料の4分の1が飛んでいってしまうわけだ。古沢は自嘲気味の笑みを浮かべる。

「古沢。最近仕事のほうはどうなんだ?」

 ナイフを置いて河原は話をそらす。

「どこを向いても不景気な話ばかりだ。元号が変わったっていうのに、町中の建物は貸家のはり紙ばかりで、みんな都落ちだ。震災から三年たったってもまだ家のない奴がごろごろあふれている。まあそれでも今年の米はよく育っているようだし、去年のように3円なんてべらぼうな値段にはならないだろうがね。景気がいいのはトーキー式の映画館くらいじゃないのか? ああ、それと君の家もあったな。製糸のほうは大打撃だってのに、君の所の業績は天井知らずだ。君の父上は先見の明があったというわけだ」

「そうだね。幸運なことだ」

「おかげでここでこうして贅沢な食事が出来るというものだ。‥‥‥そろそろ白状しろよ河原。世間話をするためにこんなたいそうな所に俺を呼んだわけではあるまい。なんで国見堂の地下まで俺をひっぱりこんだんだ?」「ちょっと内密な相談があってね‥‥‥」

「それだけでわざわざここに? 30円も使ってか?」

「おかしいかい? ここなら声は外に漏れないし、人もいないだろ」

「呼び鈴を鳴らせば給仕が飛んでくるじゃないか。つまり聞耳をたてられているんだぞ。それに内密な話なんてのはうるさいところでやるほうが逆にいいんだ。新宿のどぶ芸者どもに囲まれてやれば、たとえ話を聞かれても学のないあいつらなら分かりゃしない」

「そういうものなのか」

 河原の神妙な関心ぶりに古沢は軽くため息をつく。グラスに残ったワインを飲み干す。「河原、そっちの白をとってくれないか。君のいうように、魚に赤は合わないんだな。ところで、春代夫人と何があったというんだ?今日、君の相談したいということは、それなんだろう?」

「まあ、そうなんだ」

「しかし、俺は年寄でもなけりゃ、女の専門家でもない。たしかにうちも読売を真似て身の上相談なんぞをはじめたが、俺は担当じゃない。君たちのように良識あふれる、理想的な家庭に助言なんて出来ないよ」

「何も助言を欲しいなんて言っていないよ」

「じゃあなんなんだよ。吉原で取材した技巧を教えろなんていうんじゃないだろうな。もしそうならめでたいことだ。君の堅物ぶりが少しまともに解けてきたというものだ」

「古沢、勝手に話をすすめないでくれ。ちゃんと話すから。確か君はあの『昭和の龍雲』の記事を書いていたね」

「『昭和の龍雲』ねぇ。『帝都の切り裂き魔』ってのもあるけど、もう少しなんとかできないのかねぇ。センスというものが感じられない。犯人は恐ろしく奇妙な奴だよ。狡猾とか凶悪とかいう言葉で片付けられる奴じゃない。今流行っている猟奇探偵物の主人公そのもののようなまさに時代が登場を望んだような存在だよ」

 『龍雲』というのは大正三年、本名大米龍雲が関西を中心で起こした日本犯罪史上類を見ない、残虐な犯人の通称である。強盗殺人三件、強盗強姦五件、強盗七件、窃盗九件を数えた大事件であった。僧籍にあった龍雲は、自分の経験を生かし、狙いやすい寺や尼寺を襲い、美醜年令を問わず、強姦、殺人を重ねた。

 昭和二年。新しい元号を迎えた帝都に住む人々の口の端にかっての龍雲を彷彿とさせる猟奇事件が上るようになった。決定的に違うところはこれまで被害にあったものが全て妙齢の婦人であり、金品や、強姦を目的とせず、ただ喉を切り裂いて殺すのみという明らかな異常性を持っており、それはかのロンドンで起きたという伝説的な連続通り魔事件との関連性さえも新聞が脚色して書き立てるにいたり、帝都最大の関心事となりつつある事件だった。

