一覧へ

煉瓦館奇憚

 

 大正二年、甲武鉄道で飯田町から新宿まで三十分、三等客室で十四銭、といったらその時代がわかってもらえるだろうか。

 ともかく貧乏学生であった私の親から送られてきた仕送りの残金は、その電車賃と化けてしまったのであった。

 四谷を過ぎた辺りから急に背の高い建物がなくなり、緑とたんぼが視界を占めるようになっていく。

 まだ出発してからそんなに時間もたっていないのに、甲武鉄道の駅、新宿へと近づく景色は、私の郷里の面影さえ感じさせるものだった。

「初めてこっちにきたけど、とても東京の中心から何分の景色とは思えないな。」

 ボックス席の私の前に座っている小杉が声をかけたのは、私の横に座っている、岩波にだ。

「まだこちらは都会化の波は押し寄せてないんですよ。ちょっと道が広くて、車が往来するくらいですかね。」

「本当に、これで冬に雪でも積もって、遠くに山が見えたら俺の田舎と見分けがつかないよ。」

 大宮のことばに、全員が笑う。どうやら考えることはみな同じらしい。

 岩波の前に座っている大宮が大きな体で私たちを押し退け、窓を開けた。草の匂いのする夏の風が私たちにふきつける。岩波が、窓から顔をだした後、私たちをふりかえる。

「もうすぐつきますよ。先輩、自分の家だと思ってくつろいでくださいね。」

 

 そうなのだ。私たち四人、私ー弓島守と大宮健史、小杉源、岩波小五郎はともに第一高等学校の寮生であり、同室の者なのである。 我々のなかで岩波だけが二つ年が下だ。成績優秀な岩波は飛び級により、我々三人と同期になった。

 寮の同室ということもあるが、岩波の中の大人びた雰囲気と幼さのアンバランスが妙に我々とうまが合い、親しい仲になっていた。 数日前、我々の話は夏休みに向けて、帰郷の話をしていた。そこで初めて岩波の家が中野という近いところにあることを知った。

 私は不思議でならなかった。私たちの学校は向ヶ丘弥生町にある。中野といえば通えない距離ではない。岩波の物腰から感じる家の裕福さからも、寮にいる事自体がおかしい。この寮といえば、我々三人のような、下宿屋も借りられない貧乏学生ばかりだからだ。

 どこでどのように話が転がったか覚えていない。ともかく我々三人が帰郷をしないという結論に達した頃だったと思う。

「そうだ。それなら先輩たち、ぼくのうちに遊びにきませんか?少なくともこの寮よりは涼しい夏が過ごせますよ。」

 岩波の提案は魅力的だった。夜、蒸し風呂のようになるこの寮から一時でも逃げられるというだけでも十分だったが、名家と噂の岩波の家を見てみたいという好奇心もあった。 形だけの遠慮の後、我々はこうして図々しくも岩波の家に数日間、厄介になることになった。

 駅をでた瞬間、駅の前に止まっていた黒い外車を指差し、小杉が歓声をあげた。

「べ、ベンツだ!」

「ベンツってなんだ?」

「独国ご自慢の世界一の名車だよ。二年前にオールドフィールドという外人が、時速二百十一キロ出したという記録がある。馬力もすごいが、もっとすごいのは値段だ。時価一万円以上もする超高級車だ。本物を見るのは初めてだ。」

「小杉がそんなに車に詳しいとは知らなかったよ。」

「たまたまベンツだけ知ってるだけだよ。他の車はみんなタイヤの付いた箱としかわからん。」

 小杉の説明で、そんな高級車がここにあるのは驚いたのだが、それ以上に驚いたのは、車の運転手が岩波に向かってうやうやしく頭を下げたことだった。

「紹介しますよ。運転手の喜助です。」

 むっつりした顔で我々に頭を下げる運転手。我々は二の句が告げなかった。お互い顔を見合わせたまま、車に乗り込む。お抱えの運転手に、超高級車。どうやら招待先はとんでもない大富豪宅らしい。

 ベンツの乗り心素晴らしかった。依然乗った車とは雲泥の差だ。滑るように、進む。道はやがてわだちの目立つ道に変わっていったが、外を見ていなければ気付かなかっただろう。

 運転手がクラクションを鳴らすと、珍しがって道にでていた子供が逃げてゆく。辺境ではない、地方都市の景色のような情景が、まるで私の故郷の家路へ急いでいるような、軽い錯覚を覚えさせる。

「橋を渡ります、揺れますよ。」喜助が呟くようにいう。

「この下の川は何だい?」

「神田上水ですよ。この橋は淀橋。」

 窓を開け川面を見ていた大宮がいきなり叫んだ。

「みんな見てみろよ!花嫁行列だ!」

 私もあわてて窓を開け顔を乗り出す。

 派手な行列だ。百メートルほど離れた別の橋で華やかな色合の主役や人々が通り過ぎてゆく。見物人や行列の人たちからにぎやかな嬌声が聞こえてくる。

「でも変だな。周りの道もそれほど大きくないし、行列が通るには窮屈な橋だ。大通り直通のこの淀橋の方がよっぽどいいのに。」

「それには訳があるんですよ。」小五郎が話をしようとしたとき、

「小五郎さま。」低く、しかし圧力をこめて、喜助が岩波の名を呼んだ。

 それだけで岩波は黙ってしまい、我々はしばらく無言のまま車に揺られていた。

例によって沈黙を破ったのは大宮だった。「おい、あれ見ろよ!。」

 西洋館。赤煉瓦でつくられたモダンな建物が、道の先に立っていた。緑に囲まれた、その建物は青い空と美しい調和を見せていた。「あれが僕の家ですよ。」

「あの大きな西洋館が君の家だって!君の家は元華族か何かかい?」

「家は先祖代々海運業ですよ。祖父の代から海外にまで事業を広げましてね。戦争のおかげの成金みたいなもので。あの西洋館だって最近建てたものなんですよ。」

「それでも”煉瓦館”といえばここらへんじゃちょっとした新名所になっていますよ。」 喜助の声にも誇らしげな響きが感じられる。たしかに自慢の種にもなる建物だ。バルコニーのある二階、大きなガラス窓には白いカーテンがかかっている。整備された庭には夏らしい様様な植物が植えられ、花を咲かしている。その庭を切るようにつくられた道は、巨大なドアの前まで続いている。庭の中心には、なんと噴水まである。

 我々三人は何も言えなくなってしまい、ただぽかんとそれら夢の情景としか思えないものを眺めていた。

 車がとまり、喜助がドアを空けてくれるまで我々の夢見心地は続いた。

「お帰りなさいませ。小五郎さま。」

 使用人だ。はじめてみる小説のような景色。七、八人の男女が横にならび頭を下げている。女性の方はメイド服という奴だろう。カフェの女給を思わせる、紺と白の制服に身を包んでいる。奉公人と表現することは出来ない、洗練された使用人たち。

 我々はすっかりあがってしまった。ここは別世界だ。申し合わせてもいないのに、三人揃って顔を見合わせてしまう。

 流石というか、むしろ当たり前というべきなのだろうか。小五郎の立ち居振る舞いは自然そのものだった。成金などと自分では言っていたが、使用人たちとの簡単な受け答えやちょっとした仕草。この館に入ったとき、いや新宿駅に降りたときから彼は我々とは別世界の人間だった。

「お帰りなさい、小五郎さん。」

「姉さん!」

 次の瞬間私は再び夢の世界の人間となっていた。

 女神がそこに立っていた。

 思わずため息が出た。白い肌、黒い瞳、艶やかな髪。女神という表現は正しくないかもしれない、菩薩。東洋的な、夢にさえもあらわれそうにない美人が、和服に包まれて、立っていた。