「君は最初からその事件を追っているのかい?」

「奴の仕業と思われる三人目の被害者からだよ。関連性に気付いてスッパ抜いたのは平凡社の雑誌のほうだが、ちょうどその頃には俺もこの帝都で起きていた通り魔事件中の類似点を編集長に進言していてね。それで俺が担当になれた。こいつは容易ならざる事件だ。なんといってもあれからさらに二人も被害にあっているのに官憲は犯人の目星さえもついていない。最初の殺人は震災の一年後だからもう二年以上になるのに犯人は大手を振って今もこの街を歩いている」

「この街? 銀座をかい?」

「この帝都をだよ。奴は間違いなく都市の住民だよ。人通りのない道、呼ばれればついてくる女、獲物を嗅ぎ分ける嗅覚はひょっとしたら俺や君のような、この都市を自由自在に歩くことが出来る知識人ならだれもがもっているものなのかもしれない」

「君は‥‥‥‥犯人に目星がついているのか?」

「まさか、しかしカス雑誌でいわれているような医学の天才でないことは確かだ。奴は練習しているよ。手口はいつも医療用のメスで女の喉を切り裂いているが、一人目と五人目では手際が全然違う。学習しているんだよ。それも楽しんでね。これは検死官の私見だけどね、俺もそう思うよ」

「すごいな。そんなことは新聞や雑誌には何も書かれていないじゃないか」

「一応無用な混乱を防ぐために箝口令はしかれているさ。しかしそのために雑誌や小新聞はいい加減な情報でむやみに書き立てているから、無用な混乱はすでに起きているし、警察にあらぬ疑いで尋問される人も多くなっている」

「古沢、君は警察から私たちの知らない情報も知っているんだね。しかも私たちよりいち早くそういった情報を得るんだろう。そうだね?」

「そのために苦労しているんだ。おいおい、河原、おまえの奥さんの話じゃなかったのか? なんでこんなことを聞きたがる」

「実はな、古沢。君に頼みがあるんだ。君が追っている事件の詳しい情報が入ったら、その都度私に一番早くに教えてほしいんだ。礼は何でもする」

「な‥‥‥‥」

 古沢は絶句する。そしてまじまじと大学以来七年ごしの付き合いの友人を見る。今や飛ぶ鳥を落とす勢いの製鉄工場を傘下に持つ河原重工業の三男。一代で会社を築き上げたその父とはあまりにかけ離れた線の細い、青白い河原の目が眼鏡ごしにかってない真剣さで自分を見つめている。いや、昔もこんなことがあった。一度だけ、古沢が大学をやめる少し前の時に‥‥‥‥。

「あまりに非常識なこととは分かっている。だからこそ古沢、君にしか頼めないんだ」

「ちょっと‥‥‥‥待ってくれよ。河原、訳を教えてくれよ。たしかに面白い事件であることは認めるが、本当はもっと、根の深い、恐ろしい事件なんだよ。犯人は明らかに、狂気の下僕だ。しかし、そいつは今も平気な顔をしてこの帝都を歩き回っている。納屋に閉じこめられっぱなしの気違いが猟銃持ち出して村人を殺し回ったような”納得できる”事件じゃないんだ。犯人は予想も出来ない、しかし確実に我々の”隣人”なんだ。きっと犯人が捕まったときに周りの人間は言うだろう『まさか彼が』とね。邪悪。そう、まさにそうとしか言い様のない事件なんだ」

「だからこそ、私にとっては好都合なんだよ。非常に好都合なんだ」

 呟くような河原の声。熱に浮かされたようでいて、氷のような知性を感じさせる暗い炎のような河原の、声。古沢の背に小さな震えが走る。

「何が‥‥‥‥好都合だというんだ」

 問い掛ける古沢の声も思わず小さくなる。「古沢。私は偽装がしたいんだ。猟奇殺人犯が自分だと、信じさせたいんだよ。春代に、自分の妻に」

「そんなことは、危険だ。信じ込んだ君の奥さんが警察に報せるだろう。奴らは犯人を捕まえたいんだ。真偽なんて関係ない。そうしたら、本当の犯人にされてしまうかもしれないんだぞ」

「妻は、報せない‥‥‥‥だろう。おそらく。それも私にとっては一つの実験だよ」

「実験?」

「私と妻のだよ。私たちの結婚の経緯は知っているだろう?」

「ああ」

「結婚なんて物じゃない。春代は生贄だよ」

「娘なんてのは家にとってそんなものだろう。春代夫人の父親は池内子爵だ。事業の失敗に加え、国の保障は年々減っていく一方だ。そしてあの震災が起こった。池内邸は母屋のほとんどを灰にしてしまった。子爵は莫大な借金で、家を建てなおすことも出来なくなった。君の父上に話をもってきたのは子爵のほうだというじゃないか。生贄とは言いすぎだが、春代さんという娘がいたおかげで子爵の借金は河原重工が清算し、結果子爵は一族とともに地方で悠々自適な生活が出来ることになり、君の家は華族と親戚という箔を得ることになった。最近ではありふれたよくある話じゃないか」

「よくあること、そうなのだろうか」

「何が」

「私の妻、春代のことだ。彼女は、人形だ。運命を受け入れ、従うことしか知らない。私には分からない。華族の娘というものはあんなにも諦めきったものなのだろうか」

「泣いて暮らしているというわけではあるまい」

「泣いてくれたら理由を問うことが出来る。そうじゃないんだ。私が声をかければ彼女は答える。人は彼女を良妻と呼ぶだろう。しかし違う。なぜあんなにも私を恐れるのだ? いや、違うな。違うんだ、私を恐れているわけではない。私たちは対等ではない。彼女を見ると私はそう思うんだ」

「男と女、とくに夫と妻は違うだろう。支配するものと従うものだ。はやりの婦人開放じゃあるまいし、彼ら狂信者が言うように我々はご婦人を奴隷だなんて思っていない。夫と妻は違うものなんだ。それは当たり前の事だろう」

「奴隷か、ひょっとしたら春代は自分のことをそう思っているのかもしれない」

「まさか」

「私にも分からないんだ。妻が何を考えているか、私にも分からない。彼女は”待っている”んだ。いつでも、どんな時でもただ、待っている。判断をあおぐために聞くこともなく私の行動を待って、それから動いているんだ。日常生活ではない。なんとなくなんだ。どこかが狂っている。あるいは狂っているのは私のほうかもしれない」

「おい、おい、河原。おまえちょっと疲れているんじゃないか」

「どこかがおかしいんだ。君と話しているとそれが分かる。私と君は、話している。君は私の思わぬ事をいい、それに摩擦が生まれる。しかし妻は、その摩擦をなくすためだけに生きているような。摩擦をなくすためだけに努力をしているような気がするんだ。このままでは彼女は私の奴隷にすぎない」

「‥‥‥‥」

「古沢。私は妻と対等になりたいんだよ。僕には妻に対する負い目がない。彼女はありすぎるくらい持っている。私が横を向けば彼女の一族は首を括るしかなくなる。私は妻を愛したいんだ。従わせるのでなく、そう、例えば私の致命的な秘密を握ってもらうことで私と彼女は真に対等な立場に立って、その時に初めて夫と妻になれるんだ」

「それで犯人のふりをしようというのか? 妾でもつくればいいじゃないか。きちんと負い目だって出来る」

「私は春代を愛しているんだ。それに古沢。私はもう二度と女を別の目的で愛しているふりをしたくはない」

 河原が表情を曇らせ下唇を噛む。古沢は河原が学生時代に起こした事件から彼が完全に脱し切ってないことを思い知らされる。

 沈黙を破るために古沢は一息でグラスのワインを飲み込み、声をかける。

「よし、君に協力しようじゃないか。奇妙な話だが、それだけに面白い。私に君と奥さんの関係の経過を報告してくれるのならやろうじゃないか。細かい段取りは次の料理を平らげてからにしよう。呼び鈴を鳴らして給仕を呼んでくれ」