「紹介しますよ。小夜姉さんです。」

 私たちに向かって会釈をした。彼女の目が私と合った。

 その瞬間、奇妙な感覚が私を襲った。吸い込まれそうな瞳のなかの何かが私の背に電撃を走らせた。これはなんだ?恐怖とも、感動ともつかない意味不明の感情が沸き上がる。こんな気持ちになるのは初めてではない、いつだったか、この瞳には見覚えがある。

「なにもないところだけど、ゆっくりしてくださいね。」

 ふっ、と。

 白日夢は醒めた。彼女のそういった声は美しかったけれども、その響きは人間のもの、親しみやすい心情のこもった普通の女性の声だった。

 気のせいだったのだろうか?部屋に通された私の心からは彼女が消えなかった。ベットのある客室だ。生まれて初めて触るベットに腰掛けて、部屋を見回す。簡素だが金のかかった造り、それに広い。ベットが二つ入ってもまだゆったりとした空間がある。

「おい弓島、おまえもそう思うだろ。」

「え?何が?」

 いきなり話を振られ、戸惑う。

「しょうがない奴だな、おまえもいかれちまったのか?」大宮の顔がいたずらっぽい笑みを浮かべている。

「だから何がだよ。」

「小夜さんだよ。小夜さん。」

 小杉がこんなに熱っぽく女の人の名を口にしたのを聞いたのは初めてだった。

「きれいな人だったよなぁ・・・・」ため息混じりの大宮の声だ。

「おい大宮、その台詞もう五回目だぜ。」 「小杉はそう思わんのかよ。」 

 切り返されて小杉の顔が真っ赤になった。いつものふざけた調子がない、どもるような声で、小さく、

「あんなきれいな顔しているのに、親しみやすい雰囲気な人、初めて見たよ。」

 この部屋に案内してくれたのは小夜さんだった。その時のほんの数分の会話だけで、彼女の深い学識、それを鼻に掛けない謙虚さ、心遣い、まさに理想的な女性という確信を私たちは感じてしまったのだった。

「そういえば弓島、あの時はどうしたんだよ。」

「え?」

「そうだよ、小夜さんとはじめてあったとき、ぼーっとしてただろ。」

「ああ、そのことか、何だかうまく説明できないんだが、彼女の目に見覚えがあるような気がしたんだ。」

 私の言葉を聞くなり、大宮が笑みを浮かべた。にやり、という表現がぴったりな、底意地の悪そうな笑み。

「弓島、お前も読んだのか?”夢想譚”その中の有名な口説き文句だぜ。『夢のなかの少女の瞳に、きみの目はよく似ている。』ってのはよ。」台詞のところだけ妙な造り声で大宮が聞く。

「お前等あんな軟弱な本よんでるのか?」

 まるで違う生物を見るような目で私たちをみながらの小杉の台詞に、大宮が太い眉を吊り上げた。

「お前みたいに単純な精神構造している奴に、そんな事言われる筋合いないよ。」

 また始まった。大宮と、小杉は趣味の点で徹底的に正反対だ。いつもは気の合う三人組なのに、話題が趣味に行くと二人は親の仇みたいになってしまう。

 私の役割はもちろん見物人だ。鬼瓦みたいな顔といかつい体の大宮が愛だ恋だとわめき、やさ男のようなモダンな風貌の小杉が男だ武士の魂だとやり返す不思議な光景は、私に世の中の不条理というものを垣間見ているような気にさせる。

 ノックの音に二人は休戦状態に入った。礼儀正しく入ってきた岩波が奇妙な雰囲気に気付き、怪訝な顔を私に向ける。

 何でもないよ。と私が笑いながら言うと、岩波は背中に隠していたものを私たちに差し出した。

「何だよ、それ、竿じゃないか。」 

「裏の川で魚が釣れるんですよ。」

「本当か?魚釣りなんて久しぶりだ。」

 着物の袖をまくり上げて大宮が立ち上がる。私たちは日除けの麦藁帽子を受け取って、外に出た。

 煉瓦館の裏には離れが二つあり、その後ろは林になっている。

「あの離れにはどなたがいらっしゃるんだい?」

「伯父ですよ。」

「そういえばお家のかたと挨拶をしていないな、失礼じゃないかな。」

「父は外に出ているし、家族は夕食時まで集まらないんですよ。その時に先輩方に紹介しますよ。」

「緊張しないようにしないとな。」

 小杉がやたら神妙な顔でうなずき、私たちは笑いながら、林を横切る小道を歩いた。

 木々がきれ、水が見えてきた。まばらに葦が生え、張り出した木の枝の間から光が漏れている。

 下流のほうに見える橋は、さっき渡った淀橋だ。

「向こうに岩場があるんです。腰掛けて釣り糸をたれるには絶好の場所ですよ。」

「ここら辺は何がつれるんだい。」

「普通の鮒や、鯰ですが、この前こんな大きな鯉を釣った人がいましたよ。」

「よし、今日は鯉の洗いに、鯉濃をお前等にご馳走してやる。」

「もう釣った気になってるな。」

「釣り名人の大宮健史といえば、田舎じゃちょっとは知れたものだったんだぞ。」

「じゃあ実力拝見だな。ついでに鰻の蒲焼きも頼む。」

「おお!」

 釣り名人は場所を選ぶとやらで、大宮は木々をかきわけてどこかにいってしまい、我々は三人で腰を並べて竿を持った。

「釣れたかね?」

 いきなり後ろから声を掛けられて、私たちは振り向いた。

 男だ。私たちより少し年上に見える。

「桜さん!」

 小五郎が立ち上がって、駆け寄る。私たちのほうを振り返り男に私たちを紹介した。

「紹介しますよ。書生の桜源太郎さんです。さっき言った鯉を釣り上げた名人ですよ。」 軽く会釈をする。桜さんも我々のところに腰を下ろして、釣り糸をたれた。

 話は弾んだ。桜さんは話題が豊富で、知識の深さを感じさせる人だった。岩波の父とともに渡った船の中の話や、異国の生活、海運業の仕事、おしまいには外国の娼婦館まで話は飛び、岩波の顔が真っ赤になるのを皆で笑った。

 そこに仏頂面の大宮が帰ってきた。魚篭が軽いのを確認してから小杉が話し掛けた。

「夕食の戦果はどうだった?名人。」

「初めての川では感じが掴めん。」

 まさに残念無念という口調に、我々は笑い転げた。

「夜までとっておく心算だったんだけど、場所も場所だし、全員揃っている。ちょっと面白い話をしましょうか。」

「娼婦館より面白い話なんですか?桜さん。」

「お前等こんなところでそんな話をしてたのか?」

 怪訝な顔をする大宮に、小杉は意地悪く、「初心な大宮くんには、驚愕連続の講義だったぞ。」

「うるせえな、この。」

 じゃれ合う二人を押し退けて桜さんに話を続けてもらう。

「そこに淀橋が見えるだろ。そこにはちょっとした伝説というか昔話があるんだよ。」

「まさか怪談じゃあないでしょうね?」軽い感じを装って小杉が聞く、普段は武士道だの威勢のいいことを言っているが、幽霊話に滅法弱い。

 逃げ腰の小杉に向かって意味ありげに笑い掛けると、桜さんは声をひそめて話しはじめた。

「実は・・・・・・」

 

 

 昔、紀伊の国から鈴木九郎という浪人が流れ流れて中野の辺りに住み着いた。一匹の痩せ馬と共にこの地についた九郎はあっという間に巨万の富をえて、中野長者と呼ばれるようになった。

 この富を得る手順も常識では考えられない。ある時九郎は夢のなかで仏にあった。目が覚めて、夢のなかの仏の言うとおりに隣の部屋の襖をあけると、そこに金銀財宝が山のように積まれていたという。