 古沢は席を立ち上がり、向かいのテーブルに手を差し出す。河原は安堵の笑みを浮かべてその手を握り、胸の支えが降りた表情で軽く呼び鈴を鳴らす。

 

 その時、自分を見つめる古沢の目に、ある想いが浮かんでいたことに河原は気付くはずもなかった。

 

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 河原は西片にある自分の家の門をくぐる。午後七時半。遠くで夜警の鳴らす拍子木が聞こえる。

 広い庭である。玄関に灯された明かりは河原が立っている門から20メートル近くある。間にぽつんと外灯がある以外、門から家までの道は暗い。六月である。庭の草叢から聞こえる虫の声はまだ小さい。まるで山のなかの一軒家のように河原の家の周りには闇が広がっている。以前の持ち主から譲り受けたときに壁だけは取り壊さなかったために、このような珍妙な景色になっているのである。

 昼ならなおこの奇妙な家に人は興味を持ったであろう。河原の家の外側は、高くつくられた漆喰の壁、もともと建っていた武家屋敷の、贅を尽くしたものでありながら、その壁の囲んでいる広い敷地の真ん中に、この時代はやりの文化住宅スタイルの小さな家がぽつんと建っているのである。和洋折衷のガラスのはめこまれた窓ばかりが大きく、コンクリート製の円柱が尖った瓦屋根をささえている入り口、それ以外は代わり映えのしない中流日本家屋。洋間を入れて四つの部屋をもつ小さな家。それが婚姻の時に親に望んだ河原の新居だったのである。

 もともとは河原の妻、春代の実家の屋敷のあったところだったのだが、婚姻が決まり池内子爵の先祖から受け継がれた土地を譲り受けることになった際に、周囲の反対を押し切って河原が建てさせた家なのである。

 外から見れば周囲と同じような立派な武家屋敷の一つに見えるのに、門をくぐれば、目白の背伸びをしている腰弁当の官僚がすんでいそうな文化住宅が、広い庭の真ん中に建っている。上の二人の兄は父と同じ玉川にある河原御殿とも呼ばれる西洋館から車で職場に通うのに、河原だけがわざわざ電車に揺られ会社に出る。

 この家は、そういった河原のアンバランスな価値観と頑なななこだわりそのままの奇妙な家であった。

 

 引き戸をあけて河原は帽子を脱ぐ。

「今帰った」

 玄関のほうをむいて靴を脱ぐ。ぱたぱたと足袋の音が近付いてくるのが聞こえる。

「おかえりなさいまし」

 春代は膝をつき、手を前にそろえる。仰々しいからやめるようにと最初は言っていた河原だったが、いつしかその”妻が夫を迎える絵”というのを楽しむようになっていて、春代が頭を下げるのを眺めるようになっていた。春代のその動作は流れるように自然で美しい。割烹着に結いあげられた髪という姿でさえも気品を感じさせる。

 小さな、華奢な体だ。河原は妻の姿を見て思う。地味な和服に包まれ座っている春代の姿は十七という実際の年齢より幼く見える。春代が顔をあげる。睫毛の長い、猫のような目が河原の目を見て、すぐにわずかにそらされる。河原はカバンを春代に渡すと、陶器のように白い小さな手が河原の手に触れる。肌のきめの細かいなめらかな、冷たい手。結婚して四ヵ月、家事のほとんどを彼女がやっているが、そんな苦労を微塵も感じさせない手だ。

 河原は廊下を歩きながらネクタイを緩める。「今日の夕飯はなんだい?」

「鯵のいいものが入りましたので‥‥‥‥」「初物だね」

 うつむきながらついてくる春代をふりかえる。河原の笑みに、春代も小さくほほえむ。「汗をかいてしまった。いつものように先に風呂に入るよ」

「はい」

 

 灰色の地肌が剥出しのコンクリートの湯槽。最初は真新しさに喜んでもみたが、機能美というには程遠い、武骨な感じと違和感の残る肌ざわりは、河原の心の奥に何か不安を与えるものがある。

 春代にも通ずる、違和感だ。

 風呂には原因が分かる。設計士に命じて造らせた、平凡な文化住宅そのままの風呂、コンクリートで造られた装飾を削いだ造りは写真でみた独房を連想させる。コンクリートという人工物の生む不自然な模様は何か得体の知れない不安がある。

 しかし、春代には、どうだろうか。血の違いとも言うべきものはあるだろう。あの出迎え方からでさえそれを感じる。河原にはあのような優美なお辞儀は出来ない。真似ても無理だろう。小さな頃から教えられ、親の方法を真似て作り出された、何百年もの歴史を持つ家の子孫が出来る、あれは芸といってもいいものだ。河原のように学のあるものには出来そうにない、無駄の多い、それでいてなめらかな動き。年寄の貫禄ではない、十七の幼い、教えられたことに疑いを持たないもののみができる物腰は、河原を圧倒させ、春代を遠い存在に感じさせる。

 頑なさだ。心に浮かんだ言葉が、春代を言い当てた気がする。妻という役割を必死に演じようとする心が河原に春代を遠い存在にさせてしまう。

 彼女は一生懸命に役割を演じている。夫の出迎え、家事、そして‥‥‥‥生きることを。河原が春代に話し掛けると、春代はこう考えるのだ。「妻としてどう答えよう」と。目の前にいて、触れても、まるで春代自身にはガラスに覆われているかのように届かない。すべてがガラスの表面を滑っていくだけだ。言葉も、愛も、爪も。

 一度だけ、河原は彼女の心に届いたという実感を得たことがある。計画を練って、実験し、成功したのだ。

 河原は夜遅くまで寝床で本を読む習慣がある。そのために枕元に仕掛けがしてあった。寝たまま手を延ばすだけで電気のスイッチ操作することが出来るのである。

 休日の前の夜などは河原はその部屋に寝る。いつもは春代と共に布団を並べて眠る。

 あの夜、春代を部屋に呼んだのだ。春代はその仕掛けを知らなかった。そして春代の体を求め、電気を付けたのである。

 明かりのもとにさらされた、春代の体は美しかった。小さな悲鳴をあげて、手の平で隠した間からのぞくばら色に上気した頬、汗に光る肌。解かれた髪は、白い布団に広がる黒い波紋のようだった。

「やめて、やめてください」

 消え入りそうな声で春代は何度もそう繰り返した。腕のなかで震える体も、声を上げるのを堪えるために押さえた口も、掴まるものを求めて、弱々しく動く腕も、河原ははじめて白日のもとに、見たのだ。それは感動であり、実感であった。異常な状況に置かれ、戸惑う春代が、愛しかった。自分の妻である少女はこんな一面ももっているのだ。

 戸惑い、怯え、僅かに抗うあの姿は、妻という虚飾をはぎ取った春代の姿なのだ。恐怖を与えるのが目的ではなかった。いつもの交わりのそっけない反応。それは春代が堪えていたということがわかったのだ。今でもあの夜の啜り泣く春代の声に河原は罪悪感のもたらす心の痛みがある。しかし、春代が殻を被っていることを実感したのである。彼女には魂がある。妻という人形なのではない。そして河原を愛してくれるかもしれない魂をもった生きた人間なのだ。河原はその実感を得たのである。

 妻である演技をやめさせる。それは命じてやるものではない、彼女が自覚しなければならないことだ。妻という役割を演じているから河原を愛しているのではない。そんな愛が、私と春代の間には生まれるべきだ。河原はそう思い、そう信じて、古沢に話を持ちかけたのである。 

 