 こんな話だけでも、中野長者はまともな方法で富をえたわけではない怪しい人物のようだが、彼の正体はその財宝を得たときに明らかになった。

 彼の頭を悩ませたのは、その財宝の多さだった。中野長者はその財宝をどこかに隠すことにし、深夜に遠くの森まで下男をつれて出掛け、人知れず財宝を埋めていた。

 しかし仕事を手伝った下男たちがいつ変心して財宝を盗むかもしれない、人に喋るかもしれない。疑心暗鬼にとらわれた長者は帰りに下男と共に橋を通り掛かるときに、下男の気をそらせた隙に惨殺、死体を川の流れに突き落とした。

 こうして何人もの下男が荷物を背負っていくが帰りはだれも帰ってこない。というので近所の人々は誰言う事無くこの橋を「いとま乞いの橋」とか「姿見ずの橋」というようになった。 

 殺された下男の数は十数人にもおよび、その怨念は、中野長者の娘、小笹に報いた。

 いつの頃からか小笹の体に鱗が生じ、その鱗は日に日に数を増やし、ついに蛇身と化してしまったのである。小笹は苦しみの挙げ句、十二社熊野神社の池に入水して命を絶った。それでも怨念に苦しめられるのか、夜になると蛇身の姿で現われて庭をはい回る。九郎夫妻は嘆き悲しみ、各地の行者を招き、相模の国の禅師によってはじめて小笹は成仏し、己れの所業を悔いた長者も禅門に入ったという。

 小笹が大蛇となって入水したことで、神田川に沈む下男らの怨念も晴れたに見えたが、まだこの話にかかわる悲劇は変わっていなかった。

 自分たちが殺された橋を渡るものに祟った。婚礼の新婦がその橋を通ると必ず転落して行方不明になってしまうのである。花嫁行列はたとえ遠回りしても、他の橋を渡るようになった。

 淀橋の橋の名の由来は、徳川家康が鷹狩りの際この橋が「姿見ずの橋」と呼ばれることを不吉だと思い、大阪の淀川を思わせる橋の景色に淀橋と名を付けたため、この橋の名が定まったといわれている。しかし名を変えても、この地方の人々の間でこの恐ろしい話はいまでも語りつがれているのであった。

 

 

「で・・その中野長者の秘宝というのはどこへ?」

 話しおわるのを待っていた大宮が身を乗り出した。

「さあ・・・見つかったという話は聞かないけれど。」

「じゃあまだここら辺に埋まっているかもしれないんですね。」

「中野長者がいたといわれている時代は応永の頃、室町時代といわれているからねぇ・・・いまから五百年も昔の話だよ。可能性は薄いと思うけど。」

 肩を落とす大宮を小杉が笑う。私は話の中心だった橋を見る。五百年もの歴史のなかで、橋は何度も建て直されているだろう。しかし小笹の話を聞いてからの橋の影や川の水の黒さが、何かさっきまでとは別の不気味なものに変わってしまったかのような気がした。 釣りの成績は惨憺たるものであったが、桜さんの博学には驚かされた。私たちの荒唐無稽とも、傍若無人とも言える幼稚な質問に、丁寧に説明しながら答える桜さんの話は面白く、時のたつのも忘れてしまうほどだった。 幸いにして川から這い上がる蛇身の女も、川に落ちる下男にも出会わずに夕日は沈んでいった。

 私達は暗くなった林を抜け煉瓦館に帰る。女中たちに用意してもらったバケツに井戸の水を汲み、足を洗い、そのまま風呂へ案内してもらう。

「西洋の風呂というのはどんなかたちをしているんだい。」

「実は煉瓦館には風呂を設計していないんですよ。どうも父がバスというのを好まなかったようで、煉瓦館にくっつくように木で作った浴室があるんです。薪は運転手の喜助が割っているんですよ。」

 風呂は広かった。四人で入るようにすすめられて、小五郎だけが怪訝な表情をしなかったのもこれで頷ける。

「おい小五郎。」

 湯槽に浸かりながら小杉が小五郎を突く。「何です?」

「お前、小さい頃は家族と一緒にこの風呂に入ったりしたのか?」

「ま、まさか小夜さんと一緒だったりしたんじゃないだろうな?」

 つい大声で叫んでしまった大宮は、真っ赤になって湯槽に潜ってしまう。

「お、大宮、子供の時の話にそんなに興奮するなよ。」

「子供の時は僕はこの家には住んでいませんよ。」

小五郎の顔もいくぶん赤くなっている。

「先輩たちに話していませんでしたか?僕はこの岩波家の養子なんです。五年前ここにきたんです。もっとも十歳といえばまだ子供ですから父と入った記憶はありますよ。」

 そのあと私たちは何となく気まずくなってしまい、風呂からでるまでしばらく無言でいた。

 小五郎がこの家の養子であったことは初耳だった。しかし考えてみれば、私たちのような部外者を三人もこの家に招待してくれた訳、すすめた理由、養子という立場にどちらもが気を使ったとすると少し説明できるのではないだろうか。久しぶりに帰って来た慣れない我が家の生活を少しでも楽しんでもらおう、養子という立場しかも飛び級という環境下でも楽しく勉学に励んでいることを知ってもらおう、もちろん私の想像でしかない。外れててもいい。この想像は私の心を軽くさせた。変な偶然で迷いこんだ異世界だが、楽しんでみよう。もう少し肩の力を抜いて。

 

と、決心も束の間、私は緊張の真っ只中にいた。

 食事なのである。こればかりは風呂のように和式ではなかった。テーブルに座って食事をするのは初めてではない。カフェやミルクホールでテーブルの上の珈琲をすすっているおかげで慣れている。

 しみひとつない白い布の掛かった十メートルもの長さのテーブル、意匠を凝らした椅子、金の燭台に、銀の食器、白い陶器の花瓶には花。これらが美しい絵ならば簡単のため息一つでおしまいだ。しかし、私はいまそれらのものに囲まれているのであった。感激よりも、困惑を感じてしまうのは当然ではないだろうか。

 しかも私の隣の席には小夜さんの笑顔がある。自分の醜態をこの人に見られたくないという気持ちが、私の全ての動きを封じてしまっていた。

「・・・・あの・・・・箸を使わせてくれませんか?」

 消え入りそうな声で小杉が言った。私は心の底から小杉の勇気を尊敬した。

「すいません、気付かなくて、すぐ用意させます。」

 小五郎があわてて席を立とうとする。

「待ちなさい。」

 落ち着いた声が小五郎を止める。煉瓦館の主人、小五郎たちの父親、岩波鉄之進氏のものだ。

「小杉くん、別に恥をかかせようというつもりはないんだが、一つ練習してみんかね。」「は?」

「たしかにこういった食器を使うのは日本では必要ないかもしれん、しかし君達はまだ若い、そして日本もだ。鎖国の世の中ではない現在、我々は列強の国々、人々と対等に肩を並べなくてはならないのだよ。」

「はあ。」鉄之進氏の熱弁に思わず圧倒されてしまう。我々の様子に鉄之進氏は豪快に笑った。初めてテーブルについたときに感じた氏の威圧感は消えている。我々もつられて微笑んでしまう。

「まあそんなに大上段に構えるものではないんだが、要するに外国人たちと飯を食う機会もあるかもしれないんだ。我々はもてなす立場に立ったとき、どうもあちら流にあわせるのが好きらしいんだな、また向こうもそんなのを好む、鹿鳴館式という奴だな。そんな時のために練習するのも悪くはないんじゃないかな。」

 氏の理論に圧倒されながらも頷きながら聞いている私たちをみて小夜さんが吹き出した。私たちは思わず顔を見合わせる。

「そんな神妙な顔をなさらなくてもいいんですよ。ただ珍しい料理を見て驚いてもらおうと思って用意しただけなんです。一応雰囲気にも凝ってみたんですが、実は父や私たちも外国のお客さまが来たときぐらいしか使わないんですよ。」

「話はそれ位にして、そろそろ実習といこうじゃないか。せっかくの料理が冷めてしまうぞ。」

 小夜さんと氏のおかげで私たちは慣れない手つきながらも、楽しい雰囲気で料理にむかうことが出来た。

 フォークと、ナイフ。どうも刃物を持って食事をするというのは物騒な気がする。切れ味も良くないのか、小夜さんと同じ手つきをしているはずなのに料理が白磁の皿の上ですべる。思わず躍起になって力を入れようとしたとき・・・・・。

「そんなに力を入れなくていいんですよ。」 ふわりと・・・。

 不思議な冷たさと、心地よい感触が私の右手に現われた。視界の隅にある私の手に重ねられたもの、

 食器のような無機的な白さではない、綺麗な白い指。そしてその上に桜の花びらを散らしたような形の良い爪。

 それは小夜さんの手であった。

 私の悪戦苦闘ぶりを見かねていつのまにか小夜さんが席を立ち、私の後から手を差し伸べてくれたのだ。

「フォークというのは、独特の持ち方をするんですよ。差す部分を下にして・・・・」

 鈴のなるような心地よい小夜さんの声が遠くで響いている。強引さを感じさせない力で私の手をフォークとやらに絡ませてくれている。

 天にも昇る心地のなか、私の心は心配事で破裂しそうだった。

 こんなに激しく動悸を繰り返す心臓の音は小夜さんに聞こえないだろうか?顔は赤くなってないだろうか?手は震えていないだろうか?私の口元はゆるんでいないだろうか?・・・・。

「ナイフで切る場合は、押すときに力をこめるんです。刃の先のほうに力を入れる感じで。」

「はい。」

 私の先ほどの醜態を嘲笑うように、料理はあっさり切れた。もう一度私は同じ動作を繰り返した。うまくいけば、誉めてくれるかもしれない。

「一口ずつ、食べる分だけ切るのが礼儀なんだそうですよ。おかしいですよね、全部切ってからフォークだけで食べたほうがずっと楽だと私も思うんですけど、それは行儀が悪いということになるんだそうです。」

 私の顔の横で、小夜さんが微笑んでいた。女性の顔をこんな間近で見たのは十七年間の私の人生のなかで、初めてのことであった。 だされた料理は何を食べてもおいしく感じたが、何を食べたか記憶に残っていなかった。大宮と小杉がすごい目で私をにらんでいたことも、後になって本人たちから聞くまで、気付かなかった。   

 

 デザートとかいう習慣だそうだ。食事の後に果物と紅茶がでた。紅茶を一口飲んだとたん。その奇妙な味に喉が焼けたようになった。思わず口をあけて舌をだしてしまう。

「おや、ブランデーが強すぎたかな。」

「さ、酒を茶のなかに入れるんですか?」

 小杉の信じられないという口調が、みなの笑いを誘う。

 その時突然ドアが開き、みなの視線が集中した。

 車椅子だ。前に街で見たことがある。品の良い老年の女性に引かれてうつむいたままの男性がそれに乗っている。ずいぶん高級な感じのする椅子だ。握りや手摺りのところに精緻な彫刻が施されている。

「誠治伯父さんお久しぶりです。今日は具合はよろしいんですか?」

 小五郎が車椅子の男に駆け寄る。誠治と呼ばれた男はそれに気付いているのかうつむいたまま動かない。

「今日は誠治さまのお加減もだいぶよろしいんですよ。小五郎坊っちゃん。」

「民も元気そうだね。」

 椅子を押していた老女と小五郎が親しげに話している間も男は声一つあげなかった。腰から下には毛布がかかり、足は見えない。小五郎は伯父といっていたが、誠治氏の頭は老人を思わせる白髪頭だ。手の甲や、顔にもしわが目立つ、伯父というからには鉄之進氏の兄弟なのだろうけど、そんなに年が離れているのだろうか。

「紹介しますよ。誠治伯父さんと、女中頭の今井民です。」

「誠治兄さんは若い頃病を患ってね。民さんには、私たちの親つまり小夜や小五郎の祖父の代から仕えてもらっているものだ。」

「すいません、本当は私たちからご挨拶にお伺いしなくちゃいけないのに・・・・。」

「仕方がないさ。兄さんは体の具合が悪いときは離れで寝ていなくてはならないんだ。兄さん、小五郎の友達が遊びにきてくれたんですよ。」

 大きな声で鉄之進氏は兄に話しかける。私たち三人は揃って誠治氏に会釈をしたが、誠治氏はそれがわかっているのかいないのか、ただうつむいたままだった。

「お家の方はこれで全員ですか?」

「後は義兄の圭伍さんと、その奥さんの君子さんだが、二人ともいつも外にでていないんだ。」

 異国の果物について鉄之進氏が話をする。話は要点がわかりやすく、時々気の利いた冗談を混ぜる。私にはその華やかな雰囲気の部屋のなかで、甲斐甲斐しく果物を誠治氏の口に運ぶ民さんと、機械的に口を動かしている誠治氏が印象的だった。

 

 

 

 次の日も私たちは遊びに一日を費やした。煉瓦館で使っている自転車を借り、私たちは荒い道をどこまでも走り、見知らぬ景色が視界を通り過ぎるのを楽しんだ。疲れれば野原に寝転び、水筒に入っている女中の作ってくれたレモネードで喉を潤し、包んでもらった握り飯で野外の食事と洒落こんだ。

 たんぼを見ながら握り飯を食うなんて久しぶりだ。もっともこんなに開放的な気分で食べた記憶はない。私の実家はそれなりの地主であるが、妙な所があって自分の子供たちは下男と一緒に田植えなどを手伝わせる。しかも親父が後で監視しているために、休憩さえも分刻みだった。あの時のむせながら詰め込んだ冷たい米の味は忘れることが出来ない。「何だ、岩波の次くらいの坊っちゃんだと思っていた弓島に、そんな過去があったとはねぇ。上品な人間はいそいで飯を食ったことがないだろ?」

「いえ、みんなの目を盗んで来客用の舶来のお菓子は急いで食べましたよ。」

「お菓子って、クッキーとか、チョコレートとかって名前のやつか?」

「隠し場所が変わっていないか後で調べてみましょう。」

 

 夕日も沈みはじめ、私たちは談笑しながらゆっくりと帰路に着いていた。道のまわりの林が黒い影絵となり、夕焼けを反射するたんぼからは蛙の声がせわしない。草むらに小さく尾を引いて光るのは蛍だ。自分の家に帰るような錯覚が郷愁を誘う。盆ぐらいには実家にかえってみようか。

 夕闇に星が光りはじめ、小高い丘に煉瓦館のシルエットが浮かび上がる。私たちは、道の向こうから大きくなってくる人影をみた。 その影が事件の幕開けを告げる伝令とは、その時私たちは知らずにいた。

 

 

「大変だ、小五郎くん。岩波さんが、君のお父さんが・・・・。」

 自転車を降りるなり、息も絶え絶えの様子で桜さんは小五郎に話しかける。煉瓦館から休みなしで走り続けたのだろう。着物には汗がにじみ、肩の上下がせわしない。形の良かった髪も乱れている。