 食事中に、電話が鳴った。交換手が機械になり、夜でも電話をかけられるようになったのはつい最近のことである。

 河原は立ち上がろうとする妻を制して、電話に急ぐ。

「河原か、俺だ」

 交換手の声のない、いきなり相手の出る電話は趣にかけると感じる。

「待っていたよ。古沢」

 妻に聞こえないように、河原は声をひそめる。

「今赤坂にいるんだ。今からこれるか?」

「別に大丈夫だが、こんな時間にかい?」

「まだ電車だって動いているんだぜ。なければ車だってつかまるだろう。それに河原、君はこれから毎日出歩かなきゃいけないんだ、予行演習だな」

「なんだい、予行演習というのは」

「まあ、そんな細かい話はあとだ。とにかく来いよ、待ってるから、赤坂の『エルドラド』だ。」

 電車からおりて、古沢の指定した店を探す。にぎやかな夜の街だ。学生時代は友達につれられて出てみたが、河原は誘われなければいかなかったし、その記憶も今は遠くなっている。

 夜の街に出ていくことを考えて洋服にはしてみたのだが、華やかなネオンと、どこからか流れてくる音楽、派手な洋服を来た女、赤ら顔で出歩く人々、決して表通りには出ない、路地裏でうずくまり、通りを見る浮浪者。閉じてしまった商店との奇妙なコントラストの下で見るそういった街の夜の住民からは、河原は自分が浮いてしまっていることを自覚する。ここは祭りの場だ。毎日繰り返す、倦んだ興奮のある終わりのない祭り。そういった無気力な夜の華やかさの空気は河原を落ち着かない気持ちにさせる。

 エルドラドはすぐに見つかった。昼は食堂をしているらしいダンス・ホールだ。

「お一人ですか?」

 タキシードに蝶ネクタイで、油でぴっちりと髪を撫で付けたボーイが怪訝そうに聞いてくる。

「ああ、そうだが」

 わざと横柄に河原は答える。どこか探るようなボーイの視線に気が付かないふりをして、金を払い、チケットを手にする。別に女性同伴で来なければならないという規則は、ダンスホールには、ない。下心を探るような視線を浴びるいわれはないのだ。

 ドアを開けるとどっとジャズのメロディーがあふれる。華やかで安っぽく飾りたてられたホールに、十組ほどの男女が踊っている。右の奥のほうは舞台になっている。スポットライトを浴びて朗らかにトランペットを吹く外人は、楽団のなかでも浮き立って、主役のように見える。左の方は、反対に少し静かになっていて、テーブルが並んでいる。踊りに疲れた人や、見付けた相方と、この夜の計画を練るために、座って飲み物を飲みながら視線をちらちらとホールのほうへ向けている。

 古沢が河原を見付けて近付いてくる。古沢は上着を脱いで、シャツの袖をまくり上げていた。額に薄く汗をかいている。

「古沢、踊っていたのか」

「ああ、ちょっとな。学生時代のようにはいかないけどな」

 古沢は奥の席へ行く。歩いている間にボーイを呼び止めカクテルを注文する。

「古沢、私は酒はいらないよ」

「女の飲み物だ。酒のうちにははいらんさ」 奥とはいっても、店はそんなに広くない。話をするのには心持ち声をはらなくてはいけない。

「それで河原、君の話だが、その前に、君にプレゼントがあるんだ」

「プレゼント? なんだい」

「これなんだがね‥‥‥‥」

 古沢は背広から木箱を出した。エナメル塗りの、筆箱を一回り小さくしたくらいの掛け金のかかった箱をテーブルのうえにおく。

 古沢は、わざと焦らすようにゆっくりと箱を開けた。

「横浜にいったときについでに手に入れたんだ。ゾーリンゲンの逸品だぜ」

 医療用のメスだ。古沢は手に取ってみせる。清冽な、銀の輝き。薄い、それでいて鋼の確かさを感じさせる刃は、刃物の持つ妖しい誘い、何でもいいから切ってみたいという気持ちを起こさせるものをもっている。

 魅了されたような河原の目を意識しながら古沢は笑みを浮かべる。

「これが、あの切り裂き魔の使っている凶器だよ」

「ほ、本当かい!」

 思わず河原は立ち上がり大きな声を出す。テーブルの男女たちから訝し気な視線を向けられて、あわてて座りなおす。周りの目を気にしながら押さえた声で古沢に耳打ちする。「そ、そんな、古沢、そんなことまで警察は掴んでいるのか。僕には分からないんだが、そんなものが持ち出せるのかい」