「父になにかあったのですか。」

「とにかく急いで帰ろう。」

 私たちも訳がわからず、桜さんのただならない様子に押されるように、全速力でペダルを踏んだ。

 小五郎は敷地に着くなり自転車から飛び降りた。もつれる足で入り口に急ぐ。明かりのついた煉瓦館から走りよってくる影は、小夜さんのものだ。

「小五郎。」

 悲痛な叫び声。あの小夜さんがこんな声をだすのか。それ故にその切迫した様子にただならぬ意味がこめられている気がして、私も思わず自転車を置き去りにして二人に駆け寄る。 

「姉さん。父さんの身になにかあったんですか?」

 姉の両肩をつかむ力も、問い掛ける声も、いつもの平静さを失っている。

「お父さまが・・・・・。」

 後のほうが離れている私には聞き取れない。くずおれる小夜さんに気付かないような勢いで、小五郎は煉瓦館に走っていく。

「お父さん!」

 何度も叫ぶ小五郎の声が煉瓦館のなかから小さく響いてくる。私たちは小夜さんに近付いた。

 その肩が小さく震えている。顔をおおっている手の間から落ちる雫は涙だ。

「すいませんでした。小夜さん。ぼくはとても彼に言えなかった。」

 背後から絞りだしたような苦しげな桜さんの声。

「一体小五郎くんのお父さんに何があったんですか?」

 たまりかねたように小杉が問い掛ける。

「亡くなられたんだ。今日の午後。」

 うつむいたまま小さく桜さんはそれだけを言った。語尾のほうが嗚咽に変わる。小夜さんが小さく息を飲む音が聞こえた。桜さんの目からも涙が落ちていた。

「大宮!」

 大宮が突然小五郎が消えたほうへ走っていく。叫びながら小杉がそれを追う。

 私はただそこから一歩も動けなくなってしまい。立ちすくんでいた。

 

 

 医者を乗せた車が帰っていくと、煉瓦館は重い静寂に沈んでいってしまったようだった。「食事の用意が出来ました。すいませんが食堂へ。」

 部屋のドアを開け、小五郎が私たちを呼びにくる。目が赤く晴れて、顔色が青い。

「すまないな、こんな時だってのにおれ達にまで気を使ってもらって。」

 私たちは使用人たちが使う食堂に通された。桜さんが先に来ていて、食事をしていた。 言葉少なにあいさつだけして私たちも食事をはじめた。

「小五郎くんは食べないのかい?」

 私たちを案内しおわって食堂から出ていこうとする小五郎を桜さんが呼び止めた。

「はい・・・あの・・・食欲がなくって。」「ご飯だけはきちんと食べなくてはいけないよ。これから忙しくなるし、元気がないときは体力もなくなるのが早い。つらいかもしれないけど食べるものだけは食べておくんだ。」

 料理が運ばれてきて、うつむきながらも小五郎は茶わんを持ち上げた。箸を握っていたてがふるえ、のっていた米が落ちた。

 声をこらえて泣いている小五郎の肩を桜さんはやさしくたたいた。

「つらいけれども、頑張るんだ。君がこんな様子じゃあ小夜さんも何も食べてはいないだろ。料理長にいって握り飯でも後で持っていこう。」

 泣きながら小五郎は頷いた。何度も何度も頷き、泣きながら箸を動かした。  

 

「あの・・・・ぼくも手伝えることはないでしょうか?」

 小五郎を部屋に送った後、私だけ食堂に戻っていた。私たちに割り当てられていたのは二人用の部屋を二つで、私だけはそれを一人で使っていたのである。

 二人に言わなかったのはもちろんちょっとした狡賢い心の動きがあったことは否定できない。もしかしたら小夜さんの部屋へ行き、慰め役になれるかもしれない。

 部屋に入ってすぐに桜さんがいなくなっているのに気が付いた。

「桜さんは?」

「書生さんはもうお嬢様の部屋へ行かれましたよ。」

 洋装の仕事着を着た料理長はそういいながらも両手を動かして、握り飯を作っている。「じゃあそれはだれのための・・・」

「ああ、これは喜助さん達のためなんですよ。何でも旦那様が倒れたときに、庭師の康介の爺さまが発見なさったとかで、その時一緒に倒れてしまったんです。お医者の言うことには心因性のショックとかなんとかで・・・息子の喜助さんが今も看病してるんです。」

 そういう訳で私はいささか不本意ながらも、煉瓦館のもう一つの離れである熊田親子の扉をノックすることになった。

 扉が少し開き、運転手の喜助の顔が現われる。心なしか、少し頬がこけているようにも見える。

 何となくかける言葉もなく、礼を言って頭を下げる喜助を見ながら帰ろうとしたとき、部屋の奥からうめき声が起こった。

「お父!」

 喜助が奥に駆け寄る。私もあわてて跡を追った。

「旦那さま、申し訳ねぇ!許してくだせぇ!申し訳ねぇ!鉄之進様!」

 布団の上で喜助の父親、康介が叫んでいる。布団をはねのけ、首や手足を振り回しては海老のように仰け反り、自分の主人へ謝り続けている。

「お父、お父、しっかりしろ。」

 喜助が負けないくらい叫び、父親を押さえ付けている。私も喜助を手伝う。すごい力だ。老人のものとは思えない。

 男二人の手を押し退けて起き上がる。視線はなにかを一心に見つめている。私はその場所に顔を向ける。何もない。康介の目を見つめる。焦点があっていない。

 その顔が急に恐怖の相を浮かべて、歪む。「ば、化物っ!」

「しっかりしてくれ、お父!」

 息子の声も聞こえないのか、康介は腰をついたまま後退りをはじめる。化物という声の大きさと恐怖の表情が、強くなっていっている。

「ばっ化け蛸。あの足は蛸、蛸の足だ。だっ旦那様に何をする。離れろ、化け蛸!」

 不意に立ち上がり、幻覚に立ち向かうように前に駆け出す。足がもつれ、そのまま倒れてしまう。喜助が父親の体をささえる。父親を呼んでも、気が付かないのか、康介は荒い息を繰り返していた。

 しばらくして老人は落ち着き、規則正しい寝息をたてはじめた。

「無理もねぇ・・・・子供の頃から仕えている旦那さまがあんな死に方をなさったんだ。旦那さまが死んだのは自分のせいだと決め付けちまっている。医者は命には問題がないといっていたが、昼からずっとこの調子だ。本当に大丈夫なんだろうか。」

「康介さんは今、うわごとで蛸とかいっていたようですが?」

 この瞬間、喜助が表情を変えた。それは間違いなく父親が浮かべていたものと同等の恐怖の表情であった。

「そのことも医者に聞いてみましたが、あまりにつらいこととかにあうとあらぬものを見たりするといっていました。」

 幾分慌てたように喜助はうつむいて答える。しかし握られたこぶしの震えが、真実が他にあることを言っている。

 それ以上問いただす訳にもいかず、ともかく私は喜助に飯を食べることを、すすめることしか出来なかった。

 喜助の礼を聞きながら私は煉瓦館に戻る。その時私の心には引っ掛かるものがあった。あんな死に方、と喜助は言った。鉄之進氏の死因はなんだったのだろう。さすがに今日は聞くべきことではない。しかし私の心の中にはその疑問がいつまでも消えなかった。 

 

 

 次の日の朝、私は目を開けた瞬間大宮の鬼瓦のような顔を見た。

「どうしたんだよ、びっくりするじゃないか」

「どうもこうもあるか。とにかく起きろよ、様子がおかしい。」

 部屋の外で待っていた小杉とともに、私たちは玄関のほうへ移動する。

 煉瓦館全体が何となく忙しないような気がする。下女達が小走りに私たちとすれ違う。「なんか忙しそうだな。」

「当たり前だ。明日が通夜で明後日は鉄之進さんの葬式だ。」

「普通は昨日、通夜だろう?」

「きちんと形式を整えてやるそうだ。今日一日では準備が出来ないから明日からということになったらしい。」

「その通夜に出るために来た伯父ってのがいま問題を起こしてるんだよ。」

 小声で大宮が言う。聞き返そうとしたとき、大宮が玄関を指差す。

 人だかりだ。数人の下男、下女にまじって桜さんと小五郎がいる。

「そうだ!義弟は殺されたのだ。これは殺人事件だ。」

 いきなり、

 人込みの中から発せられた言葉に私たちは立ち止まってしまっていた。

「圭伍さん、どういうことなんですか。」

 桜さんが人込みの中で叫んだ男に詰め寄る。その勢いの激しさに、人垣が割れ、私たちにもその人物が見えた。

 派手な洋服を着ている。金は掛かっていそうだがあまり趣味の良くない服装に包まれた小男だ。油できっちりと髪の毛を固め、鼻の下の髭にさえも使っているのか、綺麗に刈りそろえられ光っている。桜さんは圭伍と呼んでいた。ということはこの人物と後に立っている派手な女性が、私たちの知る煉瓦館の最後の住人、圭伍夫妻なのだろう。

 圭伍氏は桜さんの語調の激しさに幾分後ずさった。顔には怯えの色さえあるようだ。

「こっこれが証拠だ。これは医者の書いた鉄之進の病状記録、カルテだ。」

 そういいながら手に持った紙を振り回す。桜さんに受け取らせると紙を指差し、勝ち誇った口調で話す。

「そこに死因となった傷の記録がある。刃物による致命傷だ。自殺ではそんな傷は付けられないと医者も保障をしておる。それなのに、警察には届けないように、医者に金まで送ったそうじゃないか?」

「そんな・・・・僕は知らない!」

 小五郎が叫ぶ。私たちも驚いていた。鉄之進氏の死因を訪ねることは昨日ついに出来なかったが、まさか殺人なんて・・・・。

「それが・・・父の遺志だったんです。」

 一瞬皆の声が止まった。静かな、決して大きくない声なのに、その声は我々の間に響き渡った。

「姉さん・・・」

 小五郎の声に私たちは振り向く。私たち三人の後に小夜さんが立っていた。

「父の遺言なのです。」

 あの目だ。小夜さんの顔には血の気がなく、憔悴の影が濃い。しかしそういった印象をすべて拭ってしまう感じが私をとらえていた。どこがどう違うとは説明できない、しかし今彼女の目に浮かんでいるものはいつもの小夜さんとは異なった、初めて彼女を見たときと同じ感じのものだった。

 この感じは以前にも感じたことがある。昨日や今日じゃない、遠い昔の・・・。

「殺された男がそんなことをいったのかね。信じられないねぇ。」

 私の幻想は、圭伍氏の意地の悪い声で断ち切られた。  

「『私の死を不審に思うだろうが、せめてあの日の来るまで、警察には知らせないでくれ、葬式も正式なのはそれ以降だ。』これが旦那様の遺言でした。」

 女中頭の民だ。一昨日の晩、誠治氏の車椅子を押していた老婦人は今、小夜さんをささえるように静かに立って、その目はじっと圭伍氏に注がれていた。

 圭伍氏は明らかにこの女中頭が苦手のようだった。気圧されたように後ずさる。しかし次の瞬間肩から先に前に出る。後に下がったのを自分の妻に押し戻されたのだ。

 その時初めて私は圭伍氏の妻に気が付いた。この女性の着る服は妙に体の線を意識して作られているように感じる。顔にはきつめの化粧をしている様で、作り物めいた肌のうえに、艶かしい目鼻が乗っているという感じだ。年のせいもあるが私には遠い世界の人間のように感じられる。小夜さんとは違う意味でだ。私の視線に気付いたのだろうか、女がこちらを向き、笑った。真っ赤に塗られた唇の両端が吊り上がる、笑み。何となく居心地が悪くなるようで目を反らしてしまう、女の顔が余計に笑ったような気がする。

 圭伍氏が後を振り返ってにやりと笑った。一瞬だったがそれは百万もの味方を得たような、卑屈極まりない勝ち誇った笑みだった。「死んだ人の言葉だというのはいくらでも言えるねぇ。ともかく義弟や小夜さんにとってはそんなことより大事なことがあるようだ。あの日までは後一ヵ月、余計なことは起こしたくない気持ちもわかる。」

「圭伍さん、なんてことを言うんですか!」 桜さんの怒気を帯びた調子に怯えながらも、圭伍氏はねちねちとした口調と視線を、小夜さんに向け続けている。

 小夜さんは何も言わず、ただうつむいていた。

 それをみて圭伍氏はさらに勢いづいたようだった。

「ともかく義弟の死には不審なところが多すぎる。いずれ警察を呼ばねばならないだろうが事情があって駄目だ。そこで儂は探偵を雇うことにしたよ。犯人を突き止めなければいつ私たちが血に飢えた殺人鬼の手にかかるかわからんからねぇ。」

「探偵ですって?そんな得体の知れないものを。」

 民が責めるように言うのを聞いて、圭伍氏は狡猾そうな笑みを浮かべた。

「煉瓦館の主人は亡くなって、義兄の誠治さんはあの様子だ。かといって小五郎くんはまだ若すぎる。儂がこの煉瓦館を守らなくてどうする?」

 なるほど、私はこの男の芝居めいた仕草をようやく納得した。この台詞を言うためにこの男はこんな芝居をしているのだ。圭伍氏は、鉄之進氏の死を機会に、煉瓦館の主人が自分であることを皆に認めさせたいのだ。

「伯父さん。それは本当なんですか。」

 今まで黙っていた小五郎が、伯父を見つめる。

「何がだね。」

「父さんが殺されたかもしれないということです。」

「少なくとも儂はそう思っている。真実の追求のためには儂はどんなこともおしまんつもりだ。」

 小五郎の肩をつかんで話しかける。小五郎のほうは聞いているのか、うつむいて唇を噛んでいる。

「ともかくだ。人が泊まれるように二部屋用意しておいてくれ。昼すぎには探偵が来る。」

「二部屋ですか。探偵さんはお一人ではないんですか?」

 質問をした女中に圭伍氏は笑いかけた。

「おもしろい趣向を用意しているんだよ。頼んだよ。二部屋だ。」

 そう言ってから荷物を持って二階へ上がっていく。圭伍氏の妻、君子さんが後をついていく。

「全く、人が死んだということをなんだと思っているんだ。」

 小杉が私たちにだけ聞こえるような小さな声でいった。

 心のなかで私も同意の声を上げていた。たとえ義理でも自分の弟が死んだというのに・・・・。しかしそれ以上の好奇心が私をとらえていた。

 自分でも不謹慎だとは思う。殺人!本当にそんな恐ろしいことが、この静かな煉瓦館で起こったのだろうか。疑問を追求したいという想いが頭をもたげている。探偵と猟奇事件など、小説でしか起きないことが今眼前で幕を開けようとしている。

 そんな気分を自覚して、私は突然自分に嫌悪を感じた。すまない気分で思わず小夜さんの方を見てしまう。

 小夜さんは私たちに近付いて、静かに頭を下げた。 

「今日の列車で、申し訳ありませんが、お帰り願えますか。」

 私たちは何も言えなかった。煉瓦館で人が、死んだ。これから住人たちは忙しくなる。私たちはただの客にすぎない。

 ここにとどまって小夜さんを助けたい。もし殺人犯がいて、もし煉瓦館の住人だったら・・・。危険を私たちが防ぐことが出来たら。しかしそれらは現実のことではない。私たちには十七歳の子供には何も出来ない。かと言ってその事実を無視してここに居座ることが出来るほど、私たちは子供ではなかった。