「こいつが凶器の本物ということはないよ。でも俺は、これと同じものを奴が使っていると踏んでいるんだ。河原、その、内緒話をしていますっていう態度は止せよ。もっと普通にすればいいんだ」

「でも、こんな話、あまり聞かれてうれしいというわけではないだろう」

「周りを見てみろよ」

 河原は周りを見回す。退屈そうにグラスを傾けホールを見ているもの、固まって話しているもの。

「見てみろよ、河原」

 古沢に促されてホールを見る。曲は速いテンポのものに代わっていた。ひとつだけ目立組がある。白人のカップルだ。周りの男女より頭ひとつ大きい肢体だけではなく、その大きく、なめらかな動き、女の広がるスカートさえもが、計算された奔放な秩序ともいえる調和をなしている。そこには、日本人の真似の出来ない、本物の空気があった。周りの男女は、鼻白みながらも、健気に対抗意識を燃やして頑張るのだが、それはただ、異国の人の舞の見事さを引立てるだけの役目しかはたさないのだった。

「餅は餅屋、やっぱりダンスは異国の文化なんだな。あの身長と、体のバランスがなければ、ドレスやタキシードさえ着こなせないんだ。俺達は気取って滑稽な猿真似をしているんだ」

 古沢の声に、妻の仕草の幻が重なる。なるほど、春代は文化を持っているのか。その文化が、河原に目の前の外人を見る男女と同じような、劣等感と、決して満たされない憧れを感じさせている。

「おい、河原」

「あ、ああ」

 古沢に呼ばれて、河原は我にかえる。

「地下の静かなレストランより、こんな騒々しいところの方が、俺達みたいな男二人で話すにはいいんだよ。男が集まるのはご婦人のところだ。そして群がる男目あてにさらにご婦人が追い掛ける。俺達にはだれも注意を向けやしない」

「なるほど、確かにそうだな」

「そこでだ‥‥‥‥」

 古沢は、これだけはいつも手放さないカバンを取り出し、テーブルの上におく。しばらく河原の前でごそごそやってから、ひとつのノートを取り出した。

「河原、こいつは俺があの殺人鬼について調べたものだ。これを君に渡しておこう。犯行の時間は、十時から夜の午前二時くらいだと思われている。これから毎日外に出ろというのはそこからなんだ」

「毎日じゃなければ駄目かい」

「君の出てない日に奴が欲望をはたせば君にはアリバイが出来る。奥さんは君と奴を重ねることはないだろう」

「そうだな、それでは意味がない」

「君は黒一色の服に身を包み、目深にかぶった帽子の縁から世界を見つめて歩くんだ。懐にこのメスを入れてね」

「この夏の季節にかい」

「いちばん目撃された犯人像と思われる姿にに近いんだよ」

「‥‥‥‥しかし、こんな粋狂なことに、ここまで君が乗ってくれるなんて思わなかったよ」

「君の行動で、ひょっとして帝都の視線を欺き続ける犯人の尻尾でもつかめれば面白いと思ってね。まぁ真犯人が捕まるまったら、匿名で体験記でも書いてくれよ。その原稿料で、君がまたおごってくれればちゃらということにしようじゃないか」

「ありがとう」

 河原は古沢の手を握る。

「どうだい、せっかく来たんだ。君もご婦人たちと踊ってみるかい」

「いや、ここは僕にはうるさすぎるよ。まだやっている店があるだろう。そこで君のノートを見させてもらうよ。妻のには見せられないノートだからね」

「そうか・・・・」

「古沢、本当にありがとう」

 古沢は河原に背を向け、ホールの方へむかう。その唇から毒々しい呪咀が漏れていることを河原は気付かない。

「そうやってまた俺を使って、女を試しているがいい。人を試す危険というのを今度こそ知ればいいのさ。それが君のためというものだ。それでも気が付かないならば、君は馬鹿だ。まぁ面白い遊びだというのは認めるよ。あの時と同じようにね。それを真剣にやっているというのがたまらなく滑稽だがね」