 

 後ろ髪を引かれる想いで私たちは見送りの小五郎とともに、喜助の運転する車に乗る。 車のなかで私たちは言葉をあまり交わさなかった。小五郎はただうつむいていた。膝におかれた拳が力一杯握られて、震えている。 伯父の言葉を聞いてから小五郎はずっとこの調子だった。今すぐにも駆け出していって、父親を殺した犯人を見付けだしたい。と、その姿が物語っている。

 よし、手伝ってやる。と言いたい。小五郎を助けたい。しかし私たちのようなものに何が出来るだろう。大宮や小杉が小五郎の方を心配そうに見る。皆の考えていることは同じなのだ。しかし声をかけることが出来ない。無力だ。小五郎もそれを感じているのだ。

 車が止まる。駅に着くにはまだ早い。車の前、淀橋の橋のうえに人が何人か固まって川面をのぞいている為に、車が通れないのだ。 中年の野良着を着た女の人が車に近付いてくる。表情が尋常じゃない。顔が青ざめている。女の人は必死の形相で車の窓ガラスをたたく。

「助けてください、子供が落ちたんです!」 私たちはいそいで外に出ようとする。慣れていない車のドアはうまく開かない。

 大宮が人を掻き分けて欄干に足を掛けたとき、大きな水音が響く、喜助が一足早く川に

 

飛び込んだのだ。

 大宮も橋の外に身をおどらせる。私も続くべく欄干に手を掛ける。

「なんだ、あれは?」

 人込みのなかの誰かが大声をあげ、水面を指差す。

 その指の先にあったものを見た瞬間、私は川に出ることが出来なくなっていた。

 眼下には波紋が広がっている。その中心に見える小さな手足は子供のものだ。大宮と喜助が波紋の円の中心に、抜き手をきって近付いている。しかし私が見ていたのはそれではなかった。

 あれはなんだ。子供と大宮達の所から十メートルほど上流に、何かが浮かび上がっていた。それを正確に表現することが私には出来なかった。そして理解した。橋の上にいる人たちは、あれのせいで川に飛び込むことが出来ないのだ。あの存在がもたらす正体不明の恐怖が、子供を助けに川に飛び込むことを妨げているのだ。

 長くて、黒い、何か。それがもたらす恐ろしさで私は子供を気にしつつも、どうしてもそれから目を離せなくなっていた。それはたしかに動いているのだった。上流の水底で誰かが引っ張っているかのように、一部分を水面に出し、浮き上がった部分がすぐに沈んでいく。水面に出た部分が動いているのがわかった。

「見ろ、蛇みたいに動いているぞ!」

 誰かの声で、それが体をくねらせて潜っていることに気付く。これは、生きものなのだ。蛇?人間の腕ほどの太さ、水面に出ているその表面はコールタールを思わせる、粘液質の黒い皮膚。表面は深川の水に浮いた油のように、不気味に光っている。こんな蛇など私は聞いたことがない。

 私はそれの動きから目を話すことができないでいた。永遠に続くと思われたそれの動きが急激に早まり、それの末端の部分が水面を一度激しくたたき、そしてすべてが川の中に消えた。その時私は見た。それの裏側を。 それの水中に隠れていたところには、びっしりと突起物がついているのだった。吸盤だ。ぼんやりと私は、思った。

 後の方で歓声が上がり、人々が一斉に、橋から川辺に走る。喜助と大宮が、子供を助けだしたのだ。

 火のついた様な子供の泣き声。母親の甲高い、喜びの泣き声。助けた二人を褒めたたえ、親子や、二人にかける観衆たちの声。橋の下では様々な声であふれていた。

 私たちを認めると、大宮は笑いながら手を振った。私たちも人込みをかきわけ近付く。 近寄ろうとした私の耳に、悲鳴に似た叫びが響いた。

「子供の足に、何かついてるぞ。」

 誰かが人込みの中で叫び、全員の目がずぶぬれの着物から出ている子供の小さな足に集中した。

 母親の腕のなかで、初めて気が付いたかのように、子供が右足のすねを抱え、泣き声をあげた。

「痛い、痛いよ!」

 子供の名を叫ぶように呼び、母親が子供の足を見る。

 子供の右足のすねの部分に、まだら模様の黒い帯が出来ていた。子供の足に付着した黒い粘液が、日の光を浴びて不気味な輝きを発したとき、私はその跡を残したものを知った。あれだ。水面下に潜っていったもの。あいつが絡み付いた跡と太さも一致するような気がする。

 母親が必死の形相で、川に走り、子供の足を洗った。黒い粘液が川の水に溶けていく。 泣き続ける子供に近付き、私は足の傷を見た。

「薬品による火傷のようですね。そんなに程度はひどくないと思いますが、早く医者につれていって診てもらった方がいいですよ。」「弓島、おまえそんなことわかるのかよ?」 大宮がずぶぬれの顔で聞く。

「医化学者の伯父にかわった傷や火傷の写真を見せてもらった事があるんだ。」

 私は着物の袖の部分をちぎり、川の水を浸して、子供の足に巻き付けた。火傷の応急手当だ。

 顔を上げたとき、私はその場の雰囲気が変わっていることに気付いた。子供を助けたときの明るい感じが、人々の間に、ない。小杉や大宮も怪訝な顔でまわりを見回している。「あの傷・・・。間違いない、さっきのは・・・。」

 人込みの中で囁きのような小さな声が始まりだった。

「長者の・・・・・」

「・・・橋の・・・」

「正平の子供をやったのも・・・・」

「まだ生きて・・・・・」

「・・・呪いだ・・・」

「・・・五年前も・・確か・」

 次々と・・・。

 人込みが小さな声で話し、一斉に青い顔で水面を見た。息を飲む小さな悲鳴が上がるとともに、人々は先を争うように、しかし足跡をたてるのさえ恐れるかのように静かに、川辺を離れていった。最後に子供を抱えた子供が私たちに深くお辞儀をし、あとには呆然としている私たちが残った。

「おい、気付いたか、弓島。」

「何を?」

「あの人たち、誰一人として淀橋を渡らなかったぞ。向こう岸からも来ていた人もいたはずなのに・・・・。」

 私たちは振り返って橋を見る。そしてそのまま、川面に目を移した。神田上水と、淀橋は先程のことなどなかったかのように、静かな美しい情景を見せていた。

「あれ、いったい何だったんだろうな。」

「小杉も見たのか、あの蛇みたいな、長い・・・。」

「蛇というより、蛸の触手みたいだつた。」 その台詞に、私は弾かれたような勢いで喜助を見た。昨夜の喜助の父、康介の叫び声が私の耳によみがえっていた。

 喜助はただ水面を見つめていた。その顔は青ざめ、固く引き結ばれている唇の端は、震えていた。

「喜助さん。」私が声をかけると喜助の体が大きく震えた。私を見つめる目のなかに、怯えに似たものがある。

「昨日僕が、あなた方の所におむすびを持っていきましたよね?康介さんはその時”化け蛸”とか叫んでいましたよね。」

 喜助の顔がより一層青ざめる。小五郎が喜助に詰め寄る。

「喜助さん、本当ですか。康介さんはお父さんが倒れているところを見たんだ。さっき水面に出てきた何かは、お父さんの死と、何か関係が?」

詰め寄る小五郎から逃れるように、喜助は激しく首を振ってあとずさった。

「お父は幻覚を見たと医者はいっていました。私は何も知りません。知らないんです。」 その態度は明らかに異常を感じさせるものだった。普段はむっつりしている喜助が甲高い、悲鳴に近い声を上げ、子供のように怯えていた。

 その姿を見て、小五郎は詰め寄るのをやめた。勢いよく私たちの方へ振り返る。目には涙とともに、決意の光が宿っていた。

「先輩方。お願いです。父を殺した犯人を捕まえるのを手伝ってください!」

 それは何とも、子供っぽい叫び声であった。大人びても、小五郎はまだ十五だったのだ。そして私たちも十七、子供だった。私たちは渋る喜助とともに煉瓦館の前まで戻った。

 

 呆れ果てた桜さんを説得したのは、小五郎の涙だった。

 私たち三人は、煉瓦館から少し離れた、女中や下男たちが寄宿している建物の空き部屋をこっそり使わせてもらうことになった。 小夜さんには見つからないようにしろと、桜さんは私たちに念を押した。

「小五郎くん、きみの伯父さんはとんでもないことをはじめたよ・・・」

 亀田探偵事務所と神代紀信、この二つの私立探偵を知らないものは、帝都に少ない。新聞を賑わしたこともあり、解決した事件は数知れず。噂では警察さえも、事件の解決を依頼するという話だ。

 依頼料が法外に高いというのも共通点であるが、亀田探偵事務所と、神代紀信には決定的に違うところがある。前者は、所長の亀田は動かず、複数の構成員が動くのに対し、神代は徹底的な一匹狼ということだ。

 圭伍氏は、なんとこの二つの探偵に、同時に依頼をしたのだ。     

「どうやら知り合いの新聞記者に話をもちかけたらしい。」

 桜さんは頭を軽く振りながら言った。

「小五郎、圭伍さんは鉄之進さんの義兄と言ってたね、ということは、君子さんがきみのお父さんの姉なのかい。」

 小五郎に変わって桜さんが答えた。

「君子さんは、後妻なんだ。岩波一族だった前妻、兼代さんは三年前、亡くなっている。圭伍さんは兼代さんの一周忌も待たずに、君子さんと結婚したんだ。」

 私は内心呆れ返った。圭伍氏は、そんな希薄な関係しか持っていないのに、今まで煉瓦館に居座り続けていたのだろうか。

「小五郎くんのいる前で、こんなことは言いたくないんだか・・・」桜さんはちらりと小五郎に目を向ける。

「圭伍さんは既成事実がほしいんだ。兄の敵を討つ。こんな大義名分で、世間にアピールし、自分を岩波家の当主として知らしめたいんだと思う。」

「僕がまだ子供だから、伯父さんもそういうことを考えるんですね・・・。」

 うなだれる小五郎の肩を強い力で小杉がたたく。

「犯人はおれたちが見付けだす。そうだろ?だったら何も問題ないじゃないか。」

 振り向く小五郎に、私たちは頷いた。

 

 まずいちばん最初にやることは、鉄之進氏が倒れていたという場所を調べることだ。

 小五郎は一応、小夜さん達の仕事を手伝うという名目で屋敷に帰り、私たち三人と桜さんは康介さんがいっていた川辺へと歩いていた。

「どんな状況だったのかわかっていたんですか?」

 一昨日、竿を担いで通った小道を歩きながら、小杉が桜さんに問い掛けた。

 桜さんは首を振った。

「それがわからないんだ。何でも使用人たちの話だと、康介さんがひどく取り乱した様子で、血まみれの旦那様をかついできたんだそうだ。」

 桜さんが駆け付けたときには、鉄之進氏は寝室に運ばれていくところだった。座り込んでしまった康介さんに、何を聞いても荒い息の後ろで聞こえない、「川のほとりで、旦那様が・・・」という台詞を最後に康介さんは倒れてしまったそうだ。

「康介さんは、まだ?」

「まだ意識は戻っていない。よっぽどショックだったんだろう。今だに何時間おきに弓島くんが見たような発作が起きる。そのあとは疲れてまた眠ってしまうんだ。」

「その、康介さんがいっていた”蛸”のことなんですが、・・」

 口調が少し、鈍ってしまう。さっきの触手のことを話して、桜さんに信じてもらえるだろうか。

 大宮が私の方に手を置く。

「おい、見てみろよ。」

 川辺には先客がいた。圭伍氏が雇ったという探偵が二人、そこにいた。

 桜さんが手を挙げてあいさつをする。

 二人が近付いてくる。二人とも白いワイシャツに茶色のズボン、ネクタイを身につけている。若い。年長の方でも二十三、四のようだし、もうひとりの方は私とそれほど年が違わないように見える。

「あなたは書生の桜さんでしたね。後ろのかたたちはどなたですかね?」

 慇懃な口調で年長の方の探偵が問い掛ける。年下の方が私たちをなめ回すかのように見る。年下の方はハンチング帽をかぶっていた。年上の方がきっちりと洋服を着ているのに比べ、こちらは少々だらしない。ワイシャツの袖をまくり上げ、衿は開きネクタイは緩められている。よほど暑いのか左手の扇子がせわしなく動いている。

「小五郎くんの友達ですよ。こちらから、小杉くん、弓島くん、大宮くん。」

 私たちは軽く頭を下げた。

「こちらが探偵の・・・。」

「亀田探偵事務所、所員の鬼久智です。こっちは助手で見習いの吉野。」

「あ、兄貴、そういう紹介はないと思うな。助手か、見習いかどっちか一つにしてくれたって・・・・。」 

 不平を言う助手を無視して、私たち一人一人に握手をする。

「そうだ。」

 鬼久智が後ろを向いて手を差し出す。

「武、さっきの。」

 吉野が、鬼久智にビンを手渡す。青色の液体が太陽に輝く。

「桜さん、このビンに見覚えありますか?」「いいえ、それが、何か?」

「そこの草むらに落ちていたんですよ。」

 桜さんは、鬼久智に手渡されたビンを見る。口の部分がくびれていて、蓋の部分にはすりガラスが使われている。医者の伯父の部屋で何度も見た。薬品を入れる特徴的なビンだ。「蝋が剥がれてる。封がしてあったのを外したんだ。」

 桜さんの声。蝋で空気と隔絶するということはこの液体は空気に触れると変質しやすい性格ということだ。色と性格・・・・。その薬品の名前が私の頭に浮かんだとき、吉野が容器の蓋を開けて匂いを嗅ごうとしていた。「駄目だ!探偵さん、その薬の匂いを嗅ぐんじゃない!」

 私の声に驚いて、吉野が強く息を吸い込む。「武っ!」

 ビンが吉野の手から落ち、割れる。ガラスとともに飛び散った液体が地面に吸い込まれていく。

 吉野が仰け反って、膝からくずおれる。後ろから慌てて大宮がささえる。

 鬼久智が吉野の肩をつかんで名を呼びながらゆさぶる。うめき声が漏れる吉野の頬をたたく。

「武、どうした?しっかりしろ!」

「兄貴・・・気分が・・悪い。」

「オルトクレゾール・・・飲んでなければ死ぬことはないと思います。」

「あんた!この薬の名前がわかるのか?」

 鬼久智が驚いたように私を見る。こんな時だったが、鬼久智の態度が私の自尊心をくすぐった。 

「私の伯父は医者というより、薬が専門なので前に見せてもらったことがあるんです。小説の中の毒薬に使われたので、覚えているんです。」

「飲んだら死ぬような劇薬が、鉄之進さんの倒れていたところにあったなんて・・。」

 私は周囲を見回す。風に草がなびき、水面は静かに風景を写し、遠くのあぜ道を馬を引いた人が歩いてゆく、のどかな川辺の風景が広がっている。

 突然、大宮と吉野の後ろの草むらが動く、私が叫び声を上げる前に、鬼久智が二人を突き飛ばす。

 草むらからすごい勢いで、二人の男が私たちに向かってくる。振り上げられたものが夏の日に反射する。刃物の光だ